ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月28日 | 書評
アザレア

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第11回

第4章 承久の乱 (その1)

承久三年(1221) は京都では相変わらず火事が続き、卿二位邸、後鳥羽の母七条院御所、宗像社、宝荘厳院が焼失した。一月早々院の御所には順徳が頻繁に訪れた。正月儀礼訪問ではなく、譲位や義時追討に関する打ち合わせでなかったかと思われる。鳥羽は1月27日鳥羽の城南寺で笠懸を行わせた。2月4日29回目の熊野詣に出かけた。4月20日、順徳から懐成への譲位が行われ、仲恭天皇4歳が践祚した。左大臣九条道家が摂政となり、4月26日順徳は院御所高陽院殿に御幸された。後鳥羽は御家人を幕府と分断して操ることは簡単だと思い込んでいた。御家人の取り込み工作が勝敗を決するので、反幕府に利用できる御家人として在京中の判官三浦胤義をターゲットに選んだ。胤義勧誘の担当は藤原秀康であった。一族にとって在京奉公と在地経営の分業体制が東国御家人の特徴であった。三浦胤義が在京奉公に、兄義村は在地経営の分業の担い手であったが、そこへ後醍醐は公家の官職を餌に兄弟間の競争と分断を狙ったのである。院近臣の貴族・僧侶に後鳥羽の「勅諚」が出され、在京御家人や西面衆、畿内の武士には「廻文」が出された。1221年4月28日一千余騎が院御所高陽殿に集結し、上皇後鳥羽、中院土御門、薪院順徳、六条宮雅成、冷泉宮頼仁が御所に入った。北条義時調伏の修法が始められた。陰陽師に勝敗を占わせたが吉と出た。後鳥羽は秀康に幕府の京都守護式伊賀光季を討つよう命じた。幕府方の西園寺公経は5月14日御所内に幽閉された。5月15日出頭呼び出しのあった伊賀光季はそれに応じなかったので、三浦胤義・小野成時・佐々木広綱らの武士勢800騎が差し向けられた。合戦に臨んだ伊賀光季の武士は31騎で多勢に無勢、光季親子らは館に火を放って自害した。次いで後鳥羽は「北条義時追討の院宣」(執筆は藤原光親)を下した。院宣の論理は、後鳥羽の政治で御家人の不満は解消できる。つまり義時排除という一点で御家人と後鳥羽は一致するという分断乖離策であった。この院宣が幕府方の有力御家人8人に宛てて出されたという。在京中に後鳥羽と接点のあった人である。同日「北條義時追討の官宣旨」という官の発給する命令書が出された。論理は院宣と同じであるが、①宛先が諸国荘園の守護人と地頭、②意見をがあれば院庁で奏上することを許可する、③国司や荘園領主は乱暴行為、無法行為を禁止するという。ところが院宣は出たものの追討使の任命、追討軍の編成と派遣といった具体的な記述がない。「命令」をするだけで大勢はそう動くと過信した(現実を何も知らない)後鳥羽の見通しの粗雑さ、甘さにはあきれるばかりである。夢と現実の区別もない。自ら実現に向かって努力する姿勢は全くない。ひょっとしたら合戦になるとも考えていなかったようで、命令一つで上皇の意思を示すことによって幕府は自分に靡いてくると思い込んでいたようだ。北条義時追討軍を構築することを怠り、最初に集まった一千余騎は、院御所の警護に充てている。誰がどうして義時を討つかという戦略をまるで考えないで、自分の思い通りに世界は動くと思い込んだ自己中の典型である。ばかばかしくてお話にもならない。北条義時追討の宣旨と官宣旨は1221年5月16日未明押松という下部に託されて鎌倉に向けて京都を発った。しかし前日5月15日兄義村を院方に誘う胤義の使者、伊賀光季が討伐直前に鎌倉へ送った使者、そして西園寺公経の家司三善長衡が公経幽閉と院宣旨と官宣旨が下されたこと知らせる使いがすでに鎌倉に向けて出発していた。4人の使者はほぼ同時に5月19日夕刻までには鎌倉に着いた。光季と長衡の手紙を見た鎌倉幕府は驚愕し、押松の潜伏を知った三浦義村は義時に押松の捜索逮捕と院宣の没収を進言した。ほどなく押松は捕縛され院宣・官宣旨が東国の御家人たちに伝わる事を未然に防いだ。5月19日夜緊急の有力御家人の合議が行われ、北條時房・泰時・大江広元・安達景盛・武田信光・小笠原長清・宇都宮朝綱・長沼宗政・足利義氏らが参上した。一同を前にした尼将軍政子の有名な演説は、院宣を隠して北條義時排除の論理を鎌倉幕府討伐にすり替え一致団結を図ったものである。さらに義時邸において北條時房・泰時・大江広元・三浦義村・安達景盛らが戦の詮議(戦術会議)を行った。追討軍を足柄・箱根で迎撃する案と追討軍が京都を出る前に逆に攻勢をかける案が議論され、京都の追討軍が組織されるには時間がかかるだろうと読んだ幕府首脳は、相手が整う先に攻撃をかけるのが最善の唯一の策であると決定した。

(つづく)