明治維新後日本の近代憲政政治を創ろうとした近代化進歩主義者の生涯 第7回
2) 飛躍篇ー明治初期の急進的諸改革 (その2)
廃藩置県が強権の下で一段落すると、1871年9月には条約改正のために欧米に全権大使を派遣しようとする空気が高まった。1858年に幕府が外国と結んだ修好通商条約は治外法権があり関税自主権がないなど不平等条約であった。無邪気にも現状を説明して国家改造の方針を教えてもらおうとするものであった。岩倉外務卿が中心となって、薩長の要である木戸と大久保と佐賀閥の山口尚芳を加え、伊藤が調整する使節団である。実質的に伊藤がこの使節団の主導権を持った。岩倉卿の伊東への信頼が高い事、そして薩摩の保守派大久保に国家近代化の必要性を理解してもらうことが何を置いても重要だと考える伊藤の苦心が読みとれる。10月8日使節団の派遣が決定された。使節団の理事官として佐々木高行(土佐閥)、侍従長東久世、山田顕義(長州閥)ら7人が加わった。11月12日使節団一行48名、同行の留学生54名はアメリカ号に乗ってサンフランシスコに向けて出港した。1872年1月15日サンフランシスコに到着した。1月21日首都ワシントンに入った使節団は3月より条約改正交渉を開始した。ところが全権委任状がないことを指摘され、伊藤と大久保は日本に帰国し6月17日に委任状を持ってワシントンに戻った。最恵国条項によってアメリカと結んだ条約は他の国にも自動的に与えられることなど、アメリカは使節団の無知に驚いて条約交渉を中止した。木戸は条約交渉を設定した伊藤や森有礼らへの不信感を抱き、伊藤と木戸の間に微妙な亀裂が入った。そして大久保への不信も募り木戸はこんなお粗末な使節団に加わった自分への自己嫌悪感が増していった。外国語が全くできないことも加わって木戸は一種の鬱状態に陥った(夏目漱石のロンドンでの鬱と同じ)。その不信感は日本に帰国した1873年大蔵大輔の井上薫に向けて爆発した。木戸が神経衰弱になっているのに対して、同じく外国語が全くできない大久保は意外と積極性があった。陸軍国プロシア・ロシアの政体・軍制に興味があってこの両国に注目していた。この時以来伊藤は大久保の沈着・忍耐力に感心し大久保と親しくなっていった。伊藤が今回のように広く深く西欧を知るようになり、十数年後の日本帝国憲法制定まで、ドイツ風の保守的なスタンスを中軸とすることになった。列強に対抗するにはまず地に足をつけて近代化に励む必要がある。今回の遣欧使節団では木戸の感情の起伏には戸惑ったが、大久保から信頼されるようになったのは大きな収穫であった。1873年9月13日使節団は横浜に帰ってきた。それを待ち受けていたかのように、征韓論政変が始まるのである。73年1月留守政府は、ロシアの樺太領有問題、台湾・朝鮮問題が重要になったとして、大久保・木戸に帰国を命じるのである。大久保が5月、木戸は7月に帰国した。留守政府は韓国が日本の開国要請に応じないので全権使節を派遣しそれでも従わないなら討つべきであるという空気で動いていた。木戸帰国後の閣議のメンバーは当初の7人に、後藤象二郎(土佐閥)、大木喬任(佐賀閥)、江藤新平(佐賀閥)を参議に加えた。岩倉・木戸・大久保の使節団組は日本の内政改革が先で、朝鮮国と事を構えるのは反対であった。伊藤と岩倉が最も積極的に動き始め、10月には大久保が参議に就任し、10月14日の閣議では西郷が使節派遣を主張し大久保は反対し決着はつかなかった。小心者の三条太政大臣は西郷の辞任も怖いし大久保の辞任も恐れて顛倒する始末となった。そこで岩倉は吉井友実宮内少輔、徳大寺宮内卿を通じて、明治天皇へ自身の太政大臣代理就任を工作した。こうして岩倉は太政大臣代理に就任し、木戸は10月20日に伊藤を参議に推薦した。10月24日天皇の勅書という形で岩倉は朝鮮使節派遣という閣議決定を取り消した。西郷・板垣・後藤・江藤・副島の五参議は辞任した。これを征韓論政変と呼ぶ。五参議が辞任したので、10月25日伊藤が参議兼工部卿に、勝海舟が参議兼海軍卿に、寺島宗則が参議兼外務卿に就任した。こうして政変を裏で動かした伊藤らは大輔という次官クラスが卿に昇進したことになり、なかでも伊藤はその参議のリーダ格になった。軍人として西郷に遠慮をした大久保はこの政変で動かず、陸軍卿のままで参議にはなれなかった。そして伊藤は病気で休み勝ちの木戸の代行という地位を獲得した。伊藤は木戸グループにいた紀伊閥の陸奥宗光を、大蔵省租税頭から大蔵小輔に昇進させたが折り合いがつかず、司法省へ持ってゆこうとしたが参議兼司法卿の大木喬任の反対で実現できなかった。1874年大蔵省を止めた陸奥は西南の役に加担したので獄に入れられた。1875年2月に不平士族の乱が佐賀で起きた。佐賀を管轄する軍は熊本鎮台で谷干城(土佐藩閥)が司令官であった。伊藤らは谷はいずれ裏切るだろうという推測をたて、大久保陸軍卿は野津少将を熊本鎮台に派遣した。3月佐賀城を攻略し首謀者江藤新平を捉えて斬首した。
(つづく)
2) 飛躍篇ー明治初期の急進的諸改革 (その2)
廃藩置県が強権の下で一段落すると、1871年9月には条約改正のために欧米に全権大使を派遣しようとする空気が高まった。1858年に幕府が外国と結んだ修好通商条約は治外法権があり関税自主権がないなど不平等条約であった。無邪気にも現状を説明して国家改造の方針を教えてもらおうとするものであった。岩倉外務卿が中心となって、薩長の要である木戸と大久保と佐賀閥の山口尚芳を加え、伊藤が調整する使節団である。実質的に伊藤がこの使節団の主導権を持った。岩倉卿の伊東への信頼が高い事、そして薩摩の保守派大久保に国家近代化の必要性を理解してもらうことが何を置いても重要だと考える伊藤の苦心が読みとれる。10月8日使節団の派遣が決定された。使節団の理事官として佐々木高行(土佐閥)、侍従長東久世、山田顕義(長州閥)ら7人が加わった。11月12日使節団一行48名、同行の留学生54名はアメリカ号に乗ってサンフランシスコに向けて出港した。1872年1月15日サンフランシスコに到着した。1月21日首都ワシントンに入った使節団は3月より条約改正交渉を開始した。ところが全権委任状がないことを指摘され、伊藤と大久保は日本に帰国し6月17日に委任状を持ってワシントンに戻った。最恵国条項によってアメリカと結んだ条約は他の国にも自動的に与えられることなど、アメリカは使節団の無知に驚いて条約交渉を中止した。木戸は条約交渉を設定した伊藤や森有礼らへの不信感を抱き、伊藤と木戸の間に微妙な亀裂が入った。そして大久保への不信も募り木戸はこんなお粗末な使節団に加わった自分への自己嫌悪感が増していった。外国語が全くできないことも加わって木戸は一種の鬱状態に陥った(夏目漱石のロンドンでの鬱と同じ)。その不信感は日本に帰国した1873年大蔵大輔の井上薫に向けて爆発した。木戸が神経衰弱になっているのに対して、同じく外国語が全くできない大久保は意外と積極性があった。陸軍国プロシア・ロシアの政体・軍制に興味があってこの両国に注目していた。この時以来伊藤は大久保の沈着・忍耐力に感心し大久保と親しくなっていった。伊藤が今回のように広く深く西欧を知るようになり、十数年後の日本帝国憲法制定まで、ドイツ風の保守的なスタンスを中軸とすることになった。列強に対抗するにはまず地に足をつけて近代化に励む必要がある。今回の遣欧使節団では木戸の感情の起伏には戸惑ったが、大久保から信頼されるようになったのは大きな収穫であった。1873年9月13日使節団は横浜に帰ってきた。それを待ち受けていたかのように、征韓論政変が始まるのである。73年1月留守政府は、ロシアの樺太領有問題、台湾・朝鮮問題が重要になったとして、大久保・木戸に帰国を命じるのである。大久保が5月、木戸は7月に帰国した。留守政府は韓国が日本の開国要請に応じないので全権使節を派遣しそれでも従わないなら討つべきであるという空気で動いていた。木戸帰国後の閣議のメンバーは当初の7人に、後藤象二郎(土佐閥)、大木喬任(佐賀閥)、江藤新平(佐賀閥)を参議に加えた。岩倉・木戸・大久保の使節団組は日本の内政改革が先で、朝鮮国と事を構えるのは反対であった。伊藤と岩倉が最も積極的に動き始め、10月には大久保が参議に就任し、10月14日の閣議では西郷が使節派遣を主張し大久保は反対し決着はつかなかった。小心者の三条太政大臣は西郷の辞任も怖いし大久保の辞任も恐れて顛倒する始末となった。そこで岩倉は吉井友実宮内少輔、徳大寺宮内卿を通じて、明治天皇へ自身の太政大臣代理就任を工作した。こうして岩倉は太政大臣代理に就任し、木戸は10月20日に伊藤を参議に推薦した。10月24日天皇の勅書という形で岩倉は朝鮮使節派遣という閣議決定を取り消した。西郷・板垣・後藤・江藤・副島の五参議は辞任した。これを征韓論政変と呼ぶ。五参議が辞任したので、10月25日伊藤が参議兼工部卿に、勝海舟が参議兼海軍卿に、寺島宗則が参議兼外務卿に就任した。こうして政変を裏で動かした伊藤らは大輔という次官クラスが卿に昇進したことになり、なかでも伊藤はその参議のリーダ格になった。軍人として西郷に遠慮をした大久保はこの政変で動かず、陸軍卿のままで参議にはなれなかった。そして伊藤は病気で休み勝ちの木戸の代行という地位を獲得した。伊藤は木戸グループにいた紀伊閥の陸奥宗光を、大蔵省租税頭から大蔵小輔に昇進させたが折り合いがつかず、司法省へ持ってゆこうとしたが参議兼司法卿の大木喬任の反対で実現できなかった。1874年大蔵省を止めた陸奥は西南の役に加担したので獄に入れられた。1875年2月に不平士族の乱が佐賀で起きた。佐賀を管轄する軍は熊本鎮台で谷干城(土佐藩閥)が司令官であった。伊藤らは谷はいずれ裏切るだろうという推測をたて、大久保陸軍卿は野津少将を熊本鎮台に派遣した。3月佐賀城を攻略し首謀者江藤新平を捉えて斬首した。
(つづく)