ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 朱牟田夏雄訳 「ミル自伝」 岩波文庫

2013年09月30日 | 書評
イギリスの哲学者にして経済学者、民主主義・自由主義思想を語る 第5回

第1章 1806年ー1819年(0歳ー13歳) 少年期の教育と読書遍歴
「無駄に使われている幼少時に、世間一般で考えられているよりははるかに多くのことを教えうる」という父の教育方針に従い、3歳の時からギリシャ語を学び始めた。ミルの父とは「英領インド史」の著者で商人の息子であったといわれる。エジンバラ大学を卒業して、伝道師の資格を得たが教義に納得せず、家庭教師をしながら著述業で身を養っていた。非常な努力家で、1819年東インド会社(インド通信審査部長)に職を得た後も寸暇を惜しんで著述に励んだという。普通の凡庸な人には信じられないほどの読書を父から課せられた。幼児用絵本の代わり歴史書、哲学書、詩集などを読んできたという。どこまで理解したのかはわからないが、この読書は驚異であるので、本書に書かれた本(記憶によるものなのか、読書課題表が残っていたのかは不明)を羅列してみよう。本の題名が分かるものはそのまま著者と「・・」をつけて記すことができるが、分野しか書いてないものもある。
ギリシャ語語彙、「イソップ物語」、クセノポン「アナバシス(ペルシャ遠征記)」、ヘロドトスの全部、クセノポン「キュロス教育」、「ソクラテス追想録」、ディオゲネス「哲学者列伝」、イソクラテス「デモニコスへ」、「ニコクレス王へ」、プラトン「対話篇」初めの6つ、算術、ロバートスンの史書、ウォストン「フィリップ2世、3世伝記」、ヒューム「英国史」、ギボン「ローマ帝国衰亡史」、フック「ローマ史」、「プルターク伝」、バーネットの現代史、「年鑑」、ミラー「英国政治の史的概観」、モスハイム「教会史」、マクリー「ジョン・ノックス伝」、シューアル・ラティ「クウェイカー宗教史」、ビーヴァ―「アメリカ覚書」、コリンズ「ニューサウスウェールズ初代植民の記録」、「アンスン航海記」、「世界周航記集」、「ロビンソンクルーソゥ」、「アラビアンナイト」、カゾット「アラビア物語集」、「ドン・キホーテ」、エッジワス「通俗物語集」、ブルック「まぬけ貴族」、8歳でラテン語の学習、カエサル「ガリア戦記」、ポウブ訳「イーリアス詩集」、ユークリッド幾何学、代数学、微分学、高等数学、ウェルギウス「田園詩」、「アイエネス」、ホラチウス「抒情詩」、パエドルス「寓話詩」、リウィエス「ローマ建国史」の初めの10巻、オウディウス「変形物語」、ギリシャ劇ではテレンティウスの劇23篇、ルクレウスの一部、「イーリアスとオデッセイア」、ソフォクレス、エウリピデス、アリストパネスの劇数編、ツキジデス、クセノポン「ヘレニカ」、デオクリトアス、アナクレオン、ディオニュシオス、ポリュピオスを読んだ。アリストテレス「修辞学」、ミットフォード「ギリシャ史」、フック「ローマ史」、「古代万国史」、トムスン「冬」、英詩ではシェイクスピア、ミルトン、グレイ、ウオルター・スコット「物語詩」、ドライデン、クーパー、キャンペルなど読んだが、父は詩には関心がなかった。科学の分野では、ジョイス「科学の対話」に熱中したというが科学実験はしたことはなく系統的に学んだ形跡はない。12歳ぐらいから教育は一段進んだ段階になった。アリストテレスの論理学「オルガノン分析論」、スコラ派論理学、ホッブス「計算即論理学」、ギリシャの雄弁学ではデモステネス「演説集」、タキツス、ユウェナリス、クウィンティリアヌス、プラトンの対話篇より「ゴルギアス」、「プロタゴラス」、「国家」であり、ソクラテスの方法は観念の陥りがちな誤りを正す訓練となったという。1819年13歳になると、経済学の全過程を、父の友人リカードウの「経済学と租税の原理」で学んだ。続いてアダムスミスの著作を読んだ。父は科学方法論、論理学、経済学を同等に重視したという。ここでミルの少年期教育はすべて終了した。これだけの多岐にわたる教育を施されると大概の英才少年は打ちひしがれて燃え尽き症候群になるか、鬱病になるだろう。あるい反発して飛び出すか、廃人になるかもしれない。ミルの父親は行った英才教育は決して詰め込み教育ではなく、一歩一歩自分の理解力の進歩を待つ方針であったので、ミル本人は興味を持ち続けてこれに耐え得たのであろう。(凡才の私には理解できないことであるが) そして父親はミルが普通の子供らとの接触を禁じて、悪い考えや怠惰な生活から遠ざけたということである。ひたすら知的な訓練であって、実際的な人間をつくる教育ではなかったとミルは反省している。純粋培養で恐ろしく頭でっかちな天才宇宙人という化け物を作ろうとしたのであろうか。

(つづく)

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読書ノート 朱牟田夏雄訳 「ミル自伝」 岩波文庫

2013年09月29日 | 書評
イギリスの哲学者にして経済学者、民主主義・自由主義思想を語る 第4回

序(4)
 「自伝」の約 4/5(本書の218ページまで)は1861年に、残りの部は1870年に書かれたというのが定説になっている。本書の冒頭(本書第1章の第1-2ページ)にミルが記したように、自伝を書く動機は、彼が父から受けた幼児教育の記録(ミルは学校教育は全く受けていない)と彼の心的発展の歴史を記録しておきたいということと、第2にはその知的道徳的発展の途上で受けたほかの人の恩義に感謝するためであるという。つまり自分の知的発展の過程で読んだ本と父の指導、恩師や友人から受けた影響を記すことである。父親のジェームズ・ミルはベンサムの思想に共感し、また協会主義の支持者でもあった。ジェームズはそれらの考えにもとづき、ミルを優れた知識人として、またベンサムと自分に続く功利主義者として育て上げようとした。ミルの家系が貴族であったかどうかは知らないが、昔より王族貴族の子弟教育は家庭教師によるもので、学校は救貧事業に過ぎなかったことを思えば、ミルの教育法は画期的ということではなく父親一人が教師であったという点で父親の知的能力の高さが分かる。尋常な子供では想像を絶する読書歴を持ち、本を通じて広い世界を父の指導で学んできた「超秀才」少年ミルにも、人並みに青年期の憂鬱がやってきた。1826年秋から1827年春までの数か月、ミルはいわゆる「鬱病」になったようだ。鬱の期をフランスの文学者マンモルテルの「回想録」を読んで脱したそうだ。
 個人的体験を重視し自己の心理的発展の記録を残すことが本書「自伝」の動機の一つであったので、憂鬱の感情も極めて分析的にとらえて解決した。自己の思想の歴史をその発展の歴史としてとらえることを「進歩主義」(進化主義)というが、それを世間に公開することは世人にとっても有益だと考えている。自己の思想の社会的意義を公表することである。自己の客観化(第3者化)に巧みな、理性的なひとであったようだ。ただミルは自己の思想の誤りや無力性、限界といったマイナーな捉え方は一切しなかった。それを長所というか、我慢ならない短所(自分の思想は無誤謬で、常に自己にとっても社会にとっても意味を持つ過程である)という、挫折を知らない非人間性(世襲的お坊ちゃまに共通した)にも感じられる。ミルの著作は「自由論」しか読んでいないのでとやかく言えるわけではないが、ミルの功績を「総合性、集大成、完成」と評価する人もいれば、「寄せ集め、折衷式、解体的」と評価する人もいるようだ。ミルの存在が権威を持つにつれ、阻害的な面(嫌み)もあったようだ。ミルの思想は大まかに言うと、経験主義、功利主義、改良主義などと特徴づけることができるが、「肥沃な泥沼」という矛盾を含んだ混沌たる発展母体(国造り神話の混沌のしずく)であったようだ。フランス啓蒙思想のような革命性、深刻性、創造性は感じられない、いかにもイギリス貴族主義的改良主義の中で捉えるのが正当な評価ではないだろうか。ベンサムの功利主義というかイギリスの経験主義はすぐに役に立つことを求めるものであるが、ミルの学問上の功績は不確実で捉えがたい領域ばかりであったと自伝(本書167ページ)に述べられている。ミルにとって何が一番大切なものであったのか、自己の思想の社会的有用性を考えるうえでその中心点が不明瞭なのである。ミルにとって民衆の主権(民主主義)なのかというとどうもそうでもないようだし、自己の果たす役割お「中間の不確実な領域」に限定していたようだ。日本の「知識人」にもよくありがちな位置づけである。「鉄砲をとれと檄を飛ばすが、自分は鉄砲を持たない」ということかもしれない。しかしミルの自分の思想にたぐいまれな誠実性は、おのずと自分の存在の制約性に気づかずにはいられない。

(つづく)
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読書ノート 朱牟田夏雄訳 「ミル自伝」 岩波文庫

2013年09月28日 | 書評
イギリスの哲学者にして経済学者、民主主義・自由主義思想を語る 第3回

序(3)
 本書は19世紀イギリスの経済学者・思想家として有名なジョン・スチュアート・ミルの「自伝」(1873年版)である。ミルの受けた教育と精神の発展の歴史として自伝中の白眉といわれている。明治以来我国の旧制高等学校では自伝の一部分が教科書として用いられていたようだ。我国における邦訳・注釈版は多いが、岩波文庫においても昭和3年(1928年)以来西本正美氏の訳で出版されていた。それが1960年朱牟田夏雄氏の訳で改訳版が出された。氏のまえがきと解説者早坂忠氏のあとがきによると、テキストとしてハロルド・ラスキ版(1924年)、コロンビア大学コス版(1924年)、1961年に発見された1853-1854年執筆の「自伝」草稿がある。特に前2者の相違は著しいとされる。相違箇所はミルの近親者に関する記述箇所で、ミルの遺産相続人たる子や孫娘による記述の削除・改ざんによると思われる。遺産相続人の死去による現行の原稿の競売・散逸によって、この相違点の理由が明らかになってきた。すると今度はミルの意志の相克と矛盾が露わになったという。ミルの妻への尋常ならぬくらいの賛美は虚像ではないかと思われている。「ほめ殺し」の言葉に何が隠されているのか下世話な興味が湧く。

 訳者朱牟田夏雄氏(1906年6月29日 - 1987年10月18日)は、日本の英文学者。東京大学名誉教授。東京高等師範学校附属中学校(教育大、筑波大学付属)から第一高等学校へ、東京帝国大学英文科という判で押したような秀才コースを歩み、東大大学院卒業後8年間は書店で働き、1940年神戸商業大学(神戸大学の前身)予科教授、戦後は東京大学教養学部英語科助教授、教授を経て、1967年 定年退官後は名誉教授となるといった人物である。本書の解説を書いた早坂忠氏(1931年9月25日 - 1995年7月10日)は経済学史の研究者である。東京大学教養学科卒業後、東大教養部英語科の助教授・教授となり、1960年より学習院大学経済学部教授となった。東大では教養学部の英語科に所属しており、経済学ではなく英語の教授だった。専攻はケインズ経済学であった。本書の解説を頼まれたのは、東大教養部の英語科の先輩である朱牟田夏雄氏の要請により、本書「自伝」の背景となる19世紀英国の経済・社会を展望するためである。

 19世紀後半の西洋世界で大きな影響力を持ったジョンスチュアート・ミルは、フランス啓蒙派の影響を受けつつ、慣例と常識という詰まらないことに妙にこだわるイギリス経験派を抜け出ることで人気を得たようだ。あえていうとミルはアカデミック界に一度も籍を置いたことはないのに、論理学、哲学論理学、経済学、政治学、社会政策、文芸評論、宗教論などに関して文筆をふるった。19世紀(日本でいうと徳川時代後期)は人間の社会活動の未分化な時代で、こうした総合的な知識人が輩出したのであろう。こういう文化が日本の旧制高校や旧制帝国大学のいわゆる「全人教育」の理想となったのであろうかと偲ばせるものがある。ミルは仕事の上では父の後を継いで東インド会社の「インド通信審査部」に35年いて植民地への指揮命令系統に勤務した。そして知的活動においては哲学政治思想ではベンサム、ヒューム、経済学ではリカードといった父の交友関係をそのまま幼いころから自分の師とした。ミルが青年時代を送った時代は、産業革命を遂行中であり「世界の工場」としての地位にあったイギリス社会は、労働者階級が台頭して社会問題や政治行政問題が表面化する時代を背景としていた。

(つづく)
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読書ノート 朱牟田夏雄訳 「ミル自伝」 岩波文庫

2013年09月27日 | 書評
イギリスの哲学者にして経済学者、民主主義・自由主義思想を語る 第2回

序(2)
 ベンサムに対して、ジョン・スチュアート・ミルは、父の英才教育の中で人格と知的教養を形成し、多方面にわたって活躍し哲学者にして経済学者であり、社会民主主義・自由主義思想に多大な影響を与えた。ベンサムの唱えた功利主義の擁護者。晩年は自ら社会主義者を名乗るほどの急進的自由主義者であった。今日ミルの主著と考えられているものの多くは、1840年代以降に書かれている。ミルは様々な学問で業績を残したが、彼の思想の基礎にあるものは、彼自身の功利主義という倫理的な姿勢であり、それらは『功利主義』(1861年)などにおいて彼自身が述べている。ミルの業績の中でもとりわけ彼の名が刻まれているのは政治哲学での貢献である。ミルの著わした『自由論』(1859年)は自由とは何かと問いかけるものに力強い議論を与える。ミルは、自由とは個人の発展に必要不可欠なものという前提から議論を進める。J・S・ミル著 塩尻公明・木村健康訳 「自由論」(岩波文庫 1971年)より要点をしるそう。この思想をミルは思想家ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(1767-1835年)から得ている。「本書に展開されたあらゆる議論が直接に起因する重大な指導原理は、人類があたうかぎり多種多様な発展を遂げることが絶対的に必要であると云うことに帰着する」という。道徳哲学や社会哲学においてミルが功利主義者であることは論を待たない。ジェレミ・ベンサムのいう「最大多数の最大幸福」が最高の目的であった。しかしミルはこれに終わるものではなく、「ベンサム論」ではこれを批判して「我々は功利または幸福はあまりに複雑なまたは不確定な目的であって、いろいろな第2次目的の媒介を借りなくては決して狙うことは出来ない」といった。制度が最大多数の最大幸福をもたらさんが為には、何よりもまず社会の構成員の人間としての発展がなくてはならないということを「経済学原理」において述べている。それはやがて個性の重視となる理想主義になるのだ。すなわち第1原理としての功利主義に、「人間としての成長」、「諸能力の調和ある発展」という理想主義的色彩が加わる。19世紀前半は、欧州ではナポレオン戦争が終結してイギリスでは自由主義的改革の時代である。経済的自由および政治的自由の獲得の問題が次代の課題となり、思想的根拠が準備された。アダムスミスの「自然的自由の体制」、ベンサムの「功利主義哲学」があたかも自然法であるかのように受け入れられた。ベンサムによると、人間の行動はすべて利己心の発動で、快楽地球が人間の行為の動機である。利己心の衝突は望ましくなく、全ての人の調和を求める利己心を是とした。そのために利己心の衝突を避けるため国家や法律が必要だとされる。したがって国家や法律は基本的に悪であるがやむをえない必要悪とされる。こうして「最大多数の最大幸福」が達成されるという理屈である。この思想は哲学的急進主義といわれ、イギリスの改革に大いに力を発揮した。ミルの父も功利主義者であったことは先に述べた。J・S・ミルは哲学者としては論理学の帰納法を確立し、経済学者としては古典派経済学を受け継いだ。ミル自身は「功利主義」という著作を著わすほど功利主義者と見られているが、「自由論」においては妻のテイラーの意見を入れて功利主義から、調和的に人間の諸能力を可能な限り発展させることが道徳の目的となるという理想主義的個人主義へ進化した。
  自由とは、哲学的必然に対する意志の自由ではなく、市民的・社会的自由に関することであり、社会権力がどこまで個人的自由に正統に介入しうるかという権力の本質と限界についてであると定義する。古来、自由と権威との闘争では、自由とは政治的支配者の圧制に対する擁護を意味していた。支配者と被治者は本来敵対するもので、外的から被治者を守るための力は同時に被地者への圧迫に向けられていたのである。それゆえに支配者が社会の上に行使することを許された権力に対して制限を設ける必要があった。この制限こそが自由なのである。それは歴史的に政治的自由や権利を支配者に認めさせることであり、ある種の責任(賦役、課税など)を免除させることであった。これらは普段の反抗と闘争によって獲得されたものである。それに対して憲法によって、ある統治権の行為に対して社会の団体が同意を与えることで権力の制限を行う。自らの代弁者たる政府官吏を持つこと、選挙による選択で統治者を決める(権力を委託する)いわゆる主権在民の時代となった。主権は王候貴族ではなく被統治者側にある。だからといって自治権力は自分自身ではないので、この民主共和制の権力自体が民衆の自由を侵すことがある。人民の意志は実際には人民の最多数の部分あるいは最も活動的な部分の意思である。この所説はしかし諸々の能力が成熟して人々だけに適用される。未発達な社会状態、未開人に対しては専制政治は正当な統治方法である(この辺は植民地主義、帝国主義擁護となって今の常識では納得できないが)。そこでベンサムの功利主義を第1原理とし、個人の能力成長を第2原理とするミルの理想主義の誕生である。権力が個人を統制するときに強制を用いる害悪と同時に、不作為による害悪も存在する。すなわち社会がその個人を統制するよりも個人の自由裁量に任すときのほうが、大体において個人がよりよい行動をとる可能性があるようだ。この成熟した個人によって成り立つ社会を自由社会となずけると、自由な社会の条件として次の3つが固有の領域となる。①良心と思想の自由 ②嗜好および目的追求の自由、行為する自由 ③個人相互間の団結の自由、結社の自由が尊重されていない社会はその政体がなんであろうとも、自由な社会ではない。自分自身の幸福を自分自身の方法において追求できる自由である。

(続く)
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読書ノート 朱牟田夏雄訳 「ミル自伝」 岩波文庫

2013年09月26日 | 書評
イギリスの哲学者にして経済学者、民主主義・自由主義思想を語る 第1回

序(1)
 ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873年)は自他ともにベンサム(ベンタムとも発音する 1748-1832年)の功利主義者をもって任じている。J・Sミルの自伝においても述べているように、父親のジェイムズ・ミルの個人教育によって、ベンサムの功利主義から多大の知的影響を受けて育った。ベンサムなしにはミルは語れないので、回り道ながらベンサムと功利主義についておさらいをしておこう。ベンサムはオックスフォード大学のクィーンズカレッジで1763年に文学学士号を、1766年に文学修士号を修めた。1769年に弁護士資格を得た。当時の主導的権威であるウィリアム・ブラックストン卿の講義を聴講して法曹界に幻滅し、「誤魔化しの悪魔」と呼んだイギリスの法典の複雑さを非常に不満に思い、彼の人生を法律への批判とその改良方法の提案に捧げたという。ベンサムは法や社会の改革を多く提案しただけでなく、改革の根底に据えられるべき道徳的原理を考案した。「快楽や幸福をもたらす行為が善である」というベンサムの哲学は功利主義と呼ばれる。ベンサムの基本的な考え方は、『正しい行い』とは、「効用」を最大化するあらゆるものだと言うもの。ベンサムは、正しい行為や政策とは「最大多数個人の最大幸福」をもたらすものであると論じた。「最大多数個人の最大幸福」とは、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」という意味である。しかし彼は後に、「最大多数」という要件を落として「最大幸福原理」と彼が呼ぶものを採用した。ベンサムはまた、幸福計算と呼ばれる手続きを提案した。これは、ある行為がもたらす快楽の量を計算することによって、その行為の善悪の程度を決定するものである。功利主義は、ベンサムの門弟であるジョン・ステュアート・ミルによって、修正され拡張された。 ベンサムの理論には、ミルの理論とは異なり公正さの原理が欠落している言われる。例えば、拷問される個人の不幸よりも、その拷問によって産出される他の人々の幸福の総計の方が大きいならば、道徳的ということになる、という批判がある。しかしながら、P. J. ケリーが著作『功利主義と配分的正義―ジェレミ・ベンサムと市民法』の中で論じているように、ベンサムはそのような望ましくない帰結を防ぐような正義論をもっていた。ケリーによれば、ベンサムにとって法とは、「個々人が幸福と考えるものを形成し追求できるような私的不可侵領域を定めることによって、社会的な相互作用の基本的枠組みを提供する」ものなのである。私的不可侵領域は安全を提供するが、この安全は期待を形成するための前提条件である。幸福計算によれば、「期待効用」は「自然効用」よりもはるかに高くなるので、ベンサムは多数者の利益のために少数者を犠牲にすることを支持しないのである。

(つづく)
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