ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年11月11日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロードより

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第17回 最終回

第5章) 「理性」と「神秘」 (その3)

「キリストは位格ペルソナにおいては一であるが、そのペルソナが神性と人性という二つを担うという」ということである。キメラ的存在であり、矛盾の融合の極みである。トマスは「異教徒大全」において、理性によって必然的的な方法で論証できない場合、「最もふさわしい」という形容詞が用いられる。キリストの神秘ではこの言葉が多用されている。理学で理性的論証は必須である。しかし人生において真に重要な事柄において、理性で論証できることなど何があるだろうか。キリスト教の教義を丸ごと「信じ込む」のではなく、理性で丹念に考察してなお手に余る事柄(神秘)を理解するには「ふさわしい」という論理が必要だとトマスは主張する。最初の人間であるアダムが罪を犯して以来、人間の本性が神の恩寵から切り離され、人間本来の働きが弱まったとする「原罪論」をトマスは踏まえて、アダムの罪は、人類を究極的な至福へと導くキリストの受肉をもたらすきっかけとなったと主張する。まことにどんな矛盾も融和させ混淆させる融通無碍・天下無敵の弁証法をトマスは持っている。「人間万事塞翁が馬」式の弁証法である。失敗は成功の母であり、成功は失敗の元であるとする論理である。人間本性を回復させるために受肉がふさわしいとする理由を十個列挙している。「受肉の神秘」という人間理性による理解を超えた事柄の意味するものを、トマスは理性に基づいて(屁理屈に過ぎないと思うが)探求するのである。その理由の5つを紹介する。①信仰に関する限り、②希望に関する限り、③愛に関する限り、④正しい行為に関する限り、⑤人間の至福である神性に関する限りであるという。要するに神学的徳に関する事柄は「ふさわしい」という論理で処理できるとするのである。人間理性の自己超越性は「神秘」との対話によってのみ到達できるという。キリストによって開示された神の神秘性へと理性によって肉薄する開かれた態度、それがトマスの根本精神であるということが本書の結論である。「理性」と「神秘」の相互作用を軸に考えることによってこそ、トマス哲学・トマス神学が捉えられる。今思うと、パスカルの「パンセ 断章」は、未完で未編集状態で残されたパスカルの神学的瞑想であった。トマスより約400年後の「神学大全」になろうとして能力と時間がなかった未完の書であった。

(完)