ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月31日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第13回

24) 京都の庭
この話は一見小説風に書かれている。京都の人とはだれかよくわからない。加藤氏は私的なこと特に妻については絶対秘密主義である。ウイキペディアでは妻は評論家・翻訳家の矢島翠と書かれている。加藤氏は「今まで三回結婚をしたけど」と言ったという。「羊の歌」でドイツ人女性と国際結婚をしていたらしいことも書かれている。「羊の歌」に京都の女というのが出てくる。加藤氏はそのとき結婚までいっていたんだけど、結局わかれてしまう。その経緯もよくわからない。京都の女という目でこの「京都の庭」の一説を読んでゆこう。その女のために私はしばしば京都へ行った。私は彼女を愛していると思っていた。東京で育った私には「京都弁」がたとえようもなく美しい言葉になった。若くして死んだ夫は仏教学者であった。子供が一人あって近所の小学校に通っていた。私は一人で京都の町を歩き、折節古寺を尋ねることをいつしか慣わしとした。龍安寺の石、西芳寺の苔、東山を借景とした南禅寺の枯山水に目をうたれた。私の外にあるものとうちにあるものとの一つの確かな関係に出会った。私は日本の庭に出会って以来15年も経って「詩仙堂志」(1964年)を書いた。その確かな関係がなければ庭に愛着ができない。古今集以来の歌にもつながり、一人の女の言葉の抑揚にもつながり、幼少のころ道玄坂に夕陽にもつながらなければならない。1949年、長く心臓をやみ、自律神経失調で健康にすぐれなかった母が、胃がんでこの世を去った。転移がなければ生きられたのに残念でならない。母が死んだとき私の内側が空虚になったように感じた。母の臨終にはカトリックの神父が立ち会った。母の信仰があったかどうかは確かではない。私が京都へゆくことを母は好んでいなかった。しかし私は結婚を考えていた。その時戦後第1回のフランス政府給費留学生の推薦に「半給費生」として選ばれた。京都の女が強く反対すれば出かけなかったかもしれないが、彼女は引き止めなかった。「1年後に帰ってきたら結婚しよう」という言い訳に、彼女は「そうね」と答えた。1951年フランスへ旅立ち、結局フランス滞在は4年に及び、京都の女の元へは戻らなかった。京都の女に関してはこれだけしか書かれていない。フィクション(小説)だと言われればそれだけの事であるが。

25) 第2の出発
1945年戦後日本社会へ向かって出発した私は、1951年の秋西洋見物(医学留学生としてフランス留学)にでかけた。これが2回目の出発となった。私より1年前に来ていた森有正氏と三宅徳嘉氏がオルリー空港に迎えに来てくれた。パリ市街の灯も東京の灯もこの遠さを感じさせるものではなかった。飛行機で南回り航路二日間の旅は、香港からカラチ空港、ベイルート空港、アルプス越えでパリ・オルリー空港に着陸した。周囲の世界が英語を媒介として構成される世界に入ったのである。日常の事をすべて外国語で表現する他はないとすれば、私の考えに内容も影響を与えるだろうと感じ始めた。大学町の日本館という気宿舎に入居した。私はフランス・ブルターニュから来た学生と知り合った。彼と意見交換(論争)をしたことで、フランス語を話せるようになった。フランス語で話をすることは対して難しくはないが、ヴァレリーを読むのは容易ではないと考えるようになった。フランスの青年が母国語とその古典に結ばれているほど確かな絆で、私は日本語とその古典に結ばれてはいなかった。横に幅広い教養を「雑種」と呼び、縦に深い教養を「純粋種」と呼ぶなら、現代の日本人は雑種型に積極的な意味を見出すほかはない。大学町で米国の女性黒人画家と知り合った。その頃パリの在留邦人は少なかった。大使館はまだ開設されていなかった。外務省事務所の萩原大使た、彫刻家高田博厚氏、フランス文学者朝吹登水子さんらと知り合った。東京とパリの違いは、道の両側に並んだ石造りの建物が堅牢で、パリという街全体が一個の複雑な彫刻に見えることであった。私はそこに外在化されたすなわち感覚的対象と化した一個の文化の核心を見たのであろう。私は街を歩きながら、底知れぬ一つの世界へ自分が引き込まれて行くのを感じた。

(つづく)

読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月30日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記  第12回

22) 広島
広島には一本の木もなかった。見渡す限り瓦礫の野原が広がっていた。1945年8月6日の朝まで確かに広島市があったし、何万もの家庭と家があった。原爆爆撃直後確かに生きていた生命は、3,4週間後には髪の毛が抜け、血を流して死んでいった。その経験を潜り抜けてきた人はその話をしたがらなかった。「ピカドン」で生きた心地がしなかった後は口をつぐんだままである。私が広島に入ったとき、核兵器については何も考えなかった。広島の人を沈黙させた経験との距離をいつも繰り返し思い出していた。被爆者の苦しみ、痛みを取り去れるわけでもなく、治療の為ではなく原爆の効果を調査する科学調査団としての自分の立ち位置に掛ける言葉もなくしていた。被曝した時の位置と被爆者の症状を機械的に記録するだけの作業である。黙って東京へ帰るか、広島に留まるか、結局私は2か月広島にとどまった。爆心からの距離、遮蔽物の有無と材質、原爆病の症状である脱毛、血液標本の作製と所見に専心した。私は東京帝国大学医学部と米軍軍医団が共同で広島へ送った「原子爆弾影響合同調査団」に、日本側から参加した。日本側団長は外科の都築教授であった。都築教授は中尾博士に相談し、血液塗抹標本の分析を依頼した。ほとんどが「再生不良性貧血」の病変に似て骨髄に大きな影響が予想された。そこで中尾博士に同行して広島行きに同意した。占領軍医との接触はこれが初めてであった。米軍輸送機で人と機材・食料・車と共に広島に空輸された。

23) 1946年
18)青春に書いた、赤堤の家で山崎剛太郎、中村真一郎、福永武彦、原田義人、窪田、中西らとやっていた朗読の集まりの連中が、戦死した中西を除いて戦後に再会して占領下の東京で同人雑誌「世代」を作った。私は福永武彦、中村真一郎と共に、共著「1946 文学的考察」を「世代」に連載した。小説という形式の将来を考察して、二人の小説家福永と中村は、東京の文壇で小説と考えられてきたものは、小説の一形式に過ぎず、「自然派流小説」は時代錯誤であるという論法を展開した。私は「新古今和歌集」の時代の歌人(定家、実朝)を研究し、「山家集」、「金槐和歌集」にはまっていた。京都大学哲学と日本浪漫派、高村光太郎と武者小路実篤が戦争で崩れ去った後、荷風と石川淳しか残っていなかった。そういうなかに病院に野間宏が雑誌「黄蜂」へ投稿を勧めに来た。私は「戦後文学」の時代が始まろうとしている予感を感じた。花田清輝は雑誌「総合文化」を主宰していた。詩人関根宏、物理学者渡辺慧、心理学者宮城音弥、心理学者南博氏らの活躍もあった。また「近代文学」の批評家たちとの交流もあった。「革命と文学」を論じていた。月刊雑誌「人間」の編集長木村徳三氏の依頼で私の原稿生活が始まった。小説「ある晴れた日に」を雑誌「人間」に連載した。そこで私は文筆を業として医を道楽とする生活を続けることになった。血液学の分野において日本ではほとんど進展がなかったが、米軍が徴用していた聖路加病院の図書館に出入りして、最近の欧米での進歩に目を見張った。血液凝固因子の研究から血漿タンパク質の電気透析法が生まれ、細胞形態学と血清学・免疫抗体反応・血液成分などが新しい領域として出現していたのである。日本のおくれを痛切に感じ取り、中尾喜久、三好和夫氏の臨床研究がはじまったのである。戦争中日本の文学者らはファッシズムに迎合して軍国主義を謳歌したが、同時期フランスでは反ファッシズムの抵抗主義文学が新しい潮流となっていた。日本の遅れと同時に私自身のフランス文学理解も遅れていることが明白であった。フランソワ・モリヤック、ルイ・アラゴン、ドリュ・ラ・ロシェルの著作を全く知らなかった。それだけでなく戦後俄かに一世を風靡し始めていたサルトルやカミュの文学が文学の範囲を拡大していることも知らなかった。遅れを取り戻す事ばかりに夢中になっていた私に、渡辺一夫先生は「本当に日本と日本人は変わったのだろか」という疑問を投げかけた。

(つづく)

読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月23日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第11回

20) 8月15日
1945年春、大学附属病院の内科は信州上田の結核療養所に疎開した。これは大学当局の指示によるものではなく、教授や医局のつてをたどって、東京から小数の患者と1/3の医局員が疎開したのである。父はすでに伊豆の療養所で医師として働いていたし、東京の家はなかった。妹は結婚して二人の子どもと母を連れて、信州追分村に疎開していた。浅間山の麓は疎開地として食糧生産には適さなかった。紙の紙幣はもはや信用を無くしており、物々交換しか信用されなかった。農村には若い男はいなくなっていたし、娘たちも軍需工場に取られていた。農民にも厭戦気分は広がっていたが、戦争が終わる気配はなかった。夏になると米軍は沖縄に上陸し占領した。そこから大阪、東京を空爆で焼き払い、艦載機で中小都市の爆撃が続いた。艦隊は日本の沿岸に現れ艦砲射撃を加えていた。日本には実質的抵抗能力は失われていた。「本土決戦」「竹槍戦術」などが勇ましく無意味に叫ばれたが、7月末のポツダム宣言無視は、軍隊の強がりに過ぎず何の策があるわけでもなく、本土決戦は権力者たちが、死出の道ずれに国民全体を巻き込もうとする陰惨な自殺行為に他ならなかった。8月10日新聞が「本土決戦、玉砕、焦土作戦」の代わりに「国体護持」を叫んだ時が、権力者の間に敗戦を受け入れる意見が支配的になったという表れであろう。8月15日「玉音放送」が行われ、終戦の詔が発せられた。片山教授は民主主義の勝利だと言って喜んだが、築地小劇場の俳優の鶴丸さんは冷静に「民主主義の勝利だって、そんなことはない。帝国主義の一方が勝ったに過ぎない。米国の占領軍はきっと、日本の支配階級を温存するだろうね、見ていてごらんなさい」と見通した意見を言う人もいた。私はポツダム宣言の民主化条項を信じて、民主化の徹底と経済的な復興がなされるであろうと考えていた。東京の焼け野原は、私にとって、単に東京の建物が焼き払われただけでなく、東京のすべての嘘とごまかし、時代錯誤が焼き払われたと思った。

21) 信条
戦後父は宮前町で借家を診療所にして開業していたが、患者はほとんど来なかった。私の家族は戦争で誰もなくならなかった。家の前にはドブ川が流れ、隣では祖母と叔母と、その娘が三人で住み、祖母の年金と家財を売りながらつつましい生活を送っていた。宮前町から本郷の病院まで、電車を乗り継いで2時間、乗り合いバスで1時間足らずであった。焼け跡の男は」軍服で、女はもんぺや戦前の洋服を着ていた。やり手の男たちは闇市で儲けて輝いて見えた。配給では生活できない現状を実力でたくましく生き抜いていたのである。「戦後の虚脱状態」という文句もあったが、東京の市民たちは虚脱状態で途方に暮れているどころか、むしろ不屈の生活力にあふれていた。乗合自動車や電車の中には、傷病兵もいたり、戦争から帰ってきた男たちが元気でいい顔の市民に戻っていた。昨日まで大陸や南方で人を殺してきた人間とはとても思えなかった。性善説も性悪説も信じられなかった。米軍の占領が始まったときに、私は日本の後進性であるファッシズムが打倒され世界的な規模で民主主義の歴史になるだろうと予言した。それが私の信条であり、私の信条は正しかったと思った。封建的軍国主義から平等に基づく民主主義社会へ生まれ変わるのを米軍が誘導し、米国資本主義は潜在的な日本市場を育てるに違いないという「イデオロギー」の力を信じていた。私は身の回りの日本社会のおくれた状況を見てきたが、西洋の社会の進歩は本の上でしか知らなかった。国家権力の国内的対外的な行動様式についてはほとんど何も知らなかった。事実上の男女差別の実例を全く知らなかった。私にはどういう信条があったのだろうかを点検すると、①宗教的信条はなかった、②認識論的には私は懐疑主義であったが、具体的には疑い続けたわけではない、③道徳的信条は絶対的とは考えなかった、時代、社会で相対的にならざるを得ないと考えた、④私は臆病で青雲の志はなかった、つまり権力志向は全くなかった。⑤私は経験を持たず、いくらかの観念をもって戦後の社会に出発しようとしていたのである。

(つづく)

読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月22日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第10回

18) 青春
私は医学部に入って、間もなく肺炎から湿性肋膜炎になった。当時抗生物質は発見されていなかったので、生死の境をさまよい赤堤の家で療養した。そこで生きて居られることの喜びを感じ、死ぬことの不合理に恐怖した。人は死すべき存在というのは自分の内側の要因で死ぬことであって、外部の審判が介入することは創造主の神と言えども合理的な理由を見つけることはできない。長引く回復期を本を読んで過ごした。読書の興味の対象は自然や科学ではなく、文学、知的な領域に及んでいた。特に西洋の文学が、人間生活の感覚的・感情的・知的領域の全域にに関わっていることを知った。パスカルからダヴィンチ、そしてヴァレリーの「ダヴィンチの方法論序説」が私を虜にした。私は大学の仏文科にあるヴァレリーの著作を借り出すて読みふけった。それは文学の領域の事に限らず、人間存在全般にかかわった。赤堤の家の友人たちが集った。山崎剛太郎、中村真一郎、福永武彦、原田義人、窪田、中西らと読書会をやっていたのである。この朗読の集まりを戯れに「マティネ・ポエティック」と呼んだ。詩の脚韻の可能性を九鬼周造らと議論した。戦後日本語を素材として脚韻は成功しないという結論を出したが、それは19世紀のフランス語の脚韻に近づこうとしたからである。マラルメを踏み台にしていたからもともと不可能であった。詩は脚韻ではなく言葉であることを知った。そうこうしているうちにこの詩の朗読会の面々は戦争に取られていった。戦争が終わるまで誰一人帰ってこなかった。誰よりも生きることを望んでいた中西が死んだ。騙されて死を選んだのでもない。騙すことができなかった権力が物理的の彼に死地を強制したのである。水道橋の能楽堂に入った時、召集令状も、国民服もない世界に引き込まれた。シテは一人で足りる、舞台装置もいらない、芝居という言葉の究極の意味を発見した。

19) 内科教室
東大附属病院の内科教室には無給副手として入局した。当時の名簿上医師の数は50名を超えていたが、軍医として招集された者を除くと実質は20名ばかりが医局に残っていた。食べることには問題がなかったので、市内の病院で働く必要もなく暮らしてゆけた。この医局で実験医学・実践医学を学んだ。中尾喜久、三好和夫氏から血液学一般の手ほどきを受け、血液や骨髄の細胞形態学を習った。誰のデータかで信用すること、自分で測り直さなければ信用するなという実験科学の基本を教わった。中尾喜久氏は血液学のみならず自律神経系なおどないか一般の広い知識を持ち、質問して知らないことはないというほどであった。敗戦直後の日米合同の原爆医学調査団に加わったのは、中尾氏の誘いによる。軍医の招集は大学病院の医局員の数をいよいよ少なくした。人手が亡くなっていけ餅患者の数が増えて仕事が多くなったので、ついに病院内の一部を借りて泊まり込みとなった。その頃太平洋の一つの島に米軍が上陸した。米軍は一度確保した島から撤退したことはなかったので、米軍が撤退し日本軍が挽回するかどうかで医局内で激論となった。「敗北主義」と言われて私は珍しく感情的になった。私は戦争を呪い、戦争宣伝とそれを受け入れた社会に怒っていたのだろう。私の周りでも、戦争の初期の勝利に酔い有頂天になっていた市民が、戦に疲れ、勝ち目のないことをそろそろ感じ始めていた。東京爆撃が現実となり、市街の1/3が焼き払われた後になって市民ははっきりそのことを自覚した。上野から深川にかけての下町は全滅した。やけどやけがをした患者が次々と病院に運ばれてきて、文字通り寝食を忘れて手当にあたった。我を忘れて働いたのは正直その時が初めてであった。

(つづく)

読書ノート 加藤周一著 「羊の歌ーわが回想ー」 岩波新書 上下(1968年)

2018年10月21日 | 書評
雑種文化の提唱者加藤周一氏が医学を捨て、日本文化の観察者たらんと決意した1960年までの半生記 第9回

16) ある晴れた日に
1941年12月8日 ある晴れた日に太平洋戦争が起った。大学医学部病院へ向かう道で。ある学生が号外を読み上げていた事で知った。周りの風景が異様に鮮烈な印象を呼び覚ました。私の日常と世界がぷっつり糸が切れたようであった。それは終戦後母が亡くなった時もそうであった。その頃私は戦が近づきつつあることは知らなくはなかったが、英米を相手にして戦が本当に起こるとは信じていなかった。医学部の授業をいつも通りに受けて、家に帰ると、母はどうなるんだろうねと言ったが、私は「勝ち目はないね」と答えた。その日の夕方から燈火管制が敷かれたが、私は新橋演舞場の切符を持っていたので、文楽の興行を見に行った。やっているかどうかはわからなかったが、入り口は開いており、劇場には4,5人の客がいた。義太夫と三味線の世界が始まり、一部の隙も無い表現の世界が、女の嘆きを巡って展開された。真珠湾の大勝を聞いた東京市民は有頂天になり、、大学教授、雑誌、詩人、歌人は声を上げて勝利を歌い、大東亜共栄圏への道は開けたといった。日本軍は北へ向かう代わりに戦争継続に必要な石油資源を求めて南下政策をとることを予測したゾルゲに情報は正しかった。ドゴール・フランス大統領は「これで勝負は決まった」と喜んだ。渋るアメリカの背中を日本が押してくれたからである。これでファッシズム没落への展望がアメリカ参戦で開けたのである。世界中で喜んでいることを東京は知らなかった。島国日本は情報戦争で最初から負けたのである。アメリカ艦隊が極東南方の海に現れるにはまだまだ時間がかかったので、戦争が始まっても日常の生活には変化はなかった。家運の衰退した祖父は渋谷の土地屋敷を売り払い、目黒の小さな家に移った。祖父の美竹町の土地に家を建てた父と家族は、赤堤の借家へ引っ越した。祖父は陸軍の恩給と家財を売った金で生活していたが小説を書き始めたという。女友達との交友を思い出して書いているに過ぎなかったが、現在の中に生きる喜びを求め続けてきた人の、過去への執着心であった。於いた祖父は間もなく目黒の家で死んだ。父は赤堤の家で開業しなかった。伊豆の結核療養所で働き、東京に帰ってくることは稀であった。そうこうするうちに政府の言うことが微妙に変化した。「鬼畜米英征伐」や「必勝」という代わりに神がかり的な「絶対不敗の態勢」となり、守りに入った。この時点では私は疎開の準備も買占め行動もとらなかった。そもそも私は始めから戦争を生きてきたのではなく、眺めていたのだ。

17) 仏文研究室
東京帝国大学では医学部の講義ばかりでなく、文学部の講義も聞いていた。まずフランス語の講座に出た。そこでは中島健三講師から仏文法を習った。辰野教授の「19世紀文芸思潮」、鈴木助教授の「マラルメ研究」、助教授の「モンテーニュ―」の購読などである。仏文科以外には芳光義彦講師の「倫理学」を聞いて、岩下壮一やカトリック神学にも及んだ。フランス文学にはカトリシズムの理解は必須であることに気が付いた。それは西洋の中世史の重要性に向かわせた。その頃の東大仏文科には個性のある俊才が集っていた。辰野隆、鈴木信一郎、中島健三、森有正、三宅徳嘉らが集ってだべる会にも参加した。仏文科の集まりには、ほかの世界とは遠く隔たったものがあった。それは権力を意識することなく何についてもかなり自由に話ができることであった。私が一番影響を受けたのは渡辺一夫助教授であった。渡辺氏は軍国主義的な周囲に反発して遠いフランスに精神的な逃避の場所を求めていたようだった。日本の社会の醜さの中に生きながら、そのことの意義をの中で見定めようとしていたのだろう。私は文科に出入りしてフランス現代文学端から読んでいた。渡辺助教授は16世紀の宗教戦争、異端裁判を周到綿密に研究されていた。そこの現在と同じ社会の狂気を見ていたのかもしれない。研究室の助手であった森有正・三宅徳嘉氏らとコーヒー店で談論した。そこにYMCAの劇作家木下順二氏も参加された。森有正・三宅徳嘉氏は戦争に騙されないという点でも渡辺助教授と同じように頑固であった。大学3年になった1943年、「学徒動員」によって卒業年限が1年早められ、4月卒業が前年9月卒業となった。私は医学部を卒業し、附属病院で働くことになったが、仏文科通いはやめなかった。神田教授のラテン語購読に参加した、キケロを読み、ウエルギウスを読んだ1944年英米軍はノルマンディ―上陸に成功し、ナチスは退勢を余儀なくされた。

(つづく)