16 世紀フランスのモラリスト文学の祖モンテーニュ-の人間学 第15回
Ⅱの巻 「思考と表現」
第2グループ 「学識の位置づけ」(その1)
① 小カトーについて (第1巻 第37章)
小カトー(前95-46年)は、司直官大カトーの孫。ウチカのカトーといわれ、元老院側に立ってカエサルと対立し、アフリカに逃れたがカエサル軍の到来を前にして自殺した。清廉・剛直の人と言われる。小カトーの評価がさまざまに分かれることを判断の多様性で説明し、後半は小カトーを賛美する5人のラテン詩人の文芸批評を行う。私は自分の尺度で、あるほかの人を判断することはしない。たくさんの違った生き方があると思っているからだ。人は自分とは違うと考える方を選ぶ。今の時代は恐ろしく程度の低い時代で、徳を思い描くこと自体が欠けている。徳に満ちた行為はもうどこにも見られない。人は自分のできないことは褒めない場合が多い。だから我々の判断力は病んでいて、退廃した習俗に流されていることも知らない。小カトーが栄誉を狙っていたとか、悪意を持った意見があるが、小カトーは気高く正しい行為をしたのだとモンテーニュ-は評価する。ここで小カトーを賛美するラテン詩人の詩句に比較検討を行った。マルティアリス、マニリウス、ルカヌス、ホラティウス、ウェルギリウスの賛歌は力強い。
② キケロについての考察 (第2巻 第40章)
この章は古代の作家たちの論評から始まり、表現、文体、書簡について考察してゆく。まず最初はキケロと小プリニウスの作家を取り上げる。二人は度をはずれた野心満々な性質が限りなくみられる。後世に名を残そうという意図が露骨である。心情の低劣さ、友人に宛てた私信から栄誉を引き出そうとする魂胆である。活動の偉業さに並ぶものがないカエサルやクセノフォンに賞賛の弁舌を尽くしても彼らの偉業に変りは無かった。一人の人間をその身分や役割にふさわしくない性質によって評価するは、一種軽蔑するようなものである。執政官を音楽の才で褒めても何にもならない。戦闘指揮官を美貌でほめても意味がない。知識ということに関しては哲学があるのみで、行為に関しては徳があるのみである。私のこの「エセー」を本質的でない事項の引用や羅列で何倍かの分量に増加させても、権威付けや装飾の役には立つが、私はそれ以上の表現はしたくないと思っている。第2にセネカとエピクロスの二人の哲学者の書簡について考察する。キケロの雄弁はすでに最高の完成状態であるので、それ自体に実体がなければならない。書簡の前には私を高めてくれるようなあるしっかりとした交際が必要であった。私にはもともと打ち解けた文体を持っているので、美辞麗句で実質のない手紙を飾る必要はなかった。ましてお世辞は言えなかった。(イタリア人は手紙を印刷し出版することが好きな国民である。)
(つづく)
Ⅱの巻 「思考と表現」
第2グループ 「学識の位置づけ」(その1)
① 小カトーについて (第1巻 第37章)
小カトー(前95-46年)は、司直官大カトーの孫。ウチカのカトーといわれ、元老院側に立ってカエサルと対立し、アフリカに逃れたがカエサル軍の到来を前にして自殺した。清廉・剛直の人と言われる。小カトーの評価がさまざまに分かれることを判断の多様性で説明し、後半は小カトーを賛美する5人のラテン詩人の文芸批評を行う。私は自分の尺度で、あるほかの人を判断することはしない。たくさんの違った生き方があると思っているからだ。人は自分とは違うと考える方を選ぶ。今の時代は恐ろしく程度の低い時代で、徳を思い描くこと自体が欠けている。徳に満ちた行為はもうどこにも見られない。人は自分のできないことは褒めない場合が多い。だから我々の判断力は病んでいて、退廃した習俗に流されていることも知らない。小カトーが栄誉を狙っていたとか、悪意を持った意見があるが、小カトーは気高く正しい行為をしたのだとモンテーニュ-は評価する。ここで小カトーを賛美するラテン詩人の詩句に比較検討を行った。マルティアリス、マニリウス、ルカヌス、ホラティウス、ウェルギリウスの賛歌は力強い。
② キケロについての考察 (第2巻 第40章)
この章は古代の作家たちの論評から始まり、表現、文体、書簡について考察してゆく。まず最初はキケロと小プリニウスの作家を取り上げる。二人は度をはずれた野心満々な性質が限りなくみられる。後世に名を残そうという意図が露骨である。心情の低劣さ、友人に宛てた私信から栄誉を引き出そうとする魂胆である。活動の偉業さに並ぶものがないカエサルやクセノフォンに賞賛の弁舌を尽くしても彼らの偉業に変りは無かった。一人の人間をその身分や役割にふさわしくない性質によって評価するは、一種軽蔑するようなものである。執政官を音楽の才で褒めても何にもならない。戦闘指揮官を美貌でほめても意味がない。知識ということに関しては哲学があるのみで、行為に関しては徳があるのみである。私のこの「エセー」を本質的でない事項の引用や羅列で何倍かの分量に増加させても、権威付けや装飾の役には立つが、私はそれ以上の表現はしたくないと思っている。第2にセネカとエピクロスの二人の哲学者の書簡について考察する。キケロの雄弁はすでに最高の完成状態であるので、それ自体に実体がなければならない。書簡の前には私を高めてくれるようなあるしっかりとした交際が必要であった。私にはもともと打ち解けた文体を持っているので、美辞麗句で実質のない手紙を飾る必要はなかった。ましてお世辞は言えなかった。(イタリア人は手紙を印刷し出版することが好きな国民である。)
(つづく)