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法事に帰郷 - 来迎寺の縁起

(来迎寺本堂)

土、日は法事があって、生れ故郷に、女房と行ってきた。昨日は、お昼に京都で長兄と合流し、JRのきのさき5号に乗り、山陰線豊岡駅に降り立った。雪は少し消え残ったところに、前夜降った分だと思われる雪が、針葉樹上にまだ落ちずに残っていた。通りにはほとんど雪は見られなかった。駅前のビジネスホテルにチェックインして、一休みの後、在所に行った。長兄も歳を取って、無理は出来なくなっている。夕食は次兄の知り合いのお寿司屋さんで、長兄、次兄と我々夫婦の4人で摂った。

ビジネスホテルでネットに繋ごうとして、ネット接続のコードを持って来なかったので、ホテルのルーターに繋げられず、ブログの書き込みを断念した。おかげで早く寝ることが出来た。


(古い来迎寺の鳥瞰図)

今朝は菩提寺の来迎寺で、お袋の一周忌と、親父の十七回忌の法事がある。朝、在所に出向き、喪服に着替えて、お寺に出掛けた。お寺の玄関に古い来迎寺の鳥瞰図が飾られていた。扇のデザインにされたものような形であった。中に、来迎寺の縁起が記されていた。現代表記に代えて以下へ転記してみる。

当山は今を去る1040余年前、すなわち、貞観七年(865)、摂津国勝尾寺、第四の座主、勝如上人の開基にして、往昔、光明堂と称す。その後、700余年を経て、永正の初年(1504)、浄土宗に転じ、天正八年(1580)総本山知恩院二十八主浩誉上人中興第一世となり給うと、時の領主、宮部善祥房、大檀主となりて、七堂伽藍創建全備し、仏光山来迎寺と改称せり。偶々慶長十四年(1609)類煙全焼の災厄に罹り、元禄十一年(1698)再建落成、ほとんど旧観に復せしも、寛政十二年(1800)また類焼のため伽藍烏有に帰せり。文化三年(1806)再び建造竣功す。現今の堂宇、すなわちこれなり。
          兵庫県城崎郡豊岡町    来迎寺


この文がいつ頃のものであるか、計算して見ると、貞観七年(865)が1040余年前と書かれているから、1905年の後、数年の間と考えられる。1905年は明治38年であるから、明治の終わり頃に書かれたものと思われる。

つまり、2013年から計算すると、1148年前に開基され、509年前に浄土宗に転じ、433年前に知恩院が本山となり、仏光山来迎寺と改称された。その後、2度、全焼再建が繰り返され、この文のあとも、焼失、再建があったはずである。なお、宮部善祥房は秀吉の天下統一の時に、当地の領主になった武将である。

いつも感じるが、住職の紀氏隆広氏の読経は朗々たるもので、心に染み入るものがある。
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六郷筋御成りの節、勤め方(1) - 駿河古文書会

(午後1時20分の富士山 - 本日靜岡城北公園)

午後、駿河古文書会へ出席する。本日の課題は「六郷筋御成りの節、勤め方」である。解読することよりも、内容を理解する方が難しい課題であった。11代将軍家斉の寛政10年、将軍が六郷筋に外出される。江戸城から距離にして18キロほど、東海道筋に沿って、馬の遠駆けされるのであるが、将軍が動くという事はとても大変な事であった。

この記録は御供をした御目付の羽太(はぶと)庄左衛門が勤め方を書き残したものである。御成りなどは前例に従うことが多いから、このような手控えが役に立ったのかもしれない。

同十(寛政十年) 九月廿一日
六郷筋、御成りの節、勤め方
                羽太
寛政十午年九月十八日、六郷筋御成り仰せ出され、御供御雇い 小笠原政之助
右御成り、当朝より雨天に付、御延引に相成り、同月廿一日、右御成りこれ有り、御供御雇い、同人勤め、新部屋申し合わせは、十六日に相済み


小笠原政之助は御使番で羽太の上役であるようだ。六郷筋御成りは雨で一度延引になった。

一 廿日、詰め番衆より、手紙にて申し越され候は、明廿一日、六郷筋御成り仰せ出され候由、もっとも御供御雇い入れ候旨、大草大次(郎)申し聞けられ候間、心得のため、申し来たり、かつ別紙にて、明日の義にて懸け合いもこれ有るべき候間、即刻、登城致し候様、申し来たり候に付、罷り出で候処、詰番鳥居権之助殿申し聞けられ候は、先だっても一度御延引に相成り、又候(またぞろ)仰せ出さるるの節、御雇の者、前日罷り出で申さず候処、御目付衆、急度はと申し聞け候えども、前日登城致すべき筈の様に沙汰もこれ有り候に付、登城致し候様、申し越され候由、申し聞けられ候

一 御目付部屋口へ罷り越し、明日御雇い罷り出で候に付、相御供の御目付衆へ逢い申したき段、申し込み候処、又兵衛罷り出でられ、明日の義、承り合い候処、さして替わり候事もこれ無く候えども、片騎馬御供に付、雨天の節、手傘にては、処し計り難く候間、菅笠用意、御場包請け取り候者へ相渡し候様、申し聞けらる外、相替り候義、これ無き由に付、即刻退出

御供の相方は西丸御目付の高木又兵衛で、交代で騎馬で御供をする。高木又兵衛の方が経験豊富で、何事も又兵衛に聞き従っている。騎馬では、傘が使えないため、雨のときのために、菅笠を用意するという。

一 廿一日八つ時出宅、去る十八日の通り、紅葉山下へ相廻り、御成りこれ有り、坂下通り諸事、ここ、浜御成などの通り、相替る儀これ無く候、それより虎御門外にて、又兵(衛)相下られ、騎馬にて御供自分壱人にて、御小休(おこやすみ)まで御供、もっとも、又兵(衛)騎馬に相成られ候節も、自分は御右に立ち申すべきや、と兼ねて承り合い候、その節は御右に付き候様、申し聞けられ候に付、その通り相勤め候


八つ時、午前2時頃に家を出た。18日も、雨天で延引になったというが、すべての準備はしたのであろう。これで、将軍が御成りになったのは何時ごろだったのだろう。「♪お江戸日本橋 七つ時‥‥」というから、午前4時ごろか。季節は秋で、暗いうちに行動するとは思えないから、もっと遅かったのかもしれない。(つづく)
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「駿河百地蔵巡り」の次に歩くイベントは?

(裏の甘夏が実る - 但し収穫にはまだ3ヶ月以上かかる)

先程、お風呂の前に体重を量ったら、71キロを示していた。これは自分の許容体重のリミットである。お遍路から帰ってきたときは62キロだったから、減らす努力をしなければ、恐ろしいことになる。地蔵巡りはあと一度を残して止まっている。一番遠い沼津・三島が残って、寒いことを理由に、何となくぐずぐずと出かけないで、1ヶ月経ってしまった。年が明けてからは、ムサシの散歩以外にほとんど歩いていない。この後、スギ花粉が飛ぶ季節に入るから、行動がさらに鈍る。困ったことである。

同じ道を毎日歩く散歩は、自分の嗜好に合わない。毎回、違うコースを目標をもって歩きたい。一日歩いて20キロほど歩くことを、週一回くらいで続けたい。だから、次々に歩く目標を考えなければならない。そこで次なるイベントであるが、駿河を歩いたから、ターゲットは遠江になる。

最初に思い浮かぶのは塩の道である。2年前の11月に相良から歩き始めて、初回、20キロ、小笠まで歩いた。その第1回を歩いたきりで、そのままになっている。この続きを歩くならば、資料はあるから、すぐにでも可能である。長野県の県境辺りまで、10回、10日くらいは掛るだろう。

次に浮ぶのは、遠江三十三観音と、遠州三十三観音をまとめて回るというアイディアである。遠江三十三観音はその昔仲間4人で10日掛って歩いた。それに遠州三十三観音を組み合わせて、合計六十六ヶ所、これは20回ほど掛るかもしれない。コース取りをどのようにするか、その辺りに妙がある。これもほぼ霊場の所在は分かっている。

三つ目は遠州の地蔵巡りである。駿河百地蔵の遠州版であるが、これは適当な資料がない。調査にしばらく時間がかかるだろう。地蔵信仰は駿河では府中を中心に、鎌倉時代以降、大変盛んであったから、たくさんの歴史ある地蔵尊が残っていた。遠州では駿河ほどの広がりはなさそうに感じる。

四つ目、遠州は秋葉山の地元で、秋葉信仰が盛んであった。街道筋には秋葉灯籠がたくさん立てられ、石の灯籠に立派な屋根を付けた祠をよく見かける。自分の住む町にも秋葉山を祀ったお堂がある。これをつぶさに調べて廻れば、歩く距離がどれくらいになるのか、想像もつかないけれども、分かってくるものがあるかもしれない。これも取っ掛かりをどうするのか、事前の調査が必要になるだろう。

この4案の中で、手っ取り早くは、塩の道の続きを小笠から歩くことだろう。一方で、やはり、スギ花粉の時期は避けたいなどと考えている。
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井の中から見る世界

(裏の畑のフキノトウが顔を出した)

昨日、かつて関与していたお茶屋さんにお茶の注文に出掛けた。一つは季節だから「べにふうき」を買った。いま一つは、お袋の一周忌の粗供養として配るお茶を注文した。久し振りに茶業の様子を聞いた。関東地区のお店で、贈答品として、お茶が苦戦しているという話を聞く。

退職して1年3ヶ月ほど経つけれども、まだ一度も会社に足を向けていない。気にならないと言ったら嘘になるが、先輩面して顔を出すような厚顔さも趣味もない。いつまでも会社から卒業できない会社人間を馬鹿にしていた手前もある。幸い毎日が忙しくて会社のことを思い出すこともほとんどなかった。

在職中と退職後では、ものの見方が大きく変わったと、お茶屋さんに話していた。在職時は、良し悪しは別にして、茶業界という井の中から世界を見ていた。茶業界にプラスになることは善であり、マイナスになることは悪であった。我が社の得点を喜び、ライバル会社の失点も喜んだ。お客様の好評に歓喜し、悪評に恐怖した。

退職してみれば、それらすべては世の中の一事象であっても、一喜一憂するようなことでは全くなかった。お茶が売れなくても、代わりにミネラルウォーターが売れれば、消費者の喉の渇きに影響はあるわけではなかった。健康のためにお茶を飲まなくても、健康飲料やサプリメントが世の中にはごまんとあった。早い話、何も気に病むものがなくなった。

井から出てみれば、地平線まで広がる広い空があった。しかし、それはあまりに茫漠としており、かえって不安を呼ぶ。それで、井の中から出られない人や別の井戸に入り込んでしまう人も多い。自分の場合、一年経って、井にはもう入らないけれども、海では広くてとらえどころがないから、讃岐に点在するような溜め池くらいなら入っても良いだろうかと考えている。

   *    *    *    *    *    *    *

ムサシの散歩道でのゴミ拾いは、始めてから半月ほど経つ。始める前から比べるとずいぶんきれいになったと思う。ムサシが口にする危険のある煙草の吸殻もほとんど目立たなくなった。ゴミを捨てないようにとキャンペーンを張るよりも、拾う人を増やすキャンペーンの方が効果的かもしれない。

例えば大井川の土手は毎日10頭以上の犬が散歩している。最近は糞はほとんど見ないから、糞を取る何らかの用意はしているだろう。拾ったゴミを入れる袋を持つくらいは容易い。ほんの2、3人の飼主が拾おうと心掛ければ、落ちているゴミはすぐに無くなる。きれいな道にはゴミはなかなか捨てられないものである。ゴミ一つ落ちていない散歩道は犬も人も気持よく歩ける。かつて世界に誇れた美しい日本は、そんな一歩から取り戻すことが出来ると思う。

ブログでも書いたが、お遍路の時、捨てられたジェル状飲み物の容器を、自分の目の前で拾って、自分の自転車の荷かごに入れた男子高校生がいて、日本の若者も捨てたものではないと思った。自分のゴミ拾いも、あの高校生に触発されたものである。
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近世農書の世界 - 駿遠の考古学と歴史

(今夕、西原の夕焼け)

昨日、爆弾低気圧が東海沖を通り過ぎて、関東地方は大雪(都心で積雪8センチ)となり、動けなくなった車で交通網はずたずたになり、転倒する歩行者が多発、500人を越す怪我人が出たという。

   *    *    *    *    *    *    *

昨日の続きで、もう一つのテーマである。

江戸時代には、農村振興を目的とした栽培技術の解説書がたくさん刊行された。最古の農書と考えられる書物は、1628年、伊予国の小領主、土居清良の伝記「清良記」(土居水也著)、その第七巻で、清良の問いに答える形式で、松浦宗案が農民統治の心得と農業知識を言上したものが記されている。

年貢は、かけ樋の水のごとく、みなかみ絶ゆれば、いかほどせがみても、すえの水は、まえらず候。せがまれ候わんよりは、耕作をすすめられて、あまるほど作り出してこそ、よけれ
などと、もっぱら統治する側から農業を述べたものであった。

1682年頃に成立した「百姓伝記」は三遠地方の武士の系譜を引く上層農民が記したものと思われ、老農の語り伝えによる農業知識を記したものである。出版はされず、写本で伝わっている。三遠地方の地域々々で土地の特徴を述べ、作物の適不適、耕作ノウハウ、肥料の特徴などまで、細かく述べている。

一方、1768年、豊後国日田郡の篤農家に生れた、大蔵永常は、綿の試作を行った祖父、蝋晒の技術を持った父にならって、製糖技術の普及や苗木の取次に従事し、九州から大坂、江戸と諸国を遍歴見聞しながら、数多くの農書を著した。
1802年「農家益」(櫨の研究書)
1804年「老農茶話」(稲の乾燥法、科の繊維・職布の研究書)
1810年「耕作便覧」「豊稼録」(害虫防除の解説書)
1811年「農家益後編」
1812年「除蝗録」(ウンカの防除法)
1817年「農具便利論」
1818年「農家益続編」
1825年「民家育草」
1826年「農稼肥培論」
1828年「製葛録」「油菜録」(菜種の栽培法)
1833年「綿圃要務」駿河田中藩の知人の許へ、製糖(黒砂糖)技術を伝える
1834年 渡辺崋山の推薦で、三河田原藩へ
1836年「製油録」
1839年 蛮社の獄で崋山捕縛、永常は田原藩御産物殖産方解任
1840年 岡崎へ
1842年「国産考」(1859年「広益国産考」8巻として、没後に出版か?)、遠州浜松藩へ、水野忠邦の招き(=興産方)櫨栽培を勧める
1846年 水野忠邦失脚、永常は浜松から江戸そして大坂へ、ただし晩年は不明

大蔵永常の著作は一冊一冊が一テーマごとの専門書で、宮崎安貞が著す「農業全書」のように、農業全般を網羅する百科事典のようなものではなかった。特に、永常は米以外の商品作物の生産を勧めた。

小作をする水呑百姓は、稲ばかりつくりては徳(得)分なくして作り損になるものなり。稲にて作徳なくても麦菜種子にて徳分あるものなり。

と記して、商品作物として、四木=漆・茶・楮・桑、三草=麻・紅花・藍を挙げ、さらに、櫨(蝋を取る)・藺(畳表、茣蓙)・茜(染料の材料)・漆(塗料、蝋)などを推奨した。

江戸時代の農業も、我々が想像していたよりも、かなり専門的な研究が進んでおり、農業技術が進んでいたようである。
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遠州国学の系譜 - 駿遠の考古学と歴史

(木洩れ日を受けたようなアオキの葉、
庭にほとんど花がなく、こんな葉っぱが目に付く)

「駿遠の考古学と歴史」講座に土曜日の午後受講した。今日の課題は「駿遠の農書、国学、名物」であったが、三題話のようで、興味深いのであるが、盛り沢山になってしまった。したがって、その内、駿遠の国学について、受講した話をまとめてみる。国学の系譜をひも解くと、荷田春満-賀茂真淵-本居宣長-平田篤胤という系譜が歴史の教科書には挙げられる。

国学は初めは日本の古典を読み、和歌に親しむ、教養としての国学であった。1703年、浜松諏訪神社神主、杉浦国頭が荷田春満に入門したのが遠州国学の始まりとされる。荷田春満は江戸との行き帰りに浜松に逗留し、古典講読や和歌添削などの指導を行った。杉浦国頭とその妻、真崎(春満の姪)の指導で遠州国学の系譜が始まる。

賀茂真淵は浜松出身で杉浦国頭夫妻の私塾で国学を学び、後に京都で荷田春満を師として学び、後年江戸に出て国学を講じた。伊勢神宮の旅の途中、松阪の旅籠に本居宣長が訪れ、生涯一度限りの教えを受け、宣長は真淵に入門する。このように系譜は繋がっていく。

遠州では、見付天神神主の斉藤信幸(国頭門人)、天竜大谷村名主の内山真龍(真淵門人)、菊川平尾八幡神主の粟田土満(宣長門人)などが出る。1803年の大須賀鬼卵の「東海道人物伝」には、宿駅ごとに国学者の名前が記されている。西遠で始まった遠州国学はやがて中遠、東遠へ移って、中山吉埴、石川依平、八木美穂、大久保忠尚らによって、霊祭、歌会が数多く開催された。

幕末に至って、国学は勤皇倒幕の政治運動に形を変えて行く。1868年慶喜追討令が出て、尾張藩が勤皇倒幕に舵を切ると、駿遠豆の国学者たちは各地に勤皇草奔隊を組織し、東征軍の露払いとして加わり、江戸に攻め上る。遠州報国隊(306人)、駿州赤心隊(110人)、伊豆玉鉾隊(23名)などがあり、国学を学んだ神社の神主たちが中心になっていた。

東征軍は江戸へ入城し、勝ち戦であったけれども、駿遠豆の各隊の神官たちに悲劇が訪れた。徳川家は駿河70万石に移封され、入府して来る。旧幕臣たちの精鋭隊なども無傷で駿府へ移り、一部は刀を鍬に換え、牧之原に入植したり、旧幕臣たちも苦難の時代が始まった。そのため、倒幕に荷担した神官たちは旧幕臣が待ち構える駿遠豆に帰るに帰れなくなった。草薙神社の神官が襲われる事件なども起きたからである。

例えば、見付の淡海国玉神社の神官の家に生れた、大久保初太郎は、遠州報国隊に参加、戊辰戦争で戦功を上げ、その後、陸軍大将にまで上り詰めたが、生涯帰郷することはなかった。また、富士山本宮浅間大社の神官の家に生れた、富士亦太郎は、駿州赤心隊を結成、戊辰戦争に従軍、帰郷を許可されたが、浅間大社付近に、260所帯の旧幕臣が移住していたため、帰郷できなかった。

東京で活躍できた神官は、それでも良かったが、神主の職がたくさんあるわけでは無く、職に付けない人たちも多くいただろう。ほとぼりが冷めてから帰郷できた人もいたとは言え、何とも皮肉な結果になってしまった。
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鐘撞堂修復の一件 - 駿河古文書会

(花芽を準備する庭のドウダン)

金曜日の駿河古文書会、「萬留帳」で二つ目の記事は、「鐘撞堂修復の一件」である。駿府の町では時を告げるために鐘撞堂を設け、鐘撞人4人が交代で管理していた。その費用は、4人の雇い料やその居宅も含めて、町民たちがお金を出し合い維持していた。この一件は鐘撞堂及び鐘撞人の居宅が大破したため、その修復を行う一件である。読み下し文で示す。

一 御月番市左衛門様、治郎右衛門様、年行持へ仰せ渡され候は鐘撞(かねつき)堂並び鐘撞居宅、大破に及び候に付、三、四年以来、年行事へ申し候由、かれこれ延引久しき旨、兎に角修覆仕るべき義に候間、この間御組衆御見分遊ばされ、成られ候所に大破に及び候事紛れなく、その分に差し置き候わば、いよいよ物入増し重なり致すべく候間、年行司見分致し、惣丁頭相談の上、右両所修覆仕るべき旨、仰せ渡され候事
一 同日(いかづち)へ惣丁頭寄合いを付け、右の趣、具に申し談じ候事
人足出候町々丁頭は、今、明日中に御番所へ御礼に出るべく候、もっともかねつき堂修覆候事、申し談じ候、以上
※ 雷(いかづち)- 雷電寺のこと。境内に丁頭の集会所があった。
 正徳六申年閏二月十七日         年行事
                       札ノ辻町
                       呉服町四丁目
                        同 五丁目

      覚え
かねつき堂並びかねつき居宅、大破に及び候に付、先日、御番所様より御見分仰せ付けられ候、これまで年行事見分仕り、惣丁頭中、相談致し、修覆仕るべき旨、御月番様仰せ付けられ候、これに依り、先頃いかづち寄り合いの節、右の趣、申し談じ候、それ以後、年行持組合両度見分仕り候処に、殊の外大破致し候、兎に角その分は差し置き難き儀に御座候間、仕様帳相認め、方々より入札これを取り、吟味致し候、右両様にて金高弐拾壱両三分銀五匁入用相見え申し候、先格を以って、町中集め申すにて、これ有るべく候
※ 先格(せんかく)- 前からのしきたり。以前からのきまり。先例。
凡そ壱軒役に付、三拾銭程に相当り申すべきやと、存じられ候、時節柄、重き
集銭に御座候間、御両所様へ右入用高、申し上げず候、前もって一応惣町頭中へ御案内申し入れ候、寄合いを付け、御意を得るべく候えども、毎度、御名代遣わされ候衆多く相見え候に付、書付を以って申し談じ候、入用の義、普請仕方にて五六両も減じ申すべく候えども、年数持ち申さず候えば、還って惣町世話に御座候間、念入り積もらせ申し候、然しながら思し召し入り御座候わば、もっとも御遠慮なく町書き下に張り紙成され、遣わさるべく候、早々寄合を付け、御相談懸けるべく候、思し召し入れも御座なく候わば、判形成られ遊さるべく候、近日集銭相触れ申すべく候間、兼ねて左様御心得成らるべく候、以上
    申閏二月廿六日     呉服町四丁目當番  年行事

     覚え
かねつき堂、並びかねつき居宅、修覆の義に付、昨日書付をもって御相談申し入れ候所に、御他行の由、御断り書、相見え申し候、然れども右書面御写し置かれ候由、いかが御披見成られ、思し召し入れも御座候や、左候わば、今日九つ時、御太義ながら、いかづちへ御自身御出で御相談成らるべく候、明日御月番様へ金高申し上げ候に付、御案内申し入れ候、然しながら思し召しも御座なく候わば、この廻状に判形成られ遊ばさるべく候、昨日御断り書御座候方へばかり申し進(まいら)せ候
一 本通六丁目、庄左衛門殿へ申し入れ候、昨日右普請に付、御相談成られたき義、御座候由、御書付遣され候、右刻限いかづちへ御出成らるべく候、そのため、かくの如くに候、以上
    申閏二月廿七日       年行持
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老中御通行時、荷物滞りの一件(4) - 駿河古文書会

(花の苗を植え終えたプランター)

午後は駿遠の考古学と歴史講座受講、夜は近所の班の新年会へ出席した。駿遠‥‥はまた後日書き込むとして、昨日の続きを読み下し文で示す。

   当年行持並び人足差し出し候町々へ申し聞かさるべき事
一 さる十三日、阿部豊後守殿御通り候節、伝馬町人馬差つかえ、難渋に及び候に付、番所より町人足相触れ候様に、当年行事を以って申し付け候所に、遅滞に及ばず、早速諸町より町人足差し出し、当用の間を合い候事、神妙の至りに候、年行事ども差し働き候次第、もっともに候、以来急用の節、右の如く相働き候様、申し渡さるべく候
年行持始め、人足差し出し候諸町の者ども、この旨申し聞けらるべく候事
右御書付封印仕り、年行持箱へ入れ、次へ相渡し候  申閏二月

右の趣、仰せ渡され、さて、伝馬町へ仰せ渡され候は、年行持より書付差し出し候趣、御耳に達し候所に、御もっともに思し召され候間、願の通り、その夜御用立て候人足九十五人、百九拾人に相立て、その町々へ勘定相立て申すべき事
一 その夜、御用相済み以後出候人足八十七人、これは壱人ずつに付、願いの通り勘定相立て申すべき事
一 年行事組合三町へ人足願いの事、少分に思し召され候えども、これ又願の通り勘定相立て申すべき事
※ 少分 - 少部分。一部分。少量。
右の通り急度左様仕るべき旨、仰せ付けられ候

伝馬町面々申し候は、御意の趣、畏まり奉り候、年行事への人足並び九十五人一倍相立て候義、拙者どももこの間左様に存じ奉り候、恐れながら右八拾七人戻り人足は内證に障(さわ)り候義、御座候間、御慈悲に半分に仰せ付けられ候様に願い奉り候由、申し上げ候えば、御与力中様、仰せられ候は番所は右の趣、申し渡し候、年行持と相対は各別と仰せられ候に付、年行事申し候には、御番所様より仰せ付けられ候義、伝馬町と相対仕り候わば、戻り人足の町々へ申し訳御座なく候間、左様に仕るまじき段申し候
※ 内證(ないしょう)- 内輪の事情。内々のようす。内情。

伝馬町面々、年行事部屋へ参りたきと申し候に付、罷り越し色々相談の上、右八十七人の人足、當年、来年、両年に勘定相立てくれ候様、達って申され候に付、その通りに致し、則ち双方一同に御番所様へ右の趣申し上げ候えば、重々(かさねがさね)年行司神妙の事に候、先刻申し渡し候趣、具(つぶさ)に惣町中へ申し渡すべく候、向後の心得にもなり候間、丁頭へ残らず申し聞くべき旨、仰せ渡され候事

一 右人足四十五丁へ申し遣し候内、江川町、呉服六丁目人足勝(まさり)て大勢出し、その上壱番に御用立て候に付、近所と申しながら神妙の仕り方に思し召され候由、御番所にて御沙汰も御座候に付、ために、重ねて記し置き申し候事


御番所では年行持の願いの、人足代を通常の2倍、仕事は無かったが集った人足に一人前の人足代を払って欲しいとの願いをもっともとして、伝馬町にその旨命じた。伝馬町では2倍は了解したが、仕事をしなかった人足にも通常の人足代を払うのは、他への配慮から半分にするように願ったが、両者話し合いの結果、半分ずつ2年に分けて払うことで決着した。(つづく)
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老中御通行時、荷物滞りの一件(3) - 駿河古文書会

(午後四時の富士山-靜岡城北公園より)

昨日、皇居で講書始の儀があった。両陛下の前で講義をされた3人のうち、九州大名誉教授の中野三敏氏(77)は「江戸文化再考」の講義の冒頭で、歴史を知るためには、くずし文字を読めることが必要だと述べたと報道されていた。当り前のことなのだが、同感であった。

午後、駿河古文書会へ出席した。先月に続いて「萬留帳」を読む。本日の部分は解読が難しい部分が多く、講師も苦労されたようであった。以下へ読み下し文で示すのは、先月解読した残りで、本日解読分へ続いていく。

一 年行事組合三町より、願い書、外に壱通上げ申し候、右三通、御当番、友左衛門様、御請け取り遊され、仰せ渡され候は、夜前の義、具(つぶさ)に御頭様へ仰せ上げられ候、御思し召し御座候間、追って仰せ付けられ候由、左様に相心得申すべく候、右書付、友左衛門様御預り遊され候事、右の通りに付、人足出候町々へ、心得として、触れ書出し候、これは控え帳へ記し置き申し候

一 同十七日、年行持丁頭三人並び伝馬町問屋年寄、残らず御番所様へ召し寄せられ、友左衛門様、市左衛門様、忠右衛門様、御立ち合いにて、右双方へ仰せ渡され候は、今日、殿様御意遊され候、先夜、豊後守殿御通りの節、年行事相働き候段、御満足に思し召され候、伝馬町不働きの至り、双方御前へ召し出され、仰せ渡すべく候えども、御延引遊され候、これにより我等ども三人へ、かくの如く申し渡し候様にと、御書付出し候、則ち読み聞かせ候、この書付は年行持へ下され候間、帳箱へ入れ置き申すべき旨、仰せ渡され候
※ 帳箱(ちょうばこ)- 帳場に置いて、帳簿や筆記用具などを入れておく箱。

    伝馬町へ申し渡されるべき事
一 去る十三日、阿部豊後守殿、当所御通りの節、人馬差しつかえ、人数、荷物など有り余りの所、問屋その外役人ども、役所に有り合わさず候段、不届きの至りに候、当府内町人足、出合わざるにおいては、もっての外、難渋に及ぶべく候を、番所より町人足相触れさせ候所に、遅滞なく、早速差し出し候に付、その難を遁(のが)れ候といえども、元来伝馬町諸役人ども不情不働きゆえに候、雨天といい夜陰に及び候上は、差し掛からざる以前に、その心得いたすべき事に候、旁々(かたがた)以って、不調法の至り、詮義を遂げ、急度申し付くべく候えども、存ずる旨これ有るに付、用捨せしめ候、常々共に往来の旅人に対して、疎略成ることこれ有る様に、相聞き候間、向後油断なく相慎しむべく候、若し以来滞る義、これ有るにおいては、曲事に申し付くべく候條、この旨申し渡さるべく候事


老中御通行時、荷物滞りの一件について、年行持から書付を出したところ、双方を番所を召し出し、伝馬町側へは御小言、年行持側へお褒めの書付を頂く。お褒めの書付の部分は明日へ続く。
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雨桜天王社神主の一件(5) - 掛川古文書講座

(庭のヒイラギナンテンの紅葉-もう花芽が準備されている)

午後、先日頂いた花の苗をプランターに植えた。土と肥料を買ってきて女房と植えたが、土を使ってもまだ半分ほど苗が残ったので、さらに、土とプランターを追加して買ってきて、今日の作業はそこまでとした。

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昨日に続いて、戸塚肥前、中村因幡の反論の続きを読み下し文で示す。

一 私共両人、古来より六所大明神御内陣へ捧げ奉り候、御料理正月十五日、九月九日、年に両度、その外捧げ物、時々捧げ奉り候

もっとも御料理の儀は、海山里の物を調え、御料理捧げ奉り候えば、村方においても神主に相違なしと存じ候上、大切の天下様安全の御祈祷に、御膳捧げ奉り候を、無官にては宜しくも御座なく候旨、六所氏子を初め申し候故、右の通りの釣鐘の写しを以って、当国浜松竹山日向へ相頼み申し候処、右由緒、惣氏子、庄屋奥印御座候えば、神主の御許状頂戴致し候て宜しかるべしと申され候に付、神主の御許状御願い申し上げ候ことに御座候

もっとも六所内陣へ御料理まで捧げ奉り候えば、誠に相違なき儀と、存じられ候て、早速御許状取継ぎくれられ、有り難く頂戴仕り候事に御座候

私ども両人、神主の御許状頂戴仕り候を、筑後方へこれを相談、以って御許状頂戴仕るべき処、雨桜天王、六所大明神両社同様とは申し候えども、上ノ宮、下ノ宮と弐拾丁余ははなれ候えば、筑後儀は雨桜天王の神主、下ノ宮六所大明神に格別差構い御座なき事と存じ奉り候故、筑後方へ相談も仕らず候

もっとも私ども雨桜天王の御朱印頂戴仕り候えば、六所の神主と相成り候ては
宜しかる儀とも申さず候故、惣氏子、庄屋奥印にて御願い申し上げ候えども、筑後よりかれこれ申し候に付いては、心違いと存じ候故、筑後方へ弥四郎内々にて参り、両度までわび仕り候えども、筑後承知なく、既に領主表へその段筑後申し上げ候処、御領主にては官職の事、この方にて存ぜず候間、京都へ登り申し出るべきと、仰せ付けられ候

その後一向私ども方は沙汰なく候故、又々私ども両人、御領主表へ、筑後より装束差留め候義、申し出候処、これ亦御本所様に申し上げ、然るべき旨、仰せ付けられ候故、是悲なく右の儀、日向方へ、申し達し候儀、御座候

一 因幡家の儀は肥前より、宜しからざる様子、筑後申し上げ候えども、因幡儀、先祖七十年余に家焼失仕り、大切の書面、焼け失い、衰え罷り有り候処、漸々去々辰の年に、六所大明神氏子、村役人申し候は、六所御内陣捧げ物、肥前と同様に御座候えば、同前の御許状御願い申し候て然るべしと申し候故、右の由緒申し立てにて、肥前一同に神主の御許状御願い申し上げ候


上村筑後に相談せずに、神主の御許状を京都の御本所吉田家へ申請し頂戴したことについて、上ノ宮(雨桜天王)と下ノ宮(六所大明神)が20町(2キロ)も離れているから、別物と考え相談は不要と考えたという。一方で、雨桜天王へ公儀から頂いている朱印状(75石)の配分を、六所大明神の社役まで受けているのだから、別物という考えれは矛盾する。だから、相談しなかったことを、上村筑後へ詫びる遣いを出すなどするが、上村筑後は承知しない。この辺りの論理矛盾が全面敗訴の理由となったと考えられる。

反論はまだまだ続くが、来月の講座で解読することになる。
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