ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 坂井孝一著 「承久の乱」 中公新書2018年12月

2019年11月16日 | 書評
鎌倉幕府三代将軍 源実朝

後鳥羽上皇の反乱は二日で鎮圧され、公武の力関係を変え中世社会の構造を決定した  第5回

第1章 後鳥羽の京都朝廷 (その1)

1180年5月、後白河の第二皇子以仁王と摂津源氏の源頼政による平家打倒計画が露見した。「以仁王の乱」である。南都に逃げる途中宇治で合戦となり敗死した。以仁王の令旨は全国の源氏に回文され、伊豆に配流されていた源頼朝にも4月27日に伝えられた。同年平清盛は摂津福原への遷都を強行し京都周辺の反平家勢力を叩くと同時に頼朝への攻撃を行った。8月17日頼朝は挙兵をした。治承・寿永の内乱の勃発である。この時の頼朝の勢は北條時政・義時一族を中心とするわずかな兵力に過ぎなかった。石橋山でお平家方の大庭・伊東ら三千騎に大敗を喫し船で房総半島の安房に逃げた。安房で三浦氏と合流し、千葉氏・上総氏・畠山氏を糾合して10月6日鎌倉に入った。平維盛を追悼使とする追討軍を10月20日富士川で迎え撃った。富士川の合戦で相手の誤解で戦わずして奇蹟的な勝利を得たが、進軍して上洛することは時機尚早であるとして鎌倉に戻った。清盛はわずか半年後の1180年11月に京都に遷都した。12月に重衡が南都東大寺大仏殿を焼き討ちする失策を犯し敵を増やした。治承5年1181年2月4日清盛は64歳で病死した。ここから求心力をなくした平家の凋落が始まった。清盛の後を継いだのは三男の宗盛であった。しかし木曽義仲に攻められ1183年7月安徳天皇とともに都落ちした。天皇不在の京都では後白河院は新天皇として高倉の四の宮を選び、三種の神器なしで後鳥羽天皇4歳が践祚した。1183年10月後白河は頼朝を功績を認、その東国支配権を公認する十月宣旨を出した。頼朝の政治力の前に激怒した義仲はクーデターを起こし後白河の法住寺殿を攻めた。義仲追討の宣旨を受けた頼朝は弟の範頼・義経を派遣し1184年1月近江の粟津で義仲を討ち取った。この源氏内の内紛で平家は福原に陣を取った。2月7日範頼・義経と多田、安田の軍勢が奇襲をかけ平忠度、通盛、敦盛らが討ち死にし重衡が捕虜になった。「一ノ谷の合戦」である。讃岐の「屋島の合戦」でも勝利した範頼・義経軍は長門の「壇ノ浦の合戦」で平家の息の根を止めたが、安徳天皇と三種の神器は海底に沈んだ。頼朝は武士に対する恩賞として平家没官領を与えた。頼朝は東国反乱軍として内乱を戦い抜くために作り出した制度や軍事組織を維持・継承するために、戦時体制を朝廷に認めさせ定着させることをによって、鎌倉幕府を樹立したといえる。当初は自らの東国支配に専念するため、京都には入らなかった。京都朝廷と並立する(独立して)東国支配のための鎌倉幕府を意図したようである。朝廷の秩序に自らを位置づけることはしなかった。鎌倉幕府の日本支配は実に承久の乱以降の事である。その辺の政治的意図が分からなかった義経は後白河から左衛門尉兼検非違使に補任された。それが頼朝の意に反する行為であり、1185年11月北條時政を上洛させ、後白河に対して義経捜索のための守護・地頭を設置する許可を取った。ここからが鎌倉幕府の独立的立場が確立した。1189年義経主従をかくまったとして奥州藤原四代目泰衡を攻めた。泰衡は義経を攻めて自害させた。奥州藤原氏を亡ぼし、唯一の軍事権門となった頼朝は、1190年11月上洛した。朝廷より前大納言・前右衛門大将に補任された。1192年後白河院が死去し、13歳の後鳥羽親政が始まった。親幕派の関白九条兼実が朝廷政治を主導し、7月頼朝を征夷大将軍に補任した。1193年3月頼朝は富士裾野で巻き狩を行い武威を誇示した。この時期から頼朝は将軍の地位を狙うものや不平分子の粛清を行った。東海道の守護を信頼できる御家人で固めて、1195年東大寺大仏殿の落慶供養に出るため上洛した。朝廷では九条兼実のライバル公卿源通親が主導権を握り始めていた。権謀家の通親は後白河の寵姫高階栄子に近づき在子を後鳥羽のもとに入内させた。晩年の頼朝も長女大姫を後鳥羽に入内させ生んだ皇子を将軍にしたいつもりがあった。ところが在子(承明門院)が後鳥羽の皇子為仁を生むと、源通親は1195年11月兼実の失脚を狙った「建久七年の政変」を起こした。1197年大姫が死去すると頼朝の構想は破れ、1199年頼朝は53歳で死去した。

(つづく)