ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書

2014年11月30日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと  第22回

9) 第8章 「西洋文明の由来」 (その1)

 『福沢はヨーロッパの文明史はフランスのギゾーから引用したという。ギゾーによると西欧文明の特徴は諸説紛々で一として纏まるものがないということである。政治、宗教、貴族制、神聖政府、立君制、民主制などの説が並立して、各自自主自由の様相であることだ。ヨーロッパ文明史をローマ滅亡後から簡単に振り返る。ローマ帝国は4世紀より衰微し、ゲルマン民族が侵入して帝国は分裂し西ローマ帝国は滅亡した。8世紀に一時フランク王国がフランス・イタリア・ゲルマンを統一したが一代限りで分解した。4世紀から10世紀までをヨーロッパ暗黒時代という。いわゆる中世である。その間に勢力を拡大したのがキリスト教団で、教権と俗権を併せ持った。暗愚蒙昧の時代にキリスト教は大衆の心理を占領した。ローマ時代の都市国家の市民会議の伝統が残るところでは民主制が芽生えていた。ローマ滅亡後各地の諸侯が乱立し後世の君主制のもとになった。ゲルマン人の野蛮は一切の権威に服することなく自由独立の気風が養われた。暗黒時代が過ぎ10世紀から16世紀は封建割拠の時代となった。国に君主はいたが名目のみで、国内は武人によって割拠領土に分割され、自由な人間は領主貴族のみで、国法なく人民の議論もなく、専制を制する力は存在しなかった。12世紀から13世紀には庶民の身体は王侯貴族の制約(俗権)を受け、精神の働きはキリスト教の圧迫(教権宗教)を受けた。このころに宗教の権力が最大となったといえる。都市国家においては商業が盛んとなって城壁を設けて一種共和国の態をなしていた。13世紀にはヨーロッパの自由都市は同盟を結び、王侯貴族政権と対抗して兵を持ち法を作って独立国を謳歌した。これは欧州の民主制のもとになったといえる。15世紀フランスのルイ11世が貴族諸侯を圧倒してブルボン王朝を開き絶対王政が開始された。この時代は王は第3勢力(有力市民)を利用して貴族を没落させ、全国統一の中央集権国家の形成に向かった。1520年ルターの宗教改革によりプロテスタントという宗派が生まれた。この宗教論争は人民自由の気風を反映して文明進歩の兆しとなった。1649年イギリスでは清教徒革命がおき一時王政は廃止されたが、以降は君主政府の態を改め、自由寛大な君民同治の政体となった。英国議会内閣制の政治は漸次改革の風を生み、政権は安定し文明が多いに進んで、自然科学の進歩により産業革命の道に邁進した。フランスでは1643年ルイ14世が即位して絶対王政の絶頂期を迎えた。18世紀になってルイ15世の時代は王政が衰微し、無力無法の政治退廃の時代となった。政体が腐敗するころ啓蒙思想、自由主義思想がすべての学問を改革した。人民の智力が生気を増した時期であった。』

 8章「西洋文明の由来」は、丸山氏の著書では第14講「ヨーロッパ文明の多元的淵源」、第15講「ミドル・クラスの成長と英仏二大革命の背景」の二つの題目に別れます。では第14講「ヨーロッパ文明の多元的淵源」に入りましょう。丸山氏はこの第8章「西洋文明の由来」は次の第9章 「日本文明の由来」を際立たせるための伏線にすぎず、第9章と第10章が福沢諭吉著 「文明論之概略」の結尾であり、福沢の大面目である「主権的国家の形成」の結論的命題を構成しているとの見解を示します。第9章が「権力の偏重」という独特の大命題でもって日本の1千年を超える歴史を裁断します。それは日本の文明と社会についての共通する特徴であると提起するのです。むろん福沢は歴史家ではありませんので、第9章は系統的に日本尾歴史の由来を説くものではありません。そして第8章「西洋文明の由来」はもっぱらギゾーの文明史からの引用でなっています。ギゾーはヨーロッパの近代文明の基本的特徴を古代文明(古典的ギリシャ文明)との対比において捉え、古代文明の単一性(完成形)に対するヨーロッパ文明の多様性(発展性)で捉えます。多くの社会的要素がふだんに変化し闘争するからこそ、ヨーロッパ社会と文化の豊穣と非停滞性をもたらしたという見方です。福沢はギゾーの文明史観に根底から動かされ、それを日本の伝統的な社会と文化に対するイデオロギー批判の根拠としました。ギゾーはフランスの7月革命から2月革命の間の王権復活時代に活躍した政治家でもありましたが、福沢らはそういう政治的評価抜きに維新直後から、ギゾー、ミルやスペンサー、トクヴィルらの影響を受け、日本の知識人に紹介しました。ギゾー(福沢)の歴史解釈は歴史学の体裁を整えてはいないかもしれない。ある独断(命題)で歴史を一刀のもとに裁断することは我田引水のイデオロギー的手法でバランスのある歴史理解ではないだろう。しかし福沢が維新直後の日本のおかれた状況から、喫緊の行動に立ち上がるには十分なスプリッツを得たようである。西洋の文明は4世紀末の西ローマ帝国の滅亡の混乱と闘争に始まったという。東方から独立不羈の蛮族ゲルマン人の侵入(独立精神と忠誠心)、ローマ時代の自治都市システムの市民会議(自由精神と貿易商工業の発展)、中世の封建貴族諸侯の乱立から絶対王権の成立(王権秩序と隷従)、キリスト教の教権から宗教革命と云う多様な観念が併存したことが、ヨーロッパの近代化へ導いたということである。各要素勢力の解説は「帯に短し襷に長し」程度で、取り上げて言うこともないので省略する。要するにギゾーの史観のポイントは「多元的な組織原理」であり、福沢はここから「自由は多事争論にあり」という命題を引き出したのです。

(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書

2014年11月29日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第21回

8) 第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」(その3)

 つぎに第13講「どこで規則が必要になるか」に入りましょう。ここは徳と智の通用する領域を区別し、かつ社会において規則がなぜ必要となるのかを述べます。徳義が成り立つのは家族肉親の中だけです。兄弟は他人の始まりという諺からいうと、家族の中も怪しくなります。無償の愛が通用するのは親子のみでしょうか。徳義の領域には限界があります。福沢は社会問題のすべてが徳義で解決されるという建前が支配している社会を前提として、これを打ち破る議論を展開している。家族と社会の区別を具体的に検証してゆきます。家制度や民法は省略します。家を一歩出ると親戚を含めて社会です。古来社会には本当は利害で結びついている君臣の情宣や「お家」(藩)を中心とした党派心を、福沢は徹底したイデオロギー暴露を行います。ですから社会に出ると徳義だけではどうにもならないことだらけです。そこで規則が必要となります。ロックは「社会契約説」によって、ロバート・フィルマーの家父長的な政治理論に基づく王権神授説を否定し、自然状態を「牧歌的・平和的状態」と捉えて、公権力に対して個人の優位を主張した。自然状態下において、人は全て公平に、生命、健康、自由、財産(所有)の諸権利(固有権)を有するという自然法に従うと唱えた。トマス・ホッブズ(1588-1679)がいう『万人の万人に対する闘争』や外国勢力の侵略に対して、自然法だけでは対応不可能であるので、諸国民の同意によって政府は設立されるとした。立法府ー政治権力は諸国民の固有権を守るために存在し、この諸国民との契約によってのみ存在する。我々は我々の保有する各個の自然権を一部放棄することで、政府に社会の秩序を守るための力を与えたのである。言い換えれば、政府に我々の自然状態下における諸権利に対する介入を認めたのである。政府が権力を行使するのは国民の信託 によるものであるとし、もし政府が国民の意向に反して生命、財産や自由を奪うことがあれば抵抗権をもって政府を変更することができると考えた。トマス・ホッブズやジョン・ロックの社会契約説が中世から近代への突破口となった理由は、『国家権力(社会規範)が、神から王(権力者)へ授与される普遍的な権力(規範)ではなく、人民の相互的な契約によって人工的に創作されたものであり改変可能なこと』を自然状態の理論モデルを通して合理的に説明したからです。福沢は維新直後においてこうした近代法的な考えを持っていました。福沢はこれを「国法」といい、「世の文明を進めるには、規則を除いて他に方便なし」といい、「法の支配」は文明の重要な要因であるとしました。「今日は人民、法を設けて政府の専制を防ぎ、自らを保護するにいたれり、一国の文明を進め、その独立を保たんには、唯この一法あるのみ」と第10章の「自国の独立を論ず」を先取りしています。また経済道徳にも規則が必要で(商法)、卑怯な方法で儲けることは長続きしない、信用の世界を築くために契約や規則があり、悪徳商人を取り締まるのではなく、市場を成り立たせるために規則がある。

(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書 上・中・下

2014年11月28日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第20回

8) 第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」(その2)

第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」は、丸山氏の著書では第12講「畏怖からの自由」と第13講「どこで規則が必要になるか」という2つに別れます。
まず第12講「畏怖からの自由」に入りましょう。ここは統治の歴史を時間軸で述べています。前章で智徳の違いを述べたが、人間の行動様式が複雑な段階になってくると、その時々に応じた状況認識が必要となり、昔は簡単な道徳律で済んでいた問題が知性の問題になってきます。その時々場所での状況認識(時代と場所)を考えると、便利ともいえるし不便とも見えるということは、福沢の基本命題の一つでした。あくまで条件付きの善でしかない。道の議論ではいつも「一貫」が強調されるが、「古来の歴史において人の失策はと称するは、悉皆この時と処とを誤りたるものなり」という。公式主義を排し、実用主義で判断してゆくことは日本人の得意とするところで、しかし度が過ぎると「ご都合主義」になります。ここから太古の歴史になりますが、未開の時代では自然の聖霊に対する恐怖と祈祷が人々の心を支配していました。すこし人智が進んで、政治権力が発生すると権力者への恐怖と喜悦が中心となった。統治者の神格化、君主の天命説のような虚飾がはじまり「周唐の礼儀」と言った儒教の「仁政主義」が説かれた。これを福沢は「野蛮の太平」と呼ぶ。統治者は治水や道路といったインフラ整備を行い生産力強化に努め、人民には道徳律で治めることが仁政と言われた。さらに人智が進むと、利を図り害を避ける工夫をめぐらすことができるようになり、懐疑の精神と知性による制御の時代となる。懐疑精神は科学の発展と社会の合理的体制に向かい、人が自然を畏れなくなることを福沢は「人をもって天を使役する」といい、知性の勇気と呼んだ。自然のコントロールが可能になると、今度は人事社会の合理化に勇気が向けられました。政治権力のコントロールという時代になったのです。「暴威に基きたる名分もこれを倒すべし。「理をもって暴を制するの勢いは、地位に上下あることなし、政府と言えど畏るべからず」というように人民は自然と権力からの自由を獲得する。「政府は政府なり、我は我なり、一身の私については政府の嘴を入れしめんや」という私権の自由主義思想は福沢の基本命題です。しかし民主主義については民力が弱すぎる段階において、政府と人民の同権という段階には福沢は到達しませんでした。福沢の思想はアメリカの自由主義者に近く、自由と独立を尊重して他人の世話は受けないという福祉国家反対論のようでした。そして最終的なユートピアでは「文明の太平」が訪れることも夢みていました。

(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書 上・中・下

2014年11月27日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第19回

8) 第7章 「智徳の行われる可き時代と場所を論ず」(その1)

 『文明は歴史的なものであって、智徳が時代と場所を選択して効能を発揮する(TPO)という意味ではなく、智の働きが極めて弱かった時代と智の働きが旺盛な現代とわけて智徳の働きの特徴を表わし、家族と社会という場所において智徳の働き具合を論じることである。事物の得失・便不便を論じるには、一様にかつ不変として論じることはできない。それぞれ「一時一所」で、それぞれに理由が存在していたというべきである。まず時(歴史)についていえば、野蛮からようやく出始めたころ、人の心を支配していたのは自然に対する恐怖と喜悦であったという。おおよそ天地に間にあるものすべて鬼神の動かすところと信じていた。日本においては八百万の神というところである。このことは自然だけではなく人事(社会)においても然りであった。弱いものは強大なものに依頼し、それを酋長という。酋長は腕力があり、いくらかの智恵があるので弱いものを保護して人望を得ていたが、いつしか特権を握りついには世襲で村長(族長、君長)の地位を伝えた。君長の恩威と愚民の支配が確立すると、すべては君長の恣意的な心が決定することになると、善・不善が半ばし、人民はこの処置に恐怖と喜悦するだけの存在となった。故に一国の君主は偶然の禍福の源となって、君主は人民を超越する何者かに転化した。中国の太古の昔、堯舜の時代には君主一人の働きをもって、父親、教師、鬼神の役割を演じた。仁君明天子の誉、無為にして恩威を垂れる存在であった。これを「唐虞三代の治世」という。恩威と暴威が背中合わせの時代には、ただ徳だけが社会の理想であった。そして人智がようやく開け進歩して科学の法則を探究する時代となると、人が自然を支配できることが分かり、人は身体の束縛を脱し、精神の自由を得て、暴力支配から合理的(道理)支配に進むと、民衆の力が暴威を制する時代となった。従って政府と人民の力関係も一方的な従属関係を脱し、対等もしくは社会契約的な職分の関係となった。君主制のからくりが分かると恩威に萎縮することは無くなり、代議士と言えど公僕であると考え、政府には税金を払ってこれを支え、人民の福祉に答える存在となった。政府は外国の侵略を防ぎ、世の中の悪を止めるだけの道具ではなく、社会経済的事物の順序(秩序)を法によって保証し、効率的なサービスを行うべきものとなった。これを「文明の太平」と呼ぶ。次に文明の時代に徳義が行われるべき場所を考えよう。結論から言うと徳義が行われるのは家族という骨肉の場所だけであり、人の交際(社会)の場所においては、徳とは縁のない約束事が支配する場所に変わる。友人関係、君臣関係などは歴史的に変幻きわまりないところで、裏切り・反逆・殺戮が常態化していて、徳義が一貫して行われたためしはない。徳が通用しているのは家族内のみで、外に出れば徳の力は急速に失せるのが人情である。代って約束・規則が最重要な戒めとなる。証文、法律、条約などは悪を防ぎ善人を保護するために作られる。規則によって社会関係を整理する際には、個人間の信用など徳義のことは一切度外視される。信が破られた時を想定し損害を補償する新たな信用関係を築くものである。ここに規則とか法律の目的が設定される。規則は悪を防止するものであるが、世の中の人が全員悪人であるわけではなく善と悪が混合しているから、善人を保護するため定めるのである。政府と人民の信頼関係を保証するため、規則煩雑な法の支配を受け入れることが、一国の文明を進めその独立を保つために避けて通れない方向である。福沢は「法律蜜にして国に冤罪少なく、商法明にして便利をまし、会社法正しくて大業を企てる者多し。租税の巧みにして私有財産を失うもの少なし。・・・万国公法も粗にして遁る可しといえども殺略を寛にし、民庶会議・著書・新聞は以て政府の過強を平均すべし」と締めくくった。』

(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

読書ノート 丸山真男著 「文明論之概略」を読む 岩波新書 上・中・下

2014年11月26日 | 書評
福沢諭吉の最高傑作を、政治思想史学者丸山真男が読むと 第18回

7) 第6章 「智徳の弁」(その2)

 第6章「智徳の弁」は、丸山氏の著書では第10講「知的活動と道徳行為のちがい」、第11講「徳育の過信と宗教的熱狂について」に別れます。まず第10講「知的活動と道徳行為のちがい」に入りましょう。第6章もバックルの文明論に触発されたテーゼが出てきます。現在では理解できないが、明治初期には支配的観念が儒教に基づいた道徳主義というか、社会問題のすべてを道徳の問題にする考えが強かったそうである。現在の科学主義の時代からは想像もできないことであるが、そこで福沢はまず智(知性)と徳(モラル)を分けて考えようと提案します。智徳の分類についてはばかばかしいので省略します。福沢は相手の儒教の論理を丁寧に論破してゆきます。なぜ煩わしいほど丁寧なのかは、流通する観念に従って説かないと相手には通じないからです。智徳の分類については現在ではばかばかしいので省略します。徳の中には普遍性のある徳がありそれが問題なのではなく、本来は政治社会問題なのに個人に還元された徳目の弊害があまりに強いこと現状認識として提出し、これでは解決にならないし全体としての文明化の妨げになるといいます。福沢は内に存在する徳と、外へ働き掛ける智を5つの基準を使って分別します外的環境との関係において利害得失を判断するのが智のレベルです。外的環境が絶えず変化し深化するプロセスでは、智の活動は一刻も休むことはできません。福沢は「智者、もし無為にして害物に接することなくば、これを愚者と名づくも可なり」といい、智と徳の第1の違いだと言いました。そして智は国全体を変化させ影響範囲は無限だが、徳は個人にだけしか及ばないこれを第2の違いだといいました。第3の違いは、普遍的徳は古からほとんど変わらない(宗教の戒律がどこでもほぼ同じことをいう)が、智の活動は不断に進歩し蓄積されることです。第4の違いは徳は教えることができないし、形がないから偽善者もまかり通る事ですが、智は形をもって教えることができ、次世代の人はそこからスタートできるのである。第5の違いは徳は一身の工夫で、他人から伝習することはできず、一瞬で悟ることができるが、智の発明は積み重ねの結果であることです。現在自民党の保守派政治家は事あるたびに「道徳教育」を学校に持ち込もうとしますが、何を教えるのでしょうか。禅のような悟り教育をするのでしょうか。いや違います、二宮尊徳の代わりに皇国史観のような保守的イデオロギーを教え込もうとしているのです。そしてすめらみことのために死ねというのが本音でしょうか。あほらしい、明治以前(福沢以前)に戻りたいのでしょうか。

 次に第11講「徳育の過信と宗教的熱狂について」に入りましょう。明治初期には「道義退廃論」の悲憤慷慨が盛んであった。福沢はそれにたいして「何ぞそれ狼狽の甚だしきや」と一蹴しました。福沢は植民地化の恐れに対して人民の文明化をもって語ります。しかし道学者に悲憤慷慨の極端主義については根拠なしとして批判します。尊王攘夷論が暴走したように、憶測が恐怖を生んでいるだけだといいました。政治的思考様式の極端主義をも生みました。見ざる・言わざる・聞かざるの堪忍の徳義では事態に対応できないことは明らかです。そこからは社会的停滞しか生まない。文明は人間の活動を多様化し活発にすることだという福沢の根本的なテーゼは、遠回りに見えて確実な結果を生むという確信を持っていたのです。太平等戦争末期には物資が枯渇し、精神論だけの「竹やり主義」、「特攻隊精神」、「人間魚雷」、「防空訓練」など、極端主義的思考では状況認識のレベルも捨て去りました。後の頼りは神風だけでした。次に道徳教育を過信するとどうなるかを示します。徳教論者の趣旨は結局、受け身の「べからず」主義となります。忍難の心などは必要な時もあるのだが、この教のみでは人生の智の力が退縮し、抑圧された心は再び伸ばすことが難しくなるのです。智性は外的環境にたいする能動的な働きかけが本来の姿です。福沢はどちらかというとキリスト教批判が強い面を持っていますが、キリスト教の教義にはほとんど触れないで、主として宗教の社会的関係だけを批判しています。宗教に関してはバックルの論をそのまま採用している。ルネッサンスの知的活動が契機となって宗教改革も実行された。宗教も文明進歩の度合いによって、変化するものであるという見解である。福沢は宗教的熱狂を罵倒して「拝むだけの輩にとって、耶蘇も孔子も釈迦も大神宮も区別あるべからず。合掌して拝むものは狐もタヌキもみな神仏なり」と言いました。徳義・道義が退廃しているから今の国民的危機感があるのではなく、知的活動の格差が欧州と違いすぎるのが問題なのだ。我国の至急の必要性は智恵ではないかと言いました。人民の無気力、士族の無学、皇族貴族の空虚さは目にあまるものがある。これでは諸外国の文明と闘えるものではない。福沢節の絶好調を聞く感がする。最後に水戸学の狂信から、闘争分裂が水戸志士の内ゲバ、迫害、殺し合いを招き、維新が成った時には水戸藩には有為な人材が無くなっていたという。維新後の指導者に水戸藩士が一人もいないのがその結果であるらしい。今も茨城人は「理屈っぽい」、「怒りっぽい」、「飽きっぽい」という三ポイ主義で分裂するのが得意だそうだ。

(つづく)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加