ブログ 「ごまめの歯軋り」

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柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月12日 | 書評
奈良県橿原市 西芳寺付近 今井町8

柏木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」 

岩波文庫 (2019年9月刊)
6) 歴史の反転(歴史哲学)

19世紀の前半パリの街ではパサージュという商店街・連絡路が盛んに建設されたが、1852年ルイ・ナポレオンによる第二帝政期にはすっかり衰退した。それは百貨店の台頭だけでなくパリ再開発により街路が整備され、古いアーケード街が取り壊されたためである。ベンヤミンは19世紀のパサージュの盛衰減少に目を付け、これを「19世紀の根源史」と名付けた。1927年よりベンヤミンはブルーストの「失われた時を求めて」の翻訳に取り組んでいた。ベンヤミンをパサージュに興味を持たせたのは、シュルレアリズム文学であった。アーケード街の鉄骨建築とその内部空間、娼婦を含むその住民たち、街路を彩る「流行」という事象を弁証法的にかつラプソディ(狂詩曲)風に描き出そうとした。しかしその風俗史的なアプローチは1929年アドルフらの歴史批判を受けて大きく見直され、その街路を根源史の場として浮かび上がらせる歴史哲学的研究に生まれ変わった。ベンヤミンは「パリ―19世紀の首都」に改題して、商品という物神の巡礼地としての万国博覧会をブルジョワ社会の神話的な夢想の装置と位置づけ、ボードレールの夢からの覚醒を梃子にして根源史の叙述構想とした。アドルノは彼の原稿を批判して、集団的無意識に訴えるやり方は神話的な次元への退行ではないかといった。あくまで個々人の意識の発展から考えるアドルノに対してベンヤミンは個人を超えた弁証的像として、覚醒して夢の残骸を拾い集めることを主張した。パサージュ論の方法論とは、弁証法的像を媒体とする「根源史」としての歴史の認識であった。およそ20年間隠していた「歴史の概念」について、1939年9月の第二次世界大戦の勃発に関連する危機の切迫によって、フェリーツィタスへの手紙の中で「歴史の概念」についてテーゼ集として書き下ろす決定的契機を語った。
1920年ごろに書かれた著作で「暴力批判論」がある。生ある人が権力の犠牲にされてきた歴史を「神話的暴力」とベンヤミンは定義した。このような神話に政治権力を位置づけることは、目的論的な歴史観の押し付けである。目的論的な救済史とは、結局は支配者のための神話である。「政治の審美主義化」に貢献してきた。歴史を一続きに物語る立場を拒否し、個々の被造物の儚さによりそう姿は「ニヒリズム」まで先鋭化されている。ニヒリズムは1930年ごろ神話的な歴史を破壊することになって現れた。

ベンヤミンは1930年代半ばのエッセイ「物語作家」のなかで、失敗を含めて経験を伝える物語は語り手の痕跡が残るものであると述べている。ここで彼は物語られる経験の衰微は、「進歩」とみられてきた近代の歴史的な過程の帰結であると考えた。第1次世界大戦から帰ってきた帰還兵の沈黙は、最新の近代技術が投入された戦争では、戦いの経験と呼べるものは何一つなかったからである。技術が浸透した社会の人間にとって絶えず情報の刺激に反応するように馴らされた結果、知覚経験が普段の刺激によって寸断されている。経験は「体験」それも「ショックの体験」によって取って代られた。一連の刺激防衛反応によって意識が動員され、無反応を装い出来あいの情報で処理されるようになる。人は何一つ経験できなくなってしまうのである。伝統が、物語による経験の伝承、知恵の継承によって成り立つとすれば、経験を失う過程で人間は伝統の存立の条件を崩壊させた。その結果、共同体の伝統から切り離され孤立した人間は、技術の力と腐敗した権力に曝されてしまう。ファッシズムの破壊的な本流と爆発の力の場に置かれた人間はちっぽけで脆い人間の肉体に化してしまう。ファッシズムの本質は、人々のむき出しの生を、相互監視を含んだ情報技術を使って一つに束ねて、他者を排斥しつつ支配圏を拡大しようとする政治的企画のために動員する。人々には「民族」、「進歩」の神話が造られた。この「政治の審美主義化」に魅了された者はファッシズムの道具にされ総力戦としての戦争で消費される。人類の自己疎外は、人類が自身の滅亡を第一級の美的享楽として体験する域にまで達している(死の美学にとりつかれる)。「フランツ・カフカ」のエッセイにおいて、無機物まで下降したカフカの人間「オドラデグ」や、ベンヤミンの「せむしの小人」のまなざしは、忘れられて歪められた被造物への祈るような見方である。この弁証法的像をとらえる方法は、歴史が忘れ去ったものへと現在の断絶を正視し、神話的な物語を中断する批評的な緊張を持つことである。

被造物の世界を歪めてゆく忘却の中で行われる過去の追憶ないし想起から、歴史が捉えなおされてゆく。1929年に発表された「ブルーストの像について」に、過ぎ去ったことは意思を越えて思い起こされると述べている。ブルーストの小説が「無意識的記憶」の体験から紡がれていることをベンヤミンは着目した。この「無意識的記憶」を批判的に受容するには、「パサージュ論」の方法論の精錬にもつながる。想起を歴史の原点に置くことは、完結されたこと(歴史の苦悩)を未完成にすることである。19世紀以来の人文科学的歴史を記述する立場を、ベンヤミンは「歴史主義」と呼んで批判した。それは今の歴史を語りうる支配者の立場と同じである。ベンヤミンが「パサージュ論」を書いているころ、「歴史主義」はファッシズムが用いる神話を強化する「麻酔的」な役割を果たしていた。物事をそれがあった通り(と宣伝して)に描く歴史というものは、この世紀の強力な麻酔薬であった。歴史を大衆から取り上げ、御用専門家(歴史学者)の前に武装解除することであった。「進歩」が集合的に夢想されるなか、破局が恒常的に続く神話としての歴史の現場に置くことである。植民地支配で収奪したものが消費され、流行がはびこって古いものは棄却されていった。神話としての歴史によって抑圧されてきた過去に不意に向き合わされて、思考が立ち止まるところから弁証法的像が現れる。それは思考運動における「中間休止」である。ブルーストがその生涯の物語を目覚めるところから始めるように、いかなる歴史の叙述も目覚めとともに開始されなければならない。」 そのような想起の媒体として弁証的像を捉え、近代の根源史を著わすことは、近代の「時代の夢」からの覚醒を目指す歴史叙述として構想された。

1939年夏、独ソ不可侵条約が締結されて、ベンヤミンは打ちひしがれていた。スターリンの全体主義体制にベンヤミンは何の幻想も抱いていなかった。ドイツ・ナチスの矛先を西へ向けるための便宜的手段とはいえ、破壊的な戦争がまじかに迫っていることを意味した。1939年9月ドイツはポーランドに侵攻し、イギリスとアメリカはドイツに宣戦布告した。こうして第二次世界大戦が始まった。ベンヤミンはすでにドイツ国籍を剥奪されていたが、フランスにとって敵性外国人として「キャンプ」に収容された。11月にはペンクラブの尽力で拘束を解かれパリに戻った。「歴史の概念についてのテーゼ」を書きは決めたのもパリ帰還後まもなくしてからである。1940年2月末には20のテーゼが書き上げられた。そしてそのテーゼの中に、未完だった「パサージュ論」の方法論が散りばめられた。歴史の概念の草稿に「歴史とは厳密な意味においては非随意的想起にもとづく一つの像であり、これは危機的な瞬間に歴史の前に姿を現す」と記した。史的唯物論にとっては、危機の瞬間に歴史の前に思いかけず姿を現す過去の像を留めることが重要であり、それにはすでに支配的な歴史の物語に批判的かつ破壊的に介入することである。「進歩史観」の下では時間が単調な直線となるが、ベンヤミンは進歩の神話としての歴史を破壊し、その支配から過去の記憶を救い出すことの積極性は、抑圧された過去のための戦いが喫緊の課題であることを伝えんがためである。破局の歴史が積み重なった現在に目覚めるとは死者に遭遇することである。その中から歴史を認識する主体が生まれることである。歴史を書くとは、神話としての歴史に抗して、それが抹殺した死者と、この死者が巻き込まれた出来事とをその名で呼び出し死者の記憶を証言することである。歴史を語るとは、この地点から破局に破局を重ねてきた過程を見返して、それを中断させることである。此処に革命が起こる。この時の反転に基づく革命に、死者を含めた人類の存亡がかかっている。天使はきっとなろうことならそこに留まり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。しかし楽園からは風が吹き付け、彼の翼に孕まれている。しかも嵐のあまりの激しさに天使は翼を閉じることができない。

7) 終章

1933年8月に書かれた「アゲシラウス・サンタンデル」という堕天使の像は、ベンヤミンの生涯を凝縮した像であると同時に、地上の歴史的な世界においては滅び去るほかはない被造物に捧げられる彼自身の寓意像であろう。言葉は、過ぎ去ったものが根源の現象として甦る媒体に成り得る。ベンヤミンは最後の最後までパリに留まりたかった。友人らはヨーロッパから脱出するよう勧めたが、頑なにパリにこだわったには19世紀生まれの欧州人としての矜持が働いていたようだ。彼は最終的にアメリカに亡命する準備をしていた。1940年5月ナチスがフランスに侵攻したことで、6月妹のドーラを伴ってパリを脱出しルルドから一人で(妹の病気のため)マルセイユに向かった。マルセイユでアメリカ行きのビザを得て、スペインを通ってリスボンからアメリカ行きの船に乗る道を選んだ。スペインからポルトガルへの通行ビザを得たが、フランスの法の制約(ベンヤミンは無国籍であったが)でフランス出国ビザは得ることはできなかった。そこで非合法にピレネー山脈の間道を選んだ。翌日スペインの国境の町ボルボウに着いた。国境警察で尋問され当局はマルセイユ発向ビザを信用せず、フランスへ強制送還するという。その夜致死量のモルヒネを飲んでベンヤミンは48歳の生涯を終えた。ボルボウの共同墓地に葬られた。なおボルボウはスペイン内戦の最後の戦闘が行われた場所でもあった。終焉の地にいくつものモニュメントが造られた。その一つにボルボウのパサージュがある。墓地内の碑には「文化財なる者は、同時に野蛮の記録であることなしに文化の記録であることはあり得ない」というベンヤミンの「歴史の概念」の一節が刻まれている。神話化としての顕彰や美化こそ、ベンヤミンの思考が抗ったことである。彼の思考は、国家と資本という全体的な機構の神話的暴力によって生ある者やその仕事が際限なく使い捨てられる時代に合って、その闇の只中に生存の道筋を切り開こうとしていた。死者が残した仕事の「死後の生」をいまここに繰り広げることである。批評するということは、このようにして死者と応え合う言葉を生きることである。進歩と美化されてきたこの破滅的な流れを中断させ、技術的な生産過程の内側から転換させる可能性を追求する思考を彼は「史的唯物論」と呼んだ。

ゲーテの「親和力」についての評論のなかで、ベンヤミンは、ゲーテが「事象内実」と呼んだことを「真理内実」と見抜いた。その真理内実に迫る方法は哲学的であるという。批評が作品の中からその真理として提示するものは、あくまで最高の哲学的問題であって、批評自体は哲学たり得ないという。本書を内容において極限まで要約すると以下の三点となる。
①ベンヤミンが言語自体の最も内奥にある本質は「名」であると見抜いたのは、遭遇する他の人や事物の肯定に基づく。言葉が実質的に何かを語ることの根拠である。子の徳の発語は、それ自体翻訳なのである。翻訳が一つの言語を始めて形成する。翻訳以前には言語はない。近代の言語の歴史は、自己の内部を体系化し、その話者を「民族的」ないし「国民的」同一性において規定してゆく過程である。発語の根拠をなす他者の肯定を突き詰めると「模倣」となる。
②技術的複製可能性の時代の芸術作品は二段階に区別される。第一は自然状態の全面的な支配を目指す。第二段階は階級なき社会に向けた芸術の政治化である。作品の調和的な完成を破壊する批評が陪在する芸術を見通し、芸術そのものの修正を目指す。ベンヤミンは模倣的な技術と、批評的認識を織り込んだ芸術作品の姿を一貫して追求した。
③歴史の媒体を像と考える。歴史はいくつもの物語に分かれるのではなく、いくつもの像に分かれるのである。彼は進歩と呼ばれる過程が破局の連続であることを正視し、その中断を目指した革命を志向した。ベンヤミンの思考は、人間が作った仕組みによって生きることが困難な歴史的状況に踏みとどまって、その内側で息を通わせる隙間を「瓦礫を繕う道」として見つめることである。そこに破滅から再生への弁証法がある。権力者の支配の道具には決してならない芸術と歴史の概念を示す彼の哲学は、死者を含めた他者と呼応する魂の息吹を求めるものである。

(完)



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