ブログ 「ごまめの歯軋り」

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死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月31日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第16回

Ⅱ.原民喜著 小説集「夏の花」岩波文庫(1988年6月)(その9)

Ⅲ.詩「燃エガラ」
夢ノナカデ 頭ヲナグリツケラレタノデハナク メノマエニオチテキタ クラヤミノナカヲ モガキモガキ ミンナモガキナガラ サケンデソトヘイデユク シュポトオトガシテ ザザザザトヒックリカエリ ヒックリカエッタ家ノチカク ケムリガ紅クイロズイテ 川岸ニニゲテキタ人間の アタマノウエニアメガフリ 火ハ向岸ニ燃エサカル ナニカイッタリ ナニカサケンダリ ソノクセヒッソリトシテ 川ノミズハ満潮 カイモクワケノワカラナヌ 顔ツキデ男と女ガ フラフラト水ヲナガメテイル ムクレアガッタ顔ニ 胸ノホウマデ焦ゲタダレタ娘ニ 赤と黄色ノオモイキリ派手ナ ボロキレヲスッポリカブセ ヨチヨチアルカセテユクト ソノ手首ハブラント揺レ 漫画ノ国ノ化ケモノノ ウラメシアノ格好ダガ ハテシモナイハテシモナイ 苦患ノミチガヒカリカガヤク

Ⅳ.エッセイ 「戦争について」「平和への意思」
「戦争について」: コレガ人間ナノデス 原子爆弾ニヨル変化ヲゴランクダサイ 肉体が恐ロシク膨張シ 男モ女モスベテヒトツノ型ニカエル オオ ソノ真黒焦ゲノメチャクチャノ爛れた顔ノムクンダ唇カラ漏レテクル声ハ「助ケテ下サイ」 トカ細イ 静カナ言葉 コレガ 人間ナノデス 人間ノ顔ナンデス
原子爆弾による地球大破滅の縮図をこの目で確かに見てきた。人間は戦争と戦争の谷間に惨めな生を営むのみであろうか。
「平和への意思」: 戦災死を免れた我々にとって「平和への意思」は繰り返い繰り返しなさなければならない。1945年8月6日広島の惨劇を体験してきた私にとって8月6日という日が巡り来ることは新たな戦慄とともに烈しい疼きを呼ぶ。三度目の夏(1947年)に何がお前に生き延びさせようと命じたのか、答えよ、答えよ、その意味を語れ。原子力兵器が今後地球で使用されるなら恐らく人類は滅亡するだろう。一人の人間が戦争を欲したり肯定する心の根底には、何百万人が死のうと自分だけは助かる(逃げられる)という気分が支配している。平和の擁護、平和への協力は耐えざる緊張と忍耐が必要である。この地獄と抵抗して生きるには無限の愛と忍耐が必要である。

(つづく)

 

死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月22日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第15回

Ⅱ.原民喜著 小説集「夏の花」岩波文庫(1988年6月)(その8)

Ⅱ-3.氷花

戦後東京に出てきて三畳足らずの板敷の部屋に居ると息が詰まりそうになるので、よく街を歩いた。「僕を入れてくれる屋根はどこにもない、雨は容赦なく僕の目に沁み込むのだ」という読んだ文句がそのまま自分の身になっていた。「今コンクリートの上で死んではならない、今は死んではならない」と思うが、彼を支えている板敷は今にも墜落しそうで木っ端微塵に飛び散るものの幻影があった。彼が原爆で受けた感動は人間に対する憐憫と興味といっていいくらいだった。急に貪婪の目が開かれ、彼は廃墟の中を歩いて人間を観察した。これからは百姓になるか闇屋になるかしなくては生きてゆけないと、実家の社員だった者が百姓になって言う。人間万事からくり一つと割り切って金の力で生きてゆく貪欲さが彼には無かった。長兄や姉は彼にこれからどうするとか再婚しろとかいうので近いうちに東京へ出たいとあてのない返事をしていた。大森の知人が宿が見つかるまでおいてやってもいいというのを真に受けて東京行きの列車に滑り込んだ。東京へ出て先生に就職のあてを相談すると、慶応義塾大学付属の夜間学校の講師の口があった。サラリーはわずかで生活は食うや食わずであった。夕方の通勤の電車はものすごい混みようでこれで彼は体力をなくすのであった。かれは「新びいどろ学士」という小説を書こうとした。壊れやすいガラスでできた人間つまり彼のことである。DDT散布で殺されそうになり、恐ろしく繁雑で人間関係の強い力に耐えられないかれの脆い(繊細な)精神は何時でも毀れる予感に満ちているという話である。病院にゆくと医者は栄養と静養第1、白血球数4000、体重37Kgで用心しながらやってゆくしかないと言われる。今書きたくてうずうずしていると友人に相談すると、書くだけの体力がないという。といって飢餓線上を救う手立てはないのだが。蔵書をもって古本屋に通う。夕方5時半からの勤務なのに、彼は三時ごろから歩いて三田に向かう。秋の日が沈んでゆく一刻一刻の変化が涙を誘うばかりに心に迫ることがあった。心を潤すもの、彼はしきりに今それを求めていた。無性に郷愁に突き落とされていた。石炭不足のため汽車は8割減の運転の中、倉敷にいる姉(このモデルは彼が中学生のころ亡くなった最愛の姉ツルのことだと思う)を訪れた。3年生の姪が讃美歌「諸人 こぞりて 讃えまつれ」を謳うのを聞いた。翌日広島に降りた。駅前にはバラックの雑踏がが続いていた。長兄の家に泊まり次の日原爆の後一度も行っていない妻の墓を訪れた。途中次兄のバラックの家を訪れ、川口町の姉を訪れた。慌ただしい旅を終えて東京に帰ると、彼の部屋はシーンと冷え切っていた。夜具にくるまって旅のことを回想すると、倉敷の姪の讃美歌を思い出し姪の成長の夢を見るのであった。

(つづく)

死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月21日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第14回

Ⅱ.原民喜著 小説集「夏の花」岩波文庫(1988年6月)(その7)

Ⅱ-2.昔の店

これは原民喜(小説では清三という名前)の父親と幼少(小学生)のころの思い出である。父は大正6年(1917年)で胃がんで亡くなっている。そのとき民喜は12歳であったが。ここに一枚の古い写真がある。静三が学校から帰ってきたとき、お店の笹岡がお店の間で静三を撮った写真である。この朦朧とした写真は昔の雰囲気を懐かしく伝えていた。簷の上には思い切り大きな看板が2階を目隠しするように据わっていたが、四角形の大きな門灯、店の前には軒から吊るす4つの板看板が並んで、路上には台八車が一台停まっていた。そこから薄暗い店の奥を思い出すことができる。父や店員たちが並んでいた場所は、正面の土間の脇にありその板の間にはズックや麻布が積み重ねてあった。往来に面した側はガラス張りで、外から赤いメガホンや箒や物差しが乱雑に片隅に立て掛けてあった。その反対側の土間には秤や釘箱や自転車の空気入れが置かれ、荷物が道路にはみ出していた。そこに自転車が停めてあった。正面の土間には椅子が2,3脚、板の間の上がり口には真四角な木の火鉢が据えてあった。荷馬車が到着すると土間は荷物でいっぱいになる。すると二階の天井板が外され綱が下りてきて滑車で荷物を引き上げた。静三らにとってこの綱は店が引けた後格好のブランコとなった。遊び場に変身するのだ。荷物の山は天井まで届きそうなことがった。そのてっぺんに上がると静三は何か歓呼の声を出したくなる。すると弟の修造が下から這い上がってくる。二人の冒険と空想のひと時が過ぎてゆく。店の看板は「帝国製麻株式会社取次店」とか「日本石油商会代理店」という文字が彫込まれている。夕刻には板看板は丁稚が取り外し土間に置く。それは静三らにとって滑り台、橋になるのである。簷の四角形の門燈がともるころはもう夜の領域である。毎晩変わった劇が演じられた。王様ごっこ、猛獣狩り、兄の敬一、弟の修造、お店の丁稚も加わった。庭の闇は静三に恐怖を抱かすこともあった。板の間に置かれた商品がそのまま遊び道具になった。ここでは幻燈会が催されることもあった。父が大阪で買ってきたもので、いろいろな絵を差し替えて世界が替わる。修造は近所の友達を呼んできて始まる前から興奮気味であった。電話室の脇にある戸棚の引き出しには、ボタン、腕章、襟章らが詰められていた。軍人さんの勲章好きとおなじ子供心が興奮するのである。店から工場への4、5町の距離が楽しかった。工場の粗末な門をくぐると前が花畑になっていた。ここには静三が幼い時から数えきれない記憶があった。門の横にある物置小屋、黒いトタン屋根の縫製工場には高い棟の下の数台のミシンの響きと女工の乱れた髪を静三は良く知っていた。工場の裏の空き地の叢は遊び場であった。その叢から土手になって川が見えた。あの辺りがあんなにも素晴らしく思えたのはそっくり父の影響だったかもしれない。工場の地続きの土地に借家を何件も持ち父もそこへ行くと何か解放された気分になるらしく、父と子の距離は縮まった。しかし店の奥にいる時の父は近寄りがたい存在であった。父の部屋は事務室の隣にあった。静三は母のいいつけでよく3時に牛乳を父の部屋に運んだ。父は病弱で陰気な顔であった。しかし休業の日に父は息子3人を連れて郊外に昆虫採集に出かけた。事務所で夜遅くまで夜業が行われ燈がともっていることもあった。仕事が終わると皆ほっとくつろいで、笹岡や吉田らが帰り支度をした。仕事が終わる夕方笹岡が静三を呼んで橋の方へ行き舟に誘導された。それは畳を敷いた牡蠣船で父をはじめ店の人が集まっていた。お店は大正3年(1914年)のころから大分模様替えがなされ、事業規模が拡大していったようであった。部屋にストーブがたかれ、父は新しい背広を誂えた。つまり戦争景気ではぶりがよくなってきたのである。川の近くにあった縫製工場が店の近く引っ越してきたので店は急に賑やかになった。翌年父が病気になり大阪で療養していたが、家に帰ると様態が急変し帰らぬ人になった。父の葬儀にお供えされた米俵は街の貧窮者に分けられた。義米の配分ともいえる行為であった。父の49日の日に大勢の人が集まったが、ちょっとしたことで静三と修造が喧嘩になった。酔っていた店の吉田が仲裁に入ったが、静三を投げ飛ばした。何度も挑んだが吉田に跳ね飛ばされた。兄の敬一が静三をしかりつけたので、それ以来静三の世界は引きちぎられ、お店の思い出も味気ないものになった。あとで考えるとこのころを境に静三は日向から日陰に移されたような気持ちになった。父が生きていた時は、店の者が密接なつながりをもって生の感覚と結びついたのであるが、父の死後兄弟間の序列に変化が起き静三は外された感が否めなかった。兄の敬一は東京の学校に行っていたし、店のことは代表社員の伯父が母の処に相談に来ると静三は隣の部屋で不安に襲われた。彼はもう店の誰とも口をきかなくなっていた。店の由来が陸軍御用達商として発展してきたことが静三にとって厭わしく思えてきた。東京で学校を終えた兄敬一が戻ってくると間もなく結婚して2階に住み、社長としてお店に出るようになった。代表社員の伯父はすぐ店を止めて、兄はその粉飾決算を非難していた。母ムメが亡くなったのは昭和10年であった。母の2回忌のころから急に注文が殺到し、戦争景気で店は拡大した。従業員も増え、モーターミシンが設備され残業も続いた。しかし次第に景気は下火となりやたら統制や規制で営業の様子は随分変わった。昭和19年創立50周年記念祝賀会が行われ、その式典の最中空襲警報が鳴った。(これから先は小説上のつじつま合わせに過ぎず、事実ではないので省略する。そうしないと年譜を読んだ人が混乱するからである)

(つづく)

死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月20日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第13回

Ⅱ.原民喜著 小説集「夏の花」岩波文庫(1988年6月)(その6)

Ⅱ-1.小さな村

これは戦後の疎開先の村のことである。青田の上の広い空が次第に光を失っていた。村の入り口は三方に別れ家並みが途切れ国民学校も門が見え村役場の小さな建物があった。田の中を一筋に貫く道はまた家並みがあって微かにモーターの音が響くある軒先に荷馬車は止まった。出てきたのは製粉所を営む深井氏である。その製粉所の三軒先の農家を借りる約束になっていた。次兄の家族と妹と正三の私が二昼夜の野宿の挙句たどり着いた場所がそれである。深井氏はせっせと世話を焼いてくれた。村役場に転入の手続きをしにゆくと頭の禿げあがったぼんやりした目の老人が書類を受け取った。帳面に何やら書き込んで転入手続きは済み米穀通帳その他はその日から村で通用することになった。広島で被爆してから5日目に(この村に来てから4日目に)男が死んだ(工場の使用人か?)。村人に手伝ってもらい山の中腹にある火葬場に運んで遺体を焼いた。米穀通帳をもって農会に出かけると、お金を出せば物が買えることに妹は驚いた。復員青年もぽつぽつ現れた。村役場の爺さんは荷馬車で朝早く玩具を貰いに出かけた。宣撫用として永く軍の倉庫に眠っていたものを吐き出すというのだ。近くの婦人らはお米の一升でもくれたらとあまり喜ばなかった。そして軍から引き渡された物品が隣組長のところで配給されることになった。なんだか使い道のないものばかりであった。或る夜人が階下で呼ぶ声がするので、出てみると、「あなたの処はどうして当番にでないのか」と詰問された。国民学校の校舎が重症者の収容所に充てられ、から2名づつ看護に出ることになっている、次兄の嫁は、死にそうになっている息子がいて、次兄も火傷で動けない、妹は留守だと言い訳をしたが、義務を果たさないものには配給もやらないと怒鳴り散らして帰っていった。それからは罹災者の弱みを持つ私たちは戦々恐々として村人の顔色を窺わなければならなくなった。村人は街のものに何か敵対心のようなものを持っているようだった。たしかに農民の複雑さは理解が困難である。役場の空き地で油の配給が行われた。そこへ村長があらわれて悠然と皆を見下ろして、油をあげた分この次には働いてもらわねばと嫌味たっぷりに話しかけるのであった。1戸ごとに勤労奉仕が課せられ、校庭の後ろに立つ崖の切り崩し作業であった。お粥腹では力が出ないという親父もいた。向うの低い山のは見る角度でいろいろな表情を見せる。真ん中が少し窪んでいるので何か巨人の口に似て、やはり巨人の口もひもじそうであった。兄嫁と私は薪をくれるという人の家に出かけた。崖の下に川が流れその向こうに農家が見える。一本の朽木の橋を渡らなければならない。負い子を貸してもらって二把の薪を積んで私は橋を渡り、そのおじさんは二把を手に橋を渡った。村から長兄が仮寓する家は川に沿って約一里半あるが、何か食わしてもらえるのでよく通った。ひだるい思いが今も消え失せない。そして帰り路がまた侘しかった。罹災以来私と一緒にいた妹は他に移り、それと入れ替わりに次兄の二人の息子が学童疎開から戻ってきた。長兄は姿を現しては一体どうするつもりかと催促気味に尋ねられるのがつらかった。私は降りしきる雪のなかを何か叫びながら歩いているような気持ちであった。早くこの村を出なければ、だが汽車は制限されているし、東京への転入はすでに禁止となった。駅では送る荷物をかっさらう強盗団がでるというはなしでどこを向いても路は暗く閉ざされていた。一年ほどお世話になった深井氏のお別れのあいさつに出かけた。深井氏は1945年1月京城を引き上げ広島市にそしてこの村に来た人で先の見える人であった。この人のおかげで生き延びたような気がする。東京に出てきた私は忽ち幻滅を味わった。私を待ち伏せしていたのは飢えと業苦の修羅でしかなかった。私は今でもひもじい侘しい路を歩いているようだ。見捨ててしまえこんな郷土はといつも叫んでいる。

(つづく)

死と愛と孤独の詩人 「原民喜」

2020年01月19日 | 書評
民喜と貞恵

繊細な精神は過酷な運命を生きた 死と愛と孤独の文学  第12回

Ⅱ.原民喜著 小説集「夏の花」岩波文庫(1988年6月)(その5)

Ⅰ-3.壊滅の序曲 (その2)

長兄は疎開の荷づくりに余念はなく、家の中はきちんと整理した。長兄の持ち逃げ用のリュックには食料品が詰め込まれ、鼠にやられないよう天井から紐で吊るしてあった。定期乗車券は手に入れ米は事欠かないよう流れ込む手筈であった。妹泰子は病弱な夫を死別し幼児を抱えて長兄の家に移り住んでから、人の気持ちを推測することだけは巧みになり世渡りはうまくなった。30も半ばとなってふてぶてしいものが身についてきたようだ。妹は本家の台所を預かるようになって、長兄の子つまり甥の中学生は妹によくなつき、学徒動員の三菱工場から帰ると棚の中に蒸しパンやドーナツが拵えてあった。妹も甥も太ってきたほどだった。戦況はドイツは無条件降伏をし、日本では本土決戦が叫ばれ、築城・竹槍という時代錯誤な言葉が飛び交った。嘘でもいいから空元気で話さないと世間が許さないようである。なんと愚劣なことが横行する世の中になった。日本の軍人の頭の中はその程度のものであった。そのころ正三は持ち逃げ用の雑嚢を欲しいと思って、生地を求めて長兄順一の家に行ったが、商売のリュックならいくらでもあるがいって取り合ってくれなかった。そこで次兄清二の家に行き小さなカバンにちょうどいい生地を手に入れた。そして妹泰子にカバンの制作を頼んだ。妹は逃げる事ばかり考えてどうするのと皮肉を言う。京浜地方にB29が500機来襲したことを夕刻のラジオが伝えていた。東警察署の2階で市内の工場主を集めて防空対策の訓示が行われたので代理として正三は出かけた。警察官は空襲より流民(避難民 疎開者)の心配をしており、空襲は簡単に防げると講釈する。体格の立派な男だけならいくらでもいた。このような難事にあたって警官の頭の中は空っぽで何も真剣に考えていないのであった。正三は、マリアナ基地を飛び立ったB29の編隊は北上し八丈島のうえで2手に別れ、一つは富士山の方関東ら関東地方に向けて旋回し、他方は熊野灘に沿って紀伊水道から阪神地方へ向かう。さらにその中から数機が室戸岬を超え土佐湾に入り四国山脈を越えると鏡のような瀬戸内海に出る。島々を下に見ながら広島上空に向かって旋回する空想を思っていた。琉球列島の戦いが終わったころ、岡山市に大空襲があり、6月30日夜呉市が延焼した。縫製工場には泰子と正三と甥の三人が住んでいたが、警報の度に庭の防空壕にもぐりこんだ。長兄はもはや踵に火がついている、一刻も早く工場を疎開させると宣告した。工場のミシンの取り外し、荷馬車の申請を県庁に行い、家財の再整理など要件は山積みだった。7月に入って広島の空襲の噂がたった。そのころ正三は1階で寝るようになった。ラジオが土佐沖警戒警報から高知県空襲警報を告げた。正三はゲートルを巻いて雑嚢と水筒を肩に清二の家に急いだ。清二らはすでに逃げた様子で栄橋から饒津公園、牛田の堤まできた。彼にすぐ前に避難中の一群に遭った。しばらくすると空襲警報は解かれ堤の上の人々は引き上げていった。軍と警察は防空要因の疎開を認めず街を死守させようとしたが追い詰められた人々は巧みに逃げた。正三も7月3日から8月5日の晩まで、土佐沖警戒警報がでると身支度をはじめ広島県の警戒警報が出る頃には玄関先で靴を履いた。妹泰子も同じである。空襲警報がうなり出す頃は街の中を清二の家に向かって逃げ出していた。警防団に見つかると怒られるが、小さな甥を楯に遁れた。この戦争が本土決戦に移り、広島が最後の牙城となるなら、自分は戦うことができるだろうかという妄想が渦巻くのである。本家の工場疎開は父として進まなかった。運ぶ荷馬車が獲得できないからだ。それでも荷馬車が畳なども運び出した後のがらんとした景色は、いよいよこの家の最後も近いようだと悟らせた。宇部などには重要工業地帯があるが、広島には兵隊が居るだけで工場も少ないから空襲はないだろうという楽観論もあった。せめて小さい子供たちだけでも疎開させたらと泰子が言うが、清二は乗り気ではなかったが、長兄の順一の骨折りで田舎に一軒借りることができた。しかしすぐに運ぶ荷馬車がない。こうしてしばらくは疎開の準備で家の中はごった返した。それだけでなく家の強制取り壊し地区になったという。ところが市会議員の田崎という者がこの建物疎開(取り壊し)計画の張本人だというので、談判に出かけてこの件を取り下げることにさせた。原子爆弾がこの街を訪れるには、まだ40時間あまりあった。

(つづく)