ブログ 「ごまめの歯軋り」

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世界史の構造

2021年02月28日 | 書評
京都市伏見区  浄土宗「大光寺(伏見の宮ゆかりの寺)」

柄谷行人著 「世界史の構造」 岩波現代文庫(2015年)

第二部 世界=帝国  (その9)

第4章 普遍宗教

④ 倫理的予言者
ペルシャのゾロアスターが最初の倫理的予言者である。カーストの祭司階級を否定し、善と悪の戦う場として社会や歴史を見た。倫理的予言者の代表はやはりユダヤ教であろう。ユダヤ教は遊牧民のユダ12氏族の盟約共同体として始まった。旧約聖書では「神との契約」(紀元前13世紀ごろのモーセの十戒)が神話時代の最後に語られる(出エジプト記)。部族の契約は神の盟約でもあった。契約は双務的(互酬的)である。部族固有の神との盟約である。バビロン捕囚後には互酬性がなくなり普遍宗教への移行がみられる。ユダヤはカナンの地に移住してからは遊牧民と農耕民の宗教である。そしてダビデ、ソロモンに至ってアジア的な専制国家として繁栄した。普遍宗教となるのは、ユダとイスラエルへの分裂とバビロン幽閉という帝国衰退期の事である。国家の滅亡と苦難期に新たな神の概念が生まれた。国家の敗北は神の敗北ではなく、人々が神を無視したことによる懲罰であるという。ここで互酬性はなくなった。知識人階層が増え、商業従事者が主役となったからであろう。こうして農耕共同体や支配者、祭司から離れ、個人として存在した。その個人が「神と人間との契約」という形をとった。バビロン捕囚期に部族的拘束から離れた自由・平等な個人の連合体となった。普遍宗教としてのユダヤ教はバビロンにおいて生まれた。フロイトは「モーセと一神教」において、ヤハウエ神が人間の意志を越えた超越的で脅迫的な神となったかを説明した。モーセの神が遊牧部族民社会の倫理、独立性と平等性であるとするならば、ソロモンの専制国家の時代にその神は一度は殺されたのである。それがバビロンの捕囚による困難期に「抑圧されたものの回帰」として、交換様式Aが高次元で回復されたというべきであろうか。

⑤ 神の力
部族宗教としてのユダヤ教は、イスラエル王国の分裂・滅亡とともに捨てられた、多くのイスラエル人はほかの国家に吸収された。普遍宗教となってユダヤ教が復活したのはバビロン捕囚となった人々においてである。唯一神ヤハウエを彼らが信じたのは、共同体や国家の強制ではない。ユダヤ教はユダヤ民族が選んだ宗教ではなく、ユダヤ教を信じる人々をユダヤ人と呼んだのである。ユダヤ教がユダヤ民族を作ったのである。ユダヤ教はローマ帝国の時代に各地に広まり、ヘレニズムの時代に普遍化した。ユダヤ人の部族宗教と普遍宗教が拮抗したとき、普遍性を選ぶキリスト教が生まれた。どちらが普遍的であるとは一概には言えない。キリスト教が拡大するとき、共同体や国家の宗教を多分に取り込んでいるからだ。普遍宗教の神は超越的である。しかし同時に個人にとって内在的である。

⑥ キリスト教
イエスはユダヤ教の予言者であった。かれはパリサイ人や律法学者を徹底的に批判した。彼は国家、伝統的共同体、貨幣経済のいずれも否定した。普遍宗教は交換様式Dとして、交換様式A,B,Cを否定する形で現れた。新約聖書の各書にはその典型的な例を示される。祭司・律法学者・家族・共同体を否定した。私有財産は貨幣経済とともに富の不平等・階級分化の権化として切り捨てられた。「神を愛せよ、隣人を愛せよ」は無償の贈与を意味し、キリストの集団は共産主義的(アソシエーション)であった。互酬的共同体を志向した。イエスをキリスト(救済主)に仕立て上げたのは聖パウロであった。ユダヤ教徒は承服しないであろうが、非ユダヤ教徒には受け入れられる。イエスの教えはユダヤ教を越えてローマ帝国に浸透した。それとともにキリスト教団も変質した。教団は司祭によって統治される階層社会になった。教団は何度もローマ帝国によって弾圧されたが、「悪しき者に逆らうな」というようにローマ帝国の支配に反抗せず、奴隷制にも異を唱えなかった。ローマ帝国がキリスト教を受け入れ国教にしてからは、皇帝の権威を高めることに貢献した。こうして普遍宗教は帝国に浸透すると同時にその支配に組み込まれた。教皇=皇帝となった。それほど皇帝の力が弱かったのである。ローマ教会は封建諸侯の分立状態で、精神界の世界帝国の統一を維持した。キリスト教は世界宗教になったが、これはもはや普遍宗教とはいえなない。 

(つづく)
       

世界史の構造

2021年02月27日 | 書評
京都市左京区仁王門通り東大路北門前町  日蓮宗「本妙寺(赤穂義士の寺)」

柄谷行人著 「世界史の構造」 岩波現代文庫(2015年)

第二部 世界=帝国  (その8)

第4章 普遍宗教

① 呪術から宗教へ
交換様式Dが存在できるかどうかは別として、個人が共同体から解放されている点で市場主義的な社会、すなわち交換様式Cに似ているし、同時に互酬的(相互扶的)交換様式Aにも似ている。交換様式Dは市場経済Cの上で、互酬的な共同体社会Aを回復するものだともいえる。そしてそれは論理上の理念であって、現実には存在しない。普遍宗教という形が一番似ている領域である。ウェーバーは宗教の発展史を呪術からの解放を尺度として社会経済的な原因から説明した。彼によると呪術からの脱却は近代資本主義社会と近代科学によって実現されるとした。宗教それ自体も交換様式に根差している観点で本書は展開される。ウェーバーも呪術を神に贈与することによって神を強制する行為と考えた。祈りではなく神に呪文をかけているという。「与えられんために、われ与う」が根本的特質である。この世の外面的利益に心を傾けていることが「祈り」のすべてである。「祈り」と「与える」ことは交換条件である。ニーチェも「交換」の観点から宗教を見た人である。負い目という道徳感情が「負債」という経済概念に相当するという。さらに「正義」は経済的な価値に相当する。しかし交換様式Cでは債務が生じても、道徳的負い目は感じない。ニーチェは「遠近法的倒錯」を犯していた。呪術は贈与(供儀)によって人間を支配する互酬性の原理に基づいている。したがって呪術は氏族社会において発展した。国家社会においても呪術的なものが「平等主義的」な機能を果たす例がある。それを「アジール」と呼ぶ。それは社会的拘束から解放させる倫理的意義を持つ。「抑圧されたものの回帰」としてアジールに逃げ込んだ者に国家権力は手を出せない。宗教界やドロップアウト社会の特徴でもある。国家は都市国家や部族共同体を軍事的に従属させることで成立した。しかしむき出しの暴力では支配は永続しない。支配者への賦役貢納(税)を、支配者からの贈与(保護)に対する返礼と非支配者が納得しないといけない。それが宗教の役割である。だからこのような宗教は国家のイデオロギー装置である。宗教と政治経済は不可分離「である。国家が灌漑事業を行う時には呪術師は不要となる。国家は超越し国王は絶対であるとみなされる。逆に共同体や国家の神は戦争に負ければ見捨てられる。現世利益宗教でなく普遍宗教が出現するとき、世の中はどうなっていたのだろうか。

② 帝国と一神教
国家は他の国家や共同体との交通(交易・戦争)を通じて包摂した広域国家となる。それが「帝国」である。帝国の宗教は超越性を得るが国家の超越性とパラの関係にある。ニーチェは世界帝国への道はつねにまた世界神への進行であるといった。こういう意味で宗教は国家と一体化している。ニーチェが言う世界神と普遍宗教は異なる。神の超越性(覇権)とは異なり、むしろ否定するものが普遍宗教である。一神教の信仰は古代エジプトのアメノフィス四世の「アマルナ改革」(前14世紀)で始まった。王と豪族の争いから支配力を超越的なものとすべく、多数の豪族の神を否定し、唯一の神(太陽神)に仕える者としての王権の確立が背景にあった。エジプトは帝国へ向かった。フロイトは、モーセはエジプト王家の者として一神教の復活を図かり、ユダヤ教の一神教につながったという。普遍的宗教には、貴族・豪族を屈服させようとする王権の意志が潜んでいるようだ。事実現在の世界宗教世呼ばれるものは、ほとんど旧世界帝国の版図を越えていない。交換様式から見ると、普遍宗教は交換様式Dとして、世界帝国において最大化された交換様式BとCに対する批判として、世界市場あるいは世界貨幣が契機となり生まれるのではないかと想像されている。貨幣の急進的平等主義は氏族共同体を破壊した。個人を解き放ち貨幣経済を通じて、個人を市場に投げ込んだ。貨幣の力は氏族共同体にあった互酬的平等性を破壊し、経済的格差社会をもたらした。

③ 模範的予言者
普遍宗教は、古代文明が発生した各地で、同時期に互いに関係なく生じた。それは都市国家が抗争し、そして広域国家を形成する時期であった。共同体的なものが衰微し貨幣経済が浸透する時期でもあった。普遍的宗教は一定の人格つまり予言者の存在で、既存宗教の占い師とは違い、それを否定する階層であった。また予言者はユダヤ教、キリスト教、イスラム教に限定されるものではない。ウェーバーは予言者を倫理的予言者、模範的予言者に区別する。倫理的予言者とはユダヤ教、キリスト教、イスラム教のように、神の委託を受ける媒介者となり、倫理的義務として服従を要求する。模範的予言者とは仏陀、孔子、老子のように自らの範例を通して人々に宗教的な救いの道を指し示す。哲学者は模範的予言者に入る。イオニアの自然哲学者、ソクラテスらが該当する。中国では戦国時代に諸子百家といわれる思想家が輩出した。自らは宗教者とは言わなかったが、生き方の範例を示して模範的予言者となった。仏教の始祖ブッダは理論を説いたわけではなかった。実践的な認識を示したまでであったが、模範的予言者となった。

(つづく)



世界史の構造

2021年02月26日 | 書評
京都市左京区仁王門川端東入  日蓮宗16本山「頂本寺 山門」

柄谷行人著 「世界史の構造」 岩波現代文庫(2015年)

第二部 世界=帝国  (その7)

第3章 世界帝国

④ ローマ
ローマとギリシャは似たような都市国家であるが、むしろ異なる点の方が多い。第1にアテネは徹底した民主主義であったが、ローマではそれが不徹底であった。ローマでも前509年王制から貴族制に移行した。貴族性は一種の封建性である。貴族議員で占める元老院が実権を握り、中小農民の平民と対立した。前494年平民で構成する民会と護民官の設置が決まった。重装歩兵の経済的自立が不可欠であったからだ。平民の中から新貴族がうまれ旧貴族と結託したため、貴族政を打倒することは無かった。貧しい平民との階級的分解は避けられず、護民官グラックス兄弟は再配分を試みたが失敗した。ローマでは階級矛盾は内で解決するのではなく、外へ征服戦争によって貧民に奴隷・土地を分配することでなされた。ローマの危機を救うための複数の執政官(コンスル)が命じられた。ローマが征服戦争に敗れた時、マリウスがコンスルに就任し無産市民からなる軍政を創設した。そのコンスルの中からカエサルが皇帝となった。ローマは都市国家の原理を放棄しているにもかかわらず、それを維持する政策は続いた。形式的には皇帝は元老院に従属した。ローマの皇帝は共和政と専制支配の二重支配システムが残った。しかし皇帝クラウディウス以降は官僚組織が整備され、皇帝の神格化が進められた。ギリシャと異なる第2の点は、ギリシャが市民権の抑制策によって排他的になり他の共同体を併合吸収することができなかった。ローマは他の共同体に対して柔軟な対応をしてポリスを拡大し、被征服地の差別を設け分割統治をおこなった。そして「法による支配」を適用し多民族を統治した。ローマ帝国はアジア的帝国と同じく賦役貢納の国家を完成させた。

⑤ 封建制
⑤-a  ゲルマン的封建制と自由都市
ギリシャ人やローマ人がアジアに対して亜周辺の位置関係にあったとき、ゲルマン人は「圏外」にあった。ギリシャやローマが世界=帝国に転化したとき、ゲルマン人は亜周辺の位置に移行した。彼らはローマ帝国の影響下にあって、ローマ帝国の政治システムを拒否し、西ローマ帝国を亡ぼした。東ローマ帝国は実質的にイスラム帝国に引き継がれたといえる。西ローマ帝国を継承する皇帝(神聖ローマ帝国)の権威、ローマ教会が、その文化的イデオロギー的統合原理として働いていた。集権的な国家はは成立しなかったが、封建的な諸国家が分立し、数多くの自由都市が生まれた、それは世界=経済であった。ここから資本主義経済が生まれた。ウェーバーはゲルマン的封建制の特質を挙げた。第1にレーエン封建制(人的誠実関係とレーエン)では支配者階層に互酬性の原理が残っていることである。君主・国王は絶対的権力を持たないことである。第2に封建制は農奴制と結びつけられている。アジア的貢納制(全般的隷従性)とは異なる。ゲルマン的農奴制は、土地を持つ自営農民が領主との間に保護と引き換えに賦役貢納の義務(金納)を負う。14世紀にはイギリスでは金納制になり、農民の貨幣地代への転化が一般化した。ヨーロッパの農民も三圃制などの共同体規制があり、また共同地もあった。西ヨーロッパの封建制においては自由都市が存在する。領主―農奴の互酬的契約に基づく共同体である。自由都市ができることは帝国の弱さを反映している。毛織物ギルドの街フィレンツェが1115年に生まれ、1112年ケルンが自由都市と認められた。西ヨーロッパには3000をこえる自由都市が成立し、それを拠点として宗教改革やブルジョワ革命が起こった。経済格差に対して相互扶助的共同体(コンミューン)運動が起こり、都市は一貫して資本主義を超える運動の母体であった。封建制とは卓越した支配者がいない多元的じょうたいである。したがって封建制は絶えず戦争状態である。恒常的な戦争は国家の成立を阻むものである。そこから王が絶対的な主権をを握ったのが、15,6世紀の絶対主義君主制国家である。王は封建諸侯を制圧し、常備軍と官僚機構を確立した。絶対主義王権がアジア的専制国家と違うところは、商品交換Cを押さえないで、むしろその優位を確保し保護したことである。それがブルジョワ革命に至る。

⑤-b  亜周辺としての封建制
封建制はローマの亜周辺、つまりゲルマンの部族社会において成立した。日本の封建制は中国の帝国に対して亜周辺に位置したからできたと、ウィットフォーゲルは指摘した。日本では7,8世紀に中国の律令制国家を模倣したが、国家の集権制は弱かった。導入された官僚制や公地公民制は全く機能しなかった。官僚採用試験である科挙はついに一度も行われなかった。都のある畿内の周辺では、開墾による土地の私有化お荘園化が進んだ
封建諸勢力(武士、寺院)の割拠から封建制が始まり、13世紀以後武家政権が19世紀後半まで続いた。古代王権の天皇制は形の上の権威として残存した。朝鮮で完全な中国化が進んだのとは対照的である。徳川幕府において朱子学を国教化し官僚制強化を目指したが、封建制の基本は崩されなかった。このように帝国に由来する諸制度、文化を選択的にしか受け入れないということは、日本独特というより亜周辺に共通した特徴である。イギリスも亜周辺てきであり、そこより柔軟性、実用性、非体系的、折衷主義的、経験主義的な対応をする文化が生まれた。イギリスは大陸に向かわず、海洋国家を築き、近代世界システム世界経済の中心となったのもそのためである。

(つづく)



世界史の構造

2021年02月25日 | 書評
京都市上京区智恵光院通り一条下がる  浄土宗「智恵光院」

柄谷行人著 「世界史の構造」 岩波現代文庫(2015年)

第二部 世界=帝国  (その6)

第3章 世界帝国

①アジア的専制国家と帝国
専制国家は賦役貢納国家である。それは服従と保護という交換によって多くの周辺の共同体や国家を支配下に置くものである。それは交換様式B が支配的な社会構成体である。しかしアジア的専制国家は、外延的な側面では多数の都市国家や共同体を包摂している、世界システムである。世界=帝国と呼ぶ。個々の帝国は世界帝国である。それは障害の多かった児湯道大寒や国家間の交易を容易にする。世界=帝国はほとんど戦争という武力を使わず、各共同体・国家はむしろ世界=帝国の出現を歓迎し、保護、交易を求める。世界=帝国の形成は交換様式Bだけでなく。交換様式Cが重要な契機となる。世界=帝国を支えるのは、一つは貨幣の鋳造や度量衡の統一である。第2に貨幣だけでなく共同体を超える「法」(国際法である。諸部族・国家の交通、通称をの安全を確保することである。帝国の第3の特徴は「世界宗教」を持つことである。旧来の部族的な神々を越えた普遍宗教を必要とする。ローマ帝国がキリスト教を必要としたように、唐王朝では仏教がその役割を果たした。帝国の第4の特徴は「世界言語」である。ラテン語、漢字、アラビア語がそれである。世界=帝国には様々に異なっているが、4つのタイプに分けられる。灌漑型(西アジア、東アジア、メキシコ)、海洋型(ギリシャ、ローマ)、遊牧民型(モンゴル)、商人型(イスラム)歴史的には、世界=帝国は。灌漑型つまり東洋的専制国家として始まった。アラビアではペルシャ帝国、中国では唐王朝、ユーラシア大陸ではモンゴル王朝である。ウォーラステインは近代世界システムを、中心、半周辺、亜周辺と区別した。地政学的に世界=帝国の支配力の及ぶ従属理論である。世界経済システムと世界=帝国システムでは中心と周辺の区分が異なる。支配原理が前者は交換様式Cであり、後者は交換様式Bであるからだ。周辺部は中核によって征服され収奪される。逆に周辺から中核に侵入する場合もある。亜周辺は帝国=文明と距離があって選択の自由が残された領域である。近代世界システム(世界=経済)の資本主義的市場が世界を覆ったとき、まず「圏外」は国家によって囲い込まれた。未開人が文明化された。周辺部は周辺にとどまった。亜周辺部は植民地化されるか、日本のようにまれに中心部に移行したケースもある。最後に旧世界=帝国の中心部が周辺に追いやられた場合もある。高度な軍や官僚をもつ社会構成体は服従せずに国家機構の独立を保った。

② 周辺と亜周辺
世界=帝国の周辺部は中心によって滅亡されるか併合された。それに抵抗できたのは定住しない遊牧民だけであった。そこは狩猟採取社会・氏族社会の慣習を保持していた。それらは滅多に国家には転化しなかった。逆に部族連合体を作り軍団を作って中心部を侵すこともあった。これはシュメールまたは中国の周辺部では際限なく繰り返された。略奪と没落という反復を越え持続的な世界帝国を築いた稀有な例がモンゴル帝国であった。彼らは中国では元王朝という東洋的官僚国家体制を引き継いだが、モンゴル部族連合体では一人の王に過ぎなかった。首長会議において「ハーン」が選ばれた。モンゴル帝国では部族共同体の互酬原理が支配していた。遊牧民が世界帝国を築いたもう一つの例はイスラム帝国である。それは遊牧民が都市商人を結びついてできた国家である。イスラム教という結合力が必要であった。中央アジアのモンゴル帝国の首長らがイスラム教に改宗することによって、イスラム教は世界宗教となり、イスラム帝国は海洋的な商業帝国となった。イスラム帝国が繁栄したとき西ヨーロッパは亜周辺であった。イスラム帝国が近代世界システムにならなかったのは、商業や都市を国家的規制の下に置いたからである。世界=経済の発展は、世界=帝国によって抑制された。海洋型の帝国(ギリシャ・ローマ)では、ギリシャ人はついに帝国を築けなかった。アレクサンダー大王はヘレニズム帝国を築いたが、都市を亡ぼしアジア型帝国を踏襲したからである。ローマ帝国も同じようにアジア的専制国家の近傍に存在し、なお都市国家に留まって専制国家にはならなかった。官僚制のような集権的生ウドを拒んだのは、交換様式Aの互酬性が濃厚に残ったからである。亜周辺では交換や再分配は国家による管理が少なく、市場に委ねられた。亜周辺で世界=経済が発展したのはこのためである。ローマはギリシャと同じ都市国家であったが、普遍的な法による支配を通じて世界帝国となった。都市の排他的な共同体原理を抑制できたからである。都市国家と帝国とは原理的に違うところが大きい。

③ ギリシャ
国家の開拓による大規模灌漑農業ができない地域では小規模な天水農業しかできなかった。そこでは狩猟採集共同体との連続性がある。氏族共同体の互酬原理が働き、集権的な国家形成を抑制する。個人的な小規模農業では使用権という私有財産と共同体的土地所有が混在するのである。ギリシャでは穀物生産に適する土地がなく、牧畜や山でのオリーブやワインの生産しかなかった。ギリシャ人は主に海上による交易に依存した。ギリシャに先行するミケーネやクレタ文明は都市国家であったが、ギリシャ人は専制国家の道は歩まなかった。多数の自立した都市を作った。紀元前10世紀から8世紀まで活発な地中海沿岸植民活動を行った。ギリシャの特性は氏族社会なものが残存する類型である。アテネのポリスではなく、ミレトスなどイオニア諸都市において確立された。海外交易の拠点イオニア諸都市ではエジプト、メソポタミア、インドなどの科学知識、宗教、思想、商工業が発展した。通貨の鋳造も行われたが、官僚制アジア専制国家の道は拒否した。国家の主導ではなく市場に任せた。ホメロスの叙事詩が普及したのもイオニアにおいてである。政治的自由の思想はギリシャの都市国家とともに出現した。市民が支配者と非支配者に分化せず、無支配関係の下で社会が構成された。これを「イソノミア」と呼ぶ。多数派の支配という意味のデモクラシー(民主制)は、民衆デモスによる支配クラシーという意味である。アテネやスパルタのような都市は従来の部族性連合体(盟約)としてできたが、イオニア植民地では部族的盟約を廃し新たな盟約を結んだ。民主主義とは多数者である貧しい人が富裕階級を抑え再配分による平等を実現することである。「イソノミア」は根本的に遊動性が主流で氏族連合体の拘束を否定し、交換様式Cが優越する社会が初めて実現されたと言える。遊動性交換様式Aを高次元で回復すること、すなわち交換様式Dの実現である。イオノミアの原理は、民主主義とは違って、国家や軍事力を優位に置かなかった。アテネやスパルタの都市国家では戦士=農民の共同体を棄てることは無かった。そこに貨幣経済が浸透すると深刻な階級分解が起き、市民は債務奴隷になった。スパルタは貨幣経済を廃止し交易もやめた。そして近隣諸都市を征服し農奴制とした。あての民主化は前549年の「ソロンの改革」に始まる。軍人に参政権を与え、債務奴隷を帳消しにした。そして僭主が貴族方権力を奪い改革を実行した。クレイステネスの改革(前508年)は部族性を廃止して地域的「デモス」を創設した。血の結合から地の結合に民衆を再編した。国務に参加したり戦争にゆくため市民は労働から解放され、奴隷制が生産に従事した。イオニアの哲学は医学や自然哲学に特徴があり、プラトンやアリストテレスの哲学は倫理や形而上学に特徴がある。アテネのデモクラシーは閉じた共同体原理である。ポリスの排外的な民主主義は、多数の国家や共同体を包摂する帝国の原理にはならなかった。アテネの民主主義は外に対しては帝国主義的収奪、内に対しては民主主義と福祉政策である。

(つづく)




世界史の構造

2021年02月24日 | 書評
京都市下京区 西洞院通り四条下がる 「史跡 奈良屋杉本家」

柄谷行人著 「世界史の構造」 岩波現代文庫(2015年)

第二部 世界=帝国  (その5)

第2章 世界貨幣

④ 世界貨幣

マルクスは「単純な、個別的なまたは偶然的な価値形態」は等価において成立するとした。ポランニーはそこでは等価はあっても価格はないことを見抜いた。個別の世界には等価と等価のつながりしかない。これが「一般的価値形態」に移行することは、貨幣形態の出現である。世界の商品の関係は共通の尺度で測られ、ゆえに「世界貨幣」の出現となる。人類が交易をおこなった古代文明の時代より「世界貨幣」は存在した。原始貨幣は多様であったが、銀を仲介とする商品交換の体系が作られた。貴金属貨幣は国家によって鋳造された。しかしそれが通用したのか国家の力ではない。国家は貨幣の品質を決め、保証する役割を担った。中国王朝で貨幣の統一がなされたのは漢王朝においてである。貨幣は、交換から生じる力と国家の力の相関的な働きで流通した。国際的に通用する貨幣は、それ自体が商品(使用価値)でなければならないが、共同体や国家の中ででは貨幣は素材的に何であってもかまわない。世界貨幣はそれ自体商品でなければならない。そのような商品は他の商品の価値尺度となる。だから他の価値体系の中に入り込むことができる。世界貨幣という商品は異なる価値体系を貫徹するのである。だから貨幣は対外貨幣から考えるべきであって、貨幣を国内だけで考えてはいけない。それは国家を内部だけで考えてはいけないのと同じである。 
       
⑤ 貨幣の資本への転化
商品交換(物々交換)は合意に基づいておこなわれるが、それは容易ではない。そこで貨幣があれば時空を超えた商品交換が可能になる。貨幣を持つものはいつでも商品を買うことができるが、商品を持つものは売れなければならないという固有の困難がある。このような貨幣と商品との間の関係が、それぞれの所有者の関係を規定する。自由で平等な交換様式Cは階級支配を創り出す。資本家と労働者の関係である。貨幣はもはやたんなる交換の手段ではなく、商品といつでも交換できる力である以上、貨幣を求め蓄積しようとする活動が始まる。それが「資本」の起源である。商人的な蓄財こそが「貨幣の資本への転化」の始まりである。マルクスは貨幣を蓄積するひとを「守銭奴」とよぶが、けっして罵倒しているのではない。むしろ勤勉と節約と吝嗇は徳であるという。彼らは物欲を満たすために蓄財するわけではなく、むしろ物欲は少なく、宗教的な意味で天国に貯金するようなものである。資本家は合理的な守銭奴である。貨幣M→商品C→貨幣M’(
M’>M)の過程を通じて、貨幣の自己増殖をはかるのである。マルクスは商品が貨幣に交換されるかどうかを「命がけの飛躍」とよんで、そのリスクを回避する方法が「信用」である。約束手形を発行し後で決済するのである。すると売買の関係は、債権・債務の関係になる。信用制度は資本の運動の回転を加速し永続化する。貨幣→商品→貨幣の過程を最後まで待つ必要がないので資本家は、売れたことにして新たな投資に資本を使えるのだ。それは信用貨幣で、貨幣に基づく経済の世界は「信用」の世界である。信用は地理比企の当事者の間の共同性の観念に支えられ、同時に国家によって支えられている。投資によって利潤が確実に見込まれる場合、資本家は利子を払って金を借りて投資する。貨幣はそれ自体利子を生む力があると考えられ、貨幣の「物神性」は、この利子生み資本において極大化する。交換様式Cがもたらす世界が、経済の下部構造であるどころか、根本的に信用=投機ー思弁的な世界であることを意味する。

⑥ 資本と国家
貨幣M→商品C→貨幣M’という流通過程で、剰余価値が可能なのは、不等価交換に基づいている。安く買って高く売るという経済行為はアンフェアーなのではなく、価格は価値体系の中で他の商品との等置関係によって決まる。同じ商品が別の価格を持つということである。(為替レートを含めて) 異なる価値体系の間でそれぞれ等価交換を行っているので、剰余価値が生まれるのである。ここには国家の軍事力や交易への介入はあり得ない。しかしながらアリストテレス以来、流通から利益を売ることは正しくないといわれてきた。価格の決定を国家ではなく市場に任せたということが、ギリシャの民主制をもたらした。アテネの市民はあくまで戦士=農民であり、商工業を軽蔑したのである。 

(つづく)