ブログ 「ごまめの歯軋り」

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柿木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」

2021年09月11日 | 書評
奈良県橿原市 今井町7

柏木伸之著 「ヴァルター・ベンヤミン」 

岩波文庫 (2019年9月刊)

第8巻(その4,その5  批評理論・美学理論)

4) 批評の理論とその展開(ロマン主義論からバロック悲劇論へ)

ベンヤミンは青年運動で挫折したベルリンを去って、バイエルンの都ミュンヘン大学に転向し、1916年「言語一般及び人間の言語について」を著わした。詩人リルケと知り合い、1917年ベンヤミンはドーラ・ゾフィー・ケルナーと結婚した。ドーラはシオニズムの深い環境下で育ったが、政治的には一定の距離を置いた。第1次世界大戦でドイツの敗色濃厚となり、ベンヤミンに召集令状を届いた。そこでベンヤミンは妻とともにスイスのベルンに移住した。ベルン大学に転学したベンヤミンは博士論文のため、新カント派の影響下でカントの批判哲学に取り組んだ。個人的には青年運動の「経験の概念」に批判的検討を加えるためであった。カントの「純粋理性批判」の経験概念があまりに低い次元を対象としていることを批判した。1925年「来るべき哲学のプログラム」では、形而上学的な高次の経験を宗教と絡め、宗教の領域を包括した経験に意味を与える認識を問題とした。ベンヤミンは「認識を言語に関係づける」ことによって可能となると考察した。認識の媒体となる言語とは「中動態にあるもの」としての言語である。主観と客観の出来事は言語論(翻訳)の源である。彼は博士論文を「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」であった。この論文の主題は、古典的な形式美の基準に照らして芸術作品の価値を判断するのではなく、作品内部の批評可能性に基づく批評である。初期ロマン主義文学者のフリードリヒ・シュレーゲルは反省の無限の働き自体が絶対者としての現実を創出すると論じ、反省の中に芸術批評を位置づけた。ベンヤミンは「反省とは批評においてたえず再帰的に自己を表現する過程である」という。作品を高次の意味で、すなわち絶対者として芸術との関連で完成させることである。ベンヤミンはこの文芸の発展を「中動態にあるとともに質的」な発展と考えた。中動態にあるものとしての言語の生成過程である。シュレーゲルらロマン主義者は反省の媒体を形成する表現形式としてとくに「小説」を重視した。批評を言語の生成の場とみることで、創作と翻訳に並ぶ位置に批評が置かれた。批評が歴史的な状況と無縁ではいられないことも自覚し、眼の前の時代の危機を見通しながら、その闇の中を生きる道筋を切り開く批評の役割を常に自覚していた。

1919年には帝政が崩壊し、ヴァイマール憲法に基づく共和政が敷かれた。革命を指導したきたレーテを最高指導部とする試みは、社会民主党指導の武力弾圧によって抹殺された。スパルタクス団に拠ったローザ・ルクセンブルグやカール・リープネヒトらは虐殺された。こうして人民革命はが潰えて、ヴァイマール共和国もインフレを抑えられなかった。こうした1920年ごろの不安定なドイツの状況を見ながら、ベンヤミンは「暴力批判論」を書いた。暴力の法と正義に対する関係を明らかにする目的で書かれた。暴力を正当付ける暴力として行使される法の力を問題とした。なかでも人間を神話的な運命の下に置くことが批判の焦点になった。ベンヤミンは「運命と性格」の中で、法の秩序が神話の残滓であることをテーゼとした。「運命とは、生ある者の罪責の連鎖である」と、断罪が神話的な自然的かつ神話的な世界の中の運命として宣告されるのである。神話的な世界が存続し、その秩序を貫く力が正義と同一視されてゆく。こうしてベンヤミンの暴力批判は、正義と法秩序を混合することに批判を向けた。法の秩序は、正当化できない暴力によって作られ、自己の権力を志向するのである。法的な秩序維持のための警察権力の行使はあらゆる市民生活に恣意的に介入し、死刑の執行は最も秩序を強化する手段であり、自己権力の陶酔である。人為的な秩序のために生あるものが犠牲になる歴史、この神話としての歴史の連続を断ち切る可能性をめざすのである、ベンヤミンの暴力批判は、国家権力の廃棄を見据えた歴史の哲学である。

ベンヤミンは、1922年ゲーテの小説「親和力」についての評論を開始し文芸評論の第一歩を踏み出した。男女間の相愛(今でいうと不倫)関係を描いている。この関係は評論を書いたベンヤミンにも相当した。当時高名を博していた作家との接点から文芸批評家としての活動を築く一方、教授資格申請論文として「ドイツ悲劇の根源」を書いた。この論考でベンヤミンが取り上げているのは、17世紀のドイツ悲劇作品である。30年戦争(1618-48年)という歴史的事件を題材とした、人間の悲惨である。ギリシャ悲劇のような神話に題材を取った、英雄の崇高な出来事ではない。歴史に翻弄される人間の悲劇を浮かび上がらせている。このようなバロック悲劇が描き出す歴史をベンヤミンは「自然史」用オブ。自然と歴史が交錯する事態を背景とする。バロック悲劇作家にとって歴史とは、ひたすらに破局を重ねてゆく歴史であり、その舞台はいつも廃墟である。世界の受難史を表すために多用する比喩表現が「アレゴリー」である。状況の付置が示す人間関係を、「悲劇は英雄を知らず、付置しか知らない」に置くのである。悲劇の理念は「名」としての言語を媒体として、登場人物の付置を描くことにある。これをベンヤミンはモザイクに喩える。17世紀に悲劇を書き綴ったメランコニー(憂鬱)をたたえたまなざしの下で、現在が破局の現場となって照らし出される。近代の歴史を現在に至るまで透視しながら、それを貫く破局の中で発揮されないままに忘れ去られてきた可能性を、根源から呼び覚ます歴史認識を提示した。この歴史認識はパリのパサージュー(アーケード街)の方法論にも受け継がれた。ベンヤミンの言語哲学と歴史哲学、そして美学の結節点を形作るとともに、彼の人生の重大な転換点にもなった。しかし彼の論文は賛同されないまま宙に浮いた。

5) 芸術の転換(美学)

ベンヤミンはナポリの南の島カプリ島はドイツの知識人の避難所になっていた。1924年の半年間ベンヤミンは滞在しそこでピロレタリア演劇特に子供向け演劇の演出家ベルハルト・ライヒに出会った。そこで共作「ナポリ」を創った。アルプス山脈の南は空間と時間の双方が「多孔的」な街で、生そのものが多孔性を帯びる。この町では多孔性が正の法則となっていることを洞察した。人類は今新たな技術によってひとつの「生体」として組織されようとしている。しかし技術が帝国主義者によって横領されるならば、人類は自己自身を死滅させてしまう。帝国主義者にとって技術とは自然を一方的に搾取するための道具である。この技術を「自然と人間の関係の支配」に転換させ共働関係築くとき、宇宙との交感の中で人類が誕生する。種としてのヒトは何万年も前に進化を終えている。しかし組織された人類という種は発展の始まりにある。ブルジョワジーの廃絶は、技術的な発展の予測可能性の前に終えていなければ、人類は滅亡する。路上の標識を見てひらめいた思考を寓意的に浮かび上がらせる「一方通行」は1924年「シュルレアリズム宣言」の芸術運動へのベンヤミンの関心を示した。それは既知の意味内容と結びついた比喩ではなく、思考の像となって世界像を一変させる可能性である。世俗的啓示において神体空間と造空間が浸透する段階に達したとき、現実はマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」に近づいたと言える。ベンヤミンの念頭にあったのは、その技術を含めた映像技術が身体との交感を触発する可能性が1930年代の映像芸術論となった。芸術作品を媒体に人類が自己自身を解放するような美的経験が、ベンヤミンが言う「知覚論」の美学である。1931年「カール・クラウス」は彼の意表の思考の範型を示す。「全人間。「デーモン」、「間」
の像を軸として彼の文芸活動を寓意的に表している。「全人間」が表す倫理観の偽善性を暴く役割として「デーモン」のクラウスを立たせている。悪魔的破壊の中で言葉が根源として語りだされる出来事を「間」と規定した。デーモンの支配者は新しい人間ではなく、間であり、新しい天使である。バロック悲劇では髑髏と天使の像に集約されるアレゴリーの特徴は、破壊を徹底させた末に、ある新生への反転と呼応している。髑髏は「世のむなしさ」の寓意的なるアレゴリーである。

ベンヤミンが「ドイツの悲劇」において、アレゴリーという寓話的表現を多用するのは、歴史を「世界の受難史」とみることからきている。破局に破局を積み重ねる歴史こそがドイツバロックの高貴な材料となっている。版画家デューラーが「メレンコリアー」に形象したように、謎めいた事物に取り囲まれた「死んだ文字」から、アレゴリー的なものから新たな生命を誕生させる。アレゴリーにおいては、具象的な表現が意味に昇華されることはない。バロックのアレゴリーは象徴とは対照的なものである。悲劇のアレゴリーもまた「慣習の表現」の側面を持っている。書かれたものは像であることへ進む芸術象徴に対して、アレゴリーという文字像として姿を現すのである。意味に昇華されえない文字に悲哀を鬱積させながら、絶えず滅びつつある被造物を、知のうちに拾い上げることである。バロック卑下五作品は絶望的な救済である。ベンヤミンは19世紀半ばのボードレールの詩作に、バロック時代のアレゴリーを見ている。フランス第二帝政期のパリにボードレールはアレゴリーを駆使して詩を綴った。「悪の花」でも「狂気」、「倦怠」などの語を寓意的に読ませている。ボードレールは「憂愁」のなかで恒常的な破局を見るだけでなく、激しい破壊衝動を示した。此処でアレゴリーとは、資本主義社会の経済過程で捨て去られる商品を寓意化して出現させて救い出す寓意像である。ボードレールのアレゴリーは都市の廃墟を見せつけながら、資本主義の解毒剤足らんことを志向しているベンヤミンは見たようだ。1920年代後半から30年代初頭にかけてベンヤミンは膨大な書評を残した。ベンヤミンは長編小説という形式を、口承に起源をもつ叙事詩的物語と対照させながら近代的形式を際立てさせた。1923年ドイツでラジオ放送が開始され、ベンヤミンも多くのラジオ番組制作に参加した。ラジオ番組の制作に携わったことで映画を始めとする大衆的なメディアの可能性に関心を持った。1931年「写真小史」で述べているように、1回きりの「アウラ」の崩壊や、無意識の織り込まれた空間を認識した。器械装置を通じて写真に焼き付けられた細部が亡霊のように回帰する、生活状況の文書化として芸術の集団性を述べている。

1920年代後半の「シュルレアリズム」の中で、ベンヤミンは芸術と技術の関係に深い関心を示した。写真入りの印刷物や映画が普及するなか、芸術作品は技術的に複製された映像の形で大衆に享受されるようになった。1935年の「技術的複製可能性の時代の芸術作品」はベンヤミンを代表する著作となった。感性的な経験の歴史的な変質を踏まえた美学を論じた。視覚的・触覚的な伝統美は、近代機械文明が都市生活を規定するという社会の変動のなかで、知覚はショックというセンセーショナルな刺激を求めるようになった。このような歴史的状況の下、殿という多岐な芸術の作品も技術的複製の形で鑑賞される。ベンヤミンは「遠さが一回的に現れる」と定義する「アウラ」は、技術的複製が可能な時代には消滅せざるを得ない。「アウラ」の凋落は、技術的複製可能性の時代の芸術作品をも変質させずにはおかない。映像芸術特に映画は技術的に制作されるので、制作集団は対象の中に入り込んでゆく。そこに無意識性が織り込まれるのである。映画を見る空間、それはショック衝撃的であるほかない。日常性から解き放たれた映像の「遊戯空間」で大衆は階級意識に目覚めることもある。ベンヤミンはチャップリンを高く評価し、これを鑑賞する大衆はファッシズムの「政治の審美主義化」によって集約化される大衆とは対照的である。しかし映画が大衆の意識を鈍化させ消費主義に導く「文化産業」となる危険性の方が高い。
1933年1月30日政権を掌握したナチスが、2月27日に起きた国会議事堂放火事件を利用して反対勢力の弾圧を強め、ベンヤミンは亡命を余儀なくされた。彼の亡命に手を貸したブレヒトは1933年デンマーク郊外にベンヤミンを招いた。ブレヒトとベンヤミンは共同で雑誌の発刊を計画したが挫折した。ブレヒトに影響されて、ベンヤミンがプロレタリアートの批判的潜在力を過信したためである。

(つづく)




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