ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月19日 | 書評
ポインセチア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第8回

第2章 実朝の鎌倉幕府 (その2)

北条氏の敵対勢力が消えさると幕政は安定した。そして将軍職の権限の大きさが実朝、北條一族にも実感された。和田合戦から2年を経た1215年7月、実朝の御台所の兄坊門忠信が後鳥羽の指示で「仙洞歌合一巻」を送ってきた。後鳥羽が歌を通じて手を差し伸べてきた狙いは朝幕関係強化と実朝の抱き込みであったと言われている。1216年になると後鳥羽からの働きかけは一層顕著になる。6月実朝は権中納言に昇任し、7月には左近衛中将を兼ねた。後鳥羽の朝廷による実朝個人への支援である。これを露骨にやると北条氏を始め関東武士団と実朝の離間を狙った策動と反発を招きやすい。2月実朝は箱根伊豆両権現に国土安穏の祈願を行い、4月には御家人の訴えを直接聞く場所を設けた。義村・善信・行光・仲業ら四名を新たに置いて奉行した。将軍親政の強化である将軍家政所別当九人制の実施である。ここで実朝は不可解な行動を起こした。1216年6月宋国より大仏再建の技術者陳和卿が鎌倉にやってきて実朝に面会した。この事が契機となって、11月中国へ渡るための巨大な船の建造を命じ、随行員60名の選定を行う命令を下した。結城朝光を奉行として60名を選考したが、大江広元や北條義時は反対した。将軍と執権が直接対決する構図となった。結局1217年4月大船は完成し進水式を迎えたが海に浮かぶことはできなかった。由比が浜で朽ちてゆく巨船は実朝の失政の象徴となった。将軍後継問題が建保年間の政治課題となっていた。実朝は25歳になって御台所との間に子供がなく、側室を一人も置かなかったので将軍後継者空白のままではゆかないので、後継者候補をめぐって政治的思惑が動き始めた。1216年9月実朝は、子孫がいないし自分の代で源氏将軍は終りになるので朝廷の高位役職を望み家名を上げることをしたいという。朝廷の官職に拘泥する、武家政権にはあるまじき姿だと批判された。これには北條執権家は猛反対をし、将軍親政強化を阻止しようとした。以前から実朝の後継将軍に親王を請来する策が考えられ、1218年1月政所で北條政子の熊野詣の審議があり、実は「尼二位」政子が後鳥羽の乳母「卿二位」兼子と協議して、後鳥羽の皇子を実朝の後継将軍として迎えるための交渉が目的であった。2月4日雅成親王か頼仁親王のどちらかを実朝の後継将軍に迎えることで合意を得た。同時に2月10日大江広元が使者を送り、実朝の近衛大将昇任、2月12日には左大将昇任の要請を行った。将軍と幕府執権の合議があって、後鳥羽の後ろ楯が得られるなら幕府の権威が高まり、朝幕の協調が進展すれば御家人の利益にもなるという目論見であった。つまり王権という公家政権の伝統的権威を新興の武家政権に取り込み、幕府を「東国の王権」として発展させるという策が成功するのであった。招へいする若い皇子将軍の後見役としていわば実朝が「幕府内院政」を行うことであった。卿二位が後鳥羽の意向を伝え、尼二位が実朝の意向を伝える策が合意されるならば、朝廷にとっても皇子を将軍に据え、実朝に後見させることで幕府をコントロールでき、日本全土に君臨する王権を実現するメリットがある。後鳥羽は10月13日政子を従二位に昇叙した。そして実朝にも1218年3月6日右近衛大将を越える左近衛大将に昇任し、左馬寮御監を兼ね。6月27日内大臣、12月2日には右大臣に昇進させた。この宣旨を受けて1219年1月27日実朝は鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀に臨む手はずとなった。そこに二代将軍頼家の遺児公暁による実朝暗殺の悲劇が待っていようとは誰も気が付かなかった。公暁は父頼家が修善寺で殺されたとき4歳であった。1205年6歳になると鶴岡八幡別当尊堯に弟子入りし、実朝の猶子となった。1211年三井寺に上って僧の修行を積み、1217年鎌倉に下って尊堯の後を継いで鶴岡八幡宮別当となった。1218年実朝の後継者問題が親王将軍案に傾くと公暁には将軍への道は閉ざされるのである。かくして1219年1月27日実朝の右大臣拝賀の儀の日がやってきた。実朝の首を取った公暁は三浦義村邸に向かい、義村が公暁を誅殺した。公暁を導いた黒幕がいたかどうかは、闇のなかである。追い詰められた公卿の単独犯行説としておこう。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月18日 | 書評
ポインセチア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第7回

第2章 実朝の鎌倉幕府 (その1)

鎌倉三代将軍実朝は「金槐和歌集」を編んだ「万葉調」の歌人だという評判の高い人でした。関東武士が和歌、蹴鞠に興じるのは武芸を忘れているという批判がありますが、東国武士は朝廷の衛門尉といった官職を望み、その伝統的権威によって自らの権力を強化・維持しようとしたことは確かであろう。在京経験が豊富な武士には勅撰集に入るほどの歌人や楽器演奏に長けた人もおり、武士は貴族たちとの人脈形成に力を尽くした。実朝の歌は、題詠を基本とし本歌取りの技法を練った新古今和歌調の歌にはない素朴な感情表現があった、それを万葉調と呼んだのであろう。成人後の実朝は将軍親裁を推進し、院親裁を進める後鳥羽と実朝の幕府は良好な関係にあった。実朝は1192年頼朝が征夷大将軍に任じられた年に生まれ、乳母は政子の妹で北條氏が後見人となった。頼朝の乳母比企氏との間に確執が生まれた。1199年頼朝が急死し頼家が二代将軍になると北條・比企両氏の確執が顕在化した。1203年頼家が重病になったのを機に北条氏は比企氏を滅ぼした。(比企の乱)23歳の頼家は出家させられ修善寺に押し込められ翌年殺害された。実朝は1203年三代将軍となり、後鳥羽の院近臣坊門信清の娘が実朝の正室となった。幕政は北條時政が後見し実質的には義時が政治を主導した。この間権力闘争が続き、1205年6月頼朝以来の重臣畠山重忠が滅ぼされ、7月には「牧氏事件」があって時政自身が失脚した。1209年18歳になった実朝が将軍親裁を開始し、政所を開いて4、5人の別当を置いた。実朝は新政策を打ち出し、1210年3月武蔵国田文(土地台帳)作成令、8月神社仏寺領興行令、10月諸国御牧興行令、1211年6月東海道新宿建立令、12月駿河・越後等大田文作成令、1212年2月京都大番役推進令、相模川橋修理令、8月諸国鷹狩禁断令を発した。鳥羽院との関係構築のため1212年7月閑院内裏造営事始めに協力し、12月に完成し順徳が遷幸した。この賞として実朝は従二位に昇進した。頼朝以来の有力御家人が次々と粛清され、梶原景時・畠山重忠・比企能員らが滅亡する中、1213年5月におきた「和田合戦」は二日間鎌倉が戦場となり将軍の御所も焼けた鎌倉幕府初期最大の武力抗争である。反北条の中心勢力は侍所別当であった三浦氏の長老和田義盛であった。三浦氏の惣領の地位をめぐって、若い従弟の義村・胤義兄弟が不満を抱いていた。実朝は親密だった義盛を父と仰いでいた。1209年義盛が源氏でもなく執権でもないにもかかわらず「諸太夫」の上総介に推挙してほしいと依頼してきたことが将軍御意見番の北條政子の反感を招いた。和田義盛は大江広元・北條につぐ御家人の序列を実朝によって認められていた。1213年2月信濃国泉親衡が故二代将軍頼家の遺児千手丸を擁して、北條義時を倒す計画が発覚した。「泉親衡の乱」である。逮捕者の中に、義盛の子義直・義重、甥の胤長がいた。義盛は我が子の放免を実朝に直訴し許されたが、胤長は流罪にされた。これを不満とする義盛は将軍御所への出仕を止めた。3月25日義盛は闕所となった胤長の屋敷を拝領を願い出た。闕所は一族に戻るのが原則であったが北條氏の横やりで実現しなかった。こうして北條家と和田家の緊張関係は、1213年5月2日義盛の挙兵となった。挙兵の動きを知った広元、義盛を裏切った三浦義村・胤義兄弟は北條義時邸に集結し内乱の勃発を幕府執権に通報した。義盛らの軍勢150騎は、北條義時邸、御所を攻撃した。丸一日戦ったが、翌日5月3日未明義盛らの軍に懸け参じた横山時兼が戦いを再開し奮闘の結果夕方には義盛軍の敗北が決まった。和田義盛は討死し、234人の首が片瀬川にさらされた。この戦いに勝って北条氏の権力基盤は固まった。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月17日 | 書評
鎌倉幕府三代執権 北條泰時

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第6回

第1章 後鳥羽の京都朝廷 (その2)

1198年1月19歳になった後鳥羽は承明門院在子が生んだ為仁親王に(土御門天皇4歳)に譲位した。後鳥羽院政の開始である。養女在子の産んだ為仁親王を天皇に建て外戚の地位を得ようとする通親が主導した。とはいえ後鳥羽は自立し始めていた。藤原重子を寵愛し1197年に第三皇子守成(順徳天皇)を設けた。重子は藤原氏南家高倉流の範季の娘であった。1199年重子を従三位に叙した。源通親の思惑はどうあれ、院になった後鳥羽は自由な行動力を発揮する。蹴鞠、馬競、闘鶏、鳥羽殿、熊野詣と行動範囲を広め、通親から和歌を学んだ。当時の和歌の世界は、伝統的な和歌を重んじる六条藤家派と新風の幻想的な和歌を追及する藤原俊成・定家の御子左家派が競い合った。2000年後鳥羽は二度「百首」を詠進させ、1201年には「千五百番歌合せ」の判者として活躍した。1201年和歌所を設置し11人の寄人を選んだ。またこれまでの勅撰和歌集の選から漏れた歌の中から秀歌を選ぶ作業を始め、自ら合点を付けたという。1204年後鳥羽が合点を付けた歌を分類し「新古今和歌集」の完成を見た。「古今和歌集」が醍醐天皇に奏上された905年から300年にあたるので、後醍醐は延喜の御代を強烈に意識していたようである。後醍醐自身の歌も何首か選に入った。中世の和歌は題詠が基本で感情を表に出すことは少なかったが、後醍醐の歌には悲嘆と傷心が謳われた。また後鳥羽は琵琶の師に藤原定輔を迎え、1205年「石上流泉」を伝授された。国家の統治に音楽が不可欠とされる儒教の礼楽思想を身につけた。漢詩の分野では1205年「元久詩歌合」を開いた。1206年院の近臣が狂連歌で和歌を揶揄する遊びがあり、和歌側から定家は受けて立つ企画をした。後鳥羽は即興的で洒落のきいた遊び心を持っていた。スポーツ面では蹴鞠に興じた。1208年藤原成通。泰通と、難波宗長・飛鳥井雅経を師としてプレーし、祖父後白河と同じ歌謡とスポーツの万能選手ぶりを発揮した。そして武芸の好みは馬、弓を得意とした。太刀の造詣が深くて、刀工に御番鍛冶の制を作り技術を磨かせた。学問や政治以外についても後醍醐の意思は強固であった。宮廷儀礼の復興を主導したのである。院・天皇・摂関家三極の関係では後鳥羽が絶大な力を持った。後鳥羽は二代にわたる若い天皇の土御門・順徳を指導し、摂政九条良経、関白近衛家実を従えた。順徳が自立するのは承久期(1219-1222年)の事であった。中世の朝廷では為政者が宮廷の儀礼を先例通りに間違いなく執行する事こそが政治であった。貴族たちも宮廷儀式や祭礼の手順、手続き、先例など日記に克明に記録をつけ、いかなる諮問にも答え、子孫が恥をかかないために日記を門外不出の資料として保存した。しかし保元の乱以降、戦乱の都では祭礼ができなくなり政治が衰退していった。藤原頼長の日記「台記」や九条兼実の日記「玉葉」、定家の「明月記」など、後醍醐は諸家の儀礼関係資料を提出させ、読破し理解を深め指導に当たった。それが「習礼と公事堅義」である。「節会習礼」、天皇践祚に不可欠な祭儀である「大嘗祭」を無事遂行できることが政治であった。後鳥羽は「世俗浅深秘抄」を著わし、順徳天皇は故実書「禁秘抄」を著わした。後醍醐の別荘「水無瀬殿」では楽しい遊びができる場所であった。船遊び、騎乗、囲碁、双六、連歌、猿楽、遊女を召して今様、歌謡など遊興三昧の生活を送った。院近臣らと後醍醐が仲間意識で結び付く空間である。水無瀬における非日常の私的自由空間においても、主君の権威は侵すべからずの君臣関係を「水無瀬の論理」と呼ぶ。後鳥羽は伽藍堂の箱モノには興味を示さなかった。1203年後醍醐は御願寺の最勝四天王寺の造営を思い立った。その中心となったのは院近臣の坊門信清である。本堂、薬師堂に大和絵や唐絵を描き和歌漢詩の色紙を貼る構想であった。そのコーディネーターは定家である。1207年御堂供養が行われた。こうした「最勝四天王寺障子和歌」の世界は、日本全土の縮図を描いて全土統一を実現することであった。

(つづく)




読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月16日 | 書評
鎌倉幕府三代将軍 源実朝

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第5回

第1章 後鳥羽の京都朝廷 (その1)

1180年5月、後白河の第二皇子以仁王と摂津源氏の源頼政による平家打倒計画が露見した。「以仁王の乱」である。南都に逃げる途中宇治で合戦となり敗死した。以仁王の令旨は全国の源氏に回文され、伊豆に配流されていた源頼朝にも4月27日に伝えられた。同年平清盛は摂津福原への遷都を強行し京都周辺の反平家勢力を叩くと同時に頼朝への攻撃を行った。8月17日頼朝は挙兵をした。治承・寿永の内乱の勃発である。この時の頼朝の勢は北條時政・義時一族を中心とするわずかな兵力に過ぎなかった。石橋山でお平家方の大庭・伊東ら三千騎に大敗を喫し船で房総半島の安房に逃げた。安房で三浦氏と合流し、千葉氏・上総氏・畠山氏を糾合して10月6日鎌倉に入った。平維盛を追悼使とする追討軍を10月20日富士川で迎え撃った。富士川の合戦で相手の誤解で戦わずして奇蹟的な勝利を得たが、進軍して上洛することは時機尚早であるとして鎌倉に戻った。清盛はわずか半年後の1180年11月に京都に遷都した。12月に重衡が南都東大寺大仏殿を焼き討ちする失策を犯し敵を増やした。治承5年1181年2月4日清盛は64歳で病死した。ここから求心力をなくした平家の凋落が始まった。清盛の後を継いだのは三男の宗盛であった。しかし木曽義仲に攻められ1183年7月安徳天皇とともに都落ちした。天皇不在の京都では後白河院は新天皇として高倉の四の宮を選び、三種の神器なしで後鳥羽天皇4歳が践祚した。1183年10月後白河は頼朝を功績を認、その東国支配権を公認する十月宣旨を出した。頼朝の政治力の前に激怒した義仲はクーデターを起こし後白河の法住寺殿を攻めた。義仲追討の宣旨を受けた頼朝は弟の範頼・義経を派遣し1184年1月近江の粟津で義仲を討ち取った。この源氏内の内紛で平家は福原に陣を取った。2月7日範頼・義経と多田、安田の軍勢が奇襲をかけ平忠度、通盛、敦盛らが討ち死にし重衡が捕虜になった。「一ノ谷の合戦」である。讃岐の「屋島の合戦」でも勝利した範頼・義経軍は長門の「壇ノ浦の合戦」で平家の息の根を止めたが、安徳天皇と三種の神器は海底に沈んだ。頼朝は武士に対する恩賞として平家没官領を与えた。頼朝は東国反乱軍として内乱を戦い抜くために作り出した制度や軍事組織を維持・継承するために、戦時体制を朝廷に認めさせ定着させることをによって、鎌倉幕府を樹立したといえる。当初は自らの東国支配に専念するため、京都には入らなかった。京都朝廷と並立する(独立して)東国支配のための鎌倉幕府を意図したようである。朝廷の秩序に自らを位置づけることはしなかった。鎌倉幕府の日本支配は実に承久の乱以降の事である。その辺の政治的意図が分からなかった義経は後白河から左衛門尉兼検非違使に補任された。それが頼朝の意に反する行為であり、1185年11月北條時政を上洛させ、後白河に対して義経捜索のための守護・地頭を設置する許可を取った。ここからが鎌倉幕府の独立的立場が確立した。1189年義経主従をかくまったとして奥州藤原四代目泰衡を攻めた。泰衡は義経を攻めて自害させた。奥州藤原氏を亡ぼし、唯一の軍事権門となった頼朝は、1190年11月上洛した。朝廷より前大納言・前右衛門大将に補任された。1192年後白河院が死去し、13歳の後鳥羽親政が始まった。親幕派の関白九条兼実が朝廷政治を主導し、7月頼朝を征夷大将軍に補任した。1193年3月頼朝は富士裾野で巻き狩を行い武威を誇示した。この時期から頼朝は将軍の地位を狙うものや不平分子の粛清を行った。東海道の守護を信頼できる御家人で固めて、1195年東大寺大仏殿の落慶供養に出るため上洛した。朝廷では九条兼実のライバル公卿源通親が主導権を握り始めていた。権謀家の通親は後白河の寵姫高階栄子に近づき在子を後鳥羽のもとに入内させた。晩年の頼朝も長女大姫を後鳥羽に入内させ生んだ皇子を将軍にしたいつもりがあった。ところが在子(承明門院)が後鳥羽の皇子為仁を生むと、源通親は1195年11月兼実の失脚を狙った「建久七年の政変」を起こした。1197年大姫が死去すると頼朝の構想は破れ、1199年頼朝は53歳で死去した。

(つづく)

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月15日 | 書評
後鳥羽上皇

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第4回

序  日本の中世 (その4)

院政から承久の乱までの関係年表

延久四年 1072年12月 後三条天皇 貞仁親王(白河天皇)に譲位
延久五年 1073年5月 後三条上皇死去
応徳三年 1086年11月 白河天皇 善仁親王(堀川天皇)に譲位 白河院政開始 
嘉承二年 1107年7月 堀川天皇死去 宗仁親王(鳥羽天皇)践祚 白河院政本格化
保安四年 1123年1月 鳥羽天皇 顕仁親王(崇徳天皇)に譲位
大治四年 1129年7月 白河院死去 鳥羽院政開始
永治元年 1141年12月 崇徳天皇 体仁親王(近衛天皇)に譲位
久寿二年 1155年7月 近衛天皇死去 雅仁親王(後白河天皇)践祚
保元元年 1156年7月 鳥羽院死去 保元の乱
保元二年 1157年2月 大内裏造営始め 10月 後白河天皇新内裏に遷る
保元三年 1158年8月 後白河天皇 守仁親王(二条天皇)に譲位
平治元年 1159年12月 平治の乱 源頼朝 右兵衛に補任される
永暦元年 1160年3月 頼朝伊豆へ配流
永万元年 1165年6月 二条天皇 順仁親王(六条天皇)に譲位 
        7月 二条院死去
仁安二年 1167年7月 平清盛 従一位太政大臣
仁安三年 1168年2月 六条天皇 憲仁親王(高倉天皇)に譲位 後白河院政本格化
安元三年 1177年5月 鹿ケ谷事件勃発
治承三年 1179年11月 平清盛クーデター 後白河院の院政停止
治承四年 1180年2月 高倉天皇 言仁親王(安徳天皇)に譲位 
        5月 以仁王の乱 
        8月 頼朝伊豆で挙兵 
        10月 富士川合戦
寿永二年 1183年7月 平家 安徳天皇と三種の神器とともに都落ち 
        8月 後鳥羽天皇践祚 
        10月 頼朝の東国支配権を公認
文治元年 1185年3月 壇の浦合戦で平家滅亡
建久三年 1192年3月 後白河院死去 
        7月 頼朝 征夷大将軍
        8月 源実朝誕生
建久九年 1198年1月 後鳥羽天皇 為仁親王(土御門天皇)に譲位 後鳥羽院政始まる 
        8月 後鳥羽院最初の熊野詣
建久10年 1199年1月 源頼朝死去 源頼家跡を継ぐ 
        2月 三左衛門事件 
        4月 鎌倉幕府 頼家の新政を停止し北條時政以下13人の合議制に
建仁二年 1202年7月 源頼家 征夷大将軍(第2代将軍)
建仁三年 1203年6月 幕府 阿野全成を誅殺 
        9月 幕府 比企能員及び頼家の子一幡を討伐(比企の乱) 実朝 征夷大将軍(第3代将軍)
元久元年 1204年7月 幕府 頼家を修善寺で誅殺
元久二年 1205年6月 幕府 畠山重忠を討伐 
        7月 北條時政と後妻牧 平賀朝雅の将軍擁立に失敗し伊豆に引退(牧氏事件)北条義時 執権
承元元年 1207年11月 最勝四天王寺造営 御堂供養
承元三年 1209年4月 実朝 従三位 政所を中心に将軍親政を開始
建保四年 1216年4月 実朝 政所別当を9人に増員将軍親政強化 
        6月 実朝権中納言 
        11月 実朝 唐船建造を命令する(渡宋計画か)
建保六年 1218年2月 北条政子上洛 卿二位兼子と会見 
        3月 実朝 左兵衛大将 
        10月 実朝 内大臣 
        12月 実朝 右大臣
承久元年 1219年1月 実朝鶴岡八幡宮で公暁によって暗殺される 
        2月 阿野全成の子時元挙兵 敗死 幕府 後鳥羽院の親王の鎌倉下向を打診 
        3月 後鳥羽親王を将軍にする案を拒否 鎌倉の荘園引き渡しを要求し交渉決裂 
        6月 西園寺道家の三寅が将軍予定者として鎌倉下向 
        7月 大内守護源頼茂の謀反 後鳥羽院 頼茂の追討をするが内裏焼失 
        8月 後鳥羽院病床に付す 
        10月 後鳥羽院 最勝四天王寺で和歌会を催す 造内裏の院宣を発す
承久二年 1220年1月 造内裏行事所発足 全国で課税役反対の動き 
        4月 幕府 頼家の遺児禅曉を誅殺
        10月 内裏立柱上棟 その後の建設は中断し造内裏行事所解散
承久三年 1221年2月 後鳥羽院 熊野詣 
        4月 順徳天皇 懐成親王(仲恭天皇)に譲位 九条道家 摂政 後鳥羽院一千騎の京武者を集める 
        5月 後鳥羽院 幕府の京都守護伊賀光季を討伐する 北條義時の追討院宣と官院宣を発給 承久の乱勃発 幕府北条政子の演説で団結し東海道、東山道、北陸道に分かれて出撃 
        6月 幕府方美濃合戦で京方を撃破 宇治瀬田の合戦も制して入京 
        7月 六波羅において北条時房・泰時ら戦後処理を行う 仲恭天皇 茂仁親王(後堀川天皇)に譲位 後高倉院 院政を開始する 近衛家実摂政に 後鳥羽院を隠岐に配流 順徳院を佐渡に配流 一条信能ら院近臣を処刑 
        10月 土御門院 自ら土佐に還幸する
貞応二年 1223年5月 後高倉院死去 
貞応三年 1224年6月 北條義時死去 泰時執権
嘉禄元年 1225年6月 大江広元死去 
        7月 北條政子死去 
        12月 三寅(藤原頼経)元服
嘉禄二年 1226年1月 藤原頼経 征夷大将軍
寛喜二年 1230年  寛喜の大飢饉
寛喜三年 1231年10月 土御門院 阿波で死去 
        11月 幕府 寛喜の新制発布
貞永元年 1232年8月 幕府「御成敗式目」を制定 
        10月 後白河天皇 秀仁親王(四条天皇)に譲位
天福二年 1234年  後堀川院死去
嘉禎二年 1236年  後鳥羽 隠岐で歌集「隠岐本新古今和歌集」できる
延応元年 1239年2月 後鳥羽院死去
仁治元年 1240年  この頃 「承久記」の原形成立か
仁治三年 1242年1月 四条天皇死去 朝廷の諮問にたいして幕府は土御門皇子邦仁親王(後嵯峨天皇)を立てるよう回答 
        6月 北條泰時死去 
        9月 順徳院佐渡で死去
寛元四年 1246年1月 後嵯峨天皇 久仁皇子(後深草天皇)に譲位 後嵯峨院政開始
宝治元年 1247年4月 幕府 鶴岡八幡の山麓に後鳥羽院の御霊を奉祀
建長四年 1252年4月 宗尊親王 鎌倉下向 征夷大将軍

(つづく)