ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 大矢真一著 「ピタゴラスの定理」 東海大学出版会(2001年8月)

2018年08月31日 | 書評
ピタゴラスの定理のアニメ証明

幾何と代数のつなぎ目、ピタゴラスの定理の果たした役割と証明法の歴史 第1回

序(その1)

ピタゴラスの定理は実用幾何学の中で最もポピュラーな定理で、応用範囲が広く重宝しています。ピタゴラスの定理と相似三角形の辺の比例則(タレスの定理)の二つで大概の問題は間に合うほどです。幾何学は直感的にわかることが基本となり、代数計算はしないのが美しい解法と言われています。幾何学には形から離れた演算は邪道という人もいます。補助線と円を引きまくって形で分かることだということです。ですからタレスの定理は直感で分かるが、ピタゴラスの定理は直感的には出て来ません。直感的に分からないから証明が必要になります。直感から出てこない定理がどうして発見されたのでしょうか。だれがいつごろこの法則に気が付いたのか全く分かっていません。ピタゴラスという紀元前6世紀のギリシャ人にその栄誉が与えられていますが、そのまえからバビロニアやエジプトでは知っていたようです。そのため古くからいろいろの証明法が考察されてきました。その歴史は本書に書かれているが、近世まで日本にはピタゴラスの定理の本は全く存在しなかった。本来日本では厳密な論理による証明という科学的な方法論がなかったので、セクト集団で伝授される和算という職人芸に過ぎなかった。著者大矢真一氏(1907年 - 1991年、日本の数学史学者、富士短期大学名誉教授)が本書を書いたのは昭和21年(1946年)のことであるが、版が紛失したこともあって1975年に新版ができたという。2001年に東海大学秋山教授の労によって東海大学出版部から発刊されたという経緯を持つ本である。ピタゴラスの定理とは平面幾何学において直角三角形の斜辺の長さを c、他の2辺の長さを a, b とすると、ピタゴラスの定理式が成り立つという定理です。ピタゴラスの定理によって、直角三角形をなす3辺の内、2辺の長さを知ることができれば、残りの1辺の長さを知ることができる。例えば、直交座標系において原点と任意の点を結ぶ線分の長さは、ピタゴラスの定理に従って、その点の座標成分を2乗したものの総和として表すことができる。このことは2次元の座標系に限らず、3次元の系やより大きな次元の系についても成り立ちます。この事実から、ピタゴラスの定理を用いて任意の2点の間の距離を測ることができ、ユークリッド距離と呼ばれる。「ピタゴラスが直角二等辺三角形のタイルが敷き詰められた床を見ていて、この定理を思いついた」など幾つかの逸話が知られているものの、この定理はピタゴラスが発見したかどうかは分からない。バビロニア数学のプリンプトンや古代エジプトなどでもピタゴラス数については知られていたが、彼らが定理を発見していたかどうかは定かではない。中国古代の数学書『九章算術』や『周髀算経』でもこの定理が取り上げられている。中国ではこの定理を勾股定理と呼び、日本では三平方の定理という。このピタゴラスの定理は3)ピタゴラス数(整数)で明らかになるが直角三角形の斜辺cと底辺bとの差が1または2という僅差ばかりで、三角形としては面白くない形です。三角関数ではsinθ=θ(斜辺と底辺のなす角度)というくらいの小さな角度しかありません。微分の創始者ニュートンはこの小さな角度での直角三角形を使って力学を幾何学から導きました。しかしピタゴラスの定理はそんな薄い直角三角形ばかりを扱うのではなく、実数という範囲では一般化されて応用の広い形になります。

(つづく)

読書ノート 津野海太郎著 「読書と日本人」 岩波新書(2016年)

2018年08月30日 | 書評
本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る  第15回 最終回

9) 紙の本と電子の本ー21世紀の今

 2007年アマゾンの電子本リーダー「Kindle」が発売され、2010年アップルが電子本リーダーを兼ねるタブレット型のパソコン「iPad」を発売したことがきっかけになって、電子本がにわかにクローズアップされた。電子本の原型は1970年代アメリカで始まっていた。900年代にはかなりの量の本が無料で読める状態になっていた。日本でも「新潮文庫100冊」のCDが売り出された。とにかくアマゾン、アップルの動きから、電子本ビジネスが可能かどうかが大きな話題になった。本は古くから、メソポタミアの粘土の本、インダス文明の「木の葉の本」、エジプト・ギリシャの「パピルスの本」、中国の「竹簡、絹の本」、中東や欧州の「獣皮の本」があったが、今日の紙の本は8世紀の中国で出現した。読む側にとっての本の最大の特徴は消すことができない「定着」という特性です。ところが電子本は表示はするが定着はできません。物質としての本(紙)に対して、物質でない本が出てきたということです。吉田健一は「本という道具を使うには、専門的な知識は必要でない。字が読めればいいだけである」と言いました。ところが電子本リーダーは絶え間ない新製品開発やバージョンアップによって、読者へ大変な再学習を要求する。陳腐化をすることはIT経営にとって致命てきであるからだ。1970年代アメリカで発足した「プロジェクト・グーテンブルグ」、1990年に始まる議会図書館の「アメリカの記憶」計画の試みがあった。後者は壮大なインターネット・アーカイブ構想で、電子化された文書、本、音声、映像、画像などの保存倉庫であった。ただし問題はその実現や管理に膨大な資金が必要です。国家や自治体でさえ簡単に手が出せないくらいです。そこへ2004年グーグル社は「グーグル・プリント(ブックス)」という新プロジェクトを発足させた。全世界図書館の夢を現実化できるという期待が膨らみました。しかし著者の期待は無残にも失速しました。グローバルIT企業であるグーグル社の野望が余りに露骨であったためです。人類の知的資源を自分ッちの手で根こそぎデジタルデータ化して、それへのアクセス権を独占して、グルーバルな情報権力を握ろうとする欲望だけであったということが判明したからだといいます。つまりはハリーポッターと新自由主義経済手法による知的財産の制覇です。ハーヴァード大学図書館長で著名な書誌学者ロバート・ダーントンがグーグル社を訪れてわかったことは、この企画に書誌学者が一人もいないので必ず失敗するだろうという確信したということです。ところが「今すぐ売れる本はいい本」という出版業界のセオリーは電子書店そのまま引き継がれ、日本位おいては電子書店にある本の8割はコミックで、残りは売れ筋のやわらかい本が占めるという惨憺たる状態です。アマゾンの電子本リーダー「Kindle」は45万点の膨大な電子本を揃え、無料でダウンロードできる仕組みを作った。同じ趣旨で日本ではボランティアの手で電子化し、私設電子公共図書館「青空文庫」が1977年から始められた。結局グーグルの企ては、データの独占を放棄して原則無料の電子公共図書館構想に合流する以外に生きる道はないとロバート・ダーントンは予言しています。紙の本への信頼が揺らいでいるのは、ダイレクトにデジタル革命のせいではない。電子本が全面的に紙の本にとって代わる恐れは全くない。両者は別々の媒体メディアと考えた方が正しいようだ。かって20世紀前半に映画が読書を追い出すと心配したことが杞憂であったように、20世紀末から21世紀初めのインターネットが読書を追い出すと心配することも杞憂ではないかと考えられます。映画やインターネットの流れから遁れて息抜きを求める「本に戻る人」が存在します。本を読まなくなったのは若者だけではありません、中高年も若者以上に本を読んでいないのです。多くの日本人がやはり一斉に本を読まなくなった理由を考えるべきです。市場原理ビジネスとしての出版界によって本の良さが見えなくなっているだけかもしれません。この種の硬い本(人文書)を隠蔽しようとする政府官房筋のたくらみが見え隠れする中で、やはり本の良さを再発見する人が増えています。おびただしい数の人々が同じ本を読むハリー・ポッター現象の方が異常で、病んでいると言えます。ハメルンの笛吹きに誘導されて断崖から飛び込む子供の群れのようで不気味です。「いそいでじたばたせずに、嫌な時代が過ぎて行くのをじっと待つことにしよう」という判断が求められます。

(完)

読書ノート 津野海太郎著 「読書と日本人」 岩波新書(2016年)

2018年08月29日 | 書評
本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る 第14回

8) 活字離れ

 1960年代後半には団塊世代の学生たちが、「少年マガジン」、「少年サンデー」、「少年ジャンプ」、「ガロ」などのマンガ雑誌を盛んに読む風景が際立ちました。作品でいえば「カムイ伝」、「天才バカボン」、「あしたのジョー」、「巨人の星」などです。読んだ方も多いだろうと思います。同時に書物の権威主義的支配に対抗する形で、寺山修司の「書を捨てて、街に出よう」といったカウンターカルチャーやサブカルチャーの時代になったのです。書だけではだめだという主張は前からありました。1955年京大人文化科学研究所の桑原武夫氏は「写真、映画、ラジオ、テレビなどのコミュニケーション手段が有力となって、本の持つ影響力が低下している。そろそろ本の普及はピークを過ぎたのではないか」といい、読書という手段だけでは人間形成には不十分だと言っていました。読書だけに頼って経験をおろそかにしがちな教養主義読書法の欠点を指摘したのです。京大人文科学研究所の鶴見俊輔氏は大衆文学や漫画と共に生きた最初の哲学者でした。また同じ人文科学研究所の梅棹忠夫氏は、岩波新書「知的生産の技術」で、フィールドワーカーの実践技術で人類学を切り開きました。現場主義の社会学です。1960年代の特徴は高度経済成長によって消費社会化が進んだことです。その時代の担い手は団塊の世代です。出版界に生じた象徴的な出来事が二つあります。ひとつはマガジンハウス社による雑誌メディアの革新です。「平凡パンチ」、「クロワッサン」、「ブルータス」、「an・an」といったセンスのいい大型ビジュアル誌が立て続けに創刊されたことです。二つは角川書店による文庫の大衆化です。角川映画と連動するメディアミックス戦略が成功し、文庫の路線も文学や古典から大衆文学に切り替えました。文庫が一斉に柔らかい内容になりました。文庫にせよ雑誌にせよ、本屋の一番目立つ入り口付近の場所に華やかに展示されました。1970年代の終わりには雑誌の売り上げが戦後初めて書籍の売り上げを上回りました。大量消費時代をうけて出版点数が驚くべき急増ぶりを示しました。1971年に2万点をこえ、1982年には3万点、1990年に4万点、1996年に6万点、2001年に7万点、2010年に8万点になりました。本の生命がどんどん短くなって90年代には大量に売れる本(雑誌)がいい本になり、売れ筋でない本は動かなくなりました。20世紀前半のベストセラーはミッチェルの「風と共に去りぬ」でアメリカだけで300万部を売りました。20世紀末にはローリングの「ハリー・ポッター」シリーズが爆発的に売れました。世界同時発売戦略で一日で900万部を売り、全7巻の総計は4億万部以上を売ったと言われています。日本での翻訳本は静山社が総発行部数2360万部を売り上げた。アメリカ式市場のグローバル化、新自由主義経済体制の社会の風潮と無縁ではありません。これはまさにバブルです。度を越えた読者の同調を煽った戦略です。それにしても本を読む人若い人の数は減少し続けています。柔らかい本が高度経済成長の消費文化に乗って、飛躍的に拡大し、反面堅い本の売れゆきが減少しました。学生が読む本においてこの傾向が支配的になり、1973年には岩波書店の本が第1位から新潮社へトップの座を譲り渡しました。さらに一般社会人層向けの本は、趣味・娯楽・スポーツ・ハウツーもの・経済本に重心が移ってゆきました。文庫や新書においても、「昭和軽薄体」と言われる軽い内容の「読むマンガ本」となってゆきました。また「満腹時代の読書」には、堅い本の関係でいうと、吉本隆明から山口昌夫にバトンタッチし、丸谷才一、大江健三郎、井上ひさし、司馬遼太郎らが1970年代に活躍しました。1980年代の左翼関係本の様変わりは顕著で、マルクス主義の枠組みをはずして、浅川彰、栗本慎一朗、中沢新、上野千鶴子などの本が流行しました。1980年代のバブル景気の中、読書傾向は多読と博識の教養主義読書法は、肩の力を抜いた「知の楽しみ」、「読書の悦楽」といった趣味性の高い読書法に変わりました。1996年書籍の年間売り上げ総額は1兆0931億円に到達しました。ところが橋本内閣の時消費税増税がおこなわれたのをきっかけに、売り上げ高は下降に転じました。雑誌の落ち込みが一番ひどかった。1980年代から2010年までの出版点数と総売上高の推移を見ると、出版点数だけは先に書いたように、右上がりに増加していますが、総売上高は1996年の1兆円をピークに下降し、2010年には8831億円の減少傾向にあります。出版業界の市場規模は縮小しているのに、出版点数だけはふえているのは、ジャンル内容の激変ぶりとデフレ傾向を止められない業界の悩みを表しています。これも内容を無視して過激な新自由主義競争に邁進した結果です。既刊本の売れゆきが激減し、新刊本しか売れなくなったのです。「すぐに大量に売れる本が勝ち、売れるのに時間がかかる本は負け」という風潮でロングセラー商法が成り立たなくなっているのです。この出版界の状況は市民図書館の置かれた状況変化にも通じています。小泉内閣に始まった新自由主義政策は、小さな政府を目指して公的予算の削減となり、図書館運営に迫りました。図書館「改革」は専任の図書館員を派遣や契約社員に置き換え、外部企業に運営を丸投げすることでした。するとどうなるでしょうか。読みやすい本が占める率が圧倒的になり、ほとんどは読み捨て型のハウツー本になったのです。図書や書籍、教育そして文化まで考えたことがない代理運営がなすあきれ果てた図書館です。

(つづく)

読書ノート 津野海太郎著 「読書と日本人」 岩波新書(2016年)

2018年08月28日 | 書評
本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る 第13回

7) 焼け跡からの出発ー昭和時代(戦後)

 太平洋戦争時代の出版界の状況は悲惨を極めた。1941年に約3万点あった出版数が、1945年終戦年には878点にまで激減していた。その最大の原因は紙飢饉であった。日本の製紙業は樺太(サハリン)の針葉樹林に頼っていた。ところが1937年日中戦争が起き翌年「国民総動員法」が制定されると、国家統制は戦争に向かって強化された。非軍需産業であった製紙業や出版業は資源供給を大幅にカットされ、それまで2241社あった出版社は10分の1に、2千誌あった雑誌も半分に削減された。資源供給だけでなく、出版社には言論統制で出版社や雑誌が次々に統廃合に追い込まれていた。戦争が終わった1945年はすべてを破壊された国土の荒廃により、さらに樺太の放棄によって日本の製紙業は麻痺状態に陥っていた。戦中・戦後時代、読者は本に飢えていた状況が、戦没学生の手記「きけわだつみの声」や水木しげる氏の日記を編集した荒俣宏著の「戦争と読書ー水木しげる出征前手記」に記されている。戦前期に形成された教養主義的読書の習慣が戦後の読書まで生き延びていたことが分かります。川合栄治郎編「学生と読書」が戦中の学生たちの指針となっていたようです。1947年岩波書店が「西田幾多郎全集」19巻を刊行したとき、徹夜の行列ができたと言われています。大正教養主義は戦後まで生きのびていたのです。1950年の朝鮮戦争特需の好景気は全経済分野に広がり、1950年の発刊点数は13000点に回復し、1970年には2万点になりました。戦後の出版事業の再開は、関東大震災後の出版業の資本主義的再編成の繰り返しの形で行われました。全集・雑誌・文庫本や新書・週刊誌の順で見てゆこう。1952年新潮社に「現代世界文学全集」、角川書店の「昭和文学全集」をかわきりにして、1950年代前半は予約購読方式の全集物の出版が相次ぎました。岩波書店の「日本古典文学大系」といったアカデミックなものも発刊されました。これらは空襲で焼失した大量の文字資産を補充するという意味があって、学校や公的図書館などで一括購入されたのでしょう。文庫本では新潮文庫、角川文庫など70種を越える文庫が創刊され、同時に岩波新書、角川新書、三一新書など90種を超える新書も創刊されました。岩波新書に始まる既存の新書は主に知識層相手でしたが、カッパブックスは一般大衆まで対象を広げました。雑誌部門では週刊誌ブームがおこり、1954年「週刊朝日」の発行部数が100万部を越えました。週刊朝日の成功の一因に、1951年から始めた「週刊図書館」という書評欄の魅力があります。週刊朝日の読者には高学歴のサラリーマンに代表される知的中間層がいたと思われます。そして主に新聞社系の週刊誌に加えて出版社の週刊誌が加わりました。1956年創刊の「週刊新潮」を先頭に、「週刊女性」、「週刊現代」、「週刊文春」など数多くの大衆向け週刊誌の発刊があい次ぎました。企画も多彩で、五味泰祐、柴田錬三郎の時代小説が人気を博しました。松本清張の「社会派ミステリー」が大ヒットしました。朝鮮戦争後の「神武景気」がこのブームを支えたようです。「暮らしの手帖」、「平凡」、「文芸春秋」など名編集長が発刊した一般誌も100万部を越えました。大衆文学のみならず、いわゆる純文学の分野でも戦後の花が咲きました。永井荷風、志賀直哉、中野重治、太宰治、高見淳らの戦前派をはじめ、三島由紀夫、大岡昇平、野間宏、武田泰淳、椎名鱗三、安部公房、中村信一郎、井上光晴、安岡章太郎、阿川弘之、吉行淳之介、遠藤周作らの戦中派がつづき、有吉佐和子、瀬戸内晴美、開高健、大江健三郎らの戦後派が世に出た。1950年後半から1960年初頭にかけて、個性的な評論家の活動が目立った。福田恆存、加藤周一、江藤淳、吉本隆明、鶴見俊輔、竹内好、丸山真男らが輩出した。彼らの活動の場となったのが、「世界」、「展望」、「改造」、「中央王論」などの総合雑誌でした。サンフランシスコ条約締結後GHQの検閲が終わり、欧米の新刊書の輸入や翻訳が堰を切ったかのようにあふれ出しました。サルトル、カミュの「実存主義ブーム」が起り、「マルクス資本論・近代経済学と実存主義文学」が1960年代の大学生の流行となりました。こうして1960年をへて1980年代中頃に至る25年こそが、「読書の黄金時代」と言われます。

(つづく)

読書ノート 津野海太郎著 「読書と日本人」 岩波新書(2016年)

2018年08月21日 | 書評
本は何のために読むか、読書の歴史から時代の変遷を見る  第12回

6) 我らの読書法ー昭和時代(戦前)

大正教養主義とは、、内外の古典を読んで自らの品格を高めるという理念であった。阿部次郎の「三太郎の日記」には読書の目的は「個性を高めるために、内外の古典を読み漁り、時空を超えた普遍的な人間としての豊かな人格形成をはかる」ことであった。大正教養主義の要は熱烈な読書奨励運動であった。ところが彼らの読書を支えたのは、明るい電灯ではなくろうそくやランプの燈火であった。大都会の電化は20世紀初頭にははじまっていたが、市内全域の電灯がともるのは大震災の直前1920年頃であったという。それと同期して、高学歴の中間階層のサラリーマン向けに震災後郊外の建売住宅の新築ラッシュが起こり、「文化住宅」に書斎が出現した。和洋折衷方式の住宅の小さな洋間に書斎兼応接間が設けられ、電灯がともり、洋風の机といす、本棚、蔵書を置くことが流行しました。この本棚の中に円本の全集物や文庫本などが並んでいました。読んだ形跡はなかったのですが、これもステータスシンボルであったようです。出版界のリーダーである、改造社の山本実彦、岩波書店の岩波茂雄、講談社の野間清治氏らは、教養主義読書を標榜して「家庭図書館」というスローガンで教養主義の民衆化・大衆化を目指した。大正教養主義に円本全集物・文庫ブームが重なった昭和初期には、明治の知的産物の保存も併せて行われた。つぎに知的中間層以外の底辺ン大衆の読書環境はどうだったのだろう。20世紀初め公的な図書館サービスが普及し、地域住民向けのミニ図書館も併設された。夜間閲覧可能、館外貸し出し、無料原則で働く労働者向けに大衆的利用をはかった。そこで読まれていた本には、大衆文学として通俗小説や時代小説が多かった。又郊外のサラリーマンが通勤電車内で読む「社内読書」として堅い物は敬遠され、随筆や座談会・実話・手記など「雑文」と呼ばれる軽読み物のジャンルが好まれた。1923年に創刊された菊池寛編集の国民雑誌「文芸春秋」や、大衆小説・時代小説や通俗小説が読まれたようである。知的階層の読書は基本的に多読であり、かつ早読みをモットーとしていた。読みやすい活字で翻訳本も入れて、古今東西の大量の本を読むことは教養主義的読書にとって必須の前提でした。東西の古典を原文で読むことは学者以外の一般読者にはできない相談なので、文学の翻訳ものが大量に出回りはじめたのも昭和初期の事でした。

(つづく)