ブログ 「ごまめの歯軋り」

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慎改康之 著 「ミッシェル・フーコー」

2021年09月14日 | 時事問題

慎改康之著 「ミッシェル・フーコー」 自己を逃げ出す哲学
岩波文庫 (2019年10月刊)
第1章 人間学的円環 「狂気の歴史」とフーコ―の誕生 自明であると思われることを問い直すことを特徴とするフーコ―の歴史研究が開始されたのは、1961年ソルボンに大学に博士論文として提出された「狂気の歴史」以来の事である。この論文がフーコ―の処女作となった。フーコ―にとって自分自身からの離脱の最初の契機、根本的な契機となった。そこでそれ以前のテキスト(1950年代)を「前フーコ―」と特徴づけ、この問題を投げかけることでフーコ―は何を研究の軸にしたのかを振り返っておこう。フーコ―はそのキャリアーを心理学者として開始した。1946年エリート校パリ高等師範学校に入学し、1948年に哲学学士号をソルボンヌ大学で受け、翌年心理学学士号を得て1951年より高等師範学校で心理学教師となり、1952年リール大学の心理学助手となった。5年間国外に留学し、1960年にクレルモン=フェラン大学で心理学講師を務めた。1950年代はまさしくフーコ―は心理学者として専念していた時期であった。1954年ルートヴィヒ・ビンスワンガー著「夢と実存」の序文を書き、学生向きに小著「精神疾患とパーソナリティ」というテキストを書いた。 精神病理学者であるビンスワンガー著「夢と実存」序文において、フーコ―は「世界内存在」としての人間の実存という現象学的ないしは実存主義的着想を念頭に置いた。人間学的探究を師ビンスワンガーと同じく「夢」に問うた。夢が「私的世界」であるとして、主体の自由と世界の必然を同時に示す道義性を持つ。夢は全面的に自由な人間主体が、必然に支配された世界に自らを投げ入れるという、実存の根元的な運動を解読する手がかりを与えるだろうと考えたのである。精神分析学による夢解釈とは、覚醒した意識に与えられた夢の顕在的内容から出発し、帰納的なやり方で夢の潜在的意味を再構成するものであるが、フーコ―は夢の意味を内側から構成する表現の働きと、その意味を外側から指し示す指標的機能は違うものである点から出発する。フッサールの現象学は、「表現」と「指標」を区別するべきだという。しかし内から外へ向かう夢の形成メカニズムは、覚醒した意識から失われている。問題は失ったものをどのように回収するかということである。 「精神疾患とパーソナリティ」は第1部に精神の病気がどのような心理的要素からなるか、第2部に現実の社会における様々な矛盾の経験に結びつけるものである。フーコ―は精神の病のメカニズムを「退行」、「防衛」、「病的世界」という3つの心理学的要素によって特徴づけた。「病的世界」は自分自身にとってのみ近づき得るものであると同時に自分自身の放棄を意味する。病的世界に個人が閉じ込められ「退行」するのは、子供が必要以上に社会との壁をこしらえてしまったためである。このように失われた人間性を取り戻すこと、病を克服するために人間を「脱疎外」することが必要だという。この二つの「前フーコ―的」テキストは当時のフランス社会の支配的風潮に全面的に依拠している。人間主体の自由を絶対的な出発点として人間の実存に関する問いに解消するならサルトルの実存主義となり、構造主義にとってかわられた。現実の社会における疎外とその克服というテーマは、人間主義的マルクス理解を根拠にするならばヒューマニズムとマルクス主義という所期のマルクス著作を踏襲するに過ぎない。時代はそのように動いており、それに連動してフーコ―も自分が固執していたものから根本的に異なる者に移ってゆくのである。 フーコーは1955から1958年までスウェーデンのウプサラで「狂気の歴史」をほぼ完成し、1961年書物として刊行し、ソルボンヌ大学博士号を取得した。精神の病と歴史及び社会との関係をであった。西洋において狂気と理性との分割はどのようになされ、狂気は病という唯一の形象に還元されたのだろうかというテーマであった。とりわけフーコ―は17世紀から18世紀の「古典主義時代」の監禁制度の創設とその変遷に注目した。17世紀、理性が完全に狂気を退けたのである。モンテーニュは、人間は神ではないのだから、理性と狂気の間に絶対的な線引きを行わなかった。デカルトは「省察」に語るように、狂気が理性に影響する懸念は払しょくされている。理性的省察の主体においては、狂気はあらかじめ理性の外に置かれた。フーコ―は理性の勝利を合理主義の進歩によるなどという説明は採用せず、それはヨーリッパ全土における監禁制度の創設であるという。16世紀から17世紀初頭にかけて狂気は日常生活の中でよくあった。狂者は自由を享受し街を徘徊していたという。17世紀中頃から大規模なやり方で監禁施設が設けられ、貧者、物乞い、性病患者、禁治者、痴呆者らを一緒くたに監禁していた。当時形成されつつあった資本主義社会にとっての邪魔者(無能者)を集めて隔離したのである。フーコ―はデカルトのような理性と狂気に分かつことなく監禁制度の変遷を見てゆく。18世紀半ばになると、政治的、経済的な理由で監禁施設は次々と解体され解放されたが、狂気だけは社会にとって危険であるとされ監禁の対象となった。狂気はついに精神の病という唯一の形象に還元された。監禁空間が狂者専用となって、そこへの収容が狂気の理由を研究し、狂気を治療に導く医学的な価値を帯びていった。監禁空間の再編成の中で、狂気が医学化され、客体化され、内面化された。狂気は以降、客観的に把握可能な精神の病として表面化した。狂気をめぐる新たな考えが、実は知の固有の領域における「一つの隠された整合性」をよりどころにしているとして、「人間学的思考」が健在化した。 18世紀末に狂気は一つの客体として人間の認識に曝されるようになったとフーコ―は主張する。「人間から真の人間に至る道は狂気の人間を経過する」というわけである。狂気が人間本来の主体性喪失をその本質とするならば、「真なる存在」としての人間は疎外という形態においてしか与えられない。「狂気の歴史」は19世紀以降に狂気が人間認識のために果たした役割が、一つの人間学的公準に準拠する。その公準とは「人間存在は、一つの真理を与えられると同時に、隠された形で自らに固有に帰属するものとして保持する」というのである。人間に関する探究において喪失したものを回収するという任務が可能となる。ではそれがどのようにして構成されたかは、1966年「言葉と物」において取り組むことになる。「狂気の歴史」とともにソルボンヌ大学に提出された論文はカントの「人間学」への序論である。この序論において、フーコ―はカントが告発した「超越論的錯覚」から派生した「人間学的錯覚」を問題とした。カントが認識にとって不可避なものとみなした「自然な」錯覚が、意味が移って有限な人間の本性とみなされた。超越的錯覚がいわば「真理の根源」のようなものになってしまった。人間と真理を取り結ぶ関係の基礎にある者は「有限性」である。こうして人間学的錯覚のなかで、人間の有限性をめぐる際限のない議論が繰り広げられた。批判哲学と人間学的探究の結びつきを指摘し、人間存在を「現存在」と名付けたハイデガーは、人間の根源的有限性の問題化をカント哲学の本質的帰結と意義付けた。1961年の「カント論」はハイデガーに対する根本的な異議申し立てであった。これはカント哲学のみならず西洋哲学に係わる「人間の出現」、すなわち人間学的思考の歴史的考察となった。1950年代のフーコ―が探究していたものは、人間主体から逃れ去るものの回収という人間学的研究であった。1961年以降のフーコ―は人間存在に絶対的な特権を与える探究から距離を取り始める。 (つづく)

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