ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月29日 | 書評
筑波山の夜明け

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第12回

第4章 承久の乱 (その2)

さらに京都攻撃軍の組織について議論が移り、北條義時は安保実光ら武蔵国勢の到来を待ち都に上るため、関東8か国と陸奥・出羽に動員命令を出した。5月21日一条頼氏が鎌倉に下向し、京都情勢を伝えると幕府首脳は再度作戦会議を開いた。御家人の動揺不安が表面化したので、大江広元は武蔵国勢の到来を待っている時間はない、泰時一人でも出撃すれば御家人はそれに続くだろうという意見であった。宿老三善康信の意見も同じでじりじり待っているほど武士の緊張感は絶えられない。時間の拷問に苦しむよりは大将軍一人でも出発すべきであるという意見であった。こうして態度は決まった。5月22日早朝北條泰時が京都に向けて出発した。従ったのは北條時氏・有時・実義、尾藤景綱・関実忠・南条時員らわずか18騎で出撃した。さらに5月22日中に、東海道軍として北條時房、足利義氏、三浦義村・康村親子らが出発し、北條季時、北陸道大将軍として北條朝時も出発した。一方北條義時、大江広元、三吉康信、二階堂行村、葛西清重、小山朝政、宇都宮頼綱らは鎌倉に留まり、兵站の準備、諸連絡、軍勢の徴発にあたった。5月25日までに出撃した東国武士は、東海・東山・北陸三道に分かれて上洛した軍勢の総数は19万騎だとされた。軍勢の攻勢は以下に記す。
① 東海道十万騎 大将軍は北條時房・泰時、時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱
② 東山道五万騎 大将軍は武田信光、小笠原長清、小山朝長、結城朝光
③ 北陸道四万騎 大将軍は北條朝時、結城朝広、佐々木信実
これだけの軍勢が京都に向かっていることは、京都後鳥羽側では、5月26日美濃に派遣した藤原秀澄からの使者で知った。幕府が院宣に対する返事を持たせて返された押松が6月1日京に帰り、義時からの手紙には19万騎の軍勢が京都を攻める。院はとくと御覧ぜよという挑発であった。初動態勢で決定的な機動力を発揮したキーパーソンは三浦義村であった。また迎撃か出撃かの戦術で宿老大江広元・三善康信の意見を採用した北條義時・政子の英断が際立っていた。己の経験と信念に基づいて意見をいえる優れた人材が揃っていた幕府側の現実的対応力に軍配が上がった。それに比べると京方後醍醐上皇と公家貴族には鎌倉や東国武士に対する現実的な理解が欠けていた。1221年6月3日鎌倉方が遠江国府に着いたという報が入り、公卿詮議が行われ藤原秀康を追悼使とする追討軍の軍勢の派遣が決められた。一万九千騎であったという。ところが海道将軍藤原秀澄はこの軍勢で12か所の柵の砦に兵を分散配置した。院方でも美濃源氏重宗流の山田重忠は分散策を愚策として、一つに集中して鎌倉まで攻め込む策を献上したが、墨俣で鎌倉軍を迎えつ消極策を選択した。大勢の鎌倉が積極策をとり、無勢の院方が消極策を取るという失策である。6月5日鎌倉東海と東山道両軍が尾張一宮で合流した。長良川を渡り院方の柵には対応するが主力は墨俣を攻めることを決定した。こうして美濃の合戦が展開され、大井戸、板橋、鵜沼、池瀬、摩免戸の柵は打ち破られ、わずか2日で京方はことごとく敗退した。6月7日垂井で軍議を開き、三浦義村の意見に従い北陸道軍の合流前に要害に兵を派遣する事を決定した。瀬田には北條時房、手上には安達景盛、宇治には北條泰時、芋洗いには毛利季光、淀渡には結城朝光、三浦義村とした。6月8日北陸道軍の北条朝時らは越中において院方の宮崎定範らの軍を破った。主戦場は都周辺に移った。後鳥羽ら院側の公卿は比叡山に逃れようと坂本に遷ったが、山門はこれを拒絶した。そして6月10日には西園寺親子の勅勘を解き幕府と親密な彼らを使って和平交渉を始めようとした。同時に後鳥羽は瀬田から淀までの要所に兵二万数千騎を配して防御に備えた。

(つづく)