ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 小熊英二・高賛侑・高秀美 編 「在日二世の記憶」 集英社新書(2016年)

2018年11月24日 | 書評
戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー 第17回

「在日二世 50人の記憶」  要約
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25) 「この社会はいまだに国、国家というものにとらわれ過ぎてる」 金成日 男 1951年生まれ
両親は少年少女時代に渡日し、父は島根県太田市温泉津町で石積工や土建業として働いた。学校教育は受けていない。父は夜間学校で学んで漢字の読み書きはできるようになった。小学校5年で宝塚にきて自分が朝鮮人であることが恥ずかしかった。弟たちは朝鮮学校に通った。中学2年で外国人登録した。就職に有利であるので高等専門学校に入ったが、先生から朝鮮人を雇うところは少ないと言われて勉強しなくなり、どんな商売をしたらいいか悩むことになった。そのころは政治の時代でベトナム戦争があって、外国人学校法や入管法反対のデモに参加した。高専にゆくとき日本名の通名を止めた。本名の金成日を使ったら、本当に開放感を感じられた。在日韓国青年同盟(韓青)で活動するようになり、反独裁民主化闘争が目的で、総連系にはクールに対処した。むしろ「民族差別と闘う連絡協議会」活動は、在日の暮らしに根差した要求を掲げた運動であった。その頃結婚し宝塚で喫茶店を始めた。1981年頃指紋押印拒否運動が始まり、何回か拒否したら1986年逮捕された。昭和天皇が亡くなり、恩赦で押印拒否裁判は無くくなり罰金も払わなかった。この違法逮捕に対する賠償請求の民事訴訟を起こし12年間も争うことになった。その後在日には押印制度は適用されなくなり、外人登録証の常時携帯が一番のいやがらせであった。検挙件数は年間4000件(80年)に上ったという。そこで法務省へ外登証返上運動を行ったが、なぜか逮捕者はでなかった。2000年になって指紋御押印制度は無くなった。国籍は朝鮮籍から韓国籍に切り替えた。韓国の民主化が進んで安心した。憲法九条は世界に自信をもって発信すべき内容を持つが、憲法は「日本国民は」で始まる。この社会は未だに国、国家にこだわりし過ぎている。個人の自由の確立の上に成り立つ社会、そして国であるはずなのに、逆立ちしているのである。

26) 「日立闘争後の続日立闘争」 朴鐘碩 男 1951年生まれ
父母は青年の頃渡日しました。9人兄弟の子だくさんでとにかく極貧の生活でした。父は鋳物工場で働き、それから行方不明となりました。激しい兄弟喧嘩で警察のお世話になったことも度々ありました。「新井鐘司」とい日本名で小学校に通った。「朝鮮人」といわれながら、近くの鋳物工場の屑鉄捨て場で磁石を持って小遣い稼ぎをしました。新聞配達もやりました。中学時代は勉強に目覚めました。中学2年で教科書をもって東京へ家出をしました。大森の新聞屋に2か月住み込み家に戻りました。高校時代は姉さんの仕送りで行き、バイトにあけ暮れました。1970年の高度成長期に、就職問題では戸籍で朝鮮人を排除していました。一流企業は諦め、トヨタ関係の末端の板金工場にプレス工として入社しましたがすぐに辞め就職探しをし、日立製作所ソフトウエア戸塚工場に日本名で応募しました。しかし戸籍謄本が取れないことが分かり、すぐに採用取り消し通告が来た。日立就職差別裁判を起こし「解雇は民族差別だ」とする訴状を出しました。同胞と日本人からなる「朴君を囲む会」が結成され、民族問題の勉強を始めました。住所は川崎桜本に移り「朝鮮人としてあるがままに生きよう」と決意しました。在日大韓キリスト教川崎教会を活動の拠点として、クリーニング屋店員で働き裁判活動を行いました。そこから民族運動としての地域運動が始まりました。公務員の国籍条項が撤廃され、公営住宅入居、金融公庫適用、弁護士・教師・地方公務員への道が開かれました。1974年4月の判決は完全勝利し「日立の民族差別を認定し解雇無効、企業は国籍差別してはならない」となりました。9月には戸塚工場に入社した。職場で使われる言葉「馬鹿でもチョンでも」(チョンとは朝鮮人のこと)に疑問を抱き、職場環境改善を志して2000年から10年間労働組合役員に立候補するものの落選続きで、2011年日立定年退社となった。職場環境で何が問題かというと、組合員に物を言わせないこと、沈黙を強いることです。企業社会では人間らしく生きることは批判され、嫌われ、無視されることです。耐えることも必要ですが、これが復帰後の「続日立闘争」でした。原発メーカーの日立製作所に原発事業からの撤退と原発海外輸出中止を求める反原発運動にもつながっています。

(つづく)


読書ノート 小熊英二・高賛侑・高秀美 編 「在日二世の記憶」 集英社新書(2016年)

2018年11月23日 | 書評
戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー   第16回

「在日二世 50人の記憶」  要約
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23) 「朝鮮人であることを隠し続けたアポジ」 申孝信 男 1950年生まれ
父は済州島から密航して大阪に着く。戦争中は埼玉の軍需工場で旋盤工として働く。その時に日本人の母と結婚した。母の生家のある宮城県亘理郡山本町に疎開した。5人兄弟の末子として生まれた。戦後仙台で母はパーマ店、父は利用・美容材料卸業として働き生活は裕福なほうであった。1957年父と兄弟全員が帰化した。私は父が朝鮮人であることを小学校1年まで知らなかった。東北学院というミッション系の私立中学に入った。高校時代教会に通って洗礼を受けた。1969年東北学院大学校に入学し、キリスト教青年会(日共系)として学生運動に参加した。父は自分が朝鮮人であることを隠すため戸籍を4,5回変えている。韓青運動の中で在日韓国人政治犯救援運動に加わり、1980年の光州暴動と金大中救出運動は激しかった。1983年に鍼灸師の資格を得て開業した。1987年に二クラグアの鍼灸師ボランティアに参加、翌90年板門店北側地区で汎民族大会に参加し、在日韓国民主統一連合の会員となった。2011年3月の大震災被害者支援のボランティア宮城を立ち上げ活動している。

24) 「和諍の精神で仏の道に励む」 崔無碍 男 1951年生まれ
父は北海道の夕張炭鉱に強制連行され働きました。在日二世である母との間に生まれた四人兄弟の3番目に生まれた。北海道で貧苦の生活をつづけた後、1958年兵庫県宝塚市に転居し、採石業を営みました。初級。中級・高級民族学校に通った。朝鮮大学校の政治経済学部を卒業後、京都と大阪の朝鮮高校で教師を務めた。統国寺は「四天王寺公園に隣接する景勝地にあります。寺は聖徳太子の創建で、602年百済の渡来僧観勒が招かれたと伝えられています。江戸時代初期に再建され黄檗宗となり、1969年に「在日朝鮮仏教教会」に所属しました。「和気山統国寺」となり在日の同胞が守っています。新羅の高僧元暁大師(617-686年)の「和諍の精神」で、朝鮮・韓国・日本の国に違いを超えて仏教普及をしています。この寺は江戸以前には「百済念仏寺」と呼ばれて、檀家の人は渡来系寺院だと信じています。社寺建築木組みは四天王寺と同じ「金剛組」の技術の伝統を守っています。私は6年ほど修行を積んで、1994年に統国寺四代目住職となりました。元暁大師の肖像画は京都高山寺にあります。戦後70年も経ち、戦争や強制労働の事故や病気で亡くなった無縁仏が、お寺に集められたり地中に埋められた遺骨は1万体あるともいわれています。岡山県吉備津の真城寺の大隅住職が遺骨の一部を引き取り、お寺に「朝鮮人殉難者慰霊塔」を建てられた。倉敷中央高校の生徒が地下工場建設に連れてこられた朝鮮人の聞き取り調査や、大隅住職を助け遺骨に遺族探しに奔走しました。朝鮮と日本の真の理解と東アジア協同体を作ってゆくためにも、まず解決しなければならないのは、日本人の朝鮮人に対する蔑視や差別であり、朝鮮人の日本に対する「反日感情」です。

(つづく)



読書ノート 小熊英二・高賛侑・高秀美 編 「在日二世の記憶」 集英社新書(2016年)

2018年11月22日 | 書評
戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー 第15回

「在日二世 50人の記憶」  要約
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21) 「美しい音楽を奏でるだけでは存在の意味がない」 丁讃宇 男 1950年生まれ
祖父が戦前から商売をしていた倉敷に父が渡日した。父方も母方も教師と音楽一家です。5歳の時京都に移住し、錦林小学校に通い東儀先生のヴァイオリン個人指導を受ける。そしてさらにヴァイオリンを勉強するために一家そろって東京世田谷に移住した。北沢中学時代には鷲見先生のレッスンを受けた。先生の勧めで桐朋学園付属高校に進学し、1968年桐朋学園に入学した。翌年1969年パリ国立高等音楽院に留学した。ミッシェル・オークレール先生に学んで首席で卒業した。その後同学院の大学院に進み、韓国で演奏会をやり、1977年より2年間、韓国国立交響楽団コンサートマスタになった。1979年より4年東京交響楽団に入ったが、ここで韓国と日本の楽団のやり方が基本的に異なることを知ったという。日本では練習時から完成に近いところまで持ってゆくが、韓国では一発勝負的に本番でないと力を発揮しない。1979年同胞の女性と結婚し、20年近くソウルを中心に生活をした。ここでも国際結婚に温度差が目立った。日本人夫婦間は婉曲な言い回しで、韓国夫婦は直接的であるということです。1983年から86ねんまで韓国KBS交響楽団のコンサートマスター、1988年からソウルの延世大学音楽学校でヴァイオリンの教師となった。国際的ヴァイオリニストとしてアイデンテティは重要だけども、突き詰める必要はない。自分の中では京都人の気質が一番しっくりする。伝統を守る意味では保守的で、日本人の考え方、完成、死生観がびっしり詰まっているからです。

22) 「朝鮮人の尊厳を回復し、過去を繰り返さないために」 洪祥進 男 1950年生まれ
両親は済州島出身で1923年渡日した。大阪で働いた。戦後は兵庫県尼崎で荒物・雑貨屋を営んで生計を立てた。父は1955年以来総連地域支部副委員長として活動しました。小学校4年から朝鮮学校に転入し、神戸朝鮮中高級学校で学びました。1973年の朝鮮大學旧師範学校境域う学部に入学し、卒業後15年間朝鮮中学高校で教員となって務めた。兵庫朝鮮関係研究会で在日朝鮮人の歴史や強制連行の歴史を掘り起こし記録する作業を行った。そのなかで1990年朝鮮人強制連行新装調査団中央本部が結成され、その朝鮮側事務局長に任命されました。日本人側は全国協議会として組織され、25都道府府県に朝・日合同真相調査団が結成された。活動は慰安婦問題・強制連行問題を中心に、人権侵害問題として提起された。防空壕などの地下施設建設には朝鮮人が動員されたことが米軍調査団報告にも書かれている。2000年に入り遺骨と遺族の調査を行った。これらの活動が1993年の「河野談話」、1995年の「村山談話」につながったのです。調査団活動は、日・朝両国にとどまらず、国連人権委員会にも参加し、慰安婦問題・強制連行問題は人権侵害に当たるということを提議した。また高校無償化対象から朝鮮民族学校が除外されていることも差別に当たると提議した。1994年国連人権委員会が採択した「人権と基本的自由ン重大な侵害を受けた被害者の原状回復、賠償、更生を求める」権利についての研究」と称する国連最終報告書には大きな意義があります。活動の成果は強制連行者の名簿の収集と公開です。朝鮮半島から海外への強制連行は日本外務省報告の77万人、学者の推計は100万人、朝鮮側の推計は150万人になりますが、2003年に公開された名簿では43万人が把握されています。強制連行者のうち死亡者は約6万人、日本に残る遺骨は5万人と推計されています。2004年盧泰愚大統領が日本政府に遺骨調査を依頼しましたが、進んでいません。これらの調査活動の記録は柏書房「朝鮮人強制連行の記録」として出版されました。

(つづく)



読書ノート 小熊英二・高賛侑・高秀美 編 「在日二世の記憶」 集英社新書(2016年)

2018年11月21日 | 書評
戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー 第14回

「在日二世 50人の記憶」  要約
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19) 「痛みを分かち合いたいから差別される側に」 鄭香均 女 1950年生まれ
岩手県北上市で、小説家の韓国人の父と雑誌社の編集員の日本人の母の間に3人兄弟の末娘として生まれた。生活がおぼつかなくて生家保護を受けていた。1960年の4月革命後父は韓国へ帰った。母と3人の子供は日本に残った。離婚すると片親の苦労があるとして韓国籍のまま日本で暮らすことになった。中学校から日本名の通名にするといじめはなくなった。このことに違和感を覚えて、自分は韓国籍であることを宣言したという。長兄は早稲田大学に入学し、韓国民族統一青年同盟で活動した。県立女子高校に進学したが、途中で学校をやめ、先生の紹介で横浜の病院に就職した。看護見習いをしながら准看護士学校に通いました。1970年資格を取ってから横浜の病院を辞め、川崎市桜本の同胞の経営する病院に行った。そこで看護師学校に通い、兄が参加していた韓民統青の活動に加わりました。日立就職差別闘争には最初から関わりました。川崎の同胞だけの社会から、日本社会で差別を体験するため、1978年東京目白の病院で韓国名で働きました。清瀬の結核研究所附属病院に変わって、保健師を目指し都立の看護学校に通いました。そして東京都で外国籍者として最初の保健師になりました。職場は保健所に替えて管理職試験の受験を申し込みました。受験を拒否され裁判所に提訴しました。96年の地裁判決は「当然の法理」だとして敗訴、97年の高裁では「国籍による受験制限は違法」との判決が出ましたが、2005年の最高裁では却下された。「憲法判断しない哀れな国日本、外国人は日本で働くな」というでした。この間日本は急速に右傾化してゆき、「裁判では正義が議論される」と思っていたことは間違いだったようです。

20) 「朝鮮人の父と日本人の母に生まれたからこそ朝鮮にこだわる」 金治明 男 1950年生まれ
父は在日朝鮮人一世、母は秋田生まれの日本人の6人兄弟の末っ子として生まれた。和光大学を卒業するまで横浜市で育った。父は九州の炭鉱で働き、土木関係の仕事で成功し、青果商を横浜市で手広く営み、戦後の一時期3店舗を構えていた。父が死んだあとは、母が廃品回収などの仕事で子供を養ったそうです。1985年の国籍法改正で父母両系血統主義となり、子どもは父母いずれかの国籍をえらぶことができるようになりましたが、それ以前では父の国籍に子供は属した。日本人の母と韓国籍の父が結婚する時婚姻届けを出さないでおくことで、子どもは母の日本国籍に入れることはできました。しかし私の父母は婚姻届けを出したので、子どもは韓国籍になりました。15歳になると外国人登録のために横浜市役所に出かけ、指紋押捺をされ登録証の常時携帯を義務付けられました。中学卒業後神奈川県追浜技術高等学校に入り自動車整備を学びました。卒業の時就職の戸籍謄本の提示を求められ、朝鮮籍に戸籍謄本があるわけがないので就職は諦めました。戸籍謄本が必要ない仕事といえば港湾荷役労働しかなかったので、25歳まで横浜港で働いた。港湾作業で事故に遭い入院し、大学進学の準備をした。1974年働きながら和光大学文学部芸術科に入学し。大学では民族運動をしました。「朝日混血青年同盟」を結成した。19歳から朝鮮名を名乗りましたが、21歳の時苦労させたくないと母の勧めで日本国籍を取りました。民族意識だけでは解決とならないと考え、在日朝鮮人労働者会議の結成に参加した。大学は6年かけて卒業し、後4年間は研究生として大学に残りました。その時埼玉県委託労働者組合に入った。運動は民族差別撤廃闘争です。1984年教員資格を取るための教育実習の時期でしたが、神奈川県五大学反戦共闘会議の革マル派の襲撃を受け3か月入院となった。これで運動から離れ、長野市でし尿汲み取り業、皮革産業の仕事に就いた。10年ほど経ってから会社は賃金カットに出たので、抗議すると会社は発言停止命令を出し、配置換えから解雇を言い渡した。解雇撤退闘争は5年かかったが敗訴になった。2000年に沖縄に来て平和運動を始め、2004年辺野古に住み着いた。沖縄は助け合いが生活に根付いた軍事基地反対闘争と結びついている。

(つづく)



読書ノート 小熊英二・高賛侑・高秀美 編 「在日二世の記憶」 集英社新書(2016年)

2018年11月20日 | 書評
戦後日本社会で差別とアイデンティティに苦しんで生きた在日二世の活躍のオーラルヒストリー 第13回

「在日二世 50人の記憶」  要約
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17) 「同胞医療と共生社会創造のために」 辺秀俊 男 1948年生まれ
高校卒業の1965年まで、山口県美祢市西厚保で生活した。父は1940年、祖父母と兄弟5人と共に渡日した。母も1年後にやってきて農業をやり、道路工事などにでて生活の資を稼いでいた。兄弟は中学校を卒業すると大阪に出て働いた。私は1967年大阪市立大学医学部に入学した。大学では本名で登録されるので、二分が朝鮮人であることは隠せませんでした。在学中に留学同の勉強会に出て、祖国のことを勉強し次第に民族意識に目覚めてゆきました。1973年に大学を卒業し、5年間大学病院第1外科の研修を受けました。大阪市生野区は同胞が多いのでいつの日にかそこの協和病院で働くことを決めていました。この病院は同胞医療をモットーに、職員・患者の100%は同胞です。大阪市で外国人に対して国民健康保険が提供されたのは1972年頃からです。1978年に共和病院の医師となり、消化器外科をスタートさせました。新しい病院は100床で、1985年から300床規模に拡張し、新たな診療科も追加された。生野区は高齢化率が高く29%です。介護老人保健施設を追加したのは1998年です。1999年から訪問介護ステーション協和がスタートしました。個人的には1991年から副院長、1993年から院長となりました。2006年に公益財団法人日本医療機能評価機構の認定病院になり、5年後の更新も済ませました。2011年には特別養護老人ホーム万寿苑を作りました。2013年には病院の機能を急性期と亜急性期、療養病床に分け合理化して、病床は211床と縮小しました。病院の職員は400人を超えました。看護婦や技師などの資格試験制度は日本の高校を出ていないと受けられないという差別がありました。通信制高校や専門学校に通いながら昼間の職務を行い試験資格を得ました。  

18) 「在日スパイ捏造事件を通じて民族運動の一翼を担う」 李哲 男 1948年生まれ
ちちは18才の時祖父に連れられて熊本県球磨郡にやってきました。土建業を営み、人吉市の民団支部の団長をしていました。私は6人兄弟の次男として戦後に生まれた。1967年中央大学に入学し、コリア文化研究会に入り、民族の歴史を勉強し1971年にソウル大学の在日国民教育研究所に留学しました。大学卒業後1973年高麗大学院に留学したころ、朴大統領が狙撃され夫人が死亡した事件が起きた。1975年11月韓国中央情報部KCIAが学園浸透スパイ事件(11・22事件)をでっちあげ在日留学生20名ほどを逮捕した。私も逮捕され南山のKCIA本部に連行されてスパイ事件関与の疑いで取り調べられた。1976年第1審裁判で死刑を宣告され、第2審、第3審も死刑判決でしたが、再審請求を提出し1979年特赦で無期懲役に減刑された。そして朴正煕大統領暗殺事件が起き、全斗煥政権の1981年に20年の減刑となった。韓国の良心囚(政治犯)の中で金芝河氏と私はアムネスティ・インタ―ナショナルに選ばれ、国際的支援が行われた。また獄中では多くの政治犯や民主化闘争の運動家と知り合いました。1988年10月仮釈放され、89年5月に帰国した。90年に在日韓国良心囚同友会が発足し、92年に良心囚書画展を開催した。2005年廬武鉉政権のとき、再審裁判を申請し、2014年11月ようやく無罪判決が得られた。

(つづく)