ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月30日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第15回

Ⅱの巻 「思考と表現」

第2グループ 「学識の位置づけ」(その1)


① 小カトーについて  (第1巻 第37章)
小カトー(前95-46年)は、司直官大カトーの孫。ウチカのカトーといわれ、元老院側に立ってカエサルと対立し、アフリカに逃れたがカエサル軍の到来を前にして自殺した。清廉・剛直の人と言われる。小カトーの評価がさまざまに分かれることを判断の多様性で説明し、後半は小カトーを賛美する5人のラテン詩人の文芸批評を行う。私は自分の尺度で、あるほかの人を判断することはしない。たくさんの違った生き方があると思っているからだ。人は自分とは違うと考える方を選ぶ。今の時代は恐ろしく程度の低い時代で、徳を思い描くこと自体が欠けている。徳に満ちた行為はもうどこにも見られない。人は自分のできないことは褒めない場合が多い。だから我々の判断力は病んでいて、退廃した習俗に流されていることも知らない。小カトーが栄誉を狙っていたとか、悪意を持った意見があるが、小カトーは気高く正しい行為をしたのだとモンテーニュ-は評価する。ここで小カトーを賛美するラテン詩人の詩句に比較検討を行った。マルティアリス、マニリウス、ルカヌス、ホラティウス、ウェルギリウスの賛歌は力強い。

② キケロについての考察  (第2巻 第40章)
この章は古代の作家たちの論評から始まり、表現、文体、書簡について考察してゆく。まず最初はキケロと小プリニウスの作家を取り上げる。二人は度をはずれた野心満々な性質が限りなくみられる。後世に名を残そうという意図が露骨である。心情の低劣さ、友人に宛てた私信から栄誉を引き出そうとする魂胆である。活動の偉業さに並ぶものがないカエサルやクセノフォンに賞賛の弁舌を尽くしても彼らの偉業に変りは無かった。一人の人間をその身分や役割にふさわしくない性質によって評価するは、一種軽蔑するようなものである。執政官を音楽の才で褒めても何にもならない。戦闘指揮官を美貌でほめても意味がない。知識ということに関しては哲学があるのみで、行為に関しては徳があるのみである。私のこの「エセー」を本質的でない事項の引用や羅列で何倍かの分量に増加させても、権威付けや装飾の役には立つが、私はそれ以上の表現はしたくないと思っている。第2にセネカとエピクロスの二人の哲学者の書簡について考察する。キケロの雄弁はすでに最高の完成状態であるので、それ自体に実体がなければならない。書簡の前には私を高めてくれるようなあるしっかりとした交際が必要であった。私にはもともと打ち解けた文体を持っているので、美辞麗句で実質のない手紙を飾る必要はなかった。ましてお世辞は言えなかった。(イタリア人は手紙を印刷し出版することが好きな国民である。)                                                                               
(つづく)

文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月29日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第14回

Ⅱの巻 「思考と表現」

第1グループ 「想いを見つめて」 (その4)


⑩ 片足の不自由な人々について  (第3巻 第11章)
人間の理性の性質、限界を見ながら、なお迷信、奇蹟を信じる無批判な人がいる。懐疑主義を軸にしながら確実な運びで真実を探り当てる実証的な方法が語られる。原因あさりばかりするおかしな理性主義は、物事を動かす立場の人がやることで、物事を受け入れてゆく普通の人間のやることではない。人々は数々の事実の上を通り過ぎてゆく。「現にそういうことが起こるのか」、「全然そういうことはない」というのが我々の立場である。キケロは「それほど虚偽は真実と背中合わせなものだから、賢者はそのような足下の危ないところに踏み込んではならない」という。噂話、誇張は人間の本性である欲望のひとつである。愚か者の数の方が賢者の数よりもずっと多いので、真実は人の数で決まるという事態は何とも不幸なことだ。人間一般の愚かさの罰である。無知はその到達点である。人間は彼らの理解できないことに対して一層大きい信用をかける。そこでモンテーニュは証明が難しく、信じるのが危ない物事については、確信するより疑う方へ傾く方がいいと考える。キケロは「私は自分が知らないことことを知らないと認めることを、恥とは思わない」という。我々の付ける理由のかずかずは事実よりも先に出ることが多い。そしてその範囲は無限に広く、虚無、非存在に対しても判断をし働きかける。本章の題名「片足の不自由な人々について」は、身体障害者に関する下劣な噂話なので省略する。

(つづく)

文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月28日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第13回

Ⅱの巻 「思考と表現」

第1グループ 「想いを見つめて」 (その3)


⑦ どれほど我々の精神は自分で自分の行動を妨げるものか  (第2巻 第14章)
懐疑主義的な傾向から知的課題を見出そうとする試論の短文である。一つの精神が二つの欲望の天秤バランスに位置しているイメージで、片方を決めると価値の不均衡をもたらすので、精神は決して決着をつけないだろう。ストア派は結局どちらかの価値を選択するのは偶初的なその場限りの衝動によるものだというが、モンテーニュ-は価値の差異が軽微なものであれ、選ぶという行為には我々をひきつける何らかのプラスを認めるという。しかしプリウスは「何も確実でないことだけが確実であり、また人間以上に悲惨な思いあがったものはない」ともいう。

⑧ 嘘を言うことについて  (第2巻 第18章)
言語による意思伝達こそ人間社会成立の根本要因であり、不可欠の条件である。エセーの中に自己を描き切ることを明瞭に意識し、強調している。嘘の問題は最後に述べられている。「自分を書くための主題に使う」ことは歴史上の有名人に許されるだけのことではない。カエサル、クセノフォン、アレクサンドロス、アウグスツゥス、カトー、などの人々が自分の業績について書いた書物(自伝)がほしいところである。私は町に像を立てるほどの偉人ではなく、自分の小さなことを語り合いたいだけである。また将来自分の書いた本を誰も読まないとしても、私は本を書くために少しも勉強はしなかったが、本を書いたことによって少しは勉強した。私には嘘をつく必要は何もない。嘘をつくことは下劣な不徳である。言葉は我々の意思伝達や思考を通じさせるための道具である。

⑨ 後悔について  (第3巻 第2章)
主題は「後悔」であるが、それが不徳との関係においてどのような働きをするのか、個人の倫理的意識と行動への決断を動因として起きることを記述している。それは社会との関係や年齢によってさまざまな様相をとるのである。そして人間本姓とのかかわりあいや運命ととら得るとき後悔は成立しないという結論となる。私は人間(自分)を物語る。私は存在を描かない。推移を描く。魂は常に試験、試みの中にある。私は真実をいう。そして私は後悔することが稀である。私は人に学識を教えるのではなく、私を語るのである。不徳は人を傷つけ、その判断力のなさが糾弾される。不徳は魂の中に後悔を残し、魂は傷つき血を流す。徳に満ちた種々の行為を他の人間の承認の上に据えることが非常に困難である。現代のような腐敗した無知な時代では特にそうである。キケロは「徳と不徳についての意識こそ非常に重要なものだ。それがなければすべてのものは崩壊する」という。しかし長い間強い力のある意志の中に根を張った不徳は容易には除去できない。後悔は我々の意志を否定すること、我々の考え方に対抗するのである。アリストテレスは「私人のほうが官職にある人よりもっと高度な仕方で徳に奉仕している」という。ソクラテス「人間としての生活を、その本来のありようと合致させる仕方で送ることだ」という。魂の偉大さは高い地位の人には働かない、それはごく普通の身分の中で働く。もし「後悔」がずっしりと天秤の皿の上にあるならば、後悔は「罪」を運び去るかもしれない。あらゆる意図が実際に力を発揮できるかどうかは、時如何にかかっている。数々の偶発的な状況に拠るからだ。だから結果は自分のせいにはしない。これは後悔ではない。私はまして老齢からくる偶発的な後悔は好まない。老齢は欲望を枯渇させ、深い飽満の感情が支配するので、このようなところには良心は働かない。自分の健康の状態を病気のせいにするのはみじめな療法である。理性は好調な状態で生き生きと働く。老衰がもたらす悲惨と非運は幸せに死ぬことを妨げるのである。ソクラテスの英知は、70歳になってその精神の充実した運びが衰退することを体験していたことであえて刑死を選んだともいえる。

(つづく)

文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月27日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第12回

Ⅱの巻 「思考と表現」

第1グループ 「想いを見つめて」 (その2)


④ デモクリトスとヘラクレイトスについて  (第1巻 第50章)
判断、思考の性質、機能を分析し、後半紀元前6-4世紀のギリシャの哲学者で原子論のデモクリトスとヘラクレイトスの対比を行う。判断力はあらゆる事柄に適用できる強力な思考のツールである。私には全体を見通す力はない。できるだけ深く追求するだけである。疑問と不確実の状態に、そして無知という根本的な形にくさびを打つのである。魂の働きは高い場所にある時は情念が支配している。死というものはキケロにとって恐ろしいものであったが、カトーはそれを願ったし、ソクラテスにとって死はどうでもいいものであった。魂にはいろいろな衣裳を装う。魂の全神経が緊張する際にどのような仕事をするかをカエサルに見られる。人間の小部分にも他のどれとも同じように、人間を表すのである。デモクリトスは人間のありようを空虚なものと考え、あざけるような顔つきで公衆の前に出た。ヘラクレスは我々のありように憐れみと同情を抱き、悲しそうな顔つきで出たという。我々は自分が空虚とか愚かしいと思っていない。低俗であるほど悲惨さがないのである。ディオゲネスはアレキサンドロス大王を鼻であしらい侮蔑の眼で見た。彼は非常に正しい判定者であった。我々人間の特別なありかたは、滑稽であり、おかしくもある。

⑤ 言葉のむなしさについて  (第1巻 第51章)
修辞・雄弁に対する反論の章である。修辞学は種々のこまごまとした事柄を大きく思わせる術であり、白を黒と言いくるめる術であり、負けを勝ちと思わせる術である。修辞をこととする連中は、我々の判断を欺き、物事の本性を変質させ腐敗させることを重要とみなしている。アリストンは修辞学を「民衆を納得させる学問」と定義した。ソクラテス・プラトンはこれを「人騙し」の技術という。これは規律を失った群集、人民をあやつり動かすために考えだされた道具である。今の日本政府の「安心と安全」というスローガンがそれである。ローマでは国務が最悪の状態にあったとき、雄弁が最も見事な活躍をした。換喩、隠喩、寓喩は小間使いのおしゃべりの別名である。

⑥ 我々の行動の不安定さについて  (第2巻 第1章)
セネカからの引用・表現から出発して、徳を軸とした確固とした人間のありようよりも、むしろ人間は変転をその本質とするとみるほかないという論を展開している。最初は消極的主張で始まり次第に肯定的になる。人の行動は本来矛盾しあっており、一筋縄では捉えきれないものである。決着がつかない不安定さが我々の行動の本質であるからだ。歴史上のひとりの人しっかりした確実な運びの上に一生を終えた人物を探し出すのは容易ではない。意欲が正しければなおさら一定不変ということには結び付かない。人生を支配するのは要するに動揺と不定でしかない。自分自身を深く研究するものは、自分のなかに、その判断そのものの中にさえ、この変わりやすさと調和のなさを見出す。我々の行動を外側で見て簡単に割り切って判断する方が、しっかりした理解力とも思えない。まだまだ検討を要する課題である。

(つづく)

文藝散歩 モンテーニュ-著 荒木昭太郎訳 「エセー」 中公クラシック Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ 

2018年06月26日 | 書評
16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第11回

Ⅱの巻 「思考と表現」
第1グループ 「想いを見つめて」 (その1)


① 暇な状態について  (第1巻 第8章)
引退直後に書かれ、エセー執筆の動機、想像力が語られる短文である。原野はいろいろな植物を実らせるが、これをある目的に使用するには、計画と想像力が必要である。人間の精神についても同様で、ある事項に集中させられなければ、野放図のまま、想像性の実りを享受することはできない。私の精神を十分暇な状態におけば手のつけようのない幻想を生み出してしまう。そのバカらしさを記録してみようと思った。モンテーニュ-は「エセー」執筆の目的を反語的に、自嘲的に書いた。

② 嘘をつく人たちについて  (第1巻 第9章)
記憶力が嘘の条件であるという趣旨。モンテーニュ-は記憶力には全く自信がないようだ。プラトンは記憶力を「偉大で強力な女神」と呼んだ。分別がない人間とは記憶力がない人間のことらしい。しかしこの見解は記憶力と理解力の区別ができてないことからくる。私は記憶力が弱いことに対応して、ほかのいくつかの能力(判断力)を強くしていった。しかし利点もある。記憶力がしっかりしていない人間は嘘をつく立場にならないのだ。嘘をつくとは間違ったことをいうこと、自分の意に反したことに進むということである。我々人間は言葉で初めて人間となり、お互い同士結びついている。真実が一つならまだ分かりやすいのだが、真実の裏には無数の顔、確定できない事柄が広がっている。

③ 速い話し方と遅い話し方について  (第1巻 第10章)
話し方の問題、表現論について述べる。あらゆる魅力能力がすべての人に与えられることはない。弁論の才について、遅い話し方の得意な人は説教家・宗教家に、早い話し方が得意な人は弁護士に向いている。前者は準備をしっかりとり、話の流れを中断なしに展開できる。後者は臨機応変に相手方との闘争で言い合わなければならない。したがって弁護士の任務は説教家よりもっと難しい。機知が必要である。説教家には心の動きの判断力が求められる。モンテーニュ-は生き生きとした機知の動きを得意とし、じっくり念を入れてストーリーを練ることは不得意だと白状している。つまり自分自身をしっかり所有し支配していないので、偶然が彼を支配しているそうだ。偶然の光が事柄の意味をはっきり照らし出すこともある。

(つづく)