ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月26日 | 書評
シャコバサボテン

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第9回

第3章 鎌倉幕府と後鳥羽の葛藤 (その1)

1219年1月27日の実朝の横死は衝撃であった。幕府内の動揺は激しかった。実朝横死を知らせる使者が鎌倉を発った。急使は5日間の行程である。御台所を始め大江親広・安達景盛・二階堂行村ら御家人百余名が出家した。29日より共犯者の捜索が行われたが、黒幕の気配はなかった。将軍を失った幕府の求心力の低下が心配された。2月11日実朝の叔父阿野全成の子時元が駿河国阿野で反旗を翻した。幕府は尼将軍政子が指揮を執り15日に追討軍を送り22日には時元を自害させた。同様の源氏の反乱を未然に防ぐため3月27日時元の兄弟で駿河の実相寺の僧侶道曉を死に追いやった。4月15日には公暁に加担したかどで頼家の遺児禅曉を京都で殺害した。こうして義朝を祖とする河内源氏は、頼朝・頼家・公暁・禅曉・実朝・時元・道曉が消え去って全滅した。鎌倉幕府首脳は源氏一族を粛正し、将軍空位を埋める策に集中した。2月9日実朝横死を朝廷に伝えた使者が鎌倉に戻ると洛中の衝撃と動揺を伝え、政子は2月13日二階堂行光が使者となり後醍醐の親王の鎌倉下向を申請した。翌日伊賀光季、大江親広を京都警護のために上洛させた。1219年1月28日鎌倉を発った使者の報を受けた大納言西園寺公経が急報を受け水無瀬殿にいた後鳥羽に実朝横死を知らせた。6日後鳥羽は院御所高陽院殿で五壇法等を修し国家安泰・玉体安泰を祈らせた。実朝の祈祷をしていた祈祷師全員を解任した。2月23日後醍醐は体調を崩し一か月以上病床に伏した。二階堂が使者となった幕府の皇子将軍下向申請は院御所で審議が行われ、2月4日に後鳥羽は「下向させる意思はあるが今すぐではない」という結論を下した。つまりゼロ回答であった。後醍醐の態度が実朝横死で変わったのである。後醍醐は日本を二つに分ける(朝廷と幕府に分断する)ことはしないという意思であった。実朝亡き後、後鳥羽は幕府への不信感を増大させたようである。親王下向要請にゼロ回答を出す選択肢を後鳥羽は選んだ。1219年3月9日院近臣の北面の武士で内蔵頭藤原忠綱を実朝弔問使として鎌倉に送った。忠綱は政子にあって後鳥羽の弔意を伝え、義時に会って「摂津国長江・倉橋」の荘園の引き渡しを要求する院宣を伝えた。この荘園は後鳥羽が遊女亀菊に与えたものであるが、交通の要衝に置かれた地頭職を手放すよう圧力をかけたのである。これは実朝なき幕府の実力をみる試金石である。3月11日政子・義時・泰時ら幕府首脳は審議を行い、結論は北条時房が政子の使者として一千騎を率いて上洛し、地頭改補を拒否したうえで、親王の下向後鳥羽に要請するという強硬策を採用した。3月15日時房は武装した千余騎で都に入り後鳥羽を武威で迫ったが、後鳥羽は親王下向は認めない方針は撤回しなかった。そこで後鳥羽の頭に浮かび上がったのが摂関家将軍の下向である。幕府の三浦義村は親幕派の摂関家九条道家の2歳の頼経(三寅)に白羽の矢を立てた。朝廷と幕府の交渉に尽力したのが三寅の母方の祖父西園寺公経であった。西園寺は閑院流藤原氏である。6月3日鎌倉下向の宣旨があり、6月25日三寅は北條時房・泰時。三浦義村の武士とともに六波羅を出発した。摂関家からの具奉人は10人であった。7月19日三寅は鎌倉に着き、「二品禅尼」政子が若君に代わって聖断する「尼将軍」となった。後鳥羽との駆け引きでは幕府側と西園寺家が終始リードした。しかも京都ではとんでもない事件が勃発した。源三位頼政の孫である右馬権頭源頼茂は大内の守護を代々務めてきた摂津源氏の名門で、実朝時代には政所別当に就任していたことから、将軍になろうという意思が強かった。ところが三寅を後継将軍とする妥協が成立したことから頼茂は謀反に至った。1219年7月13日在京武士らは大内裏に籠る頼茂を攻めた。頼茂は内裏の諸殿に火をかけ自害した。兵火によって大内裏が焼失したことは前代未聞の椿事であった。この内裏焼失のショックで後醍醐は再尉か月ほど寝込んでしまった。幕府内の権力闘争が京都に持ち込まれた形であるが、後醍醐が三寅を後継将軍と認めた以上、それに反対する頼茂に追討の宣旨を出した。その結果在京御家人・西面武士らが院宣を受けて軍事行動を起こして御所を焼いたのである。後鳥羽は在京御家人の在京奉公を組み込み、京武士を合わせて朝廷が組織しうる立場にあった。しかも今回の場合は在京武士たちの独自判断で後鳥羽を動かし院宣を得て軍事功を起こした。つまり在京武士団が鎌倉幕府の指揮権を離れたところで行動し、後鳥羽の権力の一部となったことが重要である。1219年の秋から幕府に対する後鳥羽の気持ちは、妥協から敵対に大きく舵を切ったようである。

(つづく)