徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第4回
第2編 「立法」
国家を作った目的となる公共の幸福とは何かの約束に従って、国家の諸々の力を指導できるのは一般意思だけでである。個々人の利益の対立から社会の設立を必要としたのだから、社会が出来上がったのは個々人の利益の一致点があったからである。だから主権とは一般意思の行使にほかならないので、これを譲り渡すことは決してできないことだ。もし人民が簒奪者に服従することを簡単に許すなら、主権者としての人民は消滅し、人民たる資格を失うのである。支配者ができた瞬間にもはや主権者はいない。主権は譲り渡すことができないのと同じ理由で、主権は分割できない。主権は人民全体の意志であるので、この意思の表明は主権の一部であり法律となる。現在の政治学者は主権を対象によって分割している。立法権、執行権、司法権、交戦権、外国との条約締結権などに分割している。しかし諸々の権利はすべて主権に従属していて、その意志の執行をなしている。全体意志と一般意思に分けられ、全体意志は私的意志の総和であるが、その相違点をすべて除くと一般意思となる。一般意思が十分に表明されるには、国家の内に部分的社会が存在しないことが必要である。社会契約によって、各人が譲り渡す能力、財産、自由は、その使用が共同体にとって必要な全体の部分に限られる。それを決定するのは主権者のみである。我々を社会全体に結びつけている約束は、この約束が相互的であるがゆえに、拘束的である。一般意思の権利の平等、正義の観念は常に正しい。構成員全員が正しいとおもったからこそ契約したのである。それを覆すことは一からやり直す事になる。政治体とその構成員の各々との約束である。それは侵すべからざるの、絶対的な共同体の理念である。社会契約において個々人の権利の放棄があるうるというのは誤りである。契約は一層有利な交換をすることであって、権利を奪われることでは決してない。社会契約は、構成員の生命の保存を目的にしている。だから政治体は構成員の生命を奪うことは、政治体自身を亡くすることである。社会的権利を侵害する悪者は政治体への反逆者である。犯罪者の処刑は主権者が委託することはあるが、自ら行使しえない権利である。政治体は契約によって存在を約束された。そこでは理性による普遍的正義を実現しなければならに。そのためには約束は相互的でなければならない。国家の法がここから発生した。全人民が法の取り決めをする対象は、取り決めをする意志と等しく一般的である。人間を個人として、また行為を個別的なものとして考えるのではない。主権者すら個別的対象に命じたことはもはや法ではなく命令である。主権の行為ではなく行政機関の行為である。法は一般意思であり約束であるが、行政(裁判を含む)は個別的対象を取り扱う。そのギャップがあるとすれば、まま官僚機構の「裁量」と呼ばれる。立法者の知性は、全体と将来を見通したもので、法により新しく獲得される力は一層大きく、永続的で、その制度も一層確実で完全でなくてはならない。従って法を支配する者は、個別の人々を支配してはならない。ローマの歴史で内部に共和政から専制の支配が現れたのは、立法の権威と主権(国)が同一の人の手に落ちたからであった。法律を作るものは、何らの立法権を持たないし、持ってはならない。立法権は人民にあり、人民が一般意思に従って同意を与えるのである。(現在の日本においては国民は直接立法権にアクセスすることはできない) ルソーは国家の大きさについて、小さいほうがいいと言っています。大きな政府は何もかも押しつぶして、臣民を枯らしてしまう。支配者たちは事務に圧倒されて、自分お目では何も見ていない。国務を担っているのは小役人たちである。自分お大政に比べてあまりに大きすぎる政治体は自分自身の重みに耐えられない。そして近隣国の人民を犠牲にして大きくなろうとする。政府の必要性が国家体制そのものの内にく組み込まれており、自分を維持するには膨張するしかないように作られている。繁栄の終局とともに、没落の運命は免れない。国家の大きさは人民の数と相関する。そして土地の生産力がキーポイントである。貿易か侵略戦争かしか選べない国民は本来弱い国民である。政治体が抵抗力をなくした時が、新たな契約を結ぶ時期である。簒奪者はいつもこの時を狙っている。(しかしこの繁栄の期間は歴史上、数十年から数百年は続くものである。人民の抵抗力、政治体の軍事力などで長短はあるが) あらゆる立法に体系の主要な目的は、最大の正義すなわち自由と平等の2つに帰す。ひどい社会の格差(貧富の差)は認めてはならない。暴君の出現に直結し、公共の福祉にとって有害である。国家の体制を永続的でゆるぎないものにするには、法が自然の関係を確実なものにし、両者の関係を正しくするようになるべきである。
(つづく)
第2編 「立法」
国家を作った目的となる公共の幸福とは何かの約束に従って、国家の諸々の力を指導できるのは一般意思だけでである。個々人の利益の対立から社会の設立を必要としたのだから、社会が出来上がったのは個々人の利益の一致点があったからである。だから主権とは一般意思の行使にほかならないので、これを譲り渡すことは決してできないことだ。もし人民が簒奪者に服従することを簡単に許すなら、主権者としての人民は消滅し、人民たる資格を失うのである。支配者ができた瞬間にもはや主権者はいない。主権は譲り渡すことができないのと同じ理由で、主権は分割できない。主権は人民全体の意志であるので、この意思の表明は主権の一部であり法律となる。現在の政治学者は主権を対象によって分割している。立法権、執行権、司法権、交戦権、外国との条約締結権などに分割している。しかし諸々の権利はすべて主権に従属していて、その意志の執行をなしている。全体意志と一般意思に分けられ、全体意志は私的意志の総和であるが、その相違点をすべて除くと一般意思となる。一般意思が十分に表明されるには、国家の内に部分的社会が存在しないことが必要である。社会契約によって、各人が譲り渡す能力、財産、自由は、その使用が共同体にとって必要な全体の部分に限られる。それを決定するのは主権者のみである。我々を社会全体に結びつけている約束は、この約束が相互的であるがゆえに、拘束的である。一般意思の権利の平等、正義の観念は常に正しい。構成員全員が正しいとおもったからこそ契約したのである。それを覆すことは一からやり直す事になる。政治体とその構成員の各々との約束である。それは侵すべからざるの、絶対的な共同体の理念である。社会契約において個々人の権利の放棄があるうるというのは誤りである。契約は一層有利な交換をすることであって、権利を奪われることでは決してない。社会契約は、構成員の生命の保存を目的にしている。だから政治体は構成員の生命を奪うことは、政治体自身を亡くすることである。社会的権利を侵害する悪者は政治体への反逆者である。犯罪者の処刑は主権者が委託することはあるが、自ら行使しえない権利である。政治体は契約によって存在を約束された。そこでは理性による普遍的正義を実現しなければならに。そのためには約束は相互的でなければならない。国家の法がここから発生した。全人民が法の取り決めをする対象は、取り決めをする意志と等しく一般的である。人間を個人として、また行為を個別的なものとして考えるのではない。主権者すら個別的対象に命じたことはもはや法ではなく命令である。主権の行為ではなく行政機関の行為である。法は一般意思であり約束であるが、行政(裁判を含む)は個別的対象を取り扱う。そのギャップがあるとすれば、まま官僚機構の「裁量」と呼ばれる。立法者の知性は、全体と将来を見通したもので、法により新しく獲得される力は一層大きく、永続的で、その制度も一層確実で完全でなくてはならない。従って法を支配する者は、個別の人々を支配してはならない。ローマの歴史で内部に共和政から専制の支配が現れたのは、立法の権威と主権(国)が同一の人の手に落ちたからであった。法律を作るものは、何らの立法権を持たないし、持ってはならない。立法権は人民にあり、人民が一般意思に従って同意を与えるのである。(現在の日本においては国民は直接立法権にアクセスすることはできない) ルソーは国家の大きさについて、小さいほうがいいと言っています。大きな政府は何もかも押しつぶして、臣民を枯らしてしまう。支配者たちは事務に圧倒されて、自分お目では何も見ていない。国務を担っているのは小役人たちである。自分お大政に比べてあまりに大きすぎる政治体は自分自身の重みに耐えられない。そして近隣国の人民を犠牲にして大きくなろうとする。政府の必要性が国家体制そのものの内にく組み込まれており、自分を維持するには膨張するしかないように作られている。繁栄の終局とともに、没落の運命は免れない。国家の大きさは人民の数と相関する。そして土地の生産力がキーポイントである。貿易か侵略戦争かしか選べない国民は本来弱い国民である。政治体が抵抗力をなくした時が、新たな契約を結ぶ時期である。簒奪者はいつもこの時を狙っている。(しかしこの繁栄の期間は歴史上、数十年から数百年は続くものである。人民の抵抗力、政治体の軍事力などで長短はあるが) あらゆる立法に体系の主要な目的は、最大の正義すなわち自由と平等の2つに帰す。ひどい社会の格差(貧富の差)は認めてはならない。暴君の出現に直結し、公共の福祉にとって有害である。国家の体制を永続的でゆるぎないものにするには、法が自然の関係を確実なものにし、両者の関係を正しくするようになるべきである。
(つづく)