ブログ 「ごまめの歯軋り」

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太平記

2020年12月31日 | 書評
京都市東山区 「知恩院 古門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第29巻(年代:1351年)(その2)

5、金鼠の事
相公義詮がさがん寺に上って以来、寺の院主雲暁僧都は毘沙門の法を取り行った。僧都より寺の由来や毘沙門の法の功徳を説き聞かされた。唐の玄宗皇帝の故事をひいて、毘沙門の法によって金鼠数百万匹が敵の武具を食い破って賊を退治することができたという。義詮は信心を起こし丹波国小川の庄を寺に寄贈した。
6、越後守師泰石見国より引返す事 付 美作国の事
越後守高師泰は三角城の包囲を続けて石見国にいたが、兄師直より早馬の使いがあり、そちらの合戦はさておいて至急将軍の陣に合流するように指示した。途中道を遮るものがいるかもしれないので、息子武蔵五郎師夏を備後に差し回し中国の蜂起を抑えておくとの事であった。武蔵五郎は播磨を発って備後の石埼(福山)に着いた。将軍は京から播磨の書写山に落ち下ったので、直義方の上杉弾正少弼は八幡から船路で備後の鞆に上陸した。備後、備中、安芸、周防の兵は上杉陣に馳せ参じ大勢力となった。そうするうちに武蔵五郎は石見から来る師泰を待たないで京都に向かうというので上杉勢はこれを阻止しようと急いで後を追った。その勢3000騎1月3日朝早く出立した。越後守高師泰はそうとは知らず、急いで倉敷の西山に到着したが、後陣の小籏一揆、河津、高橋、陶山ははるか後にいた。上杉の先駆け隊500騎と後陣の陶山100騎がぶつかって合戦となり、上杉勢はかなりの損害を出しながら、孤立した陶山勢は全滅した。備中国の合戦では師泰は勝った。美作国の宮方700余騎は国境の杉坂の道を塞いだが、これにも難なく勝って師泰、武蔵五郎師夏は2月1日将軍の陣がある書写山に到着した。
7、光明寺合戦の事
吉野方の陣八幡より石塔頼房を大将にして愛曾伊賀守、矢野遠江守ら五千余騎が書写山に向かったが、越後守高師泰軍の勢があまりに多いので、播磨国光明寺に陣を取って八幡にさらに援軍を乞われた。将軍は敵に援軍が届く前に勝負をつけようと、2月3日一万騎で山を下って光明寺に寄せた。4日より矢合わせが始まったが、城に籠った石塔勢が死に物狂いで戦うのに対して、寄せ手は今一つ我が身と思うものがいないので、城中は勝ち続けた。将軍方の赤松律師則祐は700騎でのんびり城攻めに懸かったが打ち返され、手合わせの合戦は城内の勝ち気分で進んだ。伊勢の愛曾が召し使う童が俄かに狂って「我伊勢大神宮なり城が落ちることは無い、悪行を続ける師直、師泰は7日中に死ぬ」と叫んだという。また赤松律師の息子肥前権守朝範が夢を見て、この城は落ちないと赤松律師に伝えた。この合戦がはかばかしくないのを不満に思っていた赤松律師は、本拠の赤松が敵に攻められる報を受け、この合戦から抜けて光明寺の陣を棄て、白幡城に帰った。
8、武蔵守師直の陣に旗飛び降る事
武蔵守師直陣の兵がたるんで休息している中に巽より白い旗の一流れが天より飛び降りた。この旗を取ったものが戦に勝つというので兵たちは右往左往して処へ白幡は師直陣に落ちた。よく見るとこれは旗ではなく、反故紙を数十枚継いで裏に二種の歌が書いてあった。高と武蔵の言葉を交えた縁起悪い歌であった。高師直の没落を予言するような戯れ歌、落首である。
9.小清水合戦の事
摂津国守護赤松信濃守は将軍へ使者を送り、官方は八幡より石塔中務大輔、畠山国清、上杉蔵人大夫を大将として七千余騎を光明寺後詰めの援軍を出した。光明寺城で合戦すると前面後面の敵を相手にして戦うことになり分が悪い。そこで討手の下向を、神尾、十輪寺、小清水(西宮あたり)で待ち受け、合戦して打ち勝てば一挙に戦いを決することができると説いた。将軍は山攻めの困難さを前にして平地の合戦を好んだのでこれに動かされ、2月13日将軍、執事兄弟は光明寺を発ち湊川に向かった。このことを聞いて畠山国清は高兄弟の正面に当たるべく芦屋の北の小山に陣を取った。光明寺城に立て籠もる石塔頼房、上杉左馬助の光明寺を棄て畠山の陣に合流した。17日夜将軍と執事の勢二万余騎は御影の浜に移動した。薬師寺公義、河津氏明、高橋栄光、大旗一揆の6000騎は畠山の陣に押し寄せた。両陣営の合戦は熾烈を極めたが、小清水での大手の戦いは宮方の勝利に帰した。

(つづく)

太平記

2020年12月30日 | 書評
京都市東山区 「知恩院古門前 白川」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第29巻(年代:1351年)(その1)

1、吉野殿と恵源禅閣と合体の事
1350年12月足利直冬討伐のために西国へ向かった尊氏は、直義と南朝の合体を知って、備前から引き返した。吉野の後村上天皇と三条兵衛入道恵源直義との合体があって、東条の和田、楠をはじめ、大和、河内、和泉、紀伊国の宮方は一斉に三条殿に馳せ参じた。楠退治に功があった畠山阿波将監国清も千騎を率いて参られた。南方の勢が京都に寄せたという噂が出て、京都を守っていた宰相中将義詮は早馬で備前福岡に居られた将軍にしきりに急を告げたので、石見の三角城を包囲していた師泰に京へ戻るよう指示した。急を要することなので師泰の意見を聞く暇なく将軍は2000騎で上洛した。京に幕府方が終結する前に義詮を攻めんと、恵源直義は1351年1月7日7000余騎で八幡に陣を取った。
2、桃井四条河原合戦の事
越中守桃井右馬権頭直常はかねての合図どおり、二万余騎で1月8日越中を発って雪の山を越え叡山の東坂本に着いた。一方京の守り義詮勢は最初三万騎と数えられたが、日々減り三千騎となった。直義方に寝返る勢が増えたからである。12日の夕方には義詮勢は300騎となったという。(この兵数の数え方は漫画並み)13日の夜桃井は比叡山の山頂で篝をたくと、八幡の直義陣より合図の篝火をたいた。二木、細川勢はこれでは戦にならないので京を明け渡して西へ落ち尊氏勢と合流すべきという意見で、1月15日に義詮勢は西へ向かった。直ちに桃井直常は京に入った。義詮勢が向日明神を過ぎ物集女の西岡に上がって南を見ると、おびただしい馬煙が見えた。将軍と師直軍二万余騎で上洛してきたのだ。将軍勢を三手に分け、大手は武蔵守師直を大将とし二木らは四条の東へ、佐々木入道らは東山日吉神社に上がる。中の手として将軍と義詮勢は一万騎を合わせ二条大宮法勝寺前に出る。将軍らが四条河原に出ると桃井勢が鴨川の対岸にいた。秋山九郎と阿保肥前守忠実の一騎打ちという戦記物語の常套的エピソードを交えて喝采を呼ぶ。
3、道誉後攻めの事
合戦が始まって、桃井7000騎と二木・細川一万騎が白河の東で激戦をしているとき、佐々木入道道誉700騎で東山から出てきて桃井の後ろから攻めた。北国の桃井勢が疲れて東山に引くとき、将軍・義詮勢5000余騎、桃井軍の後ろを追った。三方から囲まれた桃井軍は粟田口から山科に引いて、逢坂山に陣を取った。その夜将軍は桃井軍を討ち負かせたのに、義詮の京都軍の半分が直義の八幡の陣に寝返った。尊氏はこれは変だと直感して、ひとまず京から引いて西国に落ちることにし、1月16日朝早く丹波路を西へ向かった。
4、井原の石龕の事
子息義詮に二木、細川2000余騎をつけて丹波国井原の石龕(さがん寺)に留めた。寺の者は二心のない者たちで兵糧や食事でもてなした。またこの山は険阻で城郭は安心できるものであった。丹波の武士たちも馳せ参じた。

(つづく)

太平記

2020年12月29日 | 書評
京都市上区紫野 「今宮神社」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第28巻(年代:1349年-1350年)(その2)

6、恵源禅閣没落の事
足利将軍が西国へ立つ前夜、直義(僧名恵源禅閤)は石塔頼房だけを供として何処ともなく消えた。二木、細川の人も高師直執事と会して、師直の出発を後らせても直義の行方を捜し出すべきかといえば、師直は、直義に味方する人とていないだろう、三日以内に殺して見せる豪語したという。将軍の出発を後らせるほうが面倒だと言って10月13日朝出立した。将軍の軍勢は11月19日備前国福岡に着いた。海が荒れて、山陰は雪が積もって馳せ参る勢が少なかったので、年内は備前の福岡に逗留した。
7、恵源禅閣南方合体の事 併 持明院より院宣を成さるる事
恵源禅閣は将軍出発の前に殺す企てがあると聞いて、まず大和国に落ち越智伊賀守を頼られた。そして何としても帝の同意がなくては。高兄弟討伐はかなわないとして、光厳上皇の院宣を伺えば即座に同意され、望みもしないのに鎮守府将軍に補せられた。直義は都を出て大和に入ったものの、大和、河内、和泉。紀伊は皆吉野方で武家の言うことには耳を貸さないので、味方になるものはなく進退を失った。
8、吉野殿へ恵源書状奏達の事
越智伊賀守は直義に「これまでの事を侘び、これからの共栄について語らえばよろしいかと」と意見を申された。直義は使いを吉野に送って奏達された。吉野では諸卿詮議を行い、洞院左大将実世公は「直義のいうことは偽りである。今幸に降参するというなら後難を避けるためにも殺してしまえ」というものであった。つぎに二条関白左大臣は「己が罪を謝罪する者には恩をもってという三略という漢籍がある。影響力のある直義を旧職に戻して使うことが帝の天下につながる」といった。
9、漢楚戦いの事 付 吉野殿綸旨を成さるる事
議論が膠着して誰も発言しなくなったところで、北畠親房准后禅閣は「史記」項羽本紀・高祖本紀を長々と引いて(あまりに長いので省略する)直義恵源禅閣に勅免の宣旨を与え和議を結ぶことの是を説いた。

(つづく)

太平記

2020年12月28日 | 書評
京都市上京区 「大徳寺 勅使門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第28巻(年代:1349年-1350年)(その1)

1、八座羽林政務の事
1349年8月高兄弟によって足利直義が失脚した後、1249年10月尊氏の嫡男義詮が鎌倉より上洛し政務の中心となったが、政務はすべて高兄弟の計らいのもとにあった。1349年9月に備後から九州に落ちた直義方の足利直冬は肥後の川尻幸俊の助勢を受け筑前の少弐頼尚の婿になるなど九州での地盤を堅めていった。政争は都の将軍と義詮と高兄弟の足利幕府、九州の直冬そして吉野の宮方の3極構造となった。
2、太宰少弐直冬を婿君にし奉る事
右兵衛直冬は1349年9月備後を落ちて川尻肥後守幸俊のもとにいたが、直冬を討ち取れという将軍の御教書が出た。高兄弟の書いた教書だということは分かっていたので誰も討伐に行く者はいなかった。豊前・筑前国守護大太宰少弐頼尚はどういうわけか直冬を婿に奉った。こうして九州以外にも直冬の下知に従う人も増えてきた。
3、三角入道謀反の事
石見の三角入道が直冬の下知に従い国を支配するほどの勢力になったので、放置しておいてはまずいと高師泰を大将として二万余騎が1350年6月20日都を発った。7月27日江川に到着し佐波善四郎の城に寄せた。都方の毛利小太郎、高橋ら300騎が瀬踏み(川の案内者)に従って300騎で一騎に川を渡り、佐波方の兵を蹴散らして城に迫った。三つの城から敵が同時に出て毛利、高橋に迫れば、新手の山口七郎衛門千騎が加わって城に寄せたので敵は城に逃げ込んだ。それから三角側は籠城戦となった。しかし戦いが長期戦になると近くの敵の勢力が応援に駆け付けるので、師泰側は一気に勝負をつけるべく27人の夜討ち隊を選りすぐった。
4、鼓崎城熊ゆえ落つる事
8月25日夜27人の夜討ち隊は城の後ろ山から進んで堤崎の岸崖の下に隠れた。夜討ちの警護に当たっていた兵らは、後ろ山から熊が落ちてきた射よと叫んで300騎の兵は熊を追って山を下り麓にまで行ったので、城に残った兵は50騎に過ぎなかった。明け方伏せていた27人の兵が城にどっと入ったので驚いた城の兵は10騎が討たれ、40騎は青杉城に逃げた。鼓崎城はこうして落城した。佐波善四郎は討たれたので、残る二つの城も11日後に落ちた。越後守師泰は勢いに乗って石見国の32か所の城を皆落城させた。今や三角入道のこもる三角城一つ残った。この城は険しい山にあって攻めるに難しいので四方の峯に向かい城を築き長期戦となった。
5、直冬蜂起の事
9月29日肥後の国より都に早馬が着いた。直冬が川尻肥後守の館に居られたので、宅間別当太郎宗直が呼び掛けると大勢の敵が幕府側宇都宮三河守の城を囲んだ。川尻勢(直冬軍)がいよいよ大勢になり、鹿子木大炊助が取り巻く城の後攻めに宗刑部丞利重が兵を募ったが、直義に心を通じる連中のため兵が集まらない。都より援軍を下さるべしという内容であった。尊氏将軍が武蔵守師直と詮議すると、直義に心を寄せる者は将軍の子息直冬を攻める事は難しい。これは将軍が直々出向かれ父子の確執を解決してほしいといい、10月尊氏卿が高師尚を召して7000余騎で直冬誅罰のために出兵した。京都には義詮が警護に当たることになった。

(つづく) -->

太平記

2020年12月27日 | 書評
京都市上京区 「大徳寺 山門」

兵藤裕己 校注 「太平記」 岩波文庫
鎌倉幕府滅亡から南北朝動乱、室町幕府樹立における政治・社会・文化・思想の大動乱期

「太平記」 第Ⅲ部 (第23巻~第40巻)

太平記 第27巻(年代:1348年-1349年)(その3)

9、田楽の事
祇園社の執事行恵、四条大橋の修理の勧進のため新座(南都)本座(京白河)の田楽興行を打った。アクロバットな舞い芸比べの猿楽をさせた。洛中洛外の男女が稀代の見物をしようと桟敷席に座った。演芸の途中桟敷席で叫び声が上がり、上下249間の桟敷が将棋倒しのように崩壊したのだ。天台座主梶井二品親王や二条関白殿、山門西塔院の長講の僧も御覧になっていた。天狗の仕業ともっぱら噂された。このエピソードは世の中の不安を醸し出すための、「後付けの前兆」という小道具として古代、中世の話にはつきものである。
10、左兵衛督師直を誅せんと欲せらるる事
妙吉侍者の強い勧めがあって、直義卿は高師直、師泰兄弟の誅罰を将軍尊氏には内緒で進めた。上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斎藤五郎兵衛入道ら5,6人と密談して謀を企てた。剛の者大高、宍戸を組手とし、兵100人を隠し置いて、師直を呼んだ。よもや謀があるとも知らず高師直は三騎でやってきて侍は中門あたりにいて、師直は一人で座敷に座ったところ、粟飯原が裏切って師直に耳打ちしたので、師直はっと悟って一人馬を駆って屋敷に帰った。その夜粟飯原、斎藤が師直の屋敷に来て、直義卿、上杉、畠山の企てであることを告げた。師直屋敷の警備を堅くし一族郎党若党数万人を屋敷近辺に配置し、病と称して出仕を取りやめた。当時高師泰は楠正行の河内国での乱鎮圧のため、石川河原に陣取っていたので、師直は使いを師泰のもとに送り事の急を告げる次第を知らせた。師泰は畠山国清を呼び寄せ石川城を任せて、急ぎ京に帰った。足利直義は師泰が大軍を率いて上洛することを聞き、師泰の御機嫌伺に飯尾修理入道を使いに出し、「師直が粗忽なので政務を止め、師泰に管領を命じる」といって座を繕った。この申し出の真意を見破った師泰は兵3000騎、築城労務者7000人を引き連れ合戦のいでたちで京に向かった。師泰は三条殿直義と合戦する様子で、赤松円心、律師則祐、弾正氏範勢700騎で直義の屋敷を囲んだ。師泰は師直と対面して将軍尊氏が「直義がそんなことを企むのは穏やかではない。直義にはすぐにやめさせるよう取り計らうが、もしやめないなら、尊氏は師直と一緒になって弟を討つ」と仰せがあったことを聞いた。そこで師泰に直義の軍には矢一つ打つな、京都のことは抑えるのは容易だが、中国におられる直冬が軍を率いて上洛すると事は面倒だ。赤松親子3000騎ににすぐに播磨国に出て山陰・山陽を抑えるよう指示した。足利直冬は上洛する準備に入った。
11、師直将軍の屋形を打ち囲む事
8月12日より京には合戦があると大騒動になった。直義に参る人は、石塔入道、上杉重能、畠山、石橋、南、大高、島津、曽我、饗庭、梶原、須賀、斎藤ら3000騎、執事兄弟方には二木頼章、義長、弾正頼勝、細川、吉良、山名、今川、千葉、宇都宮、遠江、土岐、佐々木入道、六角、武田、小笠原、戸次、荒尾、土肥、土屋、多田院らその五万騎となった。これを見て直義方には落ちる人が多くなり今や300騎となった。直義は150騎をつれて尊氏将軍屋敷に入った。尊氏は「高兄弟が主従の儀を忘れて敵対するなら、直義よここへ入れ。一緒になって戦おう」という所存であった。8月14日師直は二万騎で尊氏将軍屋敷を取り囲んだ。師泰7000騎で搦め手で小路を閉鎖した。帝は避難の準備で五所も上へ下への大混乱となった。いざ師直の軍が突入する段になると、尊氏将軍は須賀左衛門尉を使者として話し合いを申し込んだ。「高兄弟が天下を取るつもりなら問答無用だが、讒言の真偽を確かめようではないか」という内容であった。師直の言い分は「三条殿の申し開きを聞く、讒言の上杉、畠山は打ち首にする」であった。そして尊氏の結論は「直義を政務から外す、上杉、畠山は遠流」であった。高兄弟は満足して旗を巻いて帰った。翌朝妙吉侍者の逮捕に向かったが逃げた後でもぬけの殻であったので寺を焼き払った。直冬は備後の鞆にいたが、師直は在地の者を使って討伐するため、杉坂又二郎200余騎で直冬を攻めた。直冬は磯部将監が矢で防いでいる間に川尻肥後守幸俊の船に乗って肥後の国に落ちた。高兄弟は、さて直義卿をその儘にしておくとよくない討ち取るべしという結論になったが、直義は墨染めの衣をきて静かに錦小路堀川で謹慎した。訪れる人は法印玄恵ぐらいであった。
12、上杉畠山死罪の事
上杉伊豆守、畠山大蔵少輔は所領を没収し、屋敷を破壊して越後国へ配流となった。ここから越後国への道行文があって江守の庄に着いた。越後国守護八木光勝が流人を受け取りあばら家に押し込め警備した。高兄弟はなお追及の手を休めず、討ち手を配所に送った。八木には二人を討てと指示した。8月24日上杉伊豆守の配所江守の庄に討ち手の者が行くと、すでに上杉家の者53人を引き連れて加賀国に落ちたという。八木はかねてから上杉、畠山の者が流れてゆくことがあれば討てと触れてあった。上杉、畠山らが越前足羽に着くとすでに道は塞がれてあったので、一族郎党は自害した。こうして天下の政は悉く執事高兄弟のものとなった。 
13、雲景未来記の事
出羽国羽黒に一人の山伏がいた。名を雲景という。「未来記」という予言書を書いた。雲景は諸国行脚の旅に出て、熊野に出向いた。1349年6月26日天龍寺に行くと、道連れの山伏が愛宕山に行けという。これ以降は足利幕府の政局に関する予言である。といっても後出しの予言ほど簡単なものはない。大まかにぼんやりと話せばいいのだから、ここに書くのもバカバカしいので省略する。
14、天下怪奇の事
6月3日八幡の宝殿が鳴動した。神の放った鏑矢が都目指して飛んで行く鳴る音であった。近いうちに大乱が起こり、天子位を失い、大臣は災難に会い、古父を殺し、臣君を殺す、飢饉、兵革の災い起こるという。6月5日都の辰巳から雷光が起きた。「これはただ事ならず、いかにも天下の変である」と言い合った。なぜなら足利尊氏の弟直義、子直冬が尊氏に背いて南朝方で挙兵したからである。

(つづく)