ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年11月03日 | 書評
渡良瀬遊水地 周回サイクルロード西橋より南を見る 

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第9回

第3章) 「神学的徳」としての信仰と希望 (その1)

本章「神学的徳」としての信仰が本書の中心となっている。信仰・希望・愛徳という三つの徳はキリスト教の教えの根幹をなすもので、現在のキリスト教でも変わりはない。前教皇ベネディクト16世(在位2005-2013)は「回勅」として「神は愛」、「希望による救い」を発布し、現教皇フランシスコは、「信仰の光」を発布した。社会問題の解決に応用されるキリスト教の教えとしてではなく、キリスト教の根幹に関するメッセージであった。神学的徳はトマスの発案ではなく、新約聖書の「コリント人への手紙」に残るパウロの言葉である。パウロは中でも「愛」を強調したが、アウグスティヌス以来の教父思想を受け継ぎつつ、トマスはアリストテレスのギリシャ哲学をも受容しながら、神学的徳について体系的な理論を構築したのである。信仰・希望・愛徳という三つの徳にうち、信仰・希望の徳は本章で扱い、愛徳は次章で扱う。まず宗教的な信仰の本質を、ジェイムスは「意志」を軸にして捉え、マッハーは「神への依存感情」で捉えるなどいろいろな立場がある。トマスの信仰論の特徴的なことは、「感情」や「意志」ではなく「知性」を軸にした信仰論を展開していることである。つまり知性の対象である「真理」に関わるものである。トマスにとって「感情」や「意志」の位置は副次的である。宗教以外の面での「信じること」は人間の社会生活において欠かせないもので、自分の充分でない部分に他人の言動をそのまま利用することである。これが社会「正義」の土台なのだとトマスはいう。つまり人間の共同生活は信用(信頼)で成り立っているという事実である。自分の範囲の事項に関しても「信」が無ければ生きていくことはできない。合理的に「信じる」ということは「知る」ことの一つの在り方です。不合理な不信(懐疑主義、孤立)では、理性的で健全な判断はできないし社会生活は営めない。何故「信仰」は「徳」と呼ばれるのだろうか。トマスは「信仰の光は信仰される事柄を見えるように導く」という。人間精神は信仰という習慣によって、正しい信仰に適合する事柄を承認するという。まるで同義反復のようななぞなぞ問答であるが、世俗でいう「鰯の頭も信心から」、「信じる者は救われる」のようなところがあって理解しがたいが、倫理的徳によって語られる「親和性による認識」を、神学的徳である「信仰」に応用した考えである。信仰は信じられる事柄に対する知性の承認を意味する。知性は第1に「直知」によって、または「学知」によって認識される。

(つづく)