ブログ 「ごまめの歯軋り」

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 柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月10日 | 書評
奈良県橿原市今井町 その6

柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」
      
岩波新書(2019年年9月刊行)

ベンヤミンの青春と翻訳言語 (その2,その3)

2) 青春の形而上学(幼年期と青年運動)

ナチスが政権を掌握したドイツから亡命したベンヤミンは「経験と貧困」というエッセイを書いている。自分の世代の経験を次のように凝縮させた。「まだ鉄道馬車で学校に通っていた時代は、何一つ変化しないものはない風景の中にいた。破壊的な本流と爆発の力の場の中心に、そこに残ったちっぽけで脆い人間の肉体だけで立っていたのだ」 ベルリンで過ごした幼年期に始まった移行の時代に(19世紀末)、技術は都市の風景だけでなく、生活や人間もその内部から変えつつあった。都市生活の変化はベンヤミンが「1900年頃のベルリンの幼年時代」に語られている。ベンヤミンは1892年7月にベルリンでユダヤ人商家の第一子として生まれた。父親のエーミールは古物と美術品の競売所の共同経営者として成功を収めた。ベンヤミンは裕福なブルジョアの生活に慣れきっていた。ベンヤミンはユダヤ人としての出自を自覚していた。しかしユダヤ教には最初から距離を感じていたようであった。裕福なブルジョワの住むベルリンの西地区ルーネヴァルトに居を移した。高級住宅地をユダヤ人の隔離居住区域(ゲットー)に喩えるのは、ベンヤミンは幼年時代からここでの生活に息苦しさを感じていたのであろう。1902年カイザー・フリードリッヒ校に入学したが病弱と学校嫌いで小学校にはゆかず、当時の富裕層の子弟の様に私塾と家庭教師による教育を受けた。ギムナジウム(9年生の中高一貫校で大学入試資格を与えられる)で初めて学校教育を体験した。権威主義・軍隊主義に染まった集団生活には結局馴染めなかった。学校生活に疲れ果てたベンヤミンを見て両親はギムナジウムを退学させ、チューリンゲンにある「田園教育校」(教育思想家ヘルマン・りーツ設立)に転向させた。そこでベンヤミンを青年運動に導いたグスタフ・ヴィネケンに出会うことになった。彼にドイツ語と哲学を学んだベンヤミンは熱狂的な弟子となった。ここで健康の回復を取り戻したベンヤミンはカイザー・フリードリッヒ校に復学した。1912年フライブルグ大学に入学した。各地の大学に自由学生連合が結成され、青年運動は権威主義的な学校と家庭にかわる青年の自己の陶冶と解放の場を求めた運動を展開した。ベンヤミンは学校改革運動の理念とは、青年が文化として自己を形成する場とすることであった。

グスタフ・ヴィネケンの精神の学校共同体に変革する思想には、青年が指導者に服従することが謳われているが。ベンヤミンはこの点に違和感を覚えた。つまり経験の権威主義的体質を見抜いたベンヤミンは経験が持ち物質主義的な秩序への順応は青春を圧迫すると考えた。第1次世界大戦以前の思想的到達点をあらわす「青春の形而上学」(1913年執筆)があくまで思考による青春であって、「激しい生きざま」として現れるハインレの青春のアプローチとは距離を置いている。「青春の形而上学」は「対話」、「日記」、「舞踏会」の三章で構成される。対話の対象は娼婦で、内容は過去を私たちの青春として認識することであり、廃墟という精神の塊を前にすることである。語り手の言葉は聴き手の沈黙の中に消え行ってしまう。対話を通じて導かれた言語の限界に佇んで新たな言語の生まれるのを待つところに想像の精神がある。対話についてはこれ以上の突込みはない。ベンヤミンは日記の言葉のうちに、過ぎ去った日々が回帰するという。日記は「時についての書」であり、かつ「日々の書」である。沈黙の中から発せられる言葉は、世界を一つの風景として現出させる媒体となり、その出来事のうちに自我の再生があるあるという。日記はあくまで孤独の中で綴られる。孤独に耐えられない若者は、「舞踏会」という夜のベルリンのグロテスクな情景を求める。言語は世界と自我の照応の媒体である。この章ではボードレールの影響が見られる。第1次世界大戦が勃発する前、青春の言語の生成のための運動は挫折を強いられる。青年運動の指導者ヴィネケンが「戦争と青年」という講演で戦争は青年にとって倫理的体験として称賛した。これを契機にベンヤミンは1915年3月ヴィネケンに絶縁状を書き送った。同時に自殺した友人ハインレに捧げる「フリーッドリッヒ・ヘルダーリンの二篇の詩」を書き上げた。ここに批評家ベンヤミンが誕生した。今や青春は死者の忘れがたい生の内にあり、それはハインレのことを想起し続けることである。ベンヤミンはこの世界大戦という深い闇のなかを、言葉をもって抗い続けた。彼は闇に抗う思考の闘いを「批評」と呼び始めた。

3) 翻訳としての言語(言語哲学)

死の影に覆われた時代にあって、思考はその闇に立ち向かう。その闘いをベンヤミンは、1916年に「批評」と名付けた。青年運動の指導者ヴィネケンを含めて戦争に加担し、若者を戦争に駆り立てる者の言語の欺瞞を見抜いていた。批評する思考が表される媒体としての言語理論についてベンヤミンは省察を進めた。1916年秋の「言語一般および人間の言語について」がその成果である。このころベンヤミンはユダヤ教神秘主義研究の権威ショーレムと知り合いになった。こうしてベンヤミンとショーレムは言語をめぐる思想の共同研究者となった。神秘体験をもとに共同生活を営むユダヤ教の流派「ハシディズム」の思想家として有名だったブーバーについては、ベンヤミンは当初から批判的であった。ブーバーは第1次世界大戦の回線を歓迎する姿勢であった。ベンヤミンとユダヤ人の民族国家の樹立を目指すシオニズムとの接触は1912年に遡る。当時20歳のベンヤミンはシオニズムを自分の政治的な基盤に据えることはできないと言った。ベンヤミンのユダヤ教に対する態度は祭祀など直接的な体験に基づいていないし、とりわけ書物を通じた精神的な経験に軸足を置いていたという。数年後にはヴィネケン、ブーバーへの批判が先鋭化する。ベンヤミンによると人々を特定の行動へ動かすための手段としてのみ言語が利用されると、特定の効果しか生まない。言語はたんなる手段ではないとベンヤミンは考える。空虚な言葉が蔓延り、外的な情報を伝達するため、すなわち記号として流通するようになると言葉が常套句化して増殖する。後に残るのは自動的な反応としての「おぞましい」行動だけである。この次元で言葉が束ねられ、総力戦としての戦争の継続を可能としていることを見抜いた。言葉が何かを伝えるとすれば、言葉が自らの尊厳と本質を純粋に開示することによってである。言葉が自分の地方を持つとき、ベンヤミンは「非媒介的」であるという。語りえないものを言語において、結晶(像)として純粋に把握するということである。言葉を発するということは、言葉が最も内奥の沈黙という核に達するということである。

それぞれの事物が意味を帯びて立ち現れてきたとき、分節化した言語の世界が開かれる。すると人間という脆弱な生き物の生存の条件を言語が介在していることになる。すると言語の本質はどこにあるのだろうか。言語とはコミュニケーション・ツールだと割り切ることは容易である。しかしそれは言語の一面だけを見ているに過ぎない。ベンヤミンが「言語一般および人間の言語について」言葉を伝達の手段としてのみ見る言語観を「ブルジョワ的」といい、その根拠の薄弱さを批判した。言語が自動的に連鎖しあうことことに危険性を覚えながら、空虚な言葉の蔓延と戦争遂行の関係を見て、ベンヤミンは言語が一つの言葉の姿で語りだされる最初の出来事に思考を集中させる。ベンヤミンの言語そのものへのアプローチは、要するに例えばドイツ語で私たちが表現できると考えるすべてではなく、ドイツ語によって伝わるものの直接的表現であるという。言語は言葉の外にある情報を間接的に伝えるための手段ではない。どの言語も自己自身において伝わるのであり、言語とはもっとも純粋な意味での伝達の媒体なのである。このことをベンヤミンは「動詞の中動態」となぞらえる、「中動態」とはドイツ語の再起動詞に痕跡を残す動詞の態である。言葉で語りだされる出来事の中で、それぞれの言語は具体的に一つの言語となって現れる。この意味で言語は媒体である。言語とは自己自身において伝わる媒体であると述べるとき、ベンヤミンの念頭には真に何かを語る言葉が自ずから発せられる事態を想定している。言語が自己自身を語るのだ。実質的に何かが語りだされていることを、弁や人は「名」の概念で捉えている。名とは、言語自体の最も内奥にある本質である。「言語とは名である」ということができる。それゆえ人間の言語には、世界を創造し完成させる神の言葉が息づいている。これを「純粋言語」と呼んだ。人間の言葉が本質的に「名づける」ものであるならば、発語そのものが根源的には創造的な肯定である。なぜならば固有名とは、人間の音声となった神の言葉だからだ。言葉とは先ず聴く沈黙の時間が必要で、新たな言語の母体となる沈黙に他ならない。ひとたび言葉が到来するならば、現実から像が生まれ出でるのである。

言葉を発するとは、遭遇する人や事物の存在を肯定することである。言葉はそれぞれ特異な存在を語りだす意味において、何かを伝える前に「伝達可能性そのものを伝える」のである。つまり言語を発するとは突き詰めると、神の被造物の一つ一つをその名で呼ぶことなのである。つまり被造物の言語を受け止め、それに語り掛けることが一体化している。受動と能動の一体性において、ボードレールの語った「万物照応」の媒体として言語が生じる出来事を、ベンヤミンは「翻訳」と述べた。こうして翻訳の概念を、言語理論の根底で基礎づけることができる。翻訳を、外国語を理解できない人のための補助手段もしくは必要悪だという見かたがある。この時は統一された体系をなす外国語が対立するという構図である。そもそもこのような想定自体、ある民族、国民が一つの言語を話すという近代的な言語観の変形に過ぎない。こうした近代的言語観の下では、言語は国民という均質な空間に閉ざされている。言語は規則的な記号の運用による意思疎通の手段と道具主義に捉えるか、民族精神の本質として捉えるか両者は表裏一体の関係である。ベンヤミンの言語を発すること自体が翻訳だという考察は、自分とは根本的に違う異質な人間ですらない存在の間で、いつも行われていることである。言語とは翻訳である。地上で言葉が発せられる出来事は、それ自体が翻訳の活動なのだ。それとともに一つの言語が創造されるのである。言語は自分自身を組織化し始め、一つの独自の世界を語る。それはあらゆる共同体の神話に刻まれているだろ。神話はすでに啓蒙である。そこから言語は饒舌を揮い始め、名という言語自体の本質を失って堕落するのである。旧約聖書ではバベルの塔を建てたことに怒った神は、人間をバラバラに分断するため相互に通じ合えない形で分立した言語の内部に人間を閉じ込めたという。この硬直した言語体系の関係を取るために、他言語で書かれた文芸作品の「翻訳」が生まれた。1923年ボードレールの「パリ情景」の翻訳序文としてベンヤミンは「翻訳者の課題」を書いた。最初に原作があった。此処から出発する翻訳は、原作の言葉を理解できない人のために行われることではない。翻訳によって原作の言葉を窒息させるのである。翻訳は原作自体の「死後の生」であり、原作はさまざまに解釈される段階を刻んでゆくのである。ベンヤミンは「意訳」を劣悪と呼ぶが、言葉が「意味する仕方」に沿う翻訳こそが、原作の言葉を別の言語において新たに響かせることになる。ベンヤミンは「字句通り」の翻訳でなければならないという。字句通りの翻訳によって自己の解体を通じて、それぞれの言語は表現の可能性を見出すことが出来るのだという。こうして「翻訳」を「創作」と「批評」に並ぶ地位を与えた。特に詩的言葉の翻訳の過程で、言語は他の言語との間で、文学創造の源になる生成の運動を再開するのである。ベンヤミンの翻訳論としての言語哲学は、1920年に書かれた「暴力批判論」において、「神話的暴力」の批判は、その軛からの生命を、その自由において救い出そうとする。とりわけベンヤミンの翻訳論は詩的な言葉の翻訳の方法を示しながら、一つの言語が他の言語と呼応する回路を自己解体を伴って見出す道酔を、言語生成の「厳格な修練過程」とみなした。

(つづく))



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