ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年11月09日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロードより

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第15回

第5章) 「理性」と「神秘」 (その1)

人間を理性的存在として完成させるために、「賢慮」・「正義」・「勇気」・「節制」という「枢要徳」が必要であったと第2章で解説した。第3章で説いた「神学的徳」は、人間を神殿「関係において完成させる役割を果たす。トマス哲学・神学の基本的構造は「神学大全」のやり方に示されたように、キリスト教の教えが答えを用意するものではなく、むしろ問いを与え、その事が人間を理性的存在としてより深く完成させるものであった。新約聖書で語られるキリストは謎に満ちた存在である。キリストはローマ帝国支配からの解放(救世主)に答えを与える強力なユダヤ民族のリーダーではなかった。キリストは「一体全体あの方はどういう方だったのか」という驚くべき神秘に巻き込んで新たな問いに直面させる存在であった。こうした意味で「キリスト教の原点」とは「神秘」との出会いであった。キリスト教の教えの根幹にかかわるのは「キリストの神秘」や「受肉の神秘」(なぜ神がキリストという生身の人間の形をとったのか)である。「受肉の神秘」は「キリスト教最大の神秘」である。キリストを神の「受肉」としてとらえるのは、古代以来の教義論争を経て確立されたキリスト教の伝統的な教義の一つである。なかでも「三位一体論」は中心的な教義となった。キリストは人間として現れたが、同時に神であった。トマスの聖書解釈は13世紀の正統的な教義(ドグマ)であり、よくも悪しくも19世紀以降に成立した歴史批判的聖書研究の洗礼を受けていない。そもそも聖書には人間救済のために示された神の啓示や、物語的な手法で宗教的出来事を語るものであり、神について体系的に語ってはいない。聖書から人間救済につながりうる真理をより抽象度の高い次元で展開する理論(神学)が、「三位一体論」や「キリスト論」という教義である。

(つづく)