ブログ 「ごまめの歯軋り」

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山本芳久著  「トマス・アクィナスー理性と神秘」 岩波新書2017年2月

2019年11月08日 | 音楽
渡良瀬遊水地 周回サイクルロードより

「神学大全」に見るトマス哲学の根本精神を理性と神秘から読み解く 第14回

第4章) 肯定の原理としての愛徳「カリタス」(その2)

双方向の「神のカリタス」は主体を厳密に区別する必要がある。スコラ学の大家ロンバルドゥス(1095-1160)は「命題集」の中で「カリスタは精神のうちに住みたもう聖霊そのもの」であるという見解をとった。トマスはこの見解に対して、「カリタスは霊魂のうちに創造されたあるものであり」というならばカリタスは徳であるが、「カリタスは精神のうちに住みたもう聖霊そのもの」というと、カリタスは徳ではないことになると考えた。愛はその本質からして意志の働きを含意しているが、「聖霊によってのみ動かされる愛」など自発性のない愛は愛ではないとトマスは言う。そういう意味で語っているトマス自身の哲学体系・思想体系においても、アウグスティヌス以来のプラトン風の分有概念が生かされている。我々が形相的に智恵あるものという知恵は神的な知恵を分有しているのと同じように、我々が係争的に隣人を愛するところのカリタスは神的なカリタスのある分有なのである。いかなる行為も、行為の根源・原理である何らかの形相によって、能動的能力に親和的であるでなかったら何もできない。物は神によって定められたふさわしい方向へ傾かされる形相が賦与されている。人間の意思がカリタスの運動に違和感なく参画するためには形相が意志のなかに形成されていなければならない。旧約聖書の「集会書」に「類似性は愛の原因である。人間はカリタスに基づいて神より隣人を愛する」という異論を紹介し、トマスは「我々が神に対して有する類似性は、隣人に対する類似性より先なるものである。我々が神から分有していることによって隣人たちと似ているだけのことである」と反論した。また先ほど述べた隣人よりもまず自己自身を愛すべきである命題と同様に、神学大全ではこれをカリタス愛徳の秩序・順序として述べられている。カリタスの第一起源である神への関係に基づいて秩序付けられるのである。分析能力の卓越したアリストテレス(カテゴリー分類大好き人間)による「ニコマコス倫理学」でも、友愛は①利益に基づいた友愛、②快楽に基づいた友愛、③人柄の良さに基づいた友愛と分類し、前者 ①、②は自身が幸福になるために友人を利用する欲望型友愛、後者③は友愛と呼ぶ。トマスは大全で「人に親切にすることは喜びの原因であるか」という問いを立て、「自らの有り余るほど豊かな善が存在し、そこから他人に分かち与えることは喜びである」と述べている。隣人を愛することの根拠は神であるので、カリタスは単に神への愛にとどまらず、隣人への愛にも及んでくるのである。「愛することは誰かに善を意志することである」とトマスは言う。相手が幸福という最高の善を獲得することを願うのが、相手を愛するということである。肯定の原動力であるカリタスが、神から与えられつつも、自己固有の力として、人間精神のうちに存在するようになる。

(つづく)