ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月19日 | 書評
ポインセチア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第8回

第2章 実朝の鎌倉幕府 (その2)

北条氏の敵対勢力が消えさると幕政は安定した。そして将軍職の権限の大きさが実朝、北條一族にも実感された。和田合戦から2年を経た1215年7月、実朝の御台所の兄坊門忠信が後鳥羽の指示で「仙洞歌合一巻」を送ってきた。後鳥羽が歌を通じて手を差し伸べてきた狙いは朝幕関係強化と実朝の抱き込みであったと言われている。1216年になると後鳥羽からの働きかけは一層顕著になる。6月実朝は権中納言に昇任し、7月には左近衛中将を兼ねた。後鳥羽の朝廷による実朝個人への支援である。これを露骨にやると北条氏を始め関東武士団と実朝の離間を狙った策動と反発を招きやすい。2月実朝は箱根伊豆両権現に国土安穏の祈願を行い、4月には御家人の訴えを直接聞く場所を設けた。義村・善信・行光・仲業ら四名を新たに置いて奉行した。将軍親政の強化である将軍家政所別当九人制の実施である。ここで実朝は不可解な行動を起こした。1216年6月宋国より大仏再建の技術者陳和卿が鎌倉にやってきて実朝に面会した。この事が契機となって、11月中国へ渡るための巨大な船の建造を命じ、随行員60名の選定を行う命令を下した。結城朝光を奉行として60名を選考したが、大江広元や北條義時は反対した。将軍と執権が直接対決する構図となった。結局1217年4月大船は完成し進水式を迎えたが海に浮かぶことはできなかった。由比が浜で朽ちてゆく巨船は実朝の失政の象徴となった。将軍後継問題が建保年間の政治課題となっていた。実朝は25歳になって御台所との間に子供がなく、側室を一人も置かなかったので将軍後継者空白のままではゆかないので、後継者候補をめぐって政治的思惑が動き始めた。1216年9月実朝は、子孫がいないし自分の代で源氏将軍は終りになるので朝廷の高位役職を望み家名を上げることをしたいという。朝廷の官職に拘泥する、武家政権にはあるまじき姿だと批判された。これには北條執権家は猛反対をし、将軍親政強化を阻止しようとした。以前から実朝の後継将軍に親王を請来する策が考えられ、1218年1月政所で北條政子の熊野詣の審議があり、実は「尼二位」政子が後鳥羽の乳母「卿二位」兼子と協議して、後鳥羽の皇子を実朝の後継将軍として迎えるための交渉が目的であった。2月4日雅成親王か頼仁親王のどちらかを実朝の後継将軍に迎えることで合意を得た。同時に2月10日大江広元が使者を送り、実朝の近衛大将昇任、2月12日には左大将昇任の要請を行った。将軍と幕府執権の合議があって、後鳥羽の後ろ楯が得られるなら幕府の権威が高まり、朝幕の協調が進展すれば御家人の利益にもなるという目論見であった。つまり王権という公家政権の伝統的権威を新興の武家政権に取り込み、幕府を「東国の王権」として発展させるという策が成功するのであった。招へいする若い皇子将軍の後見役としていわば実朝が「幕府内院政」を行うことであった。卿二位が後鳥羽の意向を伝え、尼二位が実朝の意向を伝える策が合意されるならば、朝廷にとっても皇子を将軍に据え、実朝に後見させることで幕府をコントロールでき、日本全土に君臨する王権を実現するメリットがある。後鳥羽は10月13日政子を従二位に昇叙した。そして実朝にも1218年3月6日右近衛大将を越える左近衛大将に昇任し、左馬寮御監を兼ね。6月27日内大臣、12月2日には右大臣に昇進させた。この宣旨を受けて1219年1月27日実朝は鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀に臨む手はずとなった。そこに二代将軍頼家の遺児公暁による実朝暗殺の悲劇が待っていようとは誰も気が付かなかった。公暁は父頼家が修善寺で殺されたとき4歳であった。1205年6歳になると鶴岡八幡別当尊堯に弟子入りし、実朝の猶子となった。1211年三井寺に上って僧の修行を積み、1217年鎌倉に下って尊堯の後を継いで鶴岡八幡宮別当となった。1218年実朝の後継者問題が親王将軍案に傾くと公暁には将軍への道は閉ざされるのである。かくして1219年1月27日実朝の右大臣拝賀の儀の日がやってきた。実朝の首を取った公暁は三浦義村邸に向かい、義村が公暁を誅殺した。公暁を導いた黒幕がいたかどうかは、闇のなかである。追い詰められた公卿の単独犯行説としておこう。

(つづく)