政治権力の起源を社会契約に求める近代政治学の古典的名著 第12回
前篇で見せたロックの論の立て方には、目を見張る切れ味がある。それは相手の初めの論がたとえ成立しても次のような矛盾が生ずるという風に次々を論点を崩してゆく点である。前篇をまとめると、アダムは神の明白な贈与によって子供と世界に対する統治権を得たという根拠は聖書をどう読んでも見いだせない。たとえアダムがそれを持っていたとしても、彼の継承者がそれらを継承するという権原はない。たとえアダムの継承者がアダムの権威を継承できるとしても、誰が正当な継承者であるかを決める自然法も実定法もない。たとえ正当な継承者が確定できても、アダムの長子系を確定できる根拠はすべて失われていた。こういう風に次々と相手の論点を論破してゆくのだ。前篇の結論は現在の支配者がすべての権力の源泉であるアダムの私的な支配権と父なる支配権から、王位の権威の庇護を引き出すことは不可能である。すると現実世界は実力と暴力の修羅場という結論ではなく、正当な統治の発生、政治権力の起源、政治権力の所有者を識別する合理的な方法を探し出さなければならない。ロックは政治権力をどう考えるかについてまず一定の見解を次のように下す。
「私は政治権力とは固有権の調整と維持のために、死刑を含むあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、またその法を執行し外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも公共善のためだけにそれを行う権利であると考える」
1) 自然状態について
政治権力の起源を正しく理解するには、すべての人が自然にはどんな状態にあるかを理解しなければならない。そこでロックは自然状態を次のように定義する。「人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自由な状態である」という。それは自分だけでなく他人もまた平等である状態でなければならない。生まれながらに差別なく同じ自然の便益を享受し、同じ能力を行使することであり、それは神によって保証されている。この章ではロックはフッカーの著「教会政治の法」からの引用が多くなる。そこでフッカーについて一言述べなければならないだろう。フッカー(1553年ー1600年)はイギリス国教会を代表する聖職者であり、オックスフォード大学教授である。ロックよりは100年ほど前の人である。フッカーは理性を神与の秩序に内在する中世哲学であり、ロックは理性を人間の機能として捉える近代哲学に位置するので、あまり関連はないようだがロックは共通認識としてフッカーの説を「賢明な」権威として利用する。フッカーは自然の平等はこの上もなく明白であると考え、人間間の相互的愛の基礎として設定する。その上に正義と慈愛という人の資質を築いたのであった。人は自分の身体と所有物を保全する自由をもっており、何人も他人の身体と所有物を破壊することはできない。これが自然法である。自分自身の保全が脅かされない限り、できるだけ人類の他の人々も保全すべきであり、自由、健康、身体や財貨を損ねてはならない。これが自由の状態であっても放縦の状態ではない。平和と全人類の保全を欲する自然法が遵守されるよう、自然法の執行が各人に委ねられているので、この法に違反するものを、処罰する権利を各人は有する。自然法では抑止のために、処罰権と賠償を受け取る権利を各人が持っていると考える。いわば「目には目を」という血なまぐさい処罰権と賠償請求権ではなく、犯そうとするものに思いとどまらせるためである。国内法の大部分はそのような自然法に基礎をおいているが、世界における独立した統治体の支配者はすべて自然状態にある。フッカーは「自然法は人間である限り絶対的に各人を拘束する。各人は一人で自立して生活するときの欠如・不完全を補うため、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」と言ったことを引用して、ロックはさらに「すべての人間はある政治社会の一員になるまでは、自然状態のうちにとどまっている」と付け加えた。
(つづく)
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後篇 政治的統治について
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後篇 政治的統治について
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前篇で見せたロックの論の立て方には、目を見張る切れ味がある。それは相手の初めの論がたとえ成立しても次のような矛盾が生ずるという風に次々を論点を崩してゆく点である。前篇をまとめると、アダムは神の明白な贈与によって子供と世界に対する統治権を得たという根拠は聖書をどう読んでも見いだせない。たとえアダムがそれを持っていたとしても、彼の継承者がそれらを継承するという権原はない。たとえアダムの継承者がアダムの権威を継承できるとしても、誰が正当な継承者であるかを決める自然法も実定法もない。たとえ正当な継承者が確定できても、アダムの長子系を確定できる根拠はすべて失われていた。こういう風に次々と相手の論点を論破してゆくのだ。前篇の結論は現在の支配者がすべての権力の源泉であるアダムの私的な支配権と父なる支配権から、王位の権威の庇護を引き出すことは不可能である。すると現実世界は実力と暴力の修羅場という結論ではなく、正当な統治の発生、政治権力の起源、政治権力の所有者を識別する合理的な方法を探し出さなければならない。ロックは政治権力をどう考えるかについてまず一定の見解を次のように下す。
「私は政治権力とは固有権の調整と維持のために、死刑を含むあらゆる刑罰を伴う法を作る権利であり、またその法を執行し外国の侵略から政治的共同体を防衛するために共同体の力を行使する権利であって、しかも公共善のためだけにそれを行う権利であると考える」
1) 自然状態について
政治権力の起源を正しく理解するには、すべての人が自然にはどんな状態にあるかを理解しなければならない。そこでロックは自然状態を次のように定義する。「人それぞれが他人の許可を求めたり、他人の意志に依存したりすることなく、自然法の範囲内で、自分の行動を律し、自らが適当と思うままに自分の所有物や自分の身体を処理することができる完全に自由な状態である」という。それは自分だけでなく他人もまた平等である状態でなければならない。生まれながらに差別なく同じ自然の便益を享受し、同じ能力を行使することであり、それは神によって保証されている。この章ではロックはフッカーの著「教会政治の法」からの引用が多くなる。そこでフッカーについて一言述べなければならないだろう。フッカー(1553年ー1600年)はイギリス国教会を代表する聖職者であり、オックスフォード大学教授である。ロックよりは100年ほど前の人である。フッカーは理性を神与の秩序に内在する中世哲学であり、ロックは理性を人間の機能として捉える近代哲学に位置するので、あまり関連はないようだがロックは共通認識としてフッカーの説を「賢明な」権威として利用する。フッカーは自然の平等はこの上もなく明白であると考え、人間間の相互的愛の基礎として設定する。その上に正義と慈愛という人の資質を築いたのであった。人は自分の身体と所有物を保全する自由をもっており、何人も他人の身体と所有物を破壊することはできない。これが自然法である。自分自身の保全が脅かされない限り、できるだけ人類の他の人々も保全すべきであり、自由、健康、身体や財貨を損ねてはならない。これが自由の状態であっても放縦の状態ではない。平和と全人類の保全を欲する自然法が遵守されるよう、自然法の執行が各人に委ねられているので、この法に違反するものを、処罰する権利を各人は有する。自然法では抑止のために、処罰権と賠償を受け取る権利を各人が持っていると考える。いわば「目には目を」という血なまぐさい処罰権と賠償請求権ではなく、犯そうとするものに思いとどまらせるためである。国内法の大部分はそのような自然法に基礎をおいているが、世界における独立した統治体の支配者はすべて自然状態にある。フッカーは「自然法は人間である限り絶対的に各人を拘束する。各人は一人で自立して生活するときの欠如・不完全を補うため、他者との交わりと共同関係を求めるように導かれる」と言ったことを引用して、ロックはさらに「すべての人間はある政治社会の一員になるまでは、自然状態のうちにとどまっている」と付け加えた。
(つづく)