ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 中野晃一著 「右傾化する日本政治」 (岩波新書2015年7月)

2016年08月31日 | 書評
安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として、政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える 第4回

1) 55体制―旧右派連合の政治

 サンフランシスコ講和条約後の世界はアメリカとソ連の対立の構図となり、それを反映する形で国内においても保守と革新の対立の構図が形ずくられた。1955年日本社会党が再統一を果たすと、保守合同が実現し自由民主党が誕生した。大枠においては1993年まで続いたこの政治システムは、55体制と称され自民党が一貫して単独d政権を掌握してきた。そのなかで社会党は次第に政権交代の実現可能性を見失うが、政策面では保守政権の歯止め役を果たしてきた。この38年間という自民党の長期政権は際立って長いが、国際的には例がないわけではない。イタリアのキリスト教民主主義の中道右派政権、フランス第5共和国のドゴール政権の優越が長く続いた。この保守政権に対する政治システムのバランス役はイタリアでは共産党、フランスでは社会党であった。こうした穏健な保守政治のありようはイギリスや西ドイツにも見られた。イギリスでは保守党と労働党の「コンセンサス政治」はサッチャー政権が誕生する1979年まで続いた。ドイツではキリスト教民主同盟のエアハルトが提唱した「社会的市場経済」を社会民主党も受け入れ階級闘争は放棄された。アメリカでもリベラル派がエスタブリッシュメントの主流を占め続け、1980年にレーガン大統領が誕生するまで影響力を持っていた。このような冷戦を背景とした、階級間妥協に基づく保守政治が世界史的に展開されていたのである。日本において55体制下の政権を担当した政治勢力を「旧右派連合」となずけておこう。旧民主党系の鳩山一郎、石橋湛山、岸信介と続いた保守政権は、60年安保闘争を経て岸信介が退陣し、旧自由党系の池田内閣から佐藤英作政権の成立によって経済第一政策に転換してから安定的な軌道に乗り、1970年田中角栄政権から大平正芳政権まで絶頂期を迎えた。60年安保で戦後最大の危機を招いた岸らの旧民主党系は保守の傍流になった。吉田首相から池田、佐藤、田中、大平らの政権を「保守本流」と呼ぶ。外交問題、安保問題、憲法問題の棚上げ、国家社会主義的経済計画と福祉国家などに最大の特徴がある。官僚派の政治家や経済官庁が中心的な役割を果たした「開発主義」と、党人脈が強みを発揮した中間団体のくみ上げ方式「恩恵主義 クライエンタリズム」の結合が旧右派連合であった。「発展指向型国家(開発国家)」とは政府介入計画経済型の今でいう発展途上国の特徴である。開発を果たした国家はアメリカのような「規制指向型国家」と呼ばれた。政官業エリートの連携を支えたのは経済ナショナリズムであった。銀行・政府系金融機関は大蔵省主導の護衛船団方式で運営された。官主導の経済開発をもって日本型経済モデルとする考え方が一般に受け入れられている。年功序列や終身雇用などを通じて雇用の安定が図られた時代であった。これらの経済政策を可能にしたのが、保守長期政権による制jの安定であった。安保外交や政治的争点を棚上げし、経済成長第一主義の成果であるパイの再配分を重視することこそ、旧右派連合の「恩恵主義」政策であった。経済の二重構造の利点を享受しながら優秀な企業に育ったメーカーが経済成長をけん引する一方、中小企業、農業、土建業、流通業へは手厚い補助金や公共事業を供給し、その見返りに自民党への投票を獲得する政策を「パトロン-クライアント関係」つまり利益誘導型政治体制が出来上がった。農林、建設、商工の御三家の族議員が自民党政務調査会に集結し、組織票と政治献金で既得権益を守る業界を厚遇してきた。この自民党派閥のピラミッド組織を「恩恵主義」と呼ぶ。

 開発主義と恩恵主義を唱える旧右派連合は、ある意味ではかなり左がかった「国民政党」であると言えるが、階級間対立の解消を目指したわけではなく、その本質は戦前からの紛れもなく保守支配の一形態である国家保守主義にあった。外に対しては「経済ナショナリズム」、国内では再分配により「一億総中流化」社会を目指していた。経済が右上がりを続ける限り、開発主義と恩恵主義は好循環を維持できた。旧右派連合の自民党の支持母体は経団連と農協、土建業会であった。この間革新勢力は社会党、民社党、公明党の野党多党化の流れの中で、1958年以降社会党の相対的ウエイトは低下し続けたが、三分の一を超える野党勢力は保守への牽制力となり、保守の暴走を未然に防ぐ大きな構図は維持されてきた。階級的対立にこだわる社会党左派は右派の江田書記長のビジョンに反対し、1964年「日本における社会主義への道」綱領を採択し、西ドイツの社民党の国民政党への転換を謳った「ゴールドベルグ綱領」とは反対の道を選択した。1960年代は民主主義と平和は地方からとばかりに、あいついで「革新自治体」が誕生した。1963年飛鳥田一雄氏は横浜市長に当選し、1967年には美濃部都知事が誕生した。1973年には9つの政令指定都市のうち6市が革新市長となった。都道府県レベルでは1975年には9の革新自治体が存在した。国政においても1970年代半ばは「保革伯仲」時代となり、タカ派の福田首相も安全運転を強いられた。しかし革新自治体は1970年代末に終わりとなり、野党の民社党と公明党が反共で一致し中道路線から離れた。国政レベルでは自民党は「自公民」路線から公明党と社民党に働きかけ、新自由クラブの保守中道路線を形成した。社会党も1980年代より中道諸政党との連携に踏み出した。反共で中道路線はずっと右へ変質した。旧右派連合は高度経済成長により大きな成功を収め、1964年にはOECDに加盟し、東京オリンピックを開催し、1968年には国民総生産GNPは世界第2位に躍り出た。開発主義の成功は日米貿易摩擦を引き起こし。1960-1990年までは常に日米の懸案課題であった。1990年代にはアメリカから安全保障の国際貢献を求められ、規制緩和要求から市場開放を強く迫られるようになった。日本型開発主義が攻撃対象となり、その解体を迫られた。旧右派連合は経済成長の成果によって保守支配の国民統合が担保されていた以上、旧右派連合のコスト負担(財政負担)に国民意識が賛意を示さなくなると、システムとしては破たんする。1975年から本格的な赤字国債の発行が始まる。アメリカも双子の赤字(財政赤字、貿易赤字)に苦しんでいたが、日本も財政赤字時代に突入した。公共支出の増大、税制改革への対処が持病となって旧右派連合を苦しめた。恩恵主義は国会運営にまでおよび、野党の抱き込みに金が動くという野党の腐敗により、選択肢としての野党の存在可能性が貶められた。日本では政権交代の可能性を有した競争的な政党システムをついに形成できなかった点で、55体制は自由度が低い政治システムと言わざるを得なかった。

(つづく)
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読書ノート 中野晃一著 「右傾化する日本政治」 (岩波新書2015年7月)

2016年08月30日 | 書評
安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として、政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える 第3回

序(その3)

自由経済を標榜する新自由主義と対になって新右派連合を形成したのは、その政治面では「強い国家」を思考する国家主義であった。市民社会でも国際社会でも、国家の権威を高めようとする保守反動勢力の失地回復運動が合流したことである。国家主義と言っても、国民の統合、主権よりも国家の権威や権力の強化を目指す動きである。国民意識や感情を煽る政治手法が用いられる。北朝鮮拉致問題、中国・韓国・ロシアとの領土問題(尖閣諸島・竹島・北方4島)で被害者ナショナリズムの宣伝である。軍事面では明らかに大きな政府主義であった。明治維新以来の国家の価値秩序を優先させる国家保守主義が徐々に復権を遂げてきた。戦後の55体制は日本帝国の敗北から出発する「戦後レジーム」からの脱却が至上命題に掲げられた。「自主憲法」の制定や9条憲法改憲論、国連平和維持活動PKO参加、非尖塔地域への自衛隊海外派遣、集団的自衛権の行使容認(これまでの政府見解は、権利は認めるが行使は憲法上できないとしてきた)を進め、有事法制、治安立法の整備が行われてきた。次には歴史認識や道徳教育に関する問題である。教育基本法の改正、君が代と日の丸法制化、戦前のすべての戦争を自存自衛の平和のための戦争と正当化する「靖国史観」という歴史修正主義が図られてきた。教科書問題、靖国問題、慰安婦問題は国内のみならずアジア隣国との国際問題へと発展してゆく。こうした明治以来の「日本近代化」の正当化への情念が新右派連合に合流して、復古色の濃い国家主義が特徴となった。日本の新右派連合は、新自由主義(経済的自由主義)と国家主義(政治的反自由主義)の2本の柱で成り立っている。これらは合理的に結び付いたというよりは、野合に近い矛盾だらけの論理を超えた不合理なカミュ的怪物である。とするとこの二つを陰で支えているのは理念・信念などではなく、自己利益と自己保全を追求するアクターの取引において、誰が利益を受けるか、誰が支配するかという「リアリズム」以外には考えられない。マキャベリスト達が政治寡占エリートととして首相官邸を占拠している姿が見えてくる。つまり強者の理屈がまかり通る世界である。市場や社会における富裕層や権力者にフリーハンドを与えて鼓舞するシステムである。そのためのレトリックやパフォーマンスがメディアを通じて国民の前で繰り広げらている魑魅魍魎の世界(政財官エリート)である。その利害を共有するグループとは誰だろうか。新自由主義的経済的な利益の受益者はグローバル企業エリートであり、国家主義アジェンダにより権力の掌握を強固にするのは保守統治エリートである。その構図はアメリカのパワーエリート特に共和党エリートに顕著である(1%の富裕層が富を独占する)。新自由主義が欲望を刺激する消費文化を煽れば、国家主義がナショナリズムを煽って階層間矛盾から目をそらすマッチポンプ的な相互補完作用である。ここで自由主義の由来は、ジョン・ロック、アダム・スミス、ミルらを祖とする西欧の合理的な思想潮流であった。ジョン・ロック著 加藤節訳 「完訳 統治二論」(岩浪文庫)や、J・S・ミル著 塩尻公明・木村健康訳 「自由論」(岩波文庫)、アダム・スミス著/大河内一男監訳 「国富論」(中公文庫)などが、古典的自由主義と呼ばれている。そしてケインズからハイエクの自由主義に移った。広い意味での自由主義の政治経済的意味はこれらの書物によるとし、ハイエクの古典的自由主義が、今日新自由主義と呼ばれること自体が、自由主義の変質を示している。日本の新右派連合の変容も、新自由主義が先行したがどこかで国家主義が紛れ込んできたときに始まる。中曽根や小沢の国家主義もまだ復古主義的傾向は抑制されており、未来志向的の国際協調主義的な面が強かった。しかし利益協同体のコンセンサスを重視する自民党戦後体制(55体制)は1990年代半ばに瓦解すると、旧勢力の破壊のために権力の集約化が始まり官邸機能の強化体制に替わった。それが歴史修正主義に導かれる復古主義的な国家主義に変質したのである。それ時を同じくして自由市場や自由貿易を看板にしている新自由主義が、ひたすらグローバル企業の自由の最大化すなわち寡頭支配の強化に変質した。こうして政治の自由化として始まった新右派転換がいつしか「反自由の政治」に変質を遂げたのである。これを富を独占した者の腐敗堕落のプロセス、社会崩壊へのシグナルと解することができる。さらに右傾化は、アメリカとの関係でいうと、さらなる米国隷属(植民地)化に向けての国内社会の地ならしと理解できないだろうか。米国が戦前のような軍部独裁になった日本の反米独立活動を見逃すわけがない。アメリカに対して牙をむく日本は絶対に許さない、それが日本の降伏(ポツダム宣言)の条件であった。とすれば、その範囲内で安倍がアメリカの犬として権力をふるうのは見逃すだろう。アメリカに協力する体制すなわち右傾化を推進したのはアメリカの支配層であったと言えるかもしれない。この辺はさらに詳細な検討が必要である。右傾化運動が反米であった試しはないということが隠せぬ証拠になる思うのだが、結論は先にペンディングしておこう。

(つづく)
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読書ノート 中野晃一著 「右傾化する日本政治」 (岩波新書2015年7月)

2016年08月29日 | 書評
安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として、政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える 第2回

序(その2)

右派の質的転換とは、政策面のみならず格差社会、市場原理、個人の権利や自由の制限、日米安保条約の米側の要求の対応、近隣外交と歴史修正主義への変化を改革と標榜することに現れる。右派とは「不平等や改装間格差の是認」、「国家による秩序管理の強化」、「軍事力による抑止重視(積極的平和主義)」、「歴史修正主義(大東亜共栄圏の正当化)」とみて、左派とは「平等志向・個人の自由尊重・反戦平和・植民地の反省と謝罪」という価値感で位置づけた政治座標で捉えてきた。この考えは国際的にも受け入れられている。中曽根から始まる右傾化はその流れにあることは事実である。それでも日本政治はまだまだ左にあるので「改革」の必要があると叫ぶ人もいるわけである。現在は十分右に傾いていると思うなら、安倍政権の復古主義は「極右」となる。新右派転換によって政治座標が右にシフトする傾向は、日本のみならず過去30年ほどの世界的な潮流にあると言える。そもそも「新右派(ニューライト)」という言葉はマーガレット・サッチャーが1979年イギリス首相に就任し、ロナルド・レーガンが1981年アメリカ大統領に就任してから1980年代冷泉末期の保守政治家を指して使われ始めた。むろん日本の中曽根首相も3本の指に入る。伝統的な勝ち規範や社会秩序の復権を声高に提唱し、規制緩和や企業減税で企業の経済活動を自由にする経済政策の文脈では「新自由主義」とも呼ばれた。又軍事力増強で共産圏に勝つことではタカ派的な安全保障政策を追求した。サッチャー首相は戦後イギリスの「コンセンサス政治」(合意政治)が自立心を奪い国力の衰退を招いたと攻撃した。フォークランド紛争や炭鉱須知来期には軍事力や警察力を動員して対処に当たり、国営企業の民営化、ビックバンなど証券規制緩和、人頭税の導入を行い、階級間妥協のの必要性を説く「国民統合派」を弱虫と軽蔑し、政敵を駆遂した。サッチャーの後を継いだメージャーを含めて17年間(1997年まで)保守党政権が続いた。トニー・ブレア―労働党政権で左方向の修正が行われたが、右派の「改革路線」を継承したものであった。アメリカにおいてもレーガンの後を継いだブッシュ(父)が1993年まで共和党政権を維持した。ビル・クリントン民主党政権が中道に部分的に揺り戻したが、新右派を覆すというのではなく、経済的には新自由主義政策の下で国民の期待を一部代弁したに過ぎない。このように新右派転換は世界的に展開しているが、選挙制度としては小選挙区制を用いる英米によってグローバルな新右派転換は推進されてきた。さて日本における新右派転換は大きく捉えると「新自由主義(ネオリベラル)」と「国家主義(ナショナリズム)」によって形成されている。新自由主義については、服部茂幸著 「新自由主義の帰結」(岩波新書 2913年5月)に述べられている。新自由主義とは政治面を別にすればミクロ経済学のことである。需要と供給の一致するところで、価格と労働が決まるとする市場主義のことである。労働市場では賃金を下げれば失業はないとする。金融面では、政府は効率的な金融市場には介入してはならないということになる。フリードマンは投機は市場を安定化させると述べたことは有名である。金融緩和をすれば総需要は増加し、インフレが起き生産量は増加する(好況とインフレが共存する本来の関係になる)という。レーガノミクス、アベノミクスとはまさにフリードマンの新自由主義経済学派の忠実な追従者である。政府による需要管理に必要性を論じるケインズ経済学に基づくマクロ経済学(著者の立場)と、市場メカニズムによる需要供給均衡論からなるミクロ経済学で戦後資本主義は動いてきた。しかしマクロ経済学とミクロ経済学には本来整合性はない。市場での選択という自由と、福祉における社会権の自由は違う概念であるのに、新自由主義者は後者の価値を無視し、前者の自由を唯一の自由の定義とした。極論すると新自由主義者の言う自由とは、政府の課税は個人の財産権を略奪する行為であり個人の自由を奪うとまで言う。だから減税を主張するのである。福祉国家は個人の財産を奪うので小さな政府を主張する。福祉国家を否定し、貧困者は国家が救うのではなく、個人の憐れみである慈善事業で救うということがアメリカの文化だという。新自由主義は戦後資本主義を批判して、次の4つの政策を主張する。
①供給サイドの重視:戦後資本主義の総需要管理政策を批判して、供給サイドの改善を主張する。しかし産業政策ではなく、市場の規制を緩和し減税をすることである。労働の非正規化や低賃金化をもたらした。
②金融の自由化:戦後資本主義の金融システム規制政策を批判して、金融市場の自由化を主張する。バブルと投機資本による金融危機を招いた。
③富の創出(トリクル・ダウン):戦後資本主義の福祉国家政策を批判して、富の分配よりは富のトリクルダウンを期待した。スーパーリッチへの富の集中となった。
④市場の自由:戦後資本主義の福祉国家による経済活動への介入政策を批判して、市場の自由を主張した。小泉政権の構造改革は民営化路線と格差拡大であった。
 新自由主義の政治面では、小さい政府に象徴される福祉の削減、個人責任への移譲だけでなく、「内閣機能の強化」が極めて重要になってくる。強い国家を目指すために。議会民主制の尊重よりは「決断の政治」に傾きやすくなる。統治の効率化のために中央集権がますます強くなる。既得権や合意形成型の政策決定(55レジーム)から、抵抗勢力の排除と中央独断専行の政治(エリート支配層の寡占支配)へと移行してきた。政治改革の名の下に導入された小選挙区制は政権交代可能な2大政党形成へと動いた。これが新自由主義的な民主統治の理想として掲げられた。

(つづく)
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読書ノート 中野晃一著 「右傾化する日本政治」 (岩波新書2015年7月)

2016年08月28日 | 書評
安倍政権の復古主義を、新自由主義の帰結として、政治の右傾化と寡頭支配の中で捉える 第1回

序(その1)

本書を読んで、安倍第2次内閣の急速な右傾化政策は彼個人の信念によるものか、それとも時代の流れによるものか、時代の流れによるとすれば右傾化を推進する原動力はなにかについて、初めて正面向った議論を聞いた気がする。右傾化は1980年代に始まる新自由主義の世界的潮流の特徴であり、1990年ごろの東欧とソ連邦の崩壊による冷戦構造の消滅によって一層加速されたとされる。それは「資本主義の勝利」という歴史的ターニングポイントを経て、グローバル(全世界的)資本主義の時代に超独占資本の寡占支配が確立すると、政治と経済(労働と生活)の全面で右傾化が進行した。日本では中曽根、小沢、小泉、安倍が右傾化の代表選手といわれるが、中曽根の時代は保守本流に縛られて口ほどには右傾化は進まなかったが、バブル崩壊後のデフレの中で保守本流の55体制が弱体化し、湾岸戦争、9.11アフガン戦争・イラク戦争をへて小泉時代から破壊的に右傾化が進行した。その流れを受けて安倍政権が右傾化を促進したということになる。では安倍という個性の問題かというと、ヒトラーが政権を奪取してナチスというファッシズムを作ったことをヒトラーという個性の問題に閉じ込めて反省しないのと同じ過ちを犯すことになる。ドイツを取り巻く第1次世界大戦後の世界情勢とドイツ経済の要請がヒトラーを生んだと言わなければならない。連合軍の勝利もヒトラーの殺害で終わるのではなく(中東の戦乱がラディンやフセインの殺害で終わらなかったように)、そのまえにドイツ社会経済そして軍部と産業の徹底破壊によって得られた勝利である。安倍が怪物か名門お坊ちゃん政治家かどうかは知らないが、安倍がいなくても誰かがやったに違いない。名門三世政治家はパワーエリートを自任する寡占エリート(少数の支配的指導者と官僚機構)に取り囲まれているに過ぎない。しかもそのエリートたちは経団連の言いなりであるとするならば(まだ日本では軍部エリートが重要なアクターでないことは不幸中の幸いであるが)、結局右傾化推進の原動力は財界(超独占企業家)ということになる。そもそも昔も今も企業内に民主主義がるわけではない。企業を支配しているのは激烈な才能競争(市場原理)とパワーハラスメントの忠誠のみである。社会生活で自由と民主主義を謳歌しても、「企業に入ったら民主主義もへったくれもない」といわれる。その同じ原理を社会に要求するとすれば効率のいい社会となるという理念は、必然的にファッシズム支配が最高に効率のいいシステムにつながる(アテネの民主制よりスパルタの軍事独裁制が強力であったように)。だが寡占エリート独裁制になったらすぐに腐敗し、民衆の支持はなくなる。社会構成員(人民)から常にコントロールを受けない体制(西欧的王侯貴族性、東洋的皇帝・天皇制、ドイツ的ファッシズム・軍部独裁制)の腐敗・転落は早い。しかしどうしたら右傾化を阻止できるかについては本書は答えていない。これらの問題はロック、ルソー、トクヴィルらの政治学の永遠の課題である。詰るところ人民の支持にもとずく政治を目指すことになるが、選挙制度、議会民主主義、3権分立などの諸問題に解答をしなければならない。以上のことが本書を読んだ読後感のまとめであるが、今しばらく本書に則って著者中野晃一氏の論拠をたどってゆこう。2012年12月安倍晋三が第2次内閣を組んで以来、その復古主義的な政治理念から、日本の軍国主義化を懸念する声が上がっている。その歴史修正主義的な政治家が今や自民党の主流をなし、公明党、維新の会、民主党の一部にも見られることはこれまでみられなかった事態である。本書は日本政治が大きく右傾化しつつあるという立場をとる。その右傾化プロセスは過去30年ほどの長いスパンで進行しつつあったと見ている。その結果が安倍内閣の集団的自衛権容認閣議決定と安保法制国会審議という政局となった。その特徴は国民の声を聴かずに右傾化が政治主導(政治エリート主導)で進められていることである。右傾化は今回が初めてではなく、30年来の繰り返し的な政治的運動の結果である。そしてこうした右傾化の本質は「新右派転換」という自民党主流派の変質であることだ。一部の突出した政治家の暴言ではなく、自民党政策の主流として現れていることが大きな特徴である。

(つづく)
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読書ノート ゲーデル著 林晋・八杉満利子訳・解説 「不完全性定理」 (岩波文庫2006年)

2016年08月27日 | 書評
ゲーデル

数理論理学の金字塔 ヒルベルトの形式主義数学との論争史 第13回 最終回

6) 不完全性定理のその後

ゲーデルの不完全性定理によって終止符を打ったのは、ヒルベルト計画すなわち数学の基礎づけについての認識論的問題への挑戦である。数学としての数学基礎論はむしろゲーデルの定理をパラダイムとしてゲーデル以降に始まったのである。ヒルベルト計画とゲーデルの定理が後世に与えた影響、歴史的意義を考察して最後の章とする。ゲーデルは1933年アメリカ数学会での講演「現在の数学基礎論の状況」で、有限の立場による無矛盾性の可能性を、第2不完全性定理から否定した。超数学を形式系の中で実行するというゲーデルのプランは斬新であったが、ブラウワーの直感主義数学を使う超数学はそのままでは形式化できなかった。ノイマンやエルブランはその経験から有限の立場から無矛盾性の不可能性を実感したであろうが、まだ若いゲーゲルには彼らの無矛盾性は不可能という結論には俄かに同意できなかった。1933年の講演で、厳密な意味での有限の立場による無矛盾性の可能性を否定した後、直感主義に置き換えた場合の無矛盾性証明の可能性を検討した。直感主義的に思考することが、数学の安全性保証という問題にはほとんど意味がないことに気が付いた。こうしてゲーデルは直感主義をも捨て去った。ゲーデルは1938年ウィーン学団での不完全性定理の講義で、ヒルベルトの無矛盾性証明の目的は、A:数学の全体を、極小さい部分に縮小すること、B:数学理論を確固たる基礎に還元することにあったとしたうえで、Aは第2不完全性定理で否定されたが、Bの可能性は損なわれたわけではないとした。Bの高階関数による無矛盾性の証明は20年後ゲーデルによってなされたのである。ゲーデルは講演でBに希望を託したのであるが、多くの数学者が「構成の理論」として研究されたが、現在に至るまで万人が納得するような還元先は見つかっていない。ゲンツェンやゲーデルの無矛盾性証明は、第2次世界大戦後、主にドイツ、アメリカ、日本を中心に発達を遂げ、1960-70年代にかけ重要な成果が得られた。ヒルベルト計画が残した形式性の概念は、情報科学に与えた直接・間接の影響は量り知れない。ヒルベルト計画前の公理的集合論は決して明確な体系とは言えなかったが、計画後ンは数学者の中で解釈の差はなくなっていった。「通常の数学」の議論のほとんどが、公理的集合論に還元されることも経験的に確かめられた。ゲーデルが言う「確固たる基礎」に集合論を選ぶという選択は、哲学に興味を持たない数学者にとって抵抗感はない。共通言語としての集合論に、認識論的な安全性などは求めていないし、集合論が数学の本質であるとも考えていない。集合論は数学を記述しやすいツールである。このことは第2次世界大戦後に公理的集合論を数学の基礎の実質標準とすることに貢献したフランスの数学者集団ブルバキの見解がそれである。ブルバキは「未来においてそれが破たんしても、数学はまた新しい基礎を見つけるだろう」という。ゲーデルはヒルベルト計画の失敗は、本来超越的な信念でしかない無限の世界を、正反対の有限的・懐疑的な方法によって正当化しようとしたところにあると考えた。数学の不可侵性を実証しようとするヒルベルトの夢想は終焉したが、ゲーデルの定理は手法的にはヒルベルトの延長線にあり、形式系としての公理的集合論はヒルベルト計画の一部であった。数学が形式化され、数学の対象となったのちには、数学の基礎は数学として研究できるのだ。ゲーデルのBの研究も数学なのである。我国で「数学基礎論」と言われる学問は、海外では「数理論理学」と呼ばれ、数学の基礎というよりは、論理の構造、数学の論理構造などを研究する数学の一分野である。不完全性定理の兄弟ともいわれるチューリングの決定不能性定理を通して、ゲーデルの定理は人工知能などの情報科学にも大きな影響を与えた。現在では数理論理学は、証明論、再帰性関数論(計算可能性)、構成的数学、モデル理論、公理的数号論など多くの分野に別れて高度な発展を遂げた。また計算機科学への応用も行われた。ヒルベルト計画の推進者・反対者の勝敗はともかく、数学的成果の生産性の問題で直感主義は問題とならなかったのである。1967年ビショップ(1928-1983)は排中律、非可述的集合論、ブラウワーの原理のいずれも使わないで解析学の非常に大きな部分を再構成した。これをほかの分野にも広げていった。これをビショップの構成的数学という。20世紀初頭までの数学では排中律、非可述的集合論はめったに使わないで済んだ。だから無限算術化を行おうとするとつまずくのである。ブルバキによると排中律、非可述的集合論が必要な部分の多くは、集合論という数学記述言語に依存する部分で発生するが比較的少ないという。逆にいうと排中律、非可述的集合論が必要なのは、主として無限算術化における概念、例えば実数の基本的性質を証明する時なのである。そこでビショップは必要な時は実数をご都合主義的に定義してしまえばいいとまでいう。無理数や超越数など実用例ではビショップの「定義強化路線」でやって矛盾はないのである。こうした数学を「逆数学」とよび、数学のかなりの部分が厳密な意味での有限の立場と同等の体系で実行可能なのである。逆数学はヒルベルト計画の部分的達成ともいえる。論理と数学は、人間尾知的活動の内で、最も形式化を行いやすい分野である。形式化の恣意性や不確実性をまぬがれることはできない。また工学や応用科学などの分野では、形式化の不完全性こそが独創の源になっている。数式を扱う天才物理学者ファインマンも前提条件の吟味よりもまず適用してみよという。今不完全性定理を真剣に受け止めようとする数学者は極めて少ない。一般の数学者の多数派は数学の不完全性に悩まされることはないことが普遍的な事実である。

(完)


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