ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート ルソー著 桑原武夫ら訳 「社会契約論」 (岩波文庫)

2016年06月30日 | 書評
徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第4回

2編 「立法」

国家を作った目的となる公共の幸福とは何かの約束に従って、国家の諸々の力を指導できるのは一般意思だけでである。個々人の利益の対立から社会の設立を必要としたのだから、社会が出来上がったのは個々人の利益の一致点があったからである。だから主権とは一般意思の行使にほかならないので、これを譲り渡すことは決してできないことだ。もし人民が簒奪者に服従することを簡単に許すなら、主権者としての人民は消滅し、人民たる資格を失うのである。支配者ができた瞬間にもはや主権者はいない。主権は譲り渡すことができないのと同じ理由で、主権は分割できない。主権は人民全体の意志であるので、この意思の表明は主権の一部であり法律となる。現在の政治学者は主権を対象によって分割している。立法権、執行権、司法権、交戦権、外国との条約締結権などに分割している。しかし諸々の権利はすべて主権に従属していて、その意志の執行をなしている。全体意志と一般意思に分けられ、全体意志は私的意志の総和であるが、その相違点をすべて除くと一般意思となる。一般意思が十分に表明されるには、国家の内に部分的社会が存在しないことが必要である。社会契約によって、各人が譲り渡す能力、財産、自由は、その使用が共同体にとって必要な全体の部分に限られる。それを決定するのは主権者のみである。我々を社会全体に結びつけている約束は、この約束が相互的であるがゆえに、拘束的である。一般意思の権利の平等、正義の観念は常に正しい。構成員全員が正しいとおもったからこそ契約したのである。それを覆すことは一からやり直す事になる。政治体とその構成員の各々との約束である。それは侵すべからざるの、絶対的な共同体の理念である。社会契約において個々人の権利の放棄があるうるというのは誤りである。契約は一層有利な交換をすることであって、権利を奪われることでは決してない。社会契約は、構成員の生命の保存を目的にしている。だから政治体は構成員の生命を奪うことは、政治体自身を亡くすることである。社会的権利を侵害する悪者は政治体への反逆者である。犯罪者の処刑は主権者が委託することはあるが、自ら行使しえない権利である。政治体は契約によって存在を約束された。そこでは理性による普遍的正義を実現しなければならに。そのためには約束は相互的でなければならない。国家の法がここから発生した。全人民が法の取り決めをする対象は、取り決めをする意志と等しく一般的である。人間を個人として、また行為を個別的なものとして考えるのではない。主権者すら個別的対象に命じたことはもはや法ではなく命令である。主権の行為ではなく行政機関の行為である。法は一般意思であり約束であるが、行政(裁判を含む)は個別的対象を取り扱う。そのギャップがあるとすれば、まま官僚機構の「裁量」と呼ばれる。立法者の知性は、全体と将来を見通したもので、法により新しく獲得される力は一層大きく、永続的で、その制度も一層確実で完全でなくてはならない。従って法を支配する者は、個別の人々を支配してはならない。ローマの歴史で内部に共和政から専制の支配が現れたのは、立法の権威と主権(国)が同一の人の手に落ちたからであった。法律を作るものは、何らの立法権を持たないし、持ってはならない。立法権は人民にあり、人民が一般意思に従って同意を与えるのである。(現在の日本においては国民は直接立法権にアクセスすることはできない) ルソーは国家の大きさについて、小さいほうがいいと言っています。大きな政府は何もかも押しつぶして、臣民を枯らしてしまう。支配者たちは事務に圧倒されて、自分お目では何も見ていない。国務を担っているのは小役人たちである。自分お大政に比べてあまりに大きすぎる政治体は自分自身の重みに耐えられない。そして近隣国の人民を犠牲にして大きくなろうとする。政府の必要性が国家体制そのものの内にく組み込まれており、自分を維持するには膨張するしかないように作られている。繁栄の終局とともに、没落の運命は免れない。国家の大きさは人民の数と相関する。そして土地の生産力がキーポイントである。貿易か侵略戦争かしか選べない国民は本来弱い国民である。政治体が抵抗力をなくした時が、新たな契約を結ぶ時期である。簒奪者はいつもこの時を狙っている。(しかしこの繁栄の期間は歴史上、数十年から数百年は続くものである。人民の抵抗力、政治体の軍事力などで長短はあるが) あらゆる立法に体系の主要な目的は、最大の正義すなわち自由と平等の2つに帰す。ひどい社会の格差(貧富の差)は認めてはならない。暴君の出現に直結し、公共の福祉にとって有害である。国家の体制を永続的でゆるぎないものにするには、法が自然の関係を確実なものにし、両者の関係を正しくするようになるべきである。

(つづく)
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読書ノート ルソー著 桑原武夫ら訳 「社会契約論」 (岩波文庫)

2016年06月29日 | 書評
徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第3回

第1編 「社会契約の本質的条件」

人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鎖につながれている。そのくびきの連鎖は留まるところを知らない。それがこの世の現実であろう。このことに気が付き自由を奪い返すことは人々の権利である。社会秩序は他のすべての権利の基礎となる権利である。この権利は自然に発生するものではなく、約束に基づいている。その約束がどんなものであるかを知ることが第1編の目的である。グロチウス、ホッブスの考えは、全人間は少数の人間に従属している奴隷と見るのである。最も強い者は力を権利に、他人の服従を義務に変える。そして権利を生み出すのは力だという堂々巡りの論理を持ち出す。人々は暴力に対して服従の義務はない。服従は意志ではなく命を守る慎重な態度に過ぎない。そこで、力は権利を生み出さないこと、また人は正当な権力にしか従う義務はないことを主張しよう。平等に生まれてきた自然状態の人間にとって、力はいかなる権利を生み出すものでない以上、人間の間のすべての権力の基礎としては約束だけが残る。このルソーの論理の進め方は、ひとつづつ証明を積み上げるのではなく、一挙に命題を提出するので納得がゆかない場合が多いので注意が必要である。グロチウスは、自分の権利の放棄、人間たる資格や人間の権利並びに義務の放棄の代わりに、専制君主は彼の臣民に社会の安寧を確保するという。これは奴隷状態である。戦争で人を殺す権利は人間と人間の関係ではなく、国家と国家の関係からくる。宣戦布告は他の権力者に対する宣言というよりは、自国の臣民の財産と生命を奪うという警告である。戦争に勝った者は負けたものを殺す権利は決して有するものではなく、負けた国民を奴隷状態にする権利となりうるわけではない。生殺与奪権は無効である。それが国際法の基礎になる。一人の主人と奴隷しか認めない社会は集合であっても約束ではない。そこには公共の財産もなければ、政治体もない。もし約束ができていない社会で、選挙が全員一致でなければ少数者は多数者の選択に従わなければならないという義務はどこに基礎を置くのだろうか。多数決の原理は約束によって打ち建てられたもので、最初に約束があったことを前提としている。こうして、「各構成員の身体と財産を、共同の力をすべて結集して守り保護するような結合の形式を見出す事、そしてそれによって各人が人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず自由であることが根本的な問題であり、社会契約がそれに解決を与える」というルソーの命題が宣言される。社会契約の本質的なことは「われわれは身体とすべての力を共同のものとして、一般意思の最高の指導の下に置く。そしてわれわれは各構成員を全体の不可分の一部として、ひとまとめのものとして受け止める」であるという。この結合行為からその統一、その共同の自我、その生命、その意志が生まれるのである。その結合体を、「共和国」、または「政治体」と呼び、国家、主権者とも呼ばれる。構成員は「人民」、主権に参加する者は「市民」、国家の法律拘束される者は「臣民」と呼ぶ。ここで各個人は二重の関係で、主権者(人民)の構成員でありかつ国家の構成員(臣民)で約束している。自分に対して義務を負うことと、全体に対して義務を負うことが発生する。各個人は人間として一つの特殊意志を持ち、彼が市民として持っている一般意思とは異なる。一般意思へ服従するよう強制される。自然状態から社会状態への移行は、各人に正義と道徳、理性に従った行為をすることを要求し、また自分が自分であるという道徳的自由(奴隷状態でない)を獲得できる。社会契約によって自然的平等が破壊されるものではなく、かえって肉体的不平等に替えて道徳上及び法律上の平等に置き換えること、契約によって権利が平等になることである。

(つづく)
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読書ノート ルソー著 桑原武夫ら訳 「社会契約論」 (岩波文庫)

2016年06月28日 | 書評
徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第2回

序(その2)

本書ルソー著「社会契約論」(岩波文庫)は、1954年京都大学人文科学研究所他の13名の共訳によるもので、訳者の中で著名な人をあげておくと、桑原武夫、前川貞次郎、河野健二、鶴見俊輔、多田美知太郎らがおられる。若き俊英が揃った良き時代の仕事である。なお京大人文科学研究所は1951年「ルソー研究」(岩波書店)を先に刊行していた。桑原先生は「ルソーの考え方そのもののむつかしさは、どうにもならない。考えながら読んでほしい」と言われる。生身の人間でありながら個人は、個別と一般に分離し、一般の考えをすべきだという。公私を峻別し公の考えに真実があるというのだ。この本の巻末に河野氏の解説があり、そこでルソーの思想形成の過程を論じている。(余談だが、私は京大教養部時代に河野先生の「社会学」を受講したので、なぜか親近感がある。) ルソーが道徳や宗教の問題から進んで、社会や政治の問題に関心を移しはじめたのは彼が31歳のころからだと言われている。「告白」で彼は「あらゆる事物は結局、政治によってさゆうされる。国民はその政府の性質によって限定されざるを得ないのである」という。政治への関心は1753年になって「不平等起源論」や1755年「政治経済論」(「百科全書」に発表)に結実した。フランスの百科全書派(ディドロ、ダランベールらの啓蒙家)戸は次第に不和となって交際を断った。1761年「新エロイーズ」という小説を完成したのを機に、書き溜めていた「政治制度論」の草稿を再検討した。しかしこの仕事は何年かかるか分からないので、この仕事を放棄して、書き溜めた原稿から捨てられない部分を集めて「社会契約論」という形で仕上げようとした。1762年「エミール」と同時に「社会契約論」は発刊されたという。個々の彼の名前を不朽にした2冊の名著が誕生したのである。10年以上かかってなお完成しなかった政治体制論は「社会契約論」に変身した。これがルソーの思想の到達点であることは間違いない。「不平等起源論」ではルソーは、自由で平等な孤立人である自然状態を構想し、この原始自然状態から社会状態に移行すると、財産の不平等が起き私有財産が生まれたとした。現状の社会がいかに矛盾に満ちた救いがたいものであるかを描いたのだ。鋭い社会批判となるのは当然であった。これに対して「政治経済論」は政治の問題を取り上げ、「社会契約論」で論じる理論のすべてはこの「政治経済論」に含まれていた。しかし「政治経済論」では政治体制または国家組織論としては未完成であった。主権在民の非拘束性、絶対性は「社会契約論」で初めて確立された。ルソーが革命的民主主義の国家理論をとなえた初めの人となったのはこの点である。人は生まれた自然状態では自由であるのに、社会状態では奴隷になるのはなぜだろうかという「社会不平等起源論」の問いは、社会契約論において約束することで自由と平等を取り戻すことができるという革命的展開を遂げた。それには個人的な意思ではなく「一般意思」という観点で約束することであるというのが社会契約論のミソである。この人民の一般意思は、絶対的であり、誤まることもない普遍的原理である。主権は他人に譲り渡したり分割したりすることはできない。一般意思の行使が主権であるとする主権の絶対性理論はルソー独自というよりホッブスを引き継いだものであるが、ホッブスが絶対君主でもいいとしたのに対して、ルソーは人民権力の絶対性を主張した。権力の絶対性は無制限ではなく、あくまで共同利益の範囲内である。こうしてルソーが構想した国家は、権力分割の上に立つブルジョワ的な立憲君主制ないしは議会主義的国家ではなく、全人民を主権者とする直接民主制、人民独裁制の国家構想であった。そうすると革命や、人民の抵抗権を理論上正当化するものにならざるを得ない。自然権としての自由と平等を最大限確保できる約束(契約)をする以外に政治体形成のみちは考えられない。社会契約論の流れの中でルソーの著しい特徴は、従来の支配者との服従契約説を全面的に退け、社会契約を主権者たる個々人相互の間の結合解約として捉えたことです。現状の権力と一切の妥協を排して、一般意思が最高の指導者であるということだ。ルソーが直接批判の対象としたのは、百科全書派の政治思想であったといわれる。ルソーは1755年ごろから百科全書派から離れたが、その政治思想は人間の自然状態の自由と平等を認めると同時に、人間尾自然的性質として「社交性」から国家の形成を説くものであった。この契約は主権者(当時の絶対君主制)と人民の間の服従契約として捉えられている。これによって自然権としての人民の財産所有権が保障され、国家統治の基本法が定められたとされる。百科全書派の思想を発展させたのはジョン・ロックの自然法理論であった。ホッブスは自然状態を個人間の敵対関係として、奪われ殺されるよりは絶対権力の下で統治される方がましだと考えた。ルソーはホッブスの主権論を覆して人民主権論に転化したのである。「エミール」と「社会契約論」の出版後のルソーは苦難に陥った。エミールの宗教論が断罪され逮捕状が出された。2つの書物は禁書とされ、スイスからロシアに亡命せざるを得なかった。「社会契約論」はこのような迫害を受け、その上多くの人々に受け入れられなかった。ところが、社会契約論の公刊後27年後(1790年)フランス革命がおこり、革命議会は「エミール」と「社会契約論」を讃えて銅像を建て、ロベスピエールはルソーに革命の栄誉を与えた。

(つづく)
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読書ノート ルソー著 桑原武夫ら訳 「社会契約論」 (岩波文庫)

2016年06月27日 | 書評
ジャン・ジャック・ルソー

徹底的な主権在民論を説くルソーは「社会契約論」でフランス革命の理論的指導者となった 第1回

序(その1)

イギリス労働党のキングスレイ・マーチンは人間の精神に最も大きな影響を与えた本として、「聖書」、「資本論」、「社会契約論」をあげている。日本でも明治初期に、中江兆民ら自由民権運動の理論的支柱となるべく「民論訳解」として翻訳された。しかし日本ではルソーの社会契約論の精神は十分広がったとは言い難い。私が本書ルソー著「社会契約論」を読む気になったのは、坂井豊貴著 「多数決を疑う―社会的選択理論とは何か」(岩波新書 2015年4月)を読んだからである。そこに正しい民意とはルソーの「社会契約論」の精神でいえば、社会の一般意思であり、多数決に従うことと一般意思が矛盾することがあるという。民意とルソーの理想とのギャップについて、坂井氏は『ジャン・ジャック・ルソーはフランス革命の思想的な象徴であり、「社会契約論」を著して人民主権の原理を突き詰めた。互いを対等の立場として受け入れ合う社会契約は共同体に発展し、共同体にすべての権利を委託して結束する。これが契約行為である。この共同体を人民という、そして束ねた権利を主権という。人民に主権は属するのでこれを人民主権という。一般意思とは、個々の人間が自らの利害を離れて意志を一般化したもので、多様な人間からなる共同体が必要とするものは何かを探ることである。熟議的理性の行使それを意志の一般化と呼ぶ。一般意思を全体主義や国家主義的に捉えるのは誤りである。主権とは立法権のことである。人民とは社会契約によって生まれた分割不可能の概念上の共同体を指すのであって、一般意思とは人民のなかに存在するものではなく、個々の人間が、自らの精神の中に見つけてゆくものである。立法とはそのような行為であり、構成員全員が参加する集会で、各自がたどり着いた判断を投票し多数決で判定する。一般意思は自らの意志である故、それが定める法に従うことは、自ら定めた法に従うことである。これがルソーの展開した、少数派が多数決で決めたことに従う正統性の根拠である。しかし人々の利害対立が鋭く、意志が一般化できない(容易に共通見解に達しない)対処は、そもそも投票の対象にはならない。それは闘争の対象である。では多数決による少数者の権利の侵害を抑えることは可能であろうか。防御策として多数決により上位の審査機構を持つこと、複数の機関で多数決を掛けること、多数決のハードルを高く(2/3以上の賛意を必要とするなど)することである、民主的手続きを踏んでいても多数派の暴走により社会的分断がおきることがある。これは民主主義ではなく、多数派主義である。多数派はフリーハンドを持ったと誤解し、横暴な立法・行政を行う。これにより自由の侵害が起きる。社会契約により共同体の構成員は、道徳的自由と市民的自由を得るが、欲望による支配と力への服従という契約以前の状態の戻ることがある。その時社会は分断され、立法は一般意思に根拠を持たなくなる。「代表制民主制において〈議会民主主義)自由なのは議員を選挙するまでで、選挙が終わると人民は奴隷になる」とルソーは警告する。ルソーの社会契約と代表制は矛盾関係にある。この代表制の下での道徳的不平等は、社会契約の根本的特徴である対等性に違反するのである。ルソーは人民主権の辺性原理を徹底的に追及して、代表制とは非妥協的になった。』と述べている。この本の巻末に読書案内があり、ルソーの「社会契約論」を読むことを勧めていたが、ルソーの文章は難解で正確に把握しがたいところがあるので、まず重田園江著 「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」(ちくま新書 2013年11月)を読んでおくことを勧めていた。

重田氏は「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」において、歴史的に社会契約論のホッブス、ルソー、ロールズの思想の流れを説明し、ルソーの社会契約論について、『ルソーが描く「社会契約」のハードルは高く理想的で次の条件を満たすものであること。第1に契約は限りなく強いこと、第2に普遍的でシンプルでなければならない、第3に政治社会には寿命があるが社会契約は持続性がなければならない、第4に社会契約は拘束を生むが個人は依然として自由であることである。契約の条項は「我々は身体とすべての能力を共同のものとし、一般意思の下に置く。それに応じて我々は団体の中で各構成員を分割不可能な全体の一部として受け入れる」というものである。これは「全面譲渡」に相当する。自由と平等と相互性の理念は、一般性あるいは一般意思と不可分に結びついている。ルソーは主権者が第3者(絶対主義的国王、官僚など)であることは絶対に忌避されなければならない。命さえ守ってくれるなら誰でもいいとするホッブスのようなあいまいさは避けるべきだとする。主権者は人民でなければならない。「社会構成員」とは「一つの精神的で集合的な団体」とされる。そしてその構成員は共同の自我と生命、意志をもつという、抽象的な内容に昇華される。社会契約を結んで新しい社会を作ろうと考えた瞬間、その人は契約当事者で政治体の一員としての自己となる。その内部で自分を含む全体との間で結ばれる契約が「社会契約」なのである。さらにこの共同体、政治体が担う意志が「一般意思」なのである。一般意思とは法を作る意志であり、個々の意志の総和ではないのだ。ルソーの政治体の内部にいる人は3つの名称で呼ばれる。第1は法を作り政治に参加し、共同体を動かす「市民」、第2に自ら進んで法やルールに従う「臣民」、第3に政治体参加者である市民の集団を全体として見たら「人民」と呼ばれる。人民を国家のアクターとみると「主権者」となり、主権者が人民である時人民主権(主権在民)が成立している。このような「一般的な自分」が特殊存在としての自分と約束を結ぶのだ。人は政治体の参加者あるいは主権者としては、一般的な視点に立ち、一般意思に従って行動しなければならない。「一般意思」はルソーが言い始めた概念ではない。そこで「一般意思」の概念の歴史を繙こう。一般意思とはアウグスティヌスを通じて中世神学に流れ、マンブランシュによってフランス哲学に影響を与えたとされている。中世キリスト教は当然ながら神の完全性から創造主の意志を意味した。神は一般意思としてはすべての者の救済を意図し(建前上)、だが原罪以降は神の特殊意志は特定の者の救済を拒んだ(実情)。ここで一般性と特殊性の対比が、マンブランシュからモンテスキューを経てルソーに受け継がれたと見ることができる。永遠不変の一般意思に対する、個別事象の「特殊意志」という対比である。ルソーは一般意思は自分の特殊な利益に左右されてはならないとして、一般意思は特殊意志と鋭く対立する構図を描いた。モンテスキュー(1689-1755)は「法の精神」において、法を作る事、立法権力は一般意思に属するが、司法権力は個々の事件を裁く特殊意志であると考えた。この3権分立の考えはルソーに継承されている。ルソーはそれを「人民主権」といい、どうしたら人民の意志である一般意思を発見できるかに苦心した。ルソーは一般意志には神を必要としない近代性を徹底させたのである。人間が自由意思によって社会を形成し、人間が約束する力によって一般意思が現れると考えた。一般性は、多様性と自由を抑圧するものではなく、自由を実現しまた多様性を尊重するためにあるということである。社会契約においてこそ政治が生まれり場所であり、人民が政治的自由を手に入れる場所である。そしてルソーは一般意志は重力の法則と同じレベルにおいて成立する普遍性を持つので、過つことはないと確信した。』とまとめた。

(つづく)
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読書ノート 重田園江著 「社会契約論ーホッブス、ヒューム、ルソー、ロールズ」 (ちくま新書 2013年)

2016年06月26日 | 書評
ロールズ

政治社会秩序を考える際の、思考実験装置「社会契約論」を読み解く 第6回 最終回

第4章 ロールズ

ジョン・ロールズ(1921-2002)はアメリカのボルティモアの弁護士の次男に生まれ、プリンストン大学で学んだ。ロールズの主著「正義論」は1971年に書かれた。ベトナム戦争と公民権運動に触発されて、社会に生きる人々が自ら選択すべき正義の原理は何かという観点で書かれた。何が正しい選択かを問う風潮は、「規範理論の復権」、「政治哲学の復権」として語られる。ロールズは自身への批判に対して、生真面目に、丁寧に反論することに多くの時間と労力を費やした。これに対して同時代人の著名な学者であったミッシェル・フーコは自由奔放に批判を無視した。社会契約論はフランス革命において象徴的な役割を果たし、第2次世界戦後の民族独立に至るまで国民国家形成の理論的支柱となり続けた。国民国家形成が一段落した1970年以降社会契約論はもはや顧みられなくなった。新自由主義が謳歌した1980年以降は完全に凋落したと思われた。こうした時代にロールズは「正義論」で社会契約論復興を試みたのだ。社会契約論の現代的意義を最大限に示した思想家としてロールズがいる。ロールズの学究としての生真面目さは、「政治哲学史抗議」、「哲学史講義」の2著に端的に表れているように、テキストに正面から向き合い、その論理に没入するという姿勢であった。テキストの読み方はまずこうありたい、批判はそれからであろう。ロールズの「正義論」は、功利主義批判であるといわれる。19世紀以降産業化が進展する中で、個人が感じて行動する快・不快の道徳基準を是とする功利主義が支持された。ジョン・シュチュアート・ミルを代表とする古典的功利主義の理論背景にヒュームの道徳理論があった。だからロールズの功利主義批判はヒューム批判となる。ロールズはヒュームの「共感」と「一般的観点」を拒否したのである。ヒュームは共感が道徳の基礎として役立つとしたのだが、ロールズは全く同じ情緒を二人の間で成り立つとは考えられないとして、ヒュームの共感の定義をありえないとして、感情の多様性は乗り越えられない壁となるからこそ、最低限同意できる共通のルールの根拠を社会契約論に求めるのである。共感には著しい偏りがあることをヒューム自身認識していた。そこで一般的観点に立つ「思慮ある観察者」を登場させる。ヒュームは不安定な共感を補強するために、一般的観点に立とうと努力する思慮ある観察者が必要であるとする。古典的功利主義の道徳原理が「最大多数の最大幸福」という目標を掲げる点をロールズは批判する。社会全体の幸福の総和(GDPとみていい)が増えたとしても、反面貧富の差が拡大し、貧しい人々がさらにみじめになる社会を原理的に許されないと考えた。1%の富裕層を最大多数とみるか、GDPのみで富を量る価値感が普遍的かという疑問である。そして共感能力のある公平な観察者の評価が全体を支配することが妥当かという問いである。一つの価値感(貨幣価値がすべて)が全体を支配する経済市場主義に警鐘を鳴らすのである。ヒュームは人間の感情は弦のように響き合うと見るが、ロールズにとって人は多様であることが原点であり、共感とは他者に入り込むのではなく、多様性の中で関係を探ることである。そこで人はある種の合理性と理性的な熟慮の能力を用いて、ロールズがいう「正義の二原理」を社会のルールとして選択する。ルソーのいう「一般意思」と同じ次元となる。一人一人の多様性(特殊)をいくらつなぎ合わせて行っても、「一般的なもの」には到達できないというヒューム批判である。

ロールズは、「原初状態」における「無知のヴェール」という思考装置を用いて「正義の二原理」という社会の基本原理を導こうとする。「原初状態」も「無知のヴェール」も同じ考えの表現が違うだけである。原初状態とは、社会メンバーが選択を行う初期状態で、そこには無知のヴェールが掛っているという条件がある。構成員のあいだに情報の非対称性(差異)があってはならず、全員が同じ状態にあることが必要である。一人抜けで特別な知識を持っている者がいては最初から不平等な社会となる。正義論でロールズが企てた思考装置は、こうした合意事項の発見、基本ルールの策定のためにある。端的に言うと知識の制約を通じて、実践理性の働きが情念を方向づけ、皆が合意できる基本ルールが発見されるということだ。原初状態つまり社会の基本ルールを選択する初期状態にある人から、自分についての特殊な情報をすべて取り去ることを要求する。自我私利(の多様性)を捨てて一般的な意志(視点)のために考えろということだ。これをロールズは無知のヴェールがかかった状態と表現するのである。ルソーやロールズにとって、一般性の次元に立つということは、実体験や歴史的経験とは全く別のことである。ラジカルな視点が要求される。人間の利己心と一般性との関係という、社会契約論にとって中心的テーマに関わる。利己心から自由でないことには秩序は生まれないということが、ホッブス、ルソー、ロールズの共通認識になっている。ではいったいどんな基準が必要かというと、ロールズは「原初状態では一人は全体のために選択せざるを得ない」ということである。そしてエゴイズムの制限という観点から、「正義の二原理」を規範とする。第一原理とは「自由の保障」、第二原理とは「機会平等の原理」のことである。調停不能な(譲ることのできない)究極の価値は人それぞれであるが、ロールズはその信奉する価値が何であれ、同じだけの自由つまり平等な自由を保障されなければならないと考えた。多様な自由を分け隔てなく尊重することだ。これが第一原理である。また多様性の尊重ということで人の優劣による差異が蔓延することは正されなくてはならない。これが第二原理である。「機会均等」と呼ばれる原理である。「格差原理」とも呼ばれる。自分が不利でないことは誰もが不利にならないことであり、誰もが不利にならない社会は公正な社会である。生まれつきからくる不平等を自然自体が修正できないなら、社会がそれを正す責任があるという。「正義論」では機会均等と原理と格差原理は不平等が許される条件として、①もっとも不遇な博人が期待できる便益を最大にする、②公正な機会均等という条件で全員に開かれた職務、地位を提供するということである。自分が他の人でもあり得る状況下での「一般的エゴイズム」に基づく思考プロセスが、社会的公正を選ばせる。ロールズは自分を、ルソーからカントへと続く契約論の最も正統な系列にいると考えていた。ロールズはホッブス、ロック、ルソーをかならず参照した。ロールズはロックを名誉革命がもたらした混合政体を擁護するという明確な政治的目標を設定した思想家として評価している。これに対してルソーに対しては格別の思想的親愛を抱いていた。自分はロックよりもルソーに近いと解釈していた。ルソーの一般意思論を原初状態に近づけて解釈し、ルソーの一般的利己心に相互性と自尊の基盤を見出した。ルソーは利己心を自然な人間本性からくるものとして、他者との対等な立場を確保したい欲求、あるいは自分の目的が他者と同様に尊重されたいという欲求であるとした。人は利己心を通じて初めて「相互性」の原理を受け入れることができる。ルソーの循環史観をロールズは評価して、ルソーの社会契約論を史実として読むのではなく、いつでも何度でもやってくる社会の堕落と破滅をやり直す、社会秩序再構築の起爆剤に利用できる思考装置とみているようだ。

(完)
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