ブログ 「ごまめの歯軋り」

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J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」

2021年06月29日 | 書評
京都市北京区 「西陣 町家」

J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

岩波現代文庫(2019年6月)(その3)

第Ⅰ部
1-3) 資本主義か民主主義か
柄谷行人氏は、柄谷行人著「世界史の構造」 岩波現代文庫において、資本、国民ネーション、国家の3つの社会要素を当事者とする社会構造を論じている。同じようにシュトレークも国家、経済、そして市民という3つのプレーヤーが参加する相互関係を社会の構造と考えている。国家は租税によって自らを維持し、選挙によって正当性を得る。経済は資本主義的成長が国家の租税収入をもたらすように努める。市民は生活ができることを条件としてこの国家を政治的に支持する。国家は経済と市民の相対立する要求の間に危機回避を通じて両者の妥協を図る。国家は資本の利潤期待の法的前提とインフラ整備を行う。他方市民には平等を保障し社会正義の要求を満たす。新自由主義の戦略は資本増殖の利害の満足が社会正義より優先することの承認である。社会的歪を覚悟して「時間稼ぎ」によって危機を先延ばしにするのである。1980年以降、危機の力学はもっぱら資本主義的な価値増殖がイニシャティブを握ってきたと解釈するシュトレークの見解は、すべて不可避だったというが果たしてそうだろうか。シュトレークは、憲法規範が法的に妥当しており民主主義的な複合体が事実として存在していた力を過少評価しているようだ。民主主義的な制度や規則や日常生活が歯止めの力である。2013年リスボンやポルトガルで起きた大規模な抵抗運動がその歯止めの力だった。ポルトガル大統領は、政府の緊縮政策は無効であると憲法裁判所に訴えた。一瞬のこととはいえ市場の独裁を阻止したのである。「株主配当優先」が裕福な金融経営者階級というエリートを生み出したが、政治家を無能な召使扱いをしていいことかけっして当たり前のことではなかったはずだ。キプロス危機では個々の銀行救済では済まなくなり、危機のつけを払うのは納税者ではなく危機を引き起こした連中であった。そして大量の負債を抱えた国家財政を正常にするためには、支出の緊縮と租税収入の増加という方法もあった。通貨同盟の構造的欠陥を取り繕うには、ヨーロッパ全体の財政政策・経済政策・社会政策といった制度的枠組みと資金の融通、リスボン条約の改定によって欧州委員会が欧州理事会と欧州議会の両方に対して責任をもつべきであるなど、ヨーロッパ全体の努力が必要である。民主主義の枠組みのEUは、市場重視の統治連邦主義とは異なるものである。欧州議会においてのみ国民国家の限界を消去する利害の普遍化が可能となる。EU市民が「われわれ」という方向をもって制度化された権力を生み出すのは欧州議会を置いてない。このような利害の普遍化への転換がどうしても必要なのである。

(つづく)


J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

2021年06月28日 | 書評
京都市左京区岡崎 「黒門 光明寺」

J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

岩波現代文庫(2019年6月)(その2)


第Ⅰ部
1-1) 危機の由来
シュトレークは戦後から1970年代に至る時期に作られた社会福祉国家体制をスケッチすることから始めた。その後に生じた新自由主義改革(改悪?)は資本の増殖条件を改善するもので、煩わしい共同体との交渉を省いて、市場の規制緩和を果たした。規制緩和は労働条件のみならず商品・サービス、資本市場の効率化、IT化を高めた。そして株主価値を上げることのみが企業経営の最高規範となり経営者報酬はとてつもなく高額となった。レーガンとサッチャーとともに始まったこの新自由主義的転換は、資本側が民主主義な国家を押しのける突破口であった。この転換前の民主主義国家は新自由主義者や資本・投資家から見ると、社会的正義を基準とすることから企業の利潤率を下げ、経済成長を妨げるものであった。70年代はインフレ率が高まり、公的負債と家計負債が大きくなり、同時に国家の租税収入が減少した。社会的不平等の拡大は租税国家の財政的基盤をもはや市民の負担で支えられなくなった。それは直ちに国債の信用に依存し、民主主義的な債務国家へと変身した。租税国家が負債国家に変貌するために、つぶれそうな銀行団によって国家は破産寸前に追い込まれる。こうして金融資本主義は負債国家の国民を保護監督下に置いた。2011年のG20のカンヌ会議において、ギリシャ政府は資本に友好的なドイツ政府の要請を受け入れるかどうかの国民投票を放棄させられた。欧州通貨同盟の財政安定化政策は、個々の国の経済の発展段階の相違を無視し、一律の規則に従わせ、各国政府への介入権や制御権を行使するために首脳会議と欧州委員会へ権限を集中させた。欧州会議の無力化と欧州委員会への権限の集中は、市場盲従を是とする各国政府の協力を通じて、金融テクノロジー独走を生み出した。こうした体制は公共圏や議会とは無縁の統治連邦主義が欧州を支配するのではないかという心配をもたらした。ヨーロッパの各国政府の財政再建は、金融投資機関と化したEUによるヨーロッパ国家体制改造を目指している。それはヨーロッパにおける資本主義的民主主義の新体制づくりといえる。サッチャーの後継者をもって任じるイギリス首相キャメロンは民主主義と資本主義の結合を解消し、ヨーロッパが競争と柔軟性からなる現代社会を認めることを導こうとする。通貨同盟をさらに拡大し、超国家的な民主主義へ発展させる政治が主流となるなら新自由主義の流れを逆転させることができるはずである。

1-2) ノスタルジー型オプション
シュトレークは市場をもう一度社会的監督下に置くことができる制度を確立することであると説く。彼は言う。「再生可能な労働のための市場、自然を破壊しない財の市場、果てしない約束を大量生産する誘惑に屈しない債権のために市場を」を作り上げなければならない。そのための彼の具体策は頂けない。歴史の時計を逆戻りさせる解体作業である。弄ばれた国民がとっくの昔に無力化した主権国家を再建する夢である。このノスタルジー的なオプションである。しかし世界社会は高度に相互依存性を高めている。世界社会はシステムとしては融合しつつあるが、政治的にはアナーキーである。それはリーマンショック後のBRICsを急遽集めたロンドンG20 の無能力であった。もはや国民国家は機能していなかった。世界は金で融合した世界社会であるが、政治的には断片化しており、協力しあう能力を欠いた国民国家の空洞が明らかになった。国民国家の行政行為は想像を絶した規模で膨張し機能を喪失していたが、金融セクターから出される至上命令から逃れることはできなくなっていた。国家は国際条約という手段しか残っていないなら、金融センターを実体経済が必要とする範囲内に縮小することは到底不可能である。欧州通貨同盟の国家群は逆戻り不可能までグローバル化した市場を政治的影響力の枠内に取り戻さなければならない。ところが通貨同盟の国家群の政治的な危機管理は、時間稼ぎを狙った政策を行うテクノクラートの支配を拡大しているに過ぎない。シュトレークは、投資家の力の源泉は進化した国際統合と効率的なグローバルマーケットの存在であることは承知している。グローバルに統合された金融市場は、国民国家単位で組織された社会よりも組織上の優位性を持っている。国民国家の残余にしがみついては、捨て鉢な行動に出るか深い悲観論に落ち込むしかないのだろうか。資本主義と民主主義の乖離といってしまえば、打開のための前進はない。

(つづく)



J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

2021年06月27日 | 書評
結城市 弘教寺 「六地蔵」

J・ハーバーマス著 三島健一訳「デモクラシーか資本主義か」 

岩波現代文庫(2019年6月)(その1)


第Ⅰ部

本書を編んだのは、大阪大学名誉教授の三島憲一氏である。1942年生まれ、東京大学人文科学系卒業で、専攻は社会哲学、ドイツ思想史である。三島氏が2007年から2018年にかけてのハーバーマスの政治評論7編とインタビュー4編、全11編を選んだ。ドイツ・デュッセルドルフで生まれ、フランクフルト学派第二世代を代表するドイツの社会哲学者ユルゲン・ハーバーマスは、ひっきりなしの危機に喘ぐヨーロッパの特にEUの状況とドイツ政府の対応について、政治的エッセイやインタビューを発表した。どの編にも批判的分析と立場表明がクリアーに表現され、社会的影響力を持つ知識人による政治的介入とみなされている。ギリシャ危機と救済、リスボン条約、ブリュッセルの欧州理事会の独裁的運営、欧州における右翼の台頭、英国の離脱ブレクシット、などの荒波が欧州を襲った。各国を席巻する新自由主義的政策と、格差低減を目指して欧州統合を進めるリベラルなヨーロッパへの道は激突した。2003年ブッシュジュニアーによるイラク戦争に端を発するアメリカの単独行動が目立ち始めた後、ヨーロッパ統合に向けた議論がさらに展開された。そしてリーマンショックやギリシャ債務危機によって、ネオリベラリズムの経済的破綻がはっきりしてから、欧州統合の議論は活発になったが、一向に事態が進展しないのはEU内部での危機解決策に民主主義が欠如していることが理由の一つである。欧州議会の議論を踏まえたうえで欧州理事会で決定されるべきなのであるが、事態は逆方向に進んでいる。暴力によらない問題解決には超国家的な統合のための憲法が必要である。欧州全体で基本的人権を守る政策が必要となる。欧州共通通貨ユーロだけでは経済力に格差が拡大する。ドイツとフランスが資金移動や債務共同負担に踏み出すべきである。欧州統合はスーパー国家や連邦国家として考えるのではなく、個々の国民国家を残して行われ、国民国家内部の市民はヨーロッパ市民として欧州連合の一員となるこうした左翼リベラル路線のヨーロッパは、アメリカの単独行動へ、中国の拡張主義へ反対し、世界政治の核となる。そこに至る道には「妥協は最大の知的過誤である」という判断とともに、その都度の危機や政治的対応に臨まなくてはならない。これがハーバーマスの見解である。

第1章) デモクラシーか 資本主義か (シュトレーク批判)
2013年5月「ドイツ政治・国際政治雑誌」に投稿された論文「民主主義か、資本主義か、危機にあるヨーロッパ」である。シュトレークは「時間稼ぎの資本主義」という論考で、現在のユーロ危機の解決策として、ユーロを解消し、かっての国民国家の民主主義的な経済政策に後退することを提案した。国際的金融資本の弱い者いじめの破壊工作と過度の緊縮予算を強要する力に抗するためには、経済政策上の主権を行使できる国民国家に戻らなければならないという。ハーバーマスはシュとレークの分析を「ノスタルジー」と決めつけた。なぜなら国民国家の経済政策の主権などはとっくの昔に機能していない。グローバル資本が国家を乗っ取っているからである。少なくともユーロを導入している中核ヨーロッパの各国は、EUへの政治統合を強め、国際金融資本にまとまって対抗し、規制を強化する以外にはない。つまり民主主義を守る政治の力が必要だ。この30年の歴史は本当に必然であったのか、経済政策的な視点を取るか、規範に依拠した政治の観点を忘れない視点もあった。ケインズ的な経済政策によって資本主義の制御が可能という楽観論で危機のポテンシャルは政治的に抑えることが可能であると信じていた。しかし複雑な相互に矛盾する政策は国家行政に過度の負担をもたらした。それが経済危機をもたらした。

(つづく)



熊倉正修 著 「日本のマクロ経済政策」

2021年06月26日 | 書評
東京都世田谷区 「豪徳寺井伊家第13代 井伊直弼墓」

熊倉正修 著 「日本のマクロ経済政策」 

岩波新書(2019年6月)(その18)


第5章 マクロ経済政策と民主主義―日本が生まれ変わる条件

4) 日本は変わることができるか

日本が合理的な経済政策が行われる国に生まれ変わることは容易ではない。しかし日本の大きな問題は、政治がそうした新しい社会への移行を後押しするのではなく、むしろ特定政治利益団体が利益を独占するため改革への阻害要因となっていることである。現行憲法前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表がこれを行使し、その権利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理である」と宣言されている。国家が主権者である国民の意志によって作られたものである。自民党憲法改正案では個人の自由意思を否定し、地縁国家の延長線上に国家があるとする。民主主義国家の基本単位は個人であることも否定されている。自民党はおびただしい数の民間団体と密接な関係を築いている。こうした利益団体との結びつきは国家予算に濃厚に反映されている。地域社会や中小企業・経営者団体の守護者としてふるまうことで支持者を集め集票マシーンにしてきたことが自民党の選挙での強さであった。こうした自民党の基盤は産業構造の変化によって緩んできており、今日では大多数の浮動票の行方が圧倒的勝利か敗北かの分け目になっている。選挙の度の所得税減税や特別減税措置などの乱発によって税収はあまり増えていない。消費税率の増加は所得減税と拮抗し、国全体の増収にはならなかった。配分の変化に過ぎなかった。プレミアム商品券などのバラマキ政策やオリンピック特需、住宅ローン減税は将来の需要の先食いである。こうした政党が与党である限り、財政の計画性や持続的な財政規律運営などは夢のまた夢と言うべきであろう。政府の財政の冒険主義と非合理主義は今日の経済政策に蔓延している。政治家官僚の総無責任時代は景気のいいことを煽るだけで、持続性を持たない。私有財産を公債や貨幣に代えた人は戦争で全てを失った。

(完)



熊倉正修 著 「日本のマクロ経済政策」

2021年06月25日 | 書評
京都市上京区 「大徳寺高桐院 細川家霊廟」

熊倉正修 著 「日本のマクロ経済政策」 

岩波新書(2019年6月)(その17)


第5章 マクロ経済政策と民主主義―日本が生まれ変わる条件

3) 日本の民主主義の未熟さ
EU加盟国財政の健全化を確保するための制度作りは進められている。近い将来の日本においてマクロ経済政策の改革が行われる可能性は低いとと考えられる。その理由の一つは現行の政策が隘路にはまり込んで身動きが取れなくなっているからである。同時に日本国民の間で合理的で持続性のある政策を求める機運が低調である。「日本の財政危機を生みだしたのはシルバー民主主義か民主主義の未熟か」という問題に立ち返って考えてみよう。今日の日本のシルバー世代の人々は、自分たちが現役世代や将来世代を食い物にしたという自意識を持っている人はまれである。若者の中でも自分たちはシルバー世代の犠牲者だという意識は希薄である。日本で世代間闘争が起きているとは思えず、若者は社会制度の設計の責任を負わされることを忌避している様だ。若者の政治参加意欲が低いことはよく知られている。今日の日本には現代的な民主主義政治の前提である個人の自律の意識が十分に定着しておらず、個人と共同体との境界が曖昧な伝統的社会の要素が少なからず残っている。成熟した市民社会では伝統的地縁的共同体の機能が後退し、村落が家族を束縛する力は弱い。全体として個人は広い社会に対して関心と帰属意識が高い。「共有地」を管理する能力も高い。それに対して伝統的な日本社会ではつねに「共有地の悲劇」が起きている。持続不可能な環境破壊、資源枯渇、資源の奪い合いは個人が属する共同体のためならば何でも許される。自然環境、資源、税金、国家、社会福祉は収奪の対象でしかない。

(つづく)