ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 渡辺将人著 「アメリカ政治の壁」 岩波新書 2016

2018年07月31日 | 書評
利益の民主政と理念の民主政のジレンマに、アメリカのリベラルに答えはあるのか 第15回

4) リベラルの混迷と出口探しの行方

4-1) リベラルの系譜)(その3)

エリートと官僚が作る政策と一線を画する草の根の市民運動である。シカゴはそのリベラル市民運動の実験場であった。シカゴのリベラル派は、1940年代のアリンスキーの労働運動に始まる。コミュニティ・オーガナイザーという職業運動指導者を作りだした。かれらが企業や行政、中央政府と折衝する専門家である。後になって彼らが大統領側近の新たなエリートを構成してゆくのである。利害当事者を代表して、時にはロービーイスト、圧力団体となる。1970年以降、地域密着型の草の根政治運動が展開した。その牽引役が「シチズン・アクション」という組織であった。その開拓者がヘザー・ブースであった。活動家を組織して住民運動を起こす手法である。ロバート・クレ―マーが消費者運動の「イリノイ公共行動協議会」を設立し、これがのちの「シチズン・アクション」の中核となる。クレーマーはアリンスキーの労働運動からスタートした。「イリノイ公共行動協議会」の参謀役プログラムディレクターであったのが、後の下院議員ジャン・シャコウスキーである。教会に連帯を求める信仰型オーガナイズを拡大した。1980年代の第2世代の指導員に後のオバマ大統領がいた。市民運動は民主党議員と連帯し選挙応援を行い、ポピュリスト議連(コーカス)を形成した。上院では後の大統領候補ゴアがいた。「シチズン・アクション」の医療政策専門家であったキャシー・ハーウィットは、後にクリントン政権の医療保険改革に貢献した。彼は後のオバマケア実現の絶え役者である。2000年代のオバマ擁立運動の背後には、こうした革新的ポピュリズムのネットワークがあった。ジャン・シャコウスキーはキャシー・ハーウィットのスタッフをオバ上院議員に預け、クレーマーは民主党全国委員顧問としてオバマ再選を指揮した。ヘザー・ブースはシチズン・アクションに代わる「USアクション」を立ち上げ、オバマの支持団体OFAと連携した。1980年代革新的ポピュリズム運動の裏側で民主党を穏健化するグループ「ニュー・デモクラット」が活動した。アル・フロムが1985年民主党指導者会議DCLを創設し、中道化路線を推進し、1992年ビル・クリントンを大統領にして政策実現力(権力)を手に入れた。ビル・クリントンの中道化とは経済成長と国際競争力を重視するビジネスに親和的な政策のことである。lこうしたビジネス寄りによる中道化のニュー・デモクラットは、「ブルー・ドッグズ」という民主党保守派とは支持基盤が異なっている。「ブルー・ドッグズ」は南部農村の中低所得者層が基盤である。キリスト教文化でかなり保守的である。「ニュー・デモクラット」の州知事であったビル・クリントンはリベラリズムを修正し大きな政府ではないが積極的に機能する政府」をスローガンとして大統領選に勝利した。クリントンは1996年の福祉改革法で補助金削減をする緊縮財政と規制緩和による経済の成長で一時的であるが財政収支の黒字化に成功した。この政策は「第3の道」(三角戦略)と呼ばれ、イギリスのブレアー首相にも影響を与えた。1994年クリントンは北米自由貿易協定NAFTAを発効させた。2000年代にブッシュのイラク戦争をめぐって、「ニュー・デモクラット」は民主党指導者会議がイラク戦争を擁護したため、大きな後退を余儀なくされた。「安保に強い民主党」への衣替えに失敗したのである。民主党は分裂し、反戦リベラル派が中道派より多数を占めた。2008年大統領選でイラク戦争反対派のオバマが、予備選でヒラリーを破った。2011年「ニュー・デモクラット」は解散した。オバマ政権は政権発足じ、大型景気刺激策、自動車産業の救済などの成果をだし、さらに中間選挙に向けて医療保険改革に特化したが、この政策は保守派の反発とテーパーティー運動の台頭を招いた。2010年中間選挙敗北後にオバマは突如として中道旋回を行った。ブッシュ減税の2年延長を行い、JPモルガンのチュースを主席補佐官に招き金融界との妥協を図った。またFTA自由貿易路線を取って、TPPへの道を開いた。中道路線は党内リベラル派を失望させたが、「経済政策で中道化、社会問題政策ではリベラル派堅持」という戦略であった。ところがオバマは2011年秋からあっという間に労働者寄りの左旋回を行った。雇用対策公共事業、インフラ整備、金融規制強化、起業企業への税制優遇策など製造業重視の政策に転換した。まさしく「大きな政府」への復活であった。2013年オバマは二期再選をはたして、重要政策を包括型移民制度改革と銃規制法に据えて、一転してリベラルな政策実現を目指した。しかし包括型移民制度改革は全くの空振りで終わり法案を描くこともできなかった。銃規制法も同じであった。政策実行力においてオバマはもはや「死に体」に過ぎなくなった。

(つづく)


読書ノート 渡辺将人著 「アメリカ政治の壁」 岩波新書 2016

2018年07月30日 | 書評
利益の民主政と理念の民主政のジレンマに、アメリカのリベラルに答えはあるのか 第14回

4) リベラルの混迷と出口探しの行方

4-1) リベラルの系譜(その2)
共和党のニクソンは、優遇される黒人層とそれに反発する白人労働者層の間にくさびを打ち込むために、南部の共和党化に力を入れた。アラバマ州知事であったウォーレスは人種隔離政策を南部特有の文化だとして南部白人を民主党から引き離すことに成功した。これが1981年のレーガン政権へと結びついた。1980年代の経済成長の停滞と失業率の増加はアメリカの保守主義全盛時代をもたらし、1988年にはブッシュ父が大統領を引き継いだ。1980年代は民主党の「運動の政治」と「承認の政治」による急激な左傾化は、不景気のため無党派層の離反となった。福音派キリスト教は人工妊娠中絶辺反発から80年代には共和党の有力な支持団体となった。また民主党の反共主義者は「ネオコン」に右傾化した。経済利益にならない層を抱え込むことが共和党の理念の民主政だったとすると、共和党は中低所得層の白人に、自分は中間層なのだと思い込ませる心理的な作戦であった。アメリカのリベラリズムでは保守層は次の3点を特徴としている。①愛国心は強いが、政府は嫌い、②巨大な軍事力を背景とした超大国外交をを維持しつつ、他方では小さな政府を望む、③個人のすべてを神の支配に捧げるといった矛盾をアメリカの保守層は平気で信じている点である。1980年以降保守の共和党とリベラルの民主党の2党に分極したが、全体としてdちらにも一致できない無党派層が増加した。それが大統領選と連邦下院選挙では別々の政党に投票する「分割投票」と政党帰属意識の低下が顕著となった。分割投票率は80年代には34%に達し、連邦上院選挙でも分割投票率は31%となった。政党帰属を明確に示す層は70年代に75%あったものが80年代には60%に落ち込んだ。1960年ー1995年までは連邦議会下院も上院もほとんどの時期において民主党が多数派であった。大統領と議会両院の多数派政党が同じでない限り、大統領は民意を代表しているとは言えない。レーガン大統領が主導する保守派政権が3期12年間続いた80年代でも、「運動の政治」の第2波があった。それを当事者たちは「革新的ポピュリズム」と呼んでいる。


(つづく)

読書ノート 渡辺将人著 「アメリカ政治の壁」 岩波新書 2016

2018年07月28日 | 書評
利益の民主政と理念の民主政のジレンマに、アメリカのリベラルに答えはあるのか 第13回

4) リベラルの混迷と出口探しの行方

4-1) リベラルの系譜 (その1)
アメリカはイギリス移民の植民地政策でスタートし、長い開拓時代を経て誰もが独立自営農民を目指して西へ移動する農業国であった。したがってマルクスが説くような都市型労働者の発達や資本主義の展開はおくれがちで、純粋な階級闘争になりにくく、むしろマイノリティ移民集団との競争と承認を求める闘争が主流であった。黒人奴隷を労働力とする遅れた生産方式で、米国市民はローマ時代と同じように最初から中間層・個人資本家として成長した。個人主義・自由主義・公的な利益再分配を期待することを恥とする文化が育った。西部開拓時代に石油や鉱物資源を発見したり鉄道事業で成功する人々がいわゆる米国エスタブリッシュメントを形成した。ビジネスにめっぽう強い企業家だけでなく、世界最大のアグリビジネスや農産物輸出国となったのである。敬遠なカトリック教徒が多いのも、ミレーの「晩祷」の絵画に描かれるとおりである。しかし1929年の大恐慌をきっかけに市場に政府が介入し、富を再配分する政策で切り抜けようとした。フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策がそれである。古典的な自由主義とは異なる「大きな政府」の立場が「リベラル」と呼ばれるようになった。ニューディール背作は、失業者の救済(雇用の拡大事業)、経済復興、改革を三つの柱としていた。テネシー渓谷開発公社は政府事業であった。社会保障法が制定され、失業保険や老齢年金などが連邦レベルで推進された。財源確保のために累進所得税や法人税も定められた。また1935年に労働者の団結権と団体交渉権を認める全国労働関係法(ワグナー法)が成立した。民主党はこのニューディール政策を出発点として都市生活者・移民、ブルーカラー労働者の根を張る政党としてともに発展した。ルーズベルト大統領の支持基盤は経済的な利益で結ばれたいた。そういう意味で典型的な「利益の民主政」であった。このニューディールのリバラリズムは、1960年代のジョンソン大統領による「偉大な社会」に受け継がれ、貧困撲滅をかかげた福祉国家を本格化した。高齢者のメデイケア、貧困児童の通う学校への財政援助、貧困層向け医療保険メディケイドを1965年にスタートさせた。1960年代アメリカ社会は複雑な問題で分裂する。一つは公民権運動で、もう一つはベトナム戦争であった。キング牧師の暗殺・ケネディ大統領の暗殺があったが、1964年にジョンソン大統領の下で公民権法が成立し人種差別は禁止された。フェミニズム運動は1966年に全米女性機構が生まれ1969年大統領選への女性代議員の割り当て制度改革で、72年の女性代議員数は40%に上がった。さらに環境保護運動や消費者も加速した。これらの運動の推進者は「ニュー・ポリティクス」と呼ばれ、イデオロギー的にはリベラル化が深まった。その中でヒッピーの「対抗文化」、キリスト文明とは異なる「ニューエイジ」文化が若者の間に広まった。民主党は「公民権の政党」として黒人の9割の信頼を獲得した。経済利益偏重の富裕層の多いユダヤ系にも7割が民主党支持を支持している。ナチスのホロコーストと闘ったル-ズベルト大統領への信頼感と人道を巡る理念で民主党を支持しているのであろう。「運動の政治」(「ニュー・ポリティクス」)は利益の民主政であるが、同時にマイノリティの存在を社会に認めさせる「承認の政治」としての側面も顕在化した。社会の片隅に埋没していた一定規模の集団が、社会の中心に存在を確立する民主化の過程をさす。環境保護や消費者団体も新たな価値観やライフスタイルへの承認という意味で。理念の民主政であろう。

(つづく)

読書ノート 渡辺将人著 「アメリカ政治の壁」 岩波新書 2016

2018年07月27日 | 書評
利益の民主政と理念の民主政のジレンマに、アメリカのリベラルに答えはあるのか  第12回

3) アメリカ政治の壁(Ⅱ)ー誰のための利益か

3-2) 移民社会の世代交代ーハワイ日系移民
現在のアメリカの移民問題の中心は、中南米からのヒスパニック系の急激な増大であるという。出稼ぎ感覚のメキシコ系移民が、国の一体感の欠如を生み出しているからである。移民制度改革とは、①すでに入国している不法移民にどう合法的な地位を与えるか、②今後新たな不法移民をどう防ぐかである。この二つの問題を同時に解決する包括的移民制度改革法が見いだせず、対症療法的な対応に終始してきた。人種やアイデンティティに加えて、新旧移民の世代間、地域間の差異が問題を複雑にしてきた。ヒスパニック系人口は約5200万人、黒人は3800万人、アジア系1470万人である。(なお2010年のアメリカの全人口は3億870万人、白人は2億2300万人である) ヒスパニックが黒人を抜いた。民族の多様性は、白人とヒスパニック、黒人が3極を占める。この節ではこれ以降のほとんどの内容はハワイにおける日系人の社会(特に政治状況)を取材して描いているが、日系移民はハワイに限定され、ハワイにはマジョリティはなくマイノリティのみで構成されアメリカ全州に及ぼす政治的影響も少ないので、本書の結論に与える影響も小さいと考えられるので、著者の努力には敬意を表するがこの節は省略する。

(つづく)

読書ノート 渡辺将人著 「アメリカ政治の壁」 岩波新書 2016

2018年07月26日 | 書評
利益の民主政と理念の民主政のジレンマに、アメリカのリベラルに答えはあるのか 第11回

3) アメリカ政治の壁(Ⅱ)ー誰のための利益か

3-1) 外交と戦争
第2次世界大戦後から1970年まで第3四半期の間、アメリカの外交エスタブリッシュメントは、大西洋主義、国際主義(孤立主義反対)というセオリーに導かれていた。ただその外交政策を決めるエリートであるエスタブリッシュメントは名門アイビーリーグ八校出身者(ハーバード大学、イエール大学ペンシルバニア大学、プリンストン大学、コーネル大学、ブラウン大学、コロンビア大学、ダートマス大学)に閉じ込められていた。政権は替わっても外交方針はどれほど影響されない冷戦時代の外交方針であった。しかし現代では内政要因すなわち世論に配慮するポピュリズムが優先されることが多い。貿易協定などは内政問題であり、安保政策も内政要因が高くなった。そこポピュリズムの媒介となるのがメディアである。1968年以降のベトナム戦争報道は反政府色を強めた。1991年の湾岸戦争では情報管制が敷かれたが、2003年のイラク戦争はメディアはブッシュジュニアーを最低の大統領に落とし込んだ。原題のアメリカの世論は、目に見えて自国の負担や犠牲が濃厚な戦争には我慢ができないのである。安全保障における利益重視派は現実主義者である。外交の目的は国益である。最低限の死活問題としての国益は範囲を広げない。一方理念派は、人権・デモクラシーの理念を世界に拡大するという情熱を持つ。民主党左派のタカ派「リベラル・ホークス」と、共和党のイラク戦争推進派の新保守主義者ネオコンは、価値外交という線で似ている。ブッシュジュヌアーのイラク戦争がかくも不評だった理由は、国際協調から米国単独行動に変えたからである。保守派内にもイラク戦争反対論者はいた。攻撃的現実主義の知識人リアリストがそうだった。彼らはイラク戦争の原因を「イスラエルロビー」の仕業であると断言していた。ユダヤ先制攻撃論のなせる業だという。ところアメリカのユダヤ人社会の世論調査では、リベラル寄りの理念の民主政治集団である。一般のユダヤ人の関心事は経済や医療保険にあって、戦争には関心はないという。オバマ政権の外交政策の憂鬱は、ブッシュのイラク戦争の後遺症の脱却が長引いていることである。アフガニスタンとイラクからの撤退はオサマ・ビンラディン氏の殺害で終止符をうったことになっている。クリミヤ半島の問題には「介入すべきではない」として、国民の目を内政に向けさせた。アフガニスタンとイラクからの撤退と引き換えに、ISが台頭し戦争の場面はシリア内線と絡んだ。政権の外交方針は、大統領とその側近、外交安保のエリートと軍部が重要ファクターであるが、オバナ大統領の外交方針は地上軍派遣は絶対しないこと、多国間の合意を重視することに尽きる。オバマはリビア以降、人道介入という価値外交に触れるとやけどをするという教訓から一歩も出ない。しかるに2009年の「ノーベル平和賞」受賞は人道介入への圧力になりかねなかった。世界の警察官の座を降りて内政に専念したかったのに、側近にとってありがた迷惑という感がしたという。アメリカの「大きな政府」の果たした役割は巨大であった。1930年代のケインズマン経済官僚によるニューディール政策は、景気回復と内需拡大の典型であった。シリコンバレーのエレクトロ二クス産業振興策は、スタンフォード大学の産官学連携の成功例となり、多くの雇用を生んだ。エレクトロニクスはミサイル防衛産業を飛躍させ、インターネットを生んだ。カルフォニア共和党州政権は「小さな政府」を標榜しながら、実際は軍需産業興隆の「大きな政府路線」であった。民主党だけでなく共和党内でもネオコンの「価値外交」が常態化している。ネオコンの大量殺害兵器とISのテロ恐怖を煽る心理戦が選挙に持ち込まれた。もはやネオコンの単独行動主義や人道介入戦争は影を潜めた。オバマ外交は最小限度の関与であり、中東政策には戦略がないという批判が聞こえる。「地上戦は最悪で、ISには空爆だけ。アメリカはもう世界ン警察官ではない」が大統領周辺のコンセンサスである。バイデン副大統領はオバマにこう助言したという。「中東では突発事態の管理だけにしておくことです。コミットしてはいけません。何も成果がないからです。それほど混乱の根が深いのです。国益を死守しテロ根絶と、国の経済的な将来がかかっている、アジア・中南米に集中してください」

(つづく)