ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」 岩波文庫

2014年07月31日 | 書評
政治権力の起源を社会契約に求める近代政治学の古典的名著 第12回
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後篇 政治的統治について
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 前篇で見せたロックの論の立て方には、目を見張る切れ味がある。それは相手の初めの論がたとえ成立しても次のような矛盾が生ずるという風に次々を論点を崩してゆく点である。前篇をまとめると、アダムは神の明白な贈与によって子供と世界に対する統治権を得たという根拠は聖書をどう読んでも見いだせない。たとえアダムがそれを持っていたとしても、彼の継承者がそれらを継承するという権原はない。たとえアダムの継承者がアダムの権威を継承できるとしても、誰が正当な継承者であるかを決める自然法も実定法もない。たとえ正当な継承者が確定できても、アダムの長子系を確定できる根拠はすべて失われていた。こういう風に次々と相手の論点を論破してゆくのだ。前篇の結論は現在の支配者がすべての権力の源泉であるアダムの私的な支配権と父なる支配権から、王位の権威の庇護を引き出すことは不可能である。すると現実世界は実力と暴力の修羅場という結論ではなく、正当な統治の発生、政治権力の起源、政治権力の所有者を識別する合理的な方法を探し出さなければならない。ロックは政治権力をどう考えるかについてまず一定の見解を次のように下す。
「私は政治権力とは固有権の調整と維持のために、死刑を含むあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、またその法を執行し外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも公共善のためだけにそれを行う権利であると考える」

1) 自然状態について
 政治権力の起源を正しく理解するには、すべての人が自然にはどんな状態にあるかを理解しなければならない。そこでロックは自然状態を次のように定義する。「人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自由な状態である」という。それは自分だけでなく他人もまた平等である状態でなければならない。生まれながらに差別なく同じ自然の便益を享受し、同じ能力を行使することであり、それは神によって保証されている。この章ではロックはフッカーの著「教会政治の法」からの引用が多くなる。そこでフッカーについて一言述べなければならないだろう。フッカー(1553年ー1600年)はイギリス国教会を代表する聖職者であり、オックスフォード大学教授である。ロックよりは100年ほど前の人である。フッカーは理性を神与の秩序に内在する中世哲学であり、ロックは理性を人間の機能として捉える近代哲学に位置するので、あまり関連はないようだがロックは共通認識としてフッカーの説を「賢明な」権威として利用する。フッカーは自然の平等はこの上もなく明白であると考え、人間間の相互的愛の基礎として設定する。その上に正義と慈愛という人の資質を築いたのであった。人は自分の身体と所有物を保全する自由をもっており、何人も他人の身体と所有物を破壊することはできない。これが自然法である。自分自身の保全が脅かされない限り、できるだけ人類の他の人々も保全すべきであり、自由、健康、身体や財貨を損ねてはならない。これが自由の状態であっても放縦の状態ではない。平和と全人類の保全を欲する自然法が遵守されるよう、自然法の執行が各人に委ねられているので、この法に違反するものを、処罰する権利を各人は有する。自然法では抑止のために、処罰権と賠償を受け取る権利を各人が持っていると考える。いわば「目には目を」という血なまぐさい処罰権と賠償請求権ではなく、犯そうとするものに思いとどまらせるためである。国内法の大部分はそのような自然法に基礎をおいているが、世界における独立した統治体の支配者はすべて自然状態にある。フッカーは「自然法は人間である限り絶対的に各人を拘束する。各人は一人で自立して生活するときの欠如・不完全を補うため、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」と言ったことを引用して、ロックはさらに「すべての人間はある政治社会の一員になるまでは、自然状態のうちにとどまっている」と付け加えた。
(つづく)

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読書ノート ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」 岩波文庫

2014年07月30日 | 書評
政治権力の起源を社会契約に求める近代政治学の古典的名著 第11回
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前篇 統治について
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9) 継承者は誰か (その2)
 アダムにおける君主的で絶対的で至高の父親としての権力、そしてその権力のアダムの継承者への相続というフィルマー氏の想定(妄想)は、君主の権限を強化することにはならず、かえってその説の虚妄性によって不安定な存在に変えてしまうのである。誰が父親としての権力(パターナイズム)に唯々諾々と服従するだろうか。任せてくれれば悪いようにはしないというパターナイズムの権威はむき出しの権力を覆い隠すには役立ってきたが、今回の東日本大震災と東電福島原発事故によって政府官僚の権威は失墜した。痛い目にあって権力の無責任と非情さがわかるのは悲しいことだ。神と自然法は何も語っていないのに、アダムから継承者に伝えられる権力などは存在しないと考えた方がいい。神の定めより、実定法的な契約によって統治と服従が成り立っている。(それを明らかにするのが後篇である) 神の定めによるといいながら、誰が権力を継承するのか答えられない王権神授説では政治的統治は成り立たない。フィルマー氏は戦争を始め講和を結ぶ権利は主権の徴証であるといい、アダムの支配権はイスラエルの民の祖であるアブラハムに承継されたという。しかし戦争を始めたり講和を結ぶことはどんな共和体でも君主体でも部族でもやってきたことであり、共和制でもアダムの継承者となるというのだろうか。さらにアブラハムがアダムの継承者ということにもならない。創世記のアブラハムとロトはどちらが優位ということもなく、ロトはブラハムの甥でアブラハムの兄弟と呼ばれていた。アブラハムの持つ所有権は非常に少なく、フィルマー氏がいうような、アブラハムに継承された王の絶対的支配権はいかなる王よりも劣らなかったという説は妄想である。そしてフィルマー氏は、エサウ、ノアをひいて、アダムの継承者の権力は絶対的であったというが、全くのでっち上げである。ノアの息子たちが世界を3分割、彼らは世界の君主であったという夢想を述べ立てるが、もし権利によって3人の兄弟すべてがそれを相続したならば、すべての兄弟すべての人間は平等であるということになり、人類すべてがアダムの継承者であり君主だというフィルマー説は自己矛盾をきたしている。増長したバベルの民を神が不快に思って都市国家を破壊し、バベルの民は離散し別々の言語を持つようになったという創世記の記述は、世界の民族や国家の始まりと理解される。そこでフィルマー氏は「彼ら72人の支配者は父であり、神は父親の権威を注意深く存続させた」という。すると世界中の支配者はアダムの継承者となる。唯一絶対という概念がいつのまにか無数相対の世界に替わっている。なんという言葉のご都合主義なのであろうか。君主的統治の不合理な擁護論にすぎない。フィルマー氏が挙げるエドムの12人の君主、ヨシュアに滅ぼされたカナンの31人の君主がすべて主権を持った君主というなら、彼らは滅んだがゆえにアダムの正当な継承者でなかったことになる。フィルマー氏によると支配権の継承者という権原による君主は、世界に一時期にただ一人しか存続しえない論理であるから、自身の説に真っ向から反対する事例を引いていることになる。しかし聖書は王たちがいかなる権原によって彼らの権力を持っていたかについては何も語っていないのである。自分たちの目論見のために聖書を担ぎ出し、よく吟味することもしないで、彼らの愚にもつかない教説に盲従する人々を対象として害をなすのである。フィルマー氏の旧約聖書の援用も、我々はきりがないほどの我田引水に付き合ってきたがもうこれくらいにしておこう。そしてこの章のまとめに入ろう。神がある特定の人を能力があるとして王たるべき権威を持つものとして選定したとき、子孫もまた恩恵に与るというフィルマー氏の論理はどこに権原を持つのであろうか。「士師記」に記された権威は士師とともに消滅しその子孫には継承されなかった。旧約聖書が記述するイスラエルの民の歴史は、王位の子孫が分裂し統治権を争奪することを認めざるをえない。どこに正当な継承権などという結構な権利があるのだろうか。それは無力な象徴という概念の王位であればどうでもいいから認めることもあろうが、もし魅力ある獲得したい地位ならば命を懸けた激しい争奪戦が起きるのである。フィルマー氏の目論見は、君主の身の上を飾りたてるための論ではなく、それに対抗(抵抗)する人々を黙らして武装解除させることにある。フィルマー氏は「このご紋が目に入らぬか」という、黄門さんの家来である助さん・格さんの役割である。
(つづく)
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読書ノート ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」 岩波文庫

2014年07月29日 | 書評
政治権力の起源を社会契約に求める近代政治学の古典的名著 第10回

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前篇 統治について
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9) 継承者は誰か (その1)
 この章は前篇の最大の山場で、頁数にしておよそ前篇の1/3を占める。冒頭でロックは格調高く「いつの時代でも人類を悩まし、人口を減少させ、世界に平和を攪乱してきた大きな問題は、世界に権力が存在することではなく、誰がその権力を持つかという問題である」という。日本国憲法においても「主権在民」を冒頭に宣言している。君主に主権があると主張するフィルマーにとって、このことは王国の安寧と平和(現代用語では安全保障問題の最大の懸案事項)の問題に他ならない。そしてフィルマーらは政治権力の割り当ては神の定めであって、臣民の手の届かないところへ祭り上げたのである。となると神の定めたもうたものでないものが王になることは神への冒涜となる。フィルマー氏は誰が継承者であり、誰が神の定めによって人間の王たる権利を持つかについて理解させるために、「その割り当ては特別に最年長者の親に対してなされた」という。この曖昧な「最年長者の親」とは定義されていない。継承者である王が幼児の場合もある。肝腎なところであいまいな表現になるのは、ごまかしがあるからである。「権力の中心は真空である」という有名な言葉があるが、権力中枢にとって攻撃を回避し、責任をあいまいにするいつもの手である。日中戦争を引き起こし、太平洋戦争を起こした権力は軍部なのか、天皇なのか、天皇制官僚(政府)なのか、誰だかわからないようにしておき、東京裁判では軍人の首を差し出しただけで済ませようとした。アダムの継承者をあれほど強調するフィルマー氏が、継承者とは何を意味するのか、真の継承者を知る方法について沈黙するのはまっとうな神経を持ち合わせていないからであろう。彼が神がアダムの血統と子孫に贈与したとするなら、人間全部がアダムの末裔であるので権力者を限定したことにはならない。人類の最年長者(長兄)とはほとんど意味をなさない言葉である。何を言っているのかわからない。モーゼの律法では長子に2倍の物品や所有権を与えているが、神の定めによって支配権を与えたとはどこにも書いていない。カインの時代には部族社会の家父長制継承権を見ると様々な形態があったが、支配権が継承者の権利とは理解されていないし、長子の生得権とは単に分け前が大きいだけのことである。支配権が生得権の一部でなかったことは明らかで、それでは長子が愚昧な時は部族が滅んでしまうし、ヨセフが長子であったが支配権はユダが持ったということも創世記に書かれている。最年少のヤコブが支配権を取った例もある。ということでフィルマー氏の話は根拠がないばかりか旧約聖書の史実にも合致していない。この多義的な聖書の記述から自分の都合に叶うことのみをピックアップしてきても、聖書をよく読む人にはそのご都合主義は見透かされているのである。こうしてカナンのイスラエルの部族社会では父親の死後は、長子を含む兄弟全体、そして親戚関係者など無限に多くの者が主権者ヘアポローチできる体制であったとみられる。継承者とは父自身も神もあらかじめ定められない、あいまいな概念である。もし子供のいない君主には自然に相続権が移る者を定められないという空白が待っている。神が定めたもうたアダムの継承者という概念は空疎なウソであるといえる。実力闘争を伴う結果としての継承者は出るであろうが、あらかじめ長子の継承者を定めることはあり得ない。それでうまくゆく場合のほうが圧倒的に少ないからである。ことわざに「三代で家をつぶす」というが、北朝鮮の王統も金正雲で三代目だから、そろそろ危ないと見た方がいい。服従を受けるべき権利は、人物次第である。継承者などという皇統はその位置が権力を本当に有するなら、飛鳥時代のように争奪戦の的になるだけで、奈良時代には天皇は藤原家のコントロール下において全くの無力者に成り果てていたのである。だから奈良・平安時代は安定的に皇統は継承されたが、鎌倉・室町時代に時たま政治に興味を持つ天皇がいると確実に皇統は他人に取って代わられた。皇統の分裂・断絶は歴史の証明するところである。


(つづく)
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読書ノート ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」 岩波文庫

2014年07月28日 | 書評
政治権力の起源を社会契約に求める近代政治学の古典的名著 第9回

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前篇 統治について
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7) アダムの主権的な君主権力の譲渡について
 フィルマー氏は、その後の君主たちにアダムの主権がどう継承(譲渡)されるかの説明において破綻している。「アダムは全世界の君主であったのだから、彼の子孫の誰一人として、彼の認可又は許可、あるいは彼からの継承がなければ、何ものをも所有する権利を持たなかった」という。譲渡の方法として認可あるいは継承をあげている。さらにフィルマ氏は「地上におけるすべての権力は、父親の権力から由来するか簒奪されるかのいずれかである」と驚くべきことを言う。つまり誰が真の王であるかは、結果としての至高の統治方法であって、彼らがどのようにしてその権力を手に入れたかは問題でないとする。唯一アダムからの相続によって継承されるといいながら、認可、相続、簒奪、選挙、その他の方法という現実にありうる諸手段をすべて認めるという矛盾を平気で行って恥じない論理である。

8) アダムからの相続を根拠とする君主政について
 この世に統治(ガヴァナンス)が必要であっても、神の指定によってその統治の形態が君主政でなければならないとフィルマー氏は主張する。だから命令できる存在がいて私がそれに服従する、つまり権力が帰属し他者に対するその支配権を行使する人は、誰にすべきなのかはまずよく吟味する必要がある。フィルマー氏が言う王政では人を臣民とする国王権力が存在して、かつ権力を行使する人は誰なのかを得心しない限り、権力に服従する義務を負うことはできない。そこでフィルマー氏が苦心惨憺して君主の絶対的な権力をアダムに求める試みは成功したのだろうか。それにはアダムの死後ほかの人に全面的に譲渡され子孫に連綿として伝わったこと(演繹)、および現在の君主がそのアダムの権力を正しい譲渡の仕方によって所有していること(帰納)を証明しなければならない。「万世一系」を誇るわが皇統さえ、たえず断絶、簒奪、系統変更が行われてきたことは歴史上の事実である。奈良時代には天皇家と藤原家の血統が融合している。そんなことはまじめに考えることもばかばかしいが、ひとまず論理的に考えてみよう。創世記に書かれたアダムの像は私たちには哀れな人間の象徴にしか映らないが、フィルマー氏にとってアダムは神の贈与を受けすべての被造物への所有権(支配権)を持った、神以上の存在として映るようである。聖書では人が劣位の被造物すべてを利用する権利を平等に神から与えられたはずなのであるが、フィルマー氏はどう聖書を読み違えたのか、アダムは自然の利用権を私的に領有し他人を排除する権利を神から授かったという。所有権の継承とは自然権ではなく、法的に定められた権利であることを認識しよう。人間が自分自身を保存するだけでなく、自ら儲けた子供を保存する教育の義務を等しく負うことから、彼らが私的に所有するもの(投資し付加価値を持つ資産)に対して子孫が権利を持つのである。これが遺産相続権の源泉である。血縁関係者が居なければ、彼の私的所有物は国家とか共同体に帰ることになる。長子相続権をこととする伝統的社会においては、人に対する支配権と物に対する所有権とが同時に移譲されるという誤った考えも存在していたことは事実であった。田畑という財産と部族長・君主領主という権力が同時に長子に伝えられた例である。今日では(ロックの時代でも)子供は平等に遺産を引き継ぎ、長子が特別の権利を持つことはない。父親が他人に対して持っていた支配権を子孫が引き継ぐ権利はあり得ない。もし君主が神から認められた支配権と統治権を持つというなら、それを継承する人間は神の明白な認可を明示しなければならない。神は継承権など定義していないのだから。合理的な支配権の継承の説明はできない。フィルマー氏は「すべての人間が生まれつき王であるか、臣民であるかは疑うことのできない真実である」という。ロック氏の時代17世紀末には世界中に王と称する人間は数百人-数千人はいたであろう。言語も違い習俗も違う中で、誰が王の最高位(アダムの継承者)を決めるのだろうか。チベットのダライラマの継承者を指定するのは現ダライラマの心眼と啓示である(ずいぶん怪しげな方法だが)。それが神ならば説得性を持つ。神がかり的なアダムの継承者を合法的に指定することは不可能である。従ってその王に従うべき合法的な理由もない。これは当時の政治情勢を反映し、フィルマーらの王党派はチャールズ2世を絶対視して、反対するものを不敬罪で追放処分にする圧迫を加えてきた。その理論的屁理屈がフィルマーらのアダム継承者論である。この章は論敵の論理に肉薄してその弱点や矛盾・自己撞着・虚偽性を暴露してゆくロックの戦法である。最も鮮やかにロックの筆先が光る部分である。

(つづく)
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読書ノート ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」 岩波文庫

2014年07月27日 | 書評
政治権力の起源を社会契約に求める近代政治学の古典的名著 第8回


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前篇 統治について
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5) 父であることを根拠とする 主権へのアダムの権原について
 最後に「父であること」をあげると、フィルマー氏がもちだすアダムの主権の根拠のすべてである。アダムが創造されたこと、神から与えられたこと、イブの服従とそして父であるという4つの根拠を掘り崩せば、フィルマー氏の根拠は皆粉砕されたことになる。アダムが父であることによって、その子供たちに対して統治の自然権を持つという。この父たる地位の権原をフィルマー氏は特に好んで持ち出す。「アダムからその継承者に至る家父長は、父であることの権利によって、子供たちへの王的権威を持っていた」という。しかしその権利の内容はどこまで及ぶのかはっきりさせずに、フィルマー氏は「それは至高の権利であり、絶対君主が奴隷に対してもつものとと同様の生殺与奪の絶対権力である」というから恐ろしいところまで拡大する。父親であることで、なぜ絶対君主のような権力になるのか一切説明はない。まるでご宣託である。父親が子供の生命を自由にしてよいという権利を持つのは、子供に命を授けたからだということになる。神が生命の作者であり授与者であることが聖書の言葉であるが、フィルマー氏によるとまるでアダム以降の男は神に成り替わったようである。男だけで子供ができるわけではなく、まさに生むという行為は女性のものであるのに。聖書には「我々の創造主なる神」と書いてあり、この世のいかなる両親も子供の創造主であると主張できないというのが聖書の見解である。すると人間は子供生存にとって単に契機であるにすぎない。もし父親に子供に対する権利があるとするならば、せいぜい母親との共同監視権ぐらいであろう。それも権利というよりは自分たちが生んだ子供の保護育成の義務のほうが圧倒的に大きい。フィルマー氏が言うような、子供を生贄にしたり・奴隷にしたり・殺したり・売り払ったりするような残酷な親がいたらお目にかかりたいぐらいである。それらは罪であって、人には理性がある。「出エジプト記」に「汝の父母を敬え」とあるように、父親の君主権力を示すものではなく父と母親は同じ位置づけになっている。旧約聖書のいたるところで父と母は同権であることを記載している。フィルマー氏がいうような「汝の父を敬えという戒律によって君主の統治権力が確立された」という記載は全くないのである。フィルマー氏の筆は勝手に母親をニグレクトし、かつ勝手に君主の権力を書き込んだのである。以上でフィルマー氏がアダムのうちに想定する絶対的で無制限の主権を擁護し、人類は生まれつきの自由への権限を持たない奴隷のようなものとする議論はすべて反論できた。人間は神によって与えられた生まれながらの自由をもつと結論できる。

6) 共に主権の源泉ととみなされている父たる地位と所有権について
 フィルマー氏が君主の権力の源泉とする父たる位置と所有権の2つであり、人間の生来的自由を否定するためにアダムの自然的で私的な支配権を持ち出したのである。かれは「統治の基礎と原理とは必然的に所有権の起源に依存することと、父の権力以外にはいかなる権力の起源もない」という。フィルマー氏にとって、父たる地位という自然権と所有権という全く異なった2つの概念がどうして結びつくのかこれは奇跡である。父親のすべての所有権(財産)が長男に相続されるべきであり、同時に父親の自然への支配権(権力)が相続によって長男によって継承されるということは論理的に無関係である。フィルマー氏は旧約聖書の部族の継承権(カインの末裔、ノアの子供)のことを引用する。兄弟の血なまぐさい争いはそれは社会学的には興味のあることであるが、財産の継承と、支配権のことは直接にはつながらない。我田引水とはフィルマー氏のことである。所有権の基づく主権と父たる地位に基づく主権とは分割される。ノアの死後ノアの3人の子供は世界を3分割したと書いてあるが、王権がどうなったかは不明である。3人とも王になったとすれば主権も分割され所有権に埋没したことになる。さらにフィルマ氏は「地上におけるすべての権力は、父親の権力から由来するか簒奪されるかのいずれかである。所有権(私的支配権、人民の権利)と父親の権力はどちらが至高であるかを巡って争うことになる」と、相互に従属しない2つの権力が争うことになる。

(つづく)


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