ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月17日 | 書評
鎌倉幕府三代執権 北條泰時

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第6回

第1章 後鳥羽の京都朝廷 (その2)

1198年1月19歳になった後鳥羽は承明門院在子が生んだ為仁親王に(土御門天皇4歳)に譲位した。後鳥羽院政の開始である。養女在子の産んだ為仁親王を天皇に建て外戚の地位を得ようとする通親が主導した。とはいえ後鳥羽は自立し始めていた。藤原重子を寵愛し1197年に第三皇子守成(順徳天皇)を設けた。重子は藤原氏南家高倉流の範季の娘であった。1199年重子を従三位に叙した。源通親の思惑はどうあれ、院になった後鳥羽は自由な行動力を発揮する。蹴鞠、馬競、闘鶏、鳥羽殿、熊野詣と行動範囲を広め、通親から和歌を学んだ。当時の和歌の世界は、伝統的な和歌を重んじる六条藤家派と新風の幻想的な和歌を追及する藤原俊成・定家の御子左家派が競い合った。2000年後鳥羽は二度「百首」を詠進させ、1201年には「千五百番歌合せ」の判者として活躍した。1201年和歌所を設置し11人の寄人を選んだ。またこれまでの勅撰和歌集の選から漏れた歌の中から秀歌を選ぶ作業を始め、自ら合点を付けたという。1204年後鳥羽が合点を付けた歌を分類し「新古今和歌集」の完成を見た。「古今和歌集」が醍醐天皇に奏上された905年から300年にあたるので、後醍醐は延喜の御代を強烈に意識していたようである。後醍醐自身の歌も何首か選に入った。中世の和歌は題詠が基本で感情を表に出すことは少なかったが、後醍醐の歌には悲嘆と傷心が謳われた。また後鳥羽は琵琶の師に藤原定輔を迎え、1205年「石上流泉」を伝授された。国家の統治に音楽が不可欠とされる儒教の礼楽思想を身につけた。漢詩の分野では1205年「元久詩歌合」を開いた。1206年院の近臣が狂連歌で和歌を揶揄する遊びがあり、和歌側から定家は受けて立つ企画をした。後鳥羽は即興的で洒落のきいた遊び心を持っていた。スポーツ面では蹴鞠に興じた。1208年藤原成通。泰通と、難波宗長・飛鳥井雅経を師としてプレーし、祖父後白河と同じ歌謡とスポーツの万能選手ぶりを発揮した。そして武芸の好みは馬、弓を得意とした。太刀の造詣が深くて、刀工に御番鍛冶の制を作り技術を磨かせた。学問や政治以外についても後醍醐の意思は強固であった。宮廷儀礼の復興を主導したのである。院・天皇・摂関家三極の関係では後鳥羽が絶大な力を持った。後鳥羽は二代にわたる若い天皇の土御門・順徳を指導し、摂政九条良経、関白近衛家実を従えた。順徳が自立するのは承久期(1219-1222年)の事であった。中世の朝廷では為政者が宮廷の儀礼を先例通りに間違いなく執行する事こそが政治であった。貴族たちも宮廷儀式や祭礼の手順、手続き、先例など日記に克明に記録をつけ、いかなる諮問にも答え、子孫が恥をかかないために日記を門外不出の資料として保存した。しかし保元の乱以降、戦乱の都では祭礼ができなくなり政治が衰退していった。藤原頼長の日記「台記」や九条兼実の日記「玉葉」、定家の「明月記」など、後醍醐は諸家の儀礼関係資料を提出させ、読破し理解を深め指導に当たった。それが「習礼と公事堅義」である。「節会習礼」、天皇践祚に不可欠な祭儀である「大嘗祭」を無事遂行できることが政治であった。後鳥羽は「世俗浅深秘抄」を著わし、順徳天皇は故実書「禁秘抄」を著わした。後醍醐の別荘「水無瀬殿」では楽しい遊びができる場所であった。船遊び、騎乗、囲碁、双六、連歌、猿楽、遊女を召して今様、歌謡など遊興三昧の生活を送った。院近臣らと後醍醐が仲間意識で結び付く空間である。水無瀬における非日常の私的自由空間においても、主君の権威は侵すべからずの君臣関係を「水無瀬の論理」と呼ぶ。後鳥羽は伽藍堂の箱モノには興味を示さなかった。1203年後醍醐は御願寺の最勝四天王寺の造営を思い立った。その中心となったのは院近臣の坊門信清である。本堂、薬師堂に大和絵や唐絵を描き和歌漢詩の色紙を貼る構想であった。そのコーディネーターは定家である。1207年御堂供養が行われた。こうした「最勝四天王寺障子和歌」の世界は、日本全土の縮図を描いて全土統一を実現することであった。

(つづく)