ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

官僚の優雅な天下り先次々と拒否 官僚の心胆を寒からしめよ

2010年03月31日 | 時事問題
朝日新聞 2010年3月31日10時33分
公募33人、全員不合格 年収1800万円の新理事長職
 公務員の天下り批判を受け、年収1800万円で消費者庁が国民生活センターの新理事長を公募したところ33人の応募があったが、審査の結果、全員が不合格になった。今後は福島瑞穂・消費者担当相ら内閣府の政務三役が人選を進める。同センターの理事長は4月1日から当面、不在となる。
福島氏は「再公募はしないが、選考委員の判断を経ることにしているので公平性は担保されている。改革への熱意をもとに4月中には選びたい」と話した。

朝日新聞 2010年3月31日12時33分
「長妻氏の個人的な逆恨み」? 天下り阻まれ関係者恨み節
 30日決定の独立行政法人の役員人事で、厚生労働省所管の理事ポストが削減された。有識者による選考委員会が2度にわたって同じ官僚OBに決めたが、長妻昭厚労相が覆した。不透明な天下り人事の排除を狙った公募だが、長妻氏による「人事介入」への疑問も出ている。 長妻氏が覆したのは、福祉医療機構の理事ポスト。学者4人をメンバーとする選考委は昨年12月、元社会保険庁幹部(56)を候補として決めたが、長妻氏が認めずに再公募となった。選考委は再検討の結果、今月になって同じ人物を提案したのに対し、長妻氏は異例の面接に踏み切ったうえで、起用を見送った。

これまで自動的に占拠していた高級官僚の天下り先を封鎖しているのは、鳩山内閣の快挙といえる。人事は管掌大臣の専権事項であり、気に入らない官僚の首を切るのは当然である。大政翼賛会的審議会の推薦人事は反故にしてどこが悪いのか。官僚の心胆を寒からしめよ!
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読書ノート 田中克彦著 「ノモンハン戦争ーモンゴルと満州国」 岩波新書

2010年03月31日 | 書評
ソ連、日本に翻弄されたモンゴル民族の悲劇 第10回

3)ハルハ廟事件からマンチューリ会議までー国境確定会議 (2)

 第1回マンチューリー会議の満州国代表は陵陞とウルジン隊長、モンゴル側はサンボー総司令副官とダンバ兵団長である。日本側としては外交部を双方に設置し情報交換を行うことが最大目標であったが、ソ連側はモンゴル人民共和国の内部を知られたくない(鉄のカーテン)ために断固提案を拒否した。1939年の関東軍の「蒙古人指導方針要綱草案」において「外モンゴル人に対しては、満州国との接触を図り平和的文化工作を施し相互の修好関係を樹立しソ連との羈絆を脱しめるとともに親満の傾向に転ぜしめる」と述べており、ソ連は日本の工作を感じてどのような外交関係の樹立にも反対した。満州国参与の斉藤はモンゴル代表部のサンボーを訪れて代表部設置の提案をおこなったが、サンボーはソ連の指示通リ断った。ハルハ廟事件の持つ大きな意義はモンゴル人のハルハ族とバルガ族が情報交換を行って互いの位置関係を問い、統合への方策を探りあったことであろう。国境確定などは二の次の問題で、二つのモンゴル族が統合すれば消えて亡くなる問題であった。そのたくらみを感じた日本、ソ連の情報局は厳しく対処した。1935年11月交渉は決裂し、1936年10月末に再開した時には両代表部はすっかり入れ替わっていた。なぜならソ連は1936年3月ゲンデンモンゴル首相を処刑し、1937年サンボー代表を処刑した。日本は1936年4月陵陞を処刑した。陵陞はモンゴルのダグール族の頂点に立つ名家であり彼の親族も多数処刑された。それを指示したのが関東軍憲兵隊長東条英機だったという。日本を滅ぼした東條や辻という人材が当時関東軍にいたということから、日本の敗戦の元凶が関東軍の軍事謀略主義にあったといえる。当然副代表のウルジン将軍も処分を免れないだろうと思われたのだが、これを救ったが寺田満州国顧問の尽力であったという。新たな会議の代表は満州国がウルジン将軍、モンゴル代表がダリザブであった。ダリザブも1937年10月日本の手先の反革命分子として処刑された。こうしてノモンハン事件勃発の1939年5月までに反ソ、反革命、日本の手先として2万5000人のモンゴル人民共和国の人材が処刑された。さらにノモンハン戦争が起こる前年1938年にスターリンの大粛清によって多くのソ連の要人が満州国に亡命してきた。ビンバー大尉、フロント少佐、リュシコーフ大将などであった。
(つづく)
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文藝散歩 加藤周一著 「日本文学史序説」上下  ちくま学芸文庫

2010年03月31日 | 書評
日本人固有の土着的世界観をさぐる日本文化思想史概論 第11回

3)「源氏物語」と「今昔物語」の時代:10世紀ー12世紀 平安王朝時代 (2)

 王朝文化の特徴は伝統の固定と文学活動の制度化へ流れ、その傾向は和歌の分野で一層著しい。勅撰集の編纂は905年の「古今集」に始まり、「後撰集」、「拾遺集」、「後拾遺集」、「金葉集」、「詞華集」、そして1189年の「千載集」にいたる。古今集以降の様式上、内容の上でも全く進展はなく「墨守」することが芸であるかのようだ。(それは今の歌舞伎など伝統芸能の特徴でもあるが) 女流詩人(和泉式部、赤染衛門、伊勢ら)の情熱の表現力は評価されるが、平安王朝文化は独創性を評価したのではなく、伝統的な型を評価した。漢詩文は9世紀には日本人知的階層の分野として確立していたが、道真に匹敵する人材は現れなかった。藤原明衡は11世紀中頃「本朝文粋」に10世紀の作文を編集した。圧倒的に日本人に読まれた漢詩は「和漢朗詠集」によれば「白氏文集」であるが、日本の漢詩にはついに中国の伝統である社会的な「憂国」の詩は書かれず、季題による漢詩の和歌化と社会的逃避と私生活の崇高化であった。

 平安王朝知識人の作り出した散文は「源氏物語」の前には、10世紀後半の「落窪物語」と「うつほ物語」に代表される。伝統墨守の和歌とは対照的に、物語文学は実に独創性を発揮した。「落窪物語」は勧善懲悪・一夫一妻制の道徳を説くかのような継母の継子いじめ物語である。家族の日常を描いて、西欧の近代小説に匹敵する文学が日本の10世紀に成立していた。小説の構成も緻密で「竹取物語」と並ぶ。「うつほ物語」は「源氏物語」の3/5に相当する長編小説である。血縁を絶対視する貴族社会と琴音楽の讃美を描いて、関連性の濃密でない4つの話から成る。「うつほ物語」には「源氏物語」以上の和歌が含まれ、「伊勢物語」の伝統を踏まえている。こうして「うつほ物語」は長編小説の形式、閉鎖的な宮廷社会という舞台、芸術理想主義と人物の理想化を「源氏物語」のために準備した。女流作者による日記文学が輩出したのもこの時代である。「かげろう日記」(藤原道綱の母)、「枕草子」(清少納言)、「紫式部日記」(紫式部)、「更級日記」(菅原孝標の娘)、「あじゃり母集」、「讃岐典侍日記」などであるが、これら女房文学の作者の本名は知られていない。女房文学は宮廷社会という外界と切り離された支配集団に埋没し、庶民の生き方の諸様相や権力からも隔離された女性の日常身辺観察である。和歌、物語、日記を描いた女性らの思想背景は浄土教にあった。特に紫式部には浄土教を媒介とした環境の相対化があり、周囲の人間から知的距離があった。
(つづく)
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月次自作漢詩 「春日小園」

2010年03月31日 | 漢詩・自由詩
市塵不到貧翁家     市塵到らず 貧翁の家

草色夭夭寸寸芽     草色夭夭と 寸寸の芽

夜雨長深三尺水     夜雨長深 三尺の水
  
春寒桜樹一分花     春寒桜樹 一分の花

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(韻:六麻 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
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CD 今日の一枚 ショパン 「ピアノ三重奏曲」

2010年03月31日 | 音楽
ショパン 「ピアノ三重奏曲」
①「ピアノ三重奏曲」作品8
②「ポロネーズ ピアノとチェロのための」作品3
③「チェロソナタ」作品65
④「ポロネーズ ピアノ」作品3
ピアノ:エマニエル・アックス、チェロ:ヨー・ヨー・マ、ヴァイオリン:パメーラ・フランク
DDD 1989 SONY

ショパンはピアノ曲だけと思っていたら、このアルバムのような弦楽器を交えた曲もあった。
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