京都市東山区 「知恩院 古門」
兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期
「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)
太平記 第29巻(年代:1351年)(その2)
5、金鼠の事
相公義詮がさがん寺に上って以来、寺の院主雲暁僧都は毘沙門の法を取り行った。僧都より寺の由来や毘沙門の法の功徳を説き聞かされた。唐の玄宗皇帝の故事をひいて、毘沙門の法によって金鼠数百万匹が敵の武具を食い破って賊を退治することができたという。義詮は信心を起こし丹波国小川の庄を寺に寄贈した。
6、越後守師泰石見国より引返す事 付 美作国の事
越後守高師泰は三角城の包囲を続けて石見国にいたが、兄師直より早馬の使いがあり、そちらの合戦はさておいて至急将軍の陣に合流するように指示した。途中道を遮るものがいるかもしれないので、息子武蔵五郎師夏を備後に差し回し中国の蜂起を抑えておくとの事であった。武蔵五郎は播磨を発って備後の石埼(福山)に着いた。将軍は京から播磨の書写山に落ち下ったので、直義方の上杉弾正少弼は八幡から船路で備後の鞆に上陸した。備後、備中、安芸、周防の兵は上杉陣に馳せ参じ大勢力となった。そうするうちに武蔵五郎は石見から来る師泰を待たないで京都に向かうというので上杉勢はこれを阻止しようと急いで後を追った。その勢3000騎1月3日朝早く出立した。越後守高師泰はそうとは知らず、急いで倉敷の西山に到着したが、後陣の小籏一揆、河津、高橋、陶山ははるか後にいた。上杉の先駆け隊500騎と後陣の陶山100騎がぶつかって合戦となり、上杉勢はかなりの損害を出しながら、孤立した陶山勢は全滅した。備中国の合戦では師泰は勝った。美作国の宮方700余騎は国境の杉坂の道を塞いだが、これにも難なく勝って師泰、武蔵五郎師夏は2月1日将軍の陣がある書写山に到着した。
7、光明寺合戦の事
吉野方の陣八幡より石塔頼房を大将にして愛曾伊賀守、矢野遠江守ら五千余騎が書写山に向かったが、越後守高師泰軍の勢があまりに多いので、播磨国光明寺に陣を取って八幡にさらに援軍を乞われた。将軍は敵に援軍が届く前に勝負をつけようと、2月3日一万騎で山を下って光明寺に寄せた。4日より矢合わせが始まったが、城に籠った石塔勢が死に物狂いで戦うのに対して、寄せ手は今一つ我が身と思うものがいないので、城中は勝ち続けた。将軍方の赤松律師則祐は700騎でのんびり城攻めに懸かったが打ち返され、手合わせの合戦は城内の勝ち気分で進んだ。伊勢の愛曾が召し使う童が俄かに狂って「我伊勢大神宮なり城が落ちることは無い、悪行を続ける師直、師泰は7日中に死ぬ」と叫んだという。また赤松律師の息子肥前権守朝範が夢を見て、この城は落ちないと赤松律師に伝えた。この合戦がはかばかしくないのを不満に思っていた赤松律師は、本拠の赤松が敵に攻められる報を受け、この合戦から抜けて光明寺の陣を棄て、白幡城に帰った。
8、武蔵守師直の陣に旗飛び降る事
武蔵守師直陣の兵がたるんで休息している中に巽より白い旗の一流れが天より飛び降りた。この旗を取ったものが戦に勝つというので兵たちは右往左往して処へ白幡は師直陣に落ちた。よく見るとこれは旗ではなく、反故紙を数十枚継いで裏に二種の歌が書いてあった。高と武蔵の言葉を交えた縁起悪い歌であった。高師直の没落を予言するような戯れ歌、落首である。
9.小清水合戦の事
摂津国守護赤松信濃守は将軍へ使者を送り、官方は八幡より石塔中務大輔、畠山国清、上杉蔵人大夫を大将として七千余騎を光明寺後詰めの援軍を出した。光明寺城で合戦すると前面後面の敵を相手にして戦うことになり分が悪い。そこで討手の下向を、神尾、十輪寺、小清水(西宮あたり)で待ち受け、合戦して打ち勝てば一挙に戦いを決することができると説いた。将軍は山攻めの困難さを前にして平地の合戦を好んだのでこれに動かされ、2月13日将軍、執事兄弟は光明寺を発ち湊川に向かった。このことを聞いて畠山国清は高兄弟の正面に当たるべく芦屋の北の小山に陣を取った。光明寺城に立て籠もる石塔頼房、上杉左馬助の光明寺を棄て畠山の陣に合流した。17日夜将軍と執事の勢二万余騎は御影の浜に移動した。薬師寺公義、河津氏明、高橋栄光、大旗一揆の6000騎は畠山の陣に押し寄せた。両陣営の合戦は熾烈を極めたが、小清水での大手の戦いは宮方の勝利に帰した。
(つづく)