ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月12日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロードより

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第1回

序  日本の中世 (その1)

平安時代の10世紀から11世紀にかけて、藤原氏が天皇の外戚として政治の主導権を握り、摂政・関白の職を独占し摂関政治を展開した。藤原道長が「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」と謳うほど藤原氏は全盛を極めた。しかし頼道の代に藤原氏を外戚としない後三条天皇が践祚すると藤原氏から政治の主導権を取り戻し各種の政策を進めた。1072年後三条は貞仁親王に譲位し上皇(院)となった。白河天皇ではなく後三条上皇が政治を主導した。1086年天皇親政を続けていた白河天皇が善仁親王に譲位して、院政が始まったとされる。後三条上皇は白河と藤原賢子中宮の子を避けるため、実仁ー輔仁親王という皇位継承順を決めて亡くなった。しかし実仁親王が早世したため、1085年白河上皇は善仁親王(堀川天皇)に譲位した。幼帝堀川天皇に代わって、白河が親権を行使し政務を取る院政の道が開かれた。外戚藤原師実が摂政に任じられたが、白河は最終決定権を持った。堀川天皇が16歳になった1094年、摂政・関白の職が師実から嫡子師道に代わった。政務実行力に優れた師道は白川に遠慮することなく政務を執行した。師道は上皇の政治関与は必要ないと考えていた。その師道は1099年急死し、嫡子権大納言忠実があとを継いだが、白河は忠実を「内覧」(天皇の見る書類にあらかじめ目を通す役)に留め、政務は白川が執行した。堀川天皇が1107年に29歳で死去すると、白河は自分の孫である宗仁親王を即位させた、鳥羽天皇である。そして外戚である閑院流藤原氏の公実を退け、摂関家は外戚かどうかには関係なく道長家が相承する職とみなし関白忠実を摂政とした。ここでも摂関を継承する「摂関家」が成立した。そして白川は摂政を院に従属させ、白河は専制君主として本格的な院政が開始された。院政期の政治形態は天皇・摂関・院の三者による共同執政といってもよく、人間関係・力関係によって重心が異なるだけである。院庁というのは院の家政問題だけで、政務は太政官で執行されてきた。公卿会議は三つの場所で行われ、内裏の近衛陣座で行われる「陣定」、清涼殿で天皇臨席の下で行われる「御前定」、清涼殿で行われる「殿上定」で審議されたが、白河院政後期には重要案件の審議は院御所に移り、院御所会議が最高審議機関になった。院を支えたのが「院近臣」である。白川が介入して登用した人々である。彼らは大国の受領を歴任し、財力で官職を買うことができる人々で院の経済力の中心となった。藤原顕季、長実・家保らや有能な事務官僚であった藤原為房・顕隆、顕頼などがいた。院政期の社会の特徴は何といっても武士の台頭と寺社の強訴であろう。河内源氏の源義家は前九年の役、後三年の役を戦って武名をあげ、院の昇殿を許されたが、嫡子義親が濫行事件を起こした。義親の追討使となって抜群の武勇を示して台頭したのが伊勢平氏の平正盛であった。彼らはまだ地方武士団を糾合する段階ではなく、京都の軍事貴族「京武者」、「北面の武士」となり院の軍事力を担った。南都北嶺の興福寺・延暦寺が春日大社・日吉神社の神神輿を担いで都に繰り出し、その利益を強引に朝廷に認めさせるという強訴を繰り返した。また白河は熊野詣を九回も行った。院政期に横行する熊野詣の先鞭をつけたのも白河院であった。白河院は后妃選定に係る人事に強引に介入した。白河の女性問題の奔放さは藤原の摂関家を悩ました。1117年閑院流藤原氏公実の娘17歳の璋子を鳥羽帝に入内させると、白河院の御所に戻ってしまった。璋子が鳥羽天皇の間に第一皇子顕仁を産んだがこれは白河院の子ではないかといわれている。白川は顕仁を溺愛し、1123年5歳で皇太子に立て鳥羽に譲位させて践祚した。崇徳天皇である。藤原忠実は白川から内覧の権限を取り上げられ、嫡子忠道に関白職を譲り政治の表舞台から引退した。そして荘園の蓄積拡大に努め摂関家を権門として成長させた。ここに王家と摂関家という二代権門の軋轢が表面化したのである。

(つづく)