言葉の使い方に正誤はない 時代をへて日本語は変わってゆく 第1回
序
2014年4月18日、岩波新書より「日本語の今昔」に関する本が2冊同時に刊行された。1)田中章夫著 「日本語スケッチ帳」は現在の日本語の様子をウォッチングしている。2)今野真二著 「日本語の考古学」は明治時代以前の日本語の変遷をいろいろな視点で考察している本である。2冊の本は、特に系統的に日本語の変遷を論じているわけではなく、トピックス的に面白そうな話題を披露しているので、肩の凝らない読みやすい読本である。2冊を読んでみて私が思うことは、今も昔も言葉は環境に応じて移ろいゆくもので、この言い方、読み方、書き方が正しいとか誤っているとかいうことはできないということである。常用とか変体とか言いう区別は多数決で採る者でもなく、まして地域的な差異(方言)は当たり前のこととして許容しなければならない。言葉は都から同心円状に伝播したといううがった見かたは、立証できているわけではない中央集権的な見方である。変体的な使い方も次第に常用になることもある。言葉は人が使うものであるから、使いやすいと感じられると広まるものである。明治維新で方言を整理して、山の手言葉から「標準語」というものができ、画一的な教育が可能となったが、今も大阪弁は地方では立派に生きている。日本語を使う人は1億2千万人おり、世界で9番目に多いとされているが、結局国の人口の数に過ぎず、日本語が孤立した言語であることは変わりない。日本語の起源は不明である。国際化において日本語は障害になっているのだろうか。英語を世界語にするかという議論も米国の覇権が破たんすれば、中国語に取って代わる可能性もないとは言えない。言葉の発生と文法の発生についても脳細胞構造と機能から説明することは今のところできていない。ましてDNA塩基配列の差異から説明することは不可能である。国語学という学問ジャンルにはあまりなじみがなく、乱れた日本語のウォッチングや文法や、常用漢字制限、送り仮名の使い方などについて、文部省が発表する記事を新聞紙上で読むくらいであった。文部官僚が制限を強めたり緩めたりといった、国語審議会を使った裁量行政の弊害のみが気になる分野でほとんど関心がなかった。今も昔も国語は揺れ動いており、何が正しいかというよりは、その変化は何を反映しているかという時々の社会意識が動かしているようである。将来国際化によって孤立した言語「日本語」がなくなるかどうかは知らないが、日本語はどうして成立したのかのほうに限りない興味が湧くのである。
まず最初に著者田中章夫氏のプロフィールを概観しておこう。氏は1932年東京赤坂生まれ。1959年東京教育大学(現筑波大学)博士課程を修了。香川大学の教師、国立国語研究所言語計量研究室長を経て、大阪大学外国語教授、学習院大学教授を歴任した。その間、台湾、オーストリア、エジプト、インド、オーストラリア、上海・北京・台連の大学で日本語教室に勤務した。専攻は近代日本語学、日本語語彙論であるそうだ。主な著書には「国語語彙論」(明治書院1978年)、「東京語ーその成立と展開」(明治書院1983年)、「標準語」(誠文堂新光社1991年)、「日本語の位相と位相差」(明治書院1999年)、「近代日本語の語彙と語法」(東京堂出版2002年)、「日本語雑記帳」(岩波新書2012年)などがある。本書「日本語スケッチ帳」では、各章に順序や系統があるわけではないのでトッピクスを拾い読みしてゆけばいい。ちなみに各章の題名は1)二ホン語は、いま、2)揺れ動く言葉、3)人命と地名、4)外国語から外来語、5)スポーツの言葉、6)翻訳の世界、7)文体・表現・敬語など、8)語法と用字の諸相、9)変身するコトバ という内容である。各章は4つから5つのトピックスからなる。では気軽にトッピクスを追ってみてゆこう。
(つづく)
序
2014年4月18日、岩波新書より「日本語の今昔」に関する本が2冊同時に刊行された。1)田中章夫著 「日本語スケッチ帳」は現在の日本語の様子をウォッチングしている。2)今野真二著 「日本語の考古学」は明治時代以前の日本語の変遷をいろいろな視点で考察している本である。2冊の本は、特に系統的に日本語の変遷を論じているわけではなく、トピックス的に面白そうな話題を披露しているので、肩の凝らない読みやすい読本である。2冊を読んでみて私が思うことは、今も昔も言葉は環境に応じて移ろいゆくもので、この言い方、読み方、書き方が正しいとか誤っているとかいうことはできないということである。常用とか変体とか言いう区別は多数決で採る者でもなく、まして地域的な差異(方言)は当たり前のこととして許容しなければならない。言葉は都から同心円状に伝播したといううがった見かたは、立証できているわけではない中央集権的な見方である。変体的な使い方も次第に常用になることもある。言葉は人が使うものであるから、使いやすいと感じられると広まるものである。明治維新で方言を整理して、山の手言葉から「標準語」というものができ、画一的な教育が可能となったが、今も大阪弁は地方では立派に生きている。日本語を使う人は1億2千万人おり、世界で9番目に多いとされているが、結局国の人口の数に過ぎず、日本語が孤立した言語であることは変わりない。日本語の起源は不明である。国際化において日本語は障害になっているのだろうか。英語を世界語にするかという議論も米国の覇権が破たんすれば、中国語に取って代わる可能性もないとは言えない。言葉の発生と文法の発生についても脳細胞構造と機能から説明することは今のところできていない。ましてDNA塩基配列の差異から説明することは不可能である。国語学という学問ジャンルにはあまりなじみがなく、乱れた日本語のウォッチングや文法や、常用漢字制限、送り仮名の使い方などについて、文部省が発表する記事を新聞紙上で読むくらいであった。文部官僚が制限を強めたり緩めたりといった、国語審議会を使った裁量行政の弊害のみが気になる分野でほとんど関心がなかった。今も昔も国語は揺れ動いており、何が正しいかというよりは、その変化は何を反映しているかという時々の社会意識が動かしているようである。将来国際化によって孤立した言語「日本語」がなくなるかどうかは知らないが、日本語はどうして成立したのかのほうに限りない興味が湧くのである。
まず最初に著者田中章夫氏のプロフィールを概観しておこう。氏は1932年東京赤坂生まれ。1959年東京教育大学(現筑波大学)博士課程を修了。香川大学の教師、国立国語研究所言語計量研究室長を経て、大阪大学外国語教授、学習院大学教授を歴任した。その間、台湾、オーストリア、エジプト、インド、オーストラリア、上海・北京・台連の大学で日本語教室に勤務した。専攻は近代日本語学、日本語語彙論であるそうだ。主な著書には「国語語彙論」(明治書院1978年)、「東京語ーその成立と展開」(明治書院1983年)、「標準語」(誠文堂新光社1991年)、「日本語の位相と位相差」(明治書院1999年)、「近代日本語の語彙と語法」(東京堂出版2002年)、「日本語雑記帳」(岩波新書2012年)などがある。本書「日本語スケッチ帳」では、各章に順序や系統があるわけではないのでトッピクスを拾い読みしてゆけばいい。ちなみに各章の題名は1)二ホン語は、いま、2)揺れ動く言葉、3)人命と地名、4)外国語から外来語、5)スポーツの言葉、6)翻訳の世界、7)文体・表現・敬語など、8)語法と用字の諸相、9)変身するコトバ という内容である。各章は4つから5つのトピックスからなる。では気軽にトッピクスを追ってみてゆこう。
(つづく)