ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年10月31日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロード 東橋より筑波山を見る

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第6回

第1章) トマス・アクィナスの根本精神ーアリストテレス哲学との出会い (その4)

神学大全では、第1部「神論」ー問題群「三位一体」ー第1問題「神について、神は存在するか」ー第1項「神は存在するか」という流れでひとつの幹を作る。「神学大全」は初学者のために書かれたので、詳細に入ることは避けられているが、スコラ哲学に特徴的なことは、引用が多いことである。これを「典拠・権威主義」と呼ぶことは先に述べた。典拠の採用は「註解書」からきている。トマスは当時のラテン・キリスト教世界の知識人に共通しているように、ヘブライ語もギリシャ語も読めなかった。トマスは古典をラテン語訳で読んでいる。体系的著作においても引用されるテキストの解釈はやはり註解書によって補わなければならない。現在ではアリストテレスや旧約聖書・新約聖書などの優れた註解書を専門的に書ける人はいない。トマスは驚異的な速度で古典を読み・書き、膨大な著作軍群を著した。1273年死の1年前にトマスは「私が見、私に示されたことに比べると、私が書いたすべてのことは藁屑みたいなものだ」といってすべての著作活動を放棄した。従って「神学大全」は未完の書物となった。神学者トマスが、より確固とした神秘の認識を思いかけない仕方で与えられた時、その時の認識が決定的に確固としたものであったからこそ、書く営みを放棄して沈黙したという見方ができる。トマスは「神学大全」第1部第46問題第2項において「世界に始まりがあったということは信仰箇条であるか」という問いを立てた。世界に時間的な始まりがあったか否かという問題に人間の理性の限界を見た。また理性では知り得ない「三位一体の神秘」に、トマスは「ローマの信徒への手紙註解」では「人間たちのもとにおいては隠されていたが、知恵ある神のみには知られれていた神秘」に人間では知り得ない神の神秘を強調した。そうした神秘を決定的な仕方で人間に開示してくれた存在こそイエスキリストであった。「神秘」が単なる不合理ではなく独自の論理と構造を有するものであるという理性と神秘の相互関係を明示した。トマスの「徳論」の特徴は、古代ギリシャのアリストテレスによって体系化された徳論(とりわけ「枢要徳」賢・正義・勇気・節制)を受け継ぎながら、アリストテレスにはなかったキリスト教的な「神学的徳」(信仰・希望・愛)を最重要な徳として体系化しなおした点にある。

(つづく)

山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年10月30日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロードより 銀色にきらめく波面

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第5回

第1章) トマス・アクィナスの根本精神ーアリストテレス哲学との出会い (その3)

トマスは「対異教徒大全」で「知性的な諸々の本性は、他のものより全体への親和性を有している。知性の実体とは自らの知性によって全存在を把握する限りにおいてすべてのものである」という。ここにいう知性の実体とは神と人間のことである。「知性」とは推論的・過渡的・分析的な理性のことで、「知性」とは全体を把握する直感的な理性のことを指している。すると神は「知性的存在」と呼ばれ、人間は「理性的存在」と呼ばれ区別される。といっても人間は直感的な知性の働きを持たないわけではなく、人間のあらゆる認識において知性は無くてはならない役割を果たしている。トマスはアリストテレスに倣って、考察に重きを置く「理論理性」と、行為に結びつける理性を「実践理性」に大別する。理論理性の第1原理は矛盾律で「同時に肯定し、かつ否定することはあり得ない」ということである。実践理性の第1原理は「善はなすべし、悪は避けるべきである」というものである。善には「道徳的善」、「快楽的善」、「有用善」の三種類あるとトマスはいう。人間の知的能力は、理論的、実践的側面でも「知性」と「理性」の二重構造である。神ではない人間は「知性」によってすべてをおッキョに直感的に認識することはできない。人間は理性的存在者であるから、目的としての全体性へと、認識行為の積み重ねによって近づこうとするのである。しかしあらゆる実在に対して自らを知的に開いて行こうとする根源的に開かれた態度をとるのである。理性的精神の権化といわれたトマスは49歳という若さで亡くなったにもかかわらず、驚異的な著作群を遺しました。トマスの全著作は①体系的著作、②討論集、③聖書註解、④アリストテレス註解、⑤その他の註解です。体系的著作としては、主著である「神学大全」と「対異教徒大全」があります。討論集には中世大学の教育方法で、定期討論と公開の任意討論があります。討論集はトマスの中心的業績の一つです。註解書はトマスの中心的業績で、聖書とアリストテレスの著作の大半について詳細な註解書を遺した。聖書註解は旧約聖書と新約聖書の註解の二つに分かれる。アリストテレスの著作に対する註解は本書においては「形而上学」、「ニコマコス倫理学」、「自然学」の大著から多く引用されている。その他、プラトン主義的なアレオパギタの「神名論」註解を遺した。トマスはキリスト教学と新プラトン主義を統合した人で、思想内容は超越者としての神の善性から万物が発生し、人間の神への復帰と一致、万物の階層秩序といった視点がトマスに影響を与えた。著作の形式としては「対異教徒大全」は論文形式で書かれているが、「神学大全」や多くの討論集は討論形式で書かれている。中世の大学(スコラ派)の討論は、まず異論が列挙され、反論を踏まえたうえで、主文が展開される。そして最後に解答が置かれ全体としてひとつの「項」でくくるという形式である。そしていくつかの「項」がまとまって「問題」という上位概念を構成する。「問題」がいくつか集まって「問題群」が形成される。問題群のまとめて「部」となる

(つづく)


山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年10月29日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロード 東橋より

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第4回

第1章) トマス・アクィナスの根本精神ーアリストテレス哲学との出会い (その2)

千年以上前の古代ギリシャの哲学者アリストテレスのテキストが、イスラム世界を通じて逆輸入され、12世紀から13世紀にかけてのラテン・キリスト教世界においては斬新な思想として紹介されたという歴史の顛倒があったことは有名な話である。古代ギリシャの思想はイスラム世界に伝えられ、西欧では途絶えた古代ギリシャの思想をイスラム世界のテキストから学んだのである。西欧の文芸復古運動ルネッサンスを手助けしたのはイスラム世界であった。アリストテレス哲学には、明らかに後世のキリスト教世界観に反する学説があった。「知性の唯一性」、「世界の永遠性」の二点であった。こうしたアリストテレス学説受容をめぐってキリスト教世界にはさまざまな対応が見られた。①保守的アウグスティヌス主義は、伝統的なキリスト教世界を衝突しない部分だけを受容した、②急進的アリストテレス主義では、キリスト教に反するアリストテレス哲学の自律的要素を積極的に取り入れ、信仰の真理と哲学の真理は別物として扱った。③中道的アリストテレス主義をトマス・アクィナスはとる。だからトマスはいつも折衷主義者と見なされる。アリストテレスの理性的な世界認識を援用することでキリスト教神学を構築しなおし、ダイナミックな相互関係の中で考えるものである。トマスはアリストテレスの「霊魂論」を引いて、「魂の到達できる究極的な完全性とは、宇宙とその諸原因の全秩序が霊魂=人間精神に書き込まれることである。」そしてそれは神の直視のうちにあるという。この表現は、トマスの哲学・神学体系の最も凝縮された要約といえる。トマスの文章には冒頭にアリストテレス、末尾に大グレゴリウス(540-604年)のテキストからの引用がある。大グレゴリウスはヒエロ二ムス、アンブロシウス、アウグスティヌスとならぶラテン世界の4大教父である。トマスは書き手だけではなく。読み手として著名であり、多彩なテキストからの引用を組み合わせながら自説を構成してゆく。こうしたやり方は「スコラ哲学」の有力な手段であった。いわば議論のあちこちに古典的に著名な著者の言葉を散りばめてゆく「権威主義」的論法である。「典拠」主義ともいえる。認識するとは人間精神(魂)が世界を受容することにほかならないというトマスの基本的見解から始まる。アリストテレスは「知性によってすべての可知的な形相を受容する」といい、グレゴリウスは「すべてを見給う者(神)の眼に入らないものがあろうか」という。これを「至福直感」と呼ぶ。愛に満ちた形口ではあるが哲学的基礎づけのないグレゴリウスの言葉と、人間精神を哲学的に分析するアリストテレスの言葉がトマスによって結び付けられる。

(続く)

山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年10月28日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロード 中島

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第3回

第1章) トマス・アクィナスの根本精神ーアリストテレス哲学との出会い (その1)

「愛のあるところ、そこに眼がある」というトマスの有名な言葉があります。愛しているからこそみえてくる物事の深層ということです。愛読書というものは。、読むこと自体が人生の最も豊かな時間となって積み重ねられる書物、つまり「古典」のことです。トマスの「神学大全」もそのような古典の一つだそうです。私は読んだことはないし、我が国においてはあまり読まれていないだろう。2012年に完成した「神学大全」の邦訳は全45巻に及ぶ長大なものである。邦訳本でさえ通読した日本人はまだいないだろうと言われる。膨大な著作を遺したトマスの思想体系を全部語ることは、新書では到底不可能です。トマスは哲学者でもあり神学者でもある。哲学的側面だけを語ってもトマスを語ったことにはならない。本書はトマスの入門書であるが、筆者の愛するトマスの側面を「神学大全」から拾って行くということになろうかと思う。この第1章は「総論」ともいうべき、トマス・アクィナスの根本精神についてです。1244年トマスはナポリ大学を出ると、それまでいたベネディクト会を出て両親の期待を裏切ってドミニコ会に入会したと先に書きました。ドミニコ会とは、1216年ドミニクス(1170-1231年)によって創立された修道会で、イエズス会、フランシスコ会、カルメル会などがあります。ドミニコ会は「托鉢修道会」とも呼ばれ、定住して祈りの生活に従いました。ベネディクト会は「祈り、働け」というように自給自足の農村に依拠した修道会でしたが、托鉢修道会は急速に発達した都市における巡歴説教に力を入れるもので、都市で流行した異教に対抗するものでした。キリストの正統的な教えを原点に立ち戻ってたて直そうとした。農村から都市へという人の流れに対応した新しい形の布教活動でした。ドミニコ会の根本精神を、トマスは「観想の実りを他者に伝える」と表現しています。「観想的生活」は「活動的生活」と対をなしている言葉で古代ギリシャのアリストテレスに由来する。観想とは「何らかの実践的な目的のためでなく、事柄の真相をありのままに認識しようとする知的営み」であり、セオリーという語源になります。祈りや黙想に基づきながら精神を究極的な真理である神へと一致させてゆく活動を意味します。観想と実践(説教・教育)を組み合わせたドミニコ会の在り方は時代の要請に合致し流行してゆきました。理性によって世界をありのままの姿で観想するアリストテレスの影響を深く受けて、トマスはこの世界の創造者である神をありのままに認識することでした。トマスが生涯をかけたのは人間の「理性」を越えた「神秘」そのものである神だった。

(つづく)

山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年10月27日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロード 北橋より

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第2回

序(その2)

次にトマス・アクィナスの思想を簡単にまとめて置く。トマスの最大の業績は、キリスト教思想とアリストテレスを中心とした哲学を統合した総合的な体系を構築したことである。かつてはトマスは単なるアリストテレス主義者にすぎないという見方もあったが、最近の研究ではそのような見方は否定されている。トマスはアヴィケンナやアヴェロエス、アビケブロン、マイモニデスなどの多くのアラブやユダヤの哲学者たちの著作を読んで研究し、その著作においても度々触れている。そこから、トマスは単なる折衷家にすぎないとの見方も根強いものがあったが、現在では、「存在」の形而上学がトマス的総合の核心であり、彼独自の思想である点で見解の一致が見られる。全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。トマスの思想は、その死後もトマス主義として脈々と受け継がれ、近代の自然法論や国際法理論や立憲君主制にも多大な影響を与えただけでなく、19世紀末におきた新トマス主義に基づく復興を経て現代にも受け継がれている。私が今まで読んだキリスト教の教父伝記としては、わずか二人しかいない。出村和彦著「アウグスティウス」(岩波新書2017年10月)と徳善義和著「マルティン・ルター」(岩波新書2012年6月)である。
神学の面では、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスの異教活動禁止のため、一度は途絶したギリシア哲学の伝統がアラブ世界から西欧に莫大な勢いで流入し、度重なる禁止令にもかかわらず、これをとどめることはできなくなっていた。また、同様に、商業がめざましい勢いで発展し、都市の繁栄による豊かさが横溢した。、トマスは、このような時代背景の下、哲学者アリストテレスの註釈家と呼ばれていたアヴィケンナやアヴェロエスとは、キリスト教の真理を弁証する護教家として理論的に対決する必要に迫られていた。また、トマスは、同様に、アビケブロンのみならず多くのユダヤ人思想家とも対決をしなければならなかった。トマスは、アリストテレスの存在論を承継しつつも、その上でキリスト教神学と調和し難い部分については、新たな考えを付け加えて彼を乗り越えようとしたのであり、哲学は「神学の婢」であった。
哲学において、すべての存在者は可能態から現実態への生成流転の変化のうちにあるが、「神」(不動の動者)は質料をもたない純粋形相でもあった。しかし、トマスにとって、神は、万物の根源であるが、純粋形相ではあり得なかった。旧約聖書の『出エジプト記』第3章第14節で、神は「私は在りて在るものである」との啓示をモーセに与えているからである。そこで、彼は、アリストテレスの存在に修正を加え、「存在-本質」を加えた。彼によれば、「存在」は「本質」を存在者とするため「現実態」であり、「本質」はそれだけで現実に存在できないため「可能態」である。「存在」はいかなるときにおいても「現実態」である。神は、自存する「存在そのもの」であり、純粋現実態である。人間は、理性によって神の存在を認識できる(いわゆる宇宙論的証明)。しかし、有限である人間は無限である神の本質を認識することはできず、理性には限界がある。もっとも、人間は神から「恩寵の光」と「栄光の光」を与えられることによって知性は成長し神を認識できるようになるが、生きている間は恩寵の光のみ与えられるので、人には信仰・愛・希望の導きが必要になる。トマスは、存在論に基づく神中心主義と、理性と信仰に基づく人間中心主義の統合を図り、後世の存在論に多大な影響を与えることになった。
法・政治論においては、トマスは、神の摂理が世界を支配しているという神学的な前提から、永久法の観念を導きだし、そこから理性的被造物である人間が永遠法を「分有」することによって把握する自然法を導き出し、その上で、人間社会の秩序付けるために必要なものとして、人間の一時的な便宜のために制定される人定法と神から啓示によって与えられた神定法という二つの観念を導きだした。人間の能力には限界があるために、人々は永久法から与った自然法にもとづいて適切に人定法を制定するということができず、また、様々な意見の対立が生じるので、それを補うために神から与えられたものが、神定法である。ここで、神定法として念頭に置かれているのは、旧約聖書と新約聖書において命じられている事柄であり、前者は旧法、後者は新法と呼ばれる。

(つづく)