ブログ 「ごまめの歯軋り」

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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年04月30日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義  第2回

第1章 「眩暈」 哲学者としての出発 (その1)

「ソクラテスの弁明」で「金や評判・名誉のことばかりに汲々として、恥ずかしくないのか。知と真実のことには、そして魂をできるだけ優れたものにする事には無関心で、心を向けようとはしないのか?」とソクラテスはアテナイ市民に問いかけますが、そのアテナイ市民によってソクラテスは死刑の判決を受けます。なんとソクラテスの2500年前の言葉がそのまま現代人に問いかけているように錯覚を覚えます。今ではこういうことを言っても死刑にはなりませんが、軽く鼻であしらわれて無視されるだけです。ソクラテス亡き後30代のプラトンは師の遺志をついで、哲学者として思想的闘いに入る。ギリシャ文化の伝統に著しい知的側面を加えて、全一的な哲学思想を結実させた。先のソクラテスの言葉に言う「知と真実」とはイデア論という思想へ、「魂をできるだけすぐれたものに」という要請は魂(プシュケー)の動因に発展していった。プラトンの対話集が第1級の資料とすると、アリストテレス以降の教説や学説・情報は2次資料といわれ、相反するものが多く無理に取り入れる必要はないと著者藤沢氏は切り捨てる。「プラトン著作集」とは紀元前4世紀のパピロス紙による巻物から始まり、5世紀からコーデクス皮紙に写し取られ冊子本となり、そして15世紀には活字印刷本となって今日に伝えられてきた希有の著作集である。ローマ時代トラシュロスはプラトン著作集を九つの四部作に纏めた。この36篇が「プラトン著作集」として今日に伝わる。16世紀末のステファヌス版全集が定本となっている。20世紀に入ってプラトンはその「国家論」と政治思想によって注目の的になった。第1次世界大戦後から第2次世界大戦後までプラトンを巡る30年戦争といわれている。プラトンは右翼か左翼か全体主義者かという不毛の政治議論が一時盛んであったことは時代とはいえあまりに皮相なことであった。それよりプラトン哲学の根幹にかかわる問題は、19世紀後半から21世紀前半の科学主義のイデオロギー対決にあったと言える。科学が自然哲学の一分野から独立してから久しい時間がたった。サイエンティストか今や一般的な「知識者」ではなく、「物質世界の研究者」という特定の専門家(科学者)となっている。哲学では、論理実証主義から分析哲学へと続く流派がこの科学主義の担い手となった。マルクス主義もこの科学主義イデオロギーの一形態といえよう。ギリシャ哲学の評価は、デモクリトスの原子論が科学的とされ、プラトン哲学は科学に対して反動的と批判された。英国の論理実証主義哲学者(数学者)バートランド・ラッセルは科学主義に立って、検証できない超感覚的な原理を立てる形而上学的思想とは反対の立場である。しかし第2次世界大戦後1950年以降になると、科学技術主義の行き詰まりとマイナス面(原爆、自然破壊など)の波及効果が顕在化した。こうして科学の進歩が無条件に人類の幸福を約束するという科学主義的楽観論は大きな転換期を迎え、哲学界では科学主義への批判、反科学主義が生まれることになった。ハイデガーやニーチェらは科学主義の根源をその西洋哲学の源であるギリシャ哲学に求め、特にアリストテレス以前のプラトン哲学を批判した。その傾向は日本の哲学界はいち早く輸入されてきた。(京都大学はプラトン派、東京大学はソクラテス派と色付けすることも可能) 物質的自然観では形相と質料の対立概念で捉えるアリストテレスとは、プラトンのイデア論は決定的に異なる。プラトン哲学の入門としてアリストテレスの著作を勧める新プラトン派(6世紀エリアス)もいて、プラトンの姿は「海神グラウコス」のように見分けがつかないことになった。この点を18世紀の哲学者バークリーは「プラトン自身をプラトンの著作の解釈者とする」といっている。プラトンにまとわりついている貝殻やごみを払い落として、現れる本来の姿を再生することが本書の狙いである。

(つづく)
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文芸散歩 藤沢令夫著 「プラトンの哲学」 (岩波新書1998)

2015年04月29日 | 書評
西洋哲学の祖プラトンが説くイデア論の意義 第1回



本書の著者である藤沢令夫氏は京都大学文学部哲学科の恩師である田中美知太郎氏と共に、岩波書店より訳書「プラトン全集」全15巻を出されている。藤沢氏のプロフィールを紹介する。藤沢令夫(1925-2004年)氏は長野県松本市出身で旧制松本中学で、西洋絵画集を買いラファエロの大作「アテナイの学堂」プラトンとアリストテレスの部分を、切り取り部屋に飾って、第三高等学校 (旧制)の受験勉強の気休めにしていたのが、哲学への憧憬のはじまりだったと回想している。本書「プラトンの哲学」あとがきには、当時北村透谷「ホメロス在りし時、プラトン在りし時、彼の北斗は今と同じき光芒を放てり」という美文を暗誦していたという。敗戦後復員して1951年京都大学文学部哲学科卒業。以後50年間ずっとプラトンが研究の中心であった。在学中に知り合った梅原猛氏と橋本峰雄氏とは、同級生でこの頃より親交があった。58年九州大学文学部助教授、1963年京都大学文学部助教授、69年教授。89年に定年退官後名誉教授、京都国立博物館館長を歴任した。また1986年から98年まで松平千秋の後任で、日本西洋古典学会委員長(第5代)に就いていた。専攻はギリシア哲学、西洋哲学史である。主要な著作は「藤澤令夫 著作集」(全7巻 岩波書店)に収められている。京都大学学術出版会「西洋古典叢書」の発足に寄与し、没時まで編集委員を務めたという。本書は新書という限られた紙数なので、全体を貫く中心的な哲学思想の発展を、プラトンの前期から後期著作集に限ってその軌跡に基づいて再現することを方針としたという。文献の読み方の証拠論文や、現在に至る諸解釈の吟味はすべて省いたという。なまじ多種多様な解釈を紹介すると収拾がつかないからだそうである。本論に入る前に、混乱したプラトン像から本来の姿を再生するという本書の意図と志を「海神グラウコス」になぞらえた序章を設けている。内容的には藤沢氏の意図とプラトンの出発点である「眩暈」をまとめて第1章とし、プラトンがソクラテスから学んだこと「魂を持つ生きた言葉」を第2章とし(初期著作集に相当)、本書の中心を占めるプラトン哲学の核心を「美しき邁進」を第3章とし(中期著作集に相当)、エレア学派のパルメニデスの反論に対する反省と基礎固めである「汝自身を引きもどせ」を第4章とし(後期著作集に相当)、イデア論の再構築とその成果であるコスモロジー「美しく善き宇宙」を第5章とし(後期著作集に相当)、現代の状況におけるプラトン哲学の意義「果てしなき闘い」を第6章として構成されている。
プラトンは、師ソクラテスから問答法と、正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。この頃既に、哲学者による国家統治構想(哲人王思想)や、その同志獲得・養成の構想(後のアカデメイアの学園)は温められていた。40歳頃の第一回シケリア旅行にて、ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。帰国後、アカデメイアに学園を開設し、初期末・中期対話篇を執筆。「魂の想起(アナムネーシス)」「魂の三分説」「哲人王」「善のイデア」といった概念を表明していく。また、パルメニデス等のエレア派にも関心を寄せ、中期後半から後期の対話篇では、エレア派の人物をしばしば登場させている。後期になると、この世界そのものが神によってイデアの似姿として作られたものであるとか、諸天体は神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされているといった壮大な宇宙論・神学的描写が出てくる。

(つづく)
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文芸散歩 田中美知太郎著 「ソクラテス」(岩波新書 1957)

2015年04月28日 | 書評
ソクラテスの愛知の哲学とは 第7回 最終回

Ⅵ ソクラテスの死
 ソクラテスを死に至らしめたものとして今までみてきた、かの無駄話、ソクラテス式問答法、ダイモンの合図、ソクラテスの愛智の哲学もアイロニーも、すべてソクラテスの内面から出てきているもので、裁判などは一つの外来的きっかけに過ぎないように思える。クセノポンの「思い出」には訴状の多少詳しい内容が記されている。箇条書きにすると、①ソクラテスは国家の役職をくじ引きによって決めるのは愚かであるといった。②ソクラテスと交友関係にあったクリチアス、アルキビアスは国家に最も大きな害を及ぼしたものである。③ソクラテスは父親に対して非礼を働くことを教えた。④ソクラテスは父親ばかりか、親戚縁者まで尊敬に値しないと思い込ませた。⑤ソクラテスは詩人の作品からできの悪い場所を拾っては、悪行を勧めた。となっている。①はアテナイの民主制という国体を嘲笑うものである。②は若者に現行制度を無視して暴力革命を教えたことになる。現民主制の敵というべき二人をソクラテスの陣営から輩出した連座制責任追及である。③、④は家長たる父を中心とする家族的結合と部族的結合という伝統社会の秩序破壊者である。②、⑤はソクラテス的新教育が若者に害毒を与えているという非難である。デルポイ神託の謎の章で、ソクラテスを死に至らしめたのは情勢の変化であるといった。ソクラテスの前半生はかのペリクレス時代の平和と繁栄の時代であった。ソクラテスのような奇人変人の存在を寛容する余裕があったといえる。しかし彼の40歳前後から、時代は暗雲を告げ、戦乱の世となった。ペロポネス戦争は第1次と第2次を合わせて約30年(前431-404年)にわたってアテナイはスパルタと地中海世界の覇権を争った戦争となった。この長い憂鬱な戦争はアテナイの敗戦で終わった。占領軍の支配下に成立したアテナイの30人独裁政権が樹立されると、アテナイは混乱状態の内戦となり、革命軍独裁政権が崩壊した後、アテナイは一種反動的な社会となり、民主制下で排他的な動きが加速した。アルキビアデスとクリチアスという、戦後の混乱のうちに、相前後して非業の死を遂げた二人の政治家軍人が、ソクラテスの死に最も近い関係を持っていたと考えるべきであろう。ペロポンネソス戦争第Ⅱ期に、アルキビアデスはアテナイ軍のシケリア遠征を主張し戦いに敗北してから、スパルタはペルシャの力を借りて海軍力を強化し前404年アテナイを打ち破った。現民主制政府はいわば戦争敗北責任をアルキビアデスに被せたのである。そして亡命中のスパルタとの和平論政治家クリチアスが帰国して30人独裁制の首領となったクリチアスに対する憎しみは、アニュストスらの民主派の武力抵抗となり、トラシェブロスの軍事指導者を得て、30人独裁体制を打ち破った。クリチアスは戦死して内戦は終了した。民主制政府は「既往は咎めず」という寛容策を実施して内乱を収拾した。その30人独裁制と戦ったアニュストスが、いまソクラテスを排除する意志を固めたのである。これを察知したソクラテスは死は逃れられないと覚悟し、有終の美を飾ろうとしたのがソクラテスの刑死という事件であったように思われる。「既往は咎めず」という寛容策を出している以上、政治的責任で罪を問うことはできないので、下手な悲劇作家メレトスというさして重要でもない人物に訴状を書かせた。裏でアニュストスが采配していることは公然の秘密であった。アテナイ中の嫌われ者ソクラテスが市民に支持されないことを確信して裁判に持ち込んだ。が第1審で以外にも賛成者が多くはなかったが、ソクラテスは敗北を覚悟していたので、無謀にも市民の気持ちを逆なでする発言を行い自滅の道を選んだ。アニュストスのソフィスト嫌いは有名で、合理主義、啓蒙主義という思想はクリチアスの悪行と一体となって、新体制の脅威とみなされた。しかしソクラテスの本当の友人は独裁政権派にあるのではなく、むしろ独裁政権に反対した民主派と中間派にあった。デルポイ神託をもたらしたカレイポンも民主派に属していた。ソクラテスをクリチアスの一味とみる政権側に一定の抵抗を試みている。メレトスこそ独裁政権に味方したあと、新政権に便乗しようとする機会主義者だ痛烈に批判している。クセノポンの「思い出」では、ソクラテスが独裁政権側から呼びだされて、青年の誘惑者だと釘を刺された事実を指摘している。ソクラテスが民主制には根本的な批判を持っていたことは事実で、プラトン「国家」で民主制は哲人理想政治のつぎに位置づけられていた。アテナイの民主制はすでにソロン以来200年を経過し、ペロポンネソス戦争を経験して種々の批判を受けていた。アテナイの知識層では公然とスパルタの政治制度を良しとする者もいて、戦争に際しても和平派と主戦派に世論は分裂していた。だからソクラテスがそれなりのアテナイ民主政に意見を持っていても不思議はない。ソクラテスの求める智は人生全般の正義に関する大切なことで、ほとんど治国や政治とかいう智恵と重なり合っていた。だから「国家」が書かれ理想の政治体制が議論されたのである。しかし半面ソクラテスは政治に関与することはダイモンによって禁止されていた。正義のためにあくまで私人として戦うことが必要で、公人として行動すべきでないと考えた。正義を守り、正義のために戦うには、できるだけ政治を回避しなければならないというパラドックスがあった。権力に近づく者は生命を全うすることは困難である。ここにソクラテスの覚悟があった。「ただ生きるということではなく、よく生きることが大事である」、命を惜しむことは男子の本懐ではない。罪を犯したわけでもないのに、間違って殺されることもよしとした。そういうことは神が決めることである。見苦しい生き方は晩節を汚すことになる。だから従容として死に就いたのだろう。

(完)
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文芸散歩 田中美知太郎著 「ソクラテス」(岩波新書 1957)

2015年04月27日 | 書評
ソクラテスの愛知の哲学とは  第6回

Ⅴ ソクラテスの哲学
デルポイの神託むダイモンの合図もおなじ神の介入として理解することができる。ウソであろうと人はそう思い込んでいる、そういった時代なのだから。無智の暴露は神の命令なのである。肯定的にみると智を愛することも神命である。自他を吟味して、智を愛し求め(哲学)ながら生きることが神命なのである。この神命の前に自己を惜しむとか、死を恐れるとかはとんでもない間違いになる。身の破滅を恐れずソクラテスは徹底的に無智の暴露を実践し、智を求める哲学を考えた。「ソクラテスの弁明」でも「アテナイ市民よ、私は君たちに服するより、むしろ神に服するだろう。・・・できる限り智を愛し求めることを決して止めないだろう」といって市民の怒りを買っている。ソクラテスは富や名誉の他に、人間が特に留意しなければならない大切なものがあると説いた。無智の自覚とは何についての無智かというと、アリストテレスは「哲学について」で「汝自らを知れ」と言っている。「ソクラテスの弁明」では精神をできるだけ優れたものにするよう気を使え(留意)という。「精神(プシューケー、魂)をできるだけすぐれたものにする」ということが一番大切なことだということである。精神(プシューケー)とは意識された自我のことであるとバーネットは1929年の論文で言っている。「饗宴」のなかでソクラテスは、富や権力や美貌や体力など当時の人が大事にしていたことがいかにむなしいことかを悟らせる一種の衝撃療法を実践しながら、世人に対しては皮相のところで遊戯的にお付き合いをするというアイロニーに生きていたといえる。これが「ソクラテスのアイロニー」と呼ばれているものです。「国家」でトラシュマコスはソクラテスが世間と妥協するときは「ソクラテス流の空とぼけエイローネイアー」と呼んでいます。これはソクラテスの少年愛エロスにおいてもみられることです。つまり外面と内面の著しい矛盾である。世間におけるソクラテスの存在自体が矛盾といえる。それは世人においても同じ矛盾を暴露されることになり、あの醜い顔で高尚なことを言われて才能や富や地位といったものが砂上の楼閣のように切り崩される時、ソクラテスに対する世間の人の怒りは爆発するのであろう。ソクラテスの平凡な哲学(老子や仏教や平家物語でも同じことを言っている)を、「饗宴」のアルキビアスに言わせると、「言っていることの外面は恐ろしく滑稽で馬鹿馬鹿しいと思われるが、内面に入ると優れた人間になろうということが意味を持つことに驚く」となる。出来るだけ優れたものになろうというとき、ギリシャ人の価値感では「徳」というのは、よき人の「よき」に相当し、一般に者の優秀性、卓越性、有能性を指す言葉である。ソクラテス哲学の中心となるものは、この「徳」であろうと思われる。「徳」とは「精神をできるだけ優れたものにする」ということの言い換えであった。ソクラテス哲学は倫理実践、宗教的生き方と表裏一体であった。プラトンは「国家」のなかで、「正義」の規定を外面の行為よりも内心の統一調和に求め、これを保全する行為が正義であり、この行為の上に立つ知識が「智」であるといった。ソクラテスの「無智」とは何も知らない無知ではなく、何でもないことを大事と思う間違った信念を持つことである。「パイドロス」でいわれるように、智を神のみに認めたソクラテスは人間にはただ愛智のみを許した。愛智としての哲学は、ソクラテスに課せられた神聖な義務となった。アリストテレス以来の一般的見解では、ソクラテスの哲学は倫理道徳領域に限られているとされる。他の哲学分野が明確に意識されていなかった時代において、全人間的志向である「徳」に向かうのはけだし当然であったと言わざるを得ない。ソクラテス哲学とは、①「智」を愛し求めること、②優れた人間になろうとする「徳」に留意することである。優れたということは思慮ある人間といって徳の一部をなしている。すなわち徳のうちにあって、智が特別の位置を占めている。智と徳は同一ではないとする。しかしアリストテレス系統の学説史的取扱いではこれをソクラテスの「主知主義倫理」といって、智は徳になるという充分な実践根拠になるかどうか疑問は残る。ソクラテスの智は実践的でなければならない。クセノポンは「善美の行いをなしうるのは、智者だけである」といって正義その他が智でなければならないとする。そして「知行合一」とか「智徳一体」ということはソクラテスには無縁である。定義から命題そして理論化すれば行動になるという図式は、合理主義、主知主義の主張するところであるが、ソクラテスにあっては無智は間違った考えであり、理論があらゆる問題を解決すると考えるのは、無智の最たるものである。というふうに田中美知太郎氏なぜかソクラテスには批判的である。ソクラテスは合理主義より全人性に重きを置くと考える。これについては私にはよくわからないので次の勉強課題としたい。

(つづく)
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文芸散歩 田中美知太郎著 「ソクラテス」(岩波新書 1957)

2015年04月26日 | 書評
ソクラテスの愛知の哲学とは 第5回

Ⅳ デルポイ神託の謎
 前章で述べたダイモンの合図とか白昼夢の奇人的行動は笑い話ですむような、それが死刑の理由となるような原因とは考えられない。ソクラテスを死に至らしめたのは情勢の変化である。ソクラテスの前半生はかのペリクレス時代の平和と繁栄の時代であった。ソクラテスのような奇人変人の存在を寛容する余裕があったといえる。しかし彼の40歳前後から、時代は暗雲を告げ、戦乱の世となった。ペロポネス戦争は第1次と第2次を合わせて約30年(前431-404年)にわたってアテナイはスパルタと地中海世界の覇権を争った戦争となった。この長い憂鬱な戦争はアテナイの敗戦で終わった。占領軍の支配下に成立したアテナイの30人独裁政権が樹立されると、アテナイは混乱状態の内戦となり、革命軍独裁政権が崩壊した後、アテナイは一種反動的な社会となり、排他的な動きが加速した。戦争責任者のアルキビアデスも、独裁政権の首領クリチアスもみなソクラテスの弟子であり新教育が生み出した鬼っ子とみなされたのである。危険人物ソクラテスを死刑に追い込む陰謀は極めて政治的であるため、報復政治と非難されることを恐れた民主制指導者アニュトスはメレトスを使って訴状を書かせた。メレトスの訴状はソクラテスの罪として、青年に害を及ぼすとか青年を腐敗させるということを挙げている。その遠因となるソクラテスのもう一つの面をみてゆこう。どこまで真実かわからないが、日本でいうと宇佐神社の御神託(道鏡を天皇にしようとする)と同じように、「ソクラテスの弁明」で見る様に、カレイポンというソクラテスの仲間がデルポイの神託を得る事件が起きた。「誰もソクラテス以上の知恵者はいない」という神のお告げである。これを逆説とみたソクラテスは自分より知恵のある人を探してアテナイ中の偉そうな人の訪問を続けた。その結果、問答をしているうちに智慧のありそうとみられる人物は実は何も知らないか、知らないのに知ったふりをしているだけであることが分かった。つまり自分は無智であること知らないだけのことである。自分が無知であることを自覚しているソクラテスの方が一段知恵があることになるという意味であると判断した。アテナイの有力者・知識人・ソフィストたちを訪問し問答を重ねるうちにソクラテスは次第に人々から敬遠され、憎まれる存在となった。ペリクレスという自由と寛容の精神は去って、戦争と内乱の不寛容な党派心が支配している時代に、このようなことを(お前は無智だと決めつける)行ったソクラテスは許せない秩序違反者だと見られたわけである。自分でまじめに考えようともしない人々は自分が何を言っているのかも自分では分からないという無智を発見した。そこで得られた結論は、一番智慧のある者とは、ソクラテスのように自分は智恵に対して何の価値も持っていないと自覚したものである。「神こそ智において第1のものである」というソロンの話を忠実にコピーしたようなデルポイ神託の話である。つまりソクラテスは神のみが智者であるという一般命題から、人間の無智を暴露して、神の智を明らかにする仕事を自分の使命とする命令命題を見出している。ソクラテスに、ダイモンに導かれた人、合理主義者、実践家という3つの側面を見る。集団討議の中で相手の無智を暴露するという行為は、ソクラテスが青年時代に学んだゼノン(エレア派)の論法は、実に仮借なきものであったという。多数の者の前で無智を宣告された有力者はソクラテスを恨み、いつか復讐をしようと企んだ。それがソクラテスの命取りとなった。これがソクラテスの性格によるものか、愛知の哲学から出てくる使命なのかわからないが、それにしてもデルポイ神託の話は嘘くさい。排斥され、村八分にされ孤立して、死を迎えるのがソクラテスの当然の報いだったようだ。すでにソクラテスはこの結果を予測していたようである。だから高齢で生きたとしても余命数年なら、信念に従って従容として死についたのであろう。

(つづく)
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