ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月14日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロードより 「見晴らし台」

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第3回

序  日本の中世 (その3)

1166年11月に清盛は内大臣、翌年2月には従一位、太政大臣へと異例の出世を成し遂げた。清盛の太政大臣補任と同時に嫡子重盛は権大納言に昇任し、平氏軍政の中心となった。清盛は名誉職的な太政大臣を辞し1169年出家して摂州福原を拠点とする日宋貿易に力を注ぎ、摂津大輪田泊、安芸の厳島神社、筑前の博多津を結ぶ開運と貿易で富と権門を築いた。後白河も貿易に関心を示し両者の協調は深まった。1171年清盛の娘徳子を高倉に入内させ一門の栄華は極大を迎えた。清盛の妻時子は藤原時信の娘であり、後白河の中宮であた滋子も藤原時信の娘である関係で築いた清盛と後白河の協調関係も、1176年建春門院滋子がなくなると転機を迎えた。両者の関係に亀裂が生じ院近臣の不満が表面化した。山門の強訴や火災で社会不安が高まると、藤原成親、西光、俊寛ら院近臣による平家打倒の謀議が発覚した。「鹿ケ谷事件」である。密告を受けて清盛は成親・俊寛を流罪、西光を斬罪に処した。しかし院の反平家の動きを封殺することはできず、1179年11月清盛は福原から数千騎を率いて上洛し後白河を鳥羽に幽閉し院政を停止させた。「治承三年の政変」である。多数の院近臣が解官され関白基房は流罪された。後任関白は清盛の娘を妻とする基通となった。1180年2月清盛の娘建礼門院徳子と高倉天皇の皇子言仁親王が践祚した。安徳天皇3歳である。天皇の外戚となった清盛は朝廷の権力を一門で独占した。平家政権の誕生である。院政期の文化を寺院建造物と和歌の面から見てゆく。院は「治天の君」という新たな王権によって知と財が莫大に浪費され、豪奢にして多彩な文化が創出された。ハード面では巨大なモニュメントの建立、都市建設である。白川は藤原師実から謙譲された岡崎の地に大寺院「法勝寺」を立てた。東国の旅人は大津から逢坂の関を越え最初に目にする巨大な塔と伽藍に驚かされた。その後、尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成勝寺・延勝寺のいわゆる「六勝寺」や院御所が造営され白河地区は都市的発展を遂げた。また鴨川と桂川が合流する洛南の地に白河院政期には鳥羽離宮といった院御所の造営と広大な造園を行った。鳥羽院政期には安楽寿院・勝光明院・金剛心院を造営し、白河・鳥羽の墓所、院近臣の宿舎直盧が作られ都市として整備が行われた。八条鴨川の東岸あたりに法住寺や蓮華王院(三十三間堂)、建春門院の御願で最勝光院が造立された。建造物という今でいう箱物文化へのあこがれのエネルギーは文化のソフト面にも注ぎ込まれた。白河院は1075年「御拾遺和歌集」の編纂を命じ、勅撰和歌集としては905年の「古今和歌集」、「後選和歌集」、11世紀初めに「拾遺和歌集」以来の久しぶりの事業となった。さらに白河院は「金葉和歌集」の編纂を命じた。和歌の編纂という点では堀川院の功績が大きい。堀川の周囲には源顕仲・俊頼・藤原顕季・公実・基俊・僧永縁・女流歌人らの文化人が集まり「堀川百種」を行った。堀川は音楽の興隆にも熱心であった。後白河は今様の歌謡才能に恵まれ「梁塵秘抄」を編纂した。また「龍鳴抄」といった楽書・楽譜が作られた。学問すなわち漢学・漢詩文では大江匡房や信西が有名であった。物語や鳥羽の下命で「六国史」、「本朝世紀」、「法曹類林」が作られた。院政期の文化は多彩であった。庶民の芸能田楽、貴族の大田楽は法会の後で演じられた芸能であった。装飾経の「平家納経」は美術として有名である。スポーツでは院政期に大流行した「蹴鞠」がある。蹴鞠は単なる遊戯から作法・故実を供えた芸能になった。今様、蹴鞠に才を発揮した後白河は「年中行事絵巻」、「承安五節絵」などの絵巻物の制作に力を入れたという。

(つづく)