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伝統的治水工法「笈牛」など

(笈牛)

一昨日の訓練歩きで、大代川が大井川に注ぐ合流点を見たあと、大井川の河川敷を歩いていたところ、河川敷の公園化されたところに、伝統的治水工法である、笈牛などの縮尺1/2や1/3の模型がオブジェのように置かれていた。いずれも流れを緩めて堤の崩壊を防いだり、流れを変えたりするために造られた。

笈牛(おいうし)
別名犬枠ともいい、牛枠に後合掌木と前立木を加えたもの。棟木の長さは普通3.6メートルだが、これを5.5メートルにしたものを笈牛という。(縮尺約1/2)



(川倉)

川倉(かわくら)
(一分案内板が壊れていて不明)その形状は三角錐をなし、馬の背のごとき形をしているにで「川鞍」と呼ばれた。(縮尺約1/2)



(鳥脚)

鳥脚(とりあし)
鳥脚は初め越中の国で考案された工法で、河川の緩、中、急流の全般を通じていずれも水制、護岸根固及び仮締切等に使用し、相当の効果がある。(縮尺約1/2)



(聖牛)

聖牛(せいぎゅう)
これは武田信玄の創案になるものと云われ、信玄の勢力圏拡大に伴って天竜川、大井川、富士川に伝わり、享保年間以後は各地に流布するに至った。(縮尺約1/3)



(改良猪の子)

改良猪の子(かいりょういのこ)
(一分案内板が壊れていて不明)合掌木、棟木、梁木および桁木を組み立て、竹または鉄線で網を張り、内部に玉石を詰めた。


かつて、古文書講座で川普請関連の文書を学び、何種類かを後で調べてみたが、今一つイメージが湧かなかった。こんな風に現物に近い模型で示されると理解できる。

床を張った部分に川原石を入れた蛇篭を置いて、案内板の付いている方を流れに向けて、それぞれ川底に固定させた。床は板にする必要は無く、蛇篭が載るように格子状の木を並べただけであったようだ。昔の人の智恵で、材料はすべて近くで調達できるものばかりである。もちろん自然の中にあるものだけで造られている。

「笈牛」は、山伏の担ぐ笈に似ているとことから命名されるなど、命名方法が実に即物的で面白い。ただ「聖牛」だけは信玄考案というだけあって、命名の由縁が不明という。

東日本大震災の津波では、鉄壁といわれた防潮堤をことごとく突破されて、大きな被害がもたらされた。もっと高くと考えれば、城壁のような壁で囲うことになり、住んでいる人々は恵みの溢れた海を、そばに居ながら失うことになる。海と川を同列には語れないが、昔の人は川の流れと上手に付き合って治水していた。それに習えば、海と真っ向から戦うのではなくて、力を削いで被害を小さくするという発想が出来ないものかと思っていた。津波対策にもそんな発想が少しずつ出て来ているように聞く。
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もう少し距離を伸ばして

(水路橋から大井川本流)

昨日に続いて、お天気が良くて、1時間ほど早く家を出て歩く。今日のコースはおよそ考えて出た。横岡の水路橋を渡って新東名のところから柏原へ登り、千葉山のハイキングコースを歩こうと思った。

新東名の工事が最終段階で、五和バイパスから新東名に入るあたりの舗装工事をしていた。開通が4月14日で、もう1ヶ月もない。工事の終わった右側の歩道を遠慮しながら通った。水路橋から大井川上流方面を眺める。今年は雨が多くて、山では雪が多いのだろう。大井川の水量が例年に比べて多い。流れが川に拡がっている。河川敷の柳の森が芽吹き始めたようで、黄緑に変ってきている。

柏原を眼前にして、最短に登る方法はないかと、おばあさんに聞いた。昔は小学校の遠足で柏原に登ったもので、道はあったのだけれども、最近は使わないから。登り口はどこかと聞くと、見えているあの角に登り口があるという。その場所へ行ってみると登り口こそ細い段が造ってあるが、すぐに笹の中に山道は消えていた。あきらめて、下流へ回り込み、新東名の高架橋下の勝手を知った赤松地蔵尊の参道を登る。地蔵尊の境内で一息吐いて、登り始めたが腹の調子が宜しくなく、花摘みに薮の中に入った。

腹はすっきりしたが、久し振りの山登りに、身体が言う事を聞かない。休み休み登ってゆくと、早くも下ってくる男性がいた。ドウダンはまだ咲いていないかと聞く。男性は怪訝な顔をして、まだ咲いていないと答えた。通り過ぎてから気がついた。アセビとドウダンを間違えていた。我が家のアセビが咲いているのを見ていて、そんな質問をしてしまった。我が家のドウダンはまだ芽が堅く、ドウダン原のドウダンでは、咲くのは五月になるだろう。聞くのが二タ月も早かった。怪訝な顔をするわけである。


(尾根上の池-舟形地形)

柏原から千葉山ハイキングコースに入る。このコースは高低差も少なくて、快適な尾根歩きができる。しかし、体力は落ちているから、若い時に楽々歩いた尾根が、こんなに長かったかと思う。広い尾根に舟形地形(窪地)があって、細長い池のようになっていた。本来、尾根上に水が溜まることはないはずだが、雨が多いときには池になる。


(花はまだきのどうだん原)

伊太丁仏参道が合流して間もなく、ドウダン原に入った。年々ドウダンを増やして他の木を伐採するから、ドウダンの原が年々拡がっている。花は早いけれども、お天気がよく、旗日でもあって、10人ほどのハイカーが寛いでいた。

すでにお昼を回っていた。食事を持たないので、先を急いでドウダン荘まで来たが、閉まっていた。自販機で甘いココアを買い、腹の足しにした。千葉山に登るのはパスして、まずは腹ごしらえに智満寺下の茶店に寄った。パンを二つが昼食代わりになった。

尾川丁仏参道を下って、その勢いで島田駅まで歩いてしまおうと思った。尾川丁仏参道は軽なら通れる位に道を広げている。下りの途中で左の腿の付け根の筋が痛くなってきた。何とか下ったが、酷くしては困るので、家へ電話し休みの息子に、パイパスの野田インターまで迎えを頼んだ。

万歩計は29,081歩であった。平地なら18キロから20キロ位歩いた見当になろうか。時間が6時間ほど歩いた。二日目としては少し無理をした。足を痛めては訓練にならない。
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それでも少しは歩いて置こう

(大井川、大代川合流地点)

よく晴れた。女房は名古屋のかなくんの家へ出掛けて不在である。お遍路に備えて少しは歩いておこうと思い、10時半ごろ出掛けた。久し振りに日限地蔵尊にお参りしてから、南へ向かう。

歩いている道は左側が旧第一製薬、今は名前が変って何と呼ぶのだろう、その広い敷地である。右側に小河川があって川の向うを大井川鉄道が通っていて、川と線路を仕切る土手に、ヒカンザクラが散り始めていた。川面に花筏をたくさん作っている。散った花が川面を緩やかに流れる間に、花びらが幾重にも連なって、いかだのようになり、停滞したり流れたり、日本人はそれを花筏と呼んだ。昔の日本人の感性には驚嘆させられる。生活排水が入って汚れた川でも、花筏と呼べば人は美しい流れを思い浮かべる。言葉の不思議である。


(川沿いのヒカンザクラ)

舗装道路が終わって、田圃との間の土手になる。さらにその土手も数本のヒカンザクラの木を最後に行き止まりになり、脇の舗装道路に避けた。旧国道1号線に出ると、この河川の改修中であった。水の通りを良くする改修だと看板があった。さらに川の右岸を行くと、旧東海道の八軒屋橋に至った。その直前で二つの小河川が合流し、少し太くなる。昔は大井川の川越しで金谷側に渡ると最初にある小河川で、板橋がかかっていた。この橋が金谷宿の入り口で、桝形の代わりを果していた。

川越し人足の控え宿や、「歳代記」の筆者、松浦幸蔵さんの勤めていた川会所などはこのすぐ先にあった。島田側には遺跡がしっかり残っているが、金谷側には何も残っていない。最近、通りの民家に「一番宿」などの看板が出来て、あった位置を表示してある。

川沿いにまだつぼみの桜並木を下ると水神社がある。小河川に沿って下れば大代川に合流し、さらに先で大井川と合流する地点があるから、そこまで行ってみようと、ようやく本日の目標が決まった。


(突然、道をふさぐ引込み線)

川沿いが歩けなくなり、迷いながら住宅地を行くと、突然に線路の土手が行く手を塞いだ。鉄路に音が伝わり間もなく機関車がゆっくりとやってきた。鉄道員が二人機関車の外枠に乗っている。大井川鉄道とは方向違いのところである。帰宅後調べると、大井川脇の製材所への引込み線のようであった。

貯木場の中で迷って、結局大井川の土手の手前にある舗装道路に出る。前方にクリーンセンターが見えてきた。金谷の汚水処理場である。大代川が大井川と合流する三角地、金谷の最も南の外れで、ここしかない立地の場所である。クリーンセンターを突っ切って河原に出た、JR東海道線の鉄橋の下がその合流地点だった。


(合流地点はJR東海道線鉄橋下)

最近は雨が多くて、大井川、大代川ともに水量が多く、水質は良いように見えた。ただ、金谷は下水道の普及率が低いので、水質が良くなったとはとても言い難い。この辺りで大きな鯰が釣れるけれども、とても食べれたものではないと、誰かが話していた。

本日は万歩計を持たずに出たが、歩行時間約2時間半、10キロ少々の歩きだった。足にそれほど疲れは感じなかった。
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江戸薩摩藩邸の焼討 - 「歳代記」より

(葉枯れが目立つアボガド)

我が家には寒さに強いと苗を頂いたものと、女房が種から育てたものの、2本のアボガドがある。今年は寒くて両方とも葉が枯れてしまった。ただ、新芽がしっかりと控えているから、枯れることは無いと思う。

   *    *    *    *    *    *    *

「島田金谷の考古学と歴史」の最終回でお札降りとええじゃないかを勉強して以来、再び「歳代記」を読み解いている。その翻字されたものが金谷町史にあると聞いたので、それを答え合わせのように使いながら読み進めている。

金谷町史の翻字も完璧なものとは言えないようで、明らかな間違いをいくつか見つけた。間違いの中にはどうでもよいものも多いが、それを読み違えると意味が変ってしまうものもあるから、気をつけねばならない。だから、古文書の勉強をしている人たちは、わずかな誤読も嫌う。

今日、取り上げるのは、御札降り騒ぎが一段落した頃に、江戸で起こった話である。

同(慶応三年)年十二月九日、十日、十一日、京都にて薩州様、長洲様、土州様、右三頭御入れ込み騒動いたし、将軍様並び京都守護職、奥州會津松平肥後守様、御諸司代は松平越中守様、御一同大坂御城へ御引取り成られ候

同廿五日、江戸二の丸御焼失、廿六日、江戸薩州様御屋鋪、上中下共、三屋敷焼失並び佐土原様御屋敷焼失、大騒動、芝町家焼る、品川宿まで焼き捨てられ候、薩州様御家中へ、羽州庄内、酒井左衛門尉様家中、切り込み一戦これ有り、薩州勢多分首打ち取られ、酒井様勢、鑓之穂先へ生首通し、酒井屋敷へ帰る

薩州様勢、残りの人数、品川宿へ火掛け、右の混雑に付、船弐艘へ乗り込み、出般(帆)致し候、残人数六郷の渡しより、相州在へ逃げて、廿七日、沼津宿にて佐竹様御家中と偽り、山駕(籠)三丁早追いにて登る
※ 早追い - 江戸時代、急用の際に、昼夜兼行で駕籠(かご)をとばした使者。

沼津様御家中、薩州様浪人と見請け、吉原宿まで右の早追い追っ掛け、漸々追い付、右三人を召し取り、吟味致し候えば、早束白状いたし、全くさ(薩)州様浪人に違いこれ無き由、申し候、それより囚人に相成り、江戸表へ御差出しに相成る、それより東海道、御大名様御支配所、御かため付、その後昼夜差別なく早追いばかり通る


京都での薩、長、土の騒動へ呼応するように、江戸では薩摩による江戸市中への放火、掠奪、暴行などの蛮行が繰り返され、幕府を挑発していた。江戸市中の治安のため取り締まっていたのが、前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩であった。

このような背景のもと、江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きた。庄内藩を主力にした江戸薩摩藩邸への討ち入りであった。幕府は薩摩藩の挑発に乗ってしまったことになる。この後、戊辰戦争から明治へと流れが出来る重要な節目であった。

ここでは東海道金谷宿の川会所役人の目で見、耳で聞いた情報である。街道を薩摩藩士が逃げ延びる話など、街道筋にいたからこそ、知れる情報なのであろう。
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島田市瓦礫受入正式決定

(先週水曜日、掛川倉真杉村家長屋門前のクロッカス)

昨夜、最後に残っていた関与会社の株主総会で、役を降りて、これで文字通りすべてフリーになった。一抹の寂しさと、無限の開放感を感じながら、慰労会を終えた。

帰り、タクシーの中で、よくやるように、運転手に最近の景気を尋ねた。依然として良くない。年度末でこれから送別会などの季節だから、一時的だが、少しは仕事が増えると思う。靜岡空港への客もそんなに多いわけではない。電車で来る客はアクセスが不便だという。自家用車で行くときは、駐車場も無料で、便利なんだけどね。タクシーは飲み屋さんが忙しくならないと駄目である。確かに電車通勤の客はいくらたくさん居てもタクシーにはのらないからなあ。

ところで、市長は被災地の瓦礫焼却処理を引き受けると発表したねえ。一躍、全国区の時の人だ。市議会の議決も成り、十五日に島田市長が正式発表した。地方公共団体では東京都に続き、市町村では最初の引受であった。もともと今の市長には批判的だったけど、今度のことでは随分みなおしたよ。

現市長は、箱物を作って市内業者に仕事をもたらすことを仕事だと考えている、箱物行政志向の強い、旧型の政治家だと思い、茶業にも熱心でなかったために、批判的であった。しかし、瓦礫処理問題では少し見直している。元々、出が資源会社で、スクラップ処理とか、ゴミ焼却施設については詳しい。だから、瓦礫処理に声を上げるのは自分しかない、との自負があったのだろう。全国自治体で一番に声を上げた。もちろん、島田市の焼却設備や埋立地などに余裕があったことも、その理由の一つであった。

市の焼却設備は最先端の焼却設備で、炉内を溶鉱炉のようにして燃やすため、ダイオキシンも出ることなく、ビニールでも金属片でも何でも燃やし溶かしてしまう。だから分別は資源ごみを分けるだけで、あとは不要である。島田市に合併したときに、分別が不要になったことに大変な利便を感じた。分別しても同じ焼却炉に入れるだけだから無意味だという、島田市の説明は納得できた。

その後、ダイオキシン問題もあって、各公共団体とも、焼却炉を新しくしているはずだが、分別は依然として続けているところが多い。聞けば、エコの啓蒙のために分別を残している、などとのたまう。どうも力の入れ所が違う。しなくても良いことはやらせないという考え方は、民間会社では当然のことで大いに評価したい。

市長は、最初は、反対の声の上がった地区で、怒号の中で説明会を行った。それで学んだのであろう。もっとも有効な説得は、市民に被災地の瓦礫が山を見てもらうことだと考え、市議会議員や茶業者、自治会長などを次々に現地へ連れて行き、瓦礫処理の引受けの必要性を身体で感じてきてもらった。試験焼却を実施し、放射線量などの測定を市民の手で出来るようにしたり、安全性を目に見える形で示したことが、市民の不安を取除き、概ね賛成という着地点へ導けたのだと思う。その政治手腕は評価してよいと思った。
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金谷宿大学、成果発表会準備

(「古文書に親しむ」の展示が出来た)

東海道金谷宿大学の学習成果発表会で、成果の展示準備があり、15日午後、夢づくり会館に出掛けた。午後1時半より会場準備、2時より展示準備だという。手伝おうと思ったのは「古文書に親しむ」講座の展示である。会場準備も力仕事であれば必要だろうと、1時20分頃に夢づくり会館に入った。

会場ではすでに準備が始まり、たくさんの人が机やパネルを一階から二階に運んでいる。自分も何か手伝おうと思い、言われるままに机を一つ二階へ運んだが、二階の指定場所には受取る人がおらず、適当に机を立て掛け、一階に戻ったけれども、すでに指示をした人はいなかった。

どうやら自分の出る幕ではなさそうだと思い、荷物を運んで階段を登ってくる人たちを、二階から眺めていた。密林で、自分の身体よりも大きな切り取った葉っぱを、行列をなして運ぶ葉切りアリを思い出した。それぞれのアリは思いのまま動いているようで、巣穴まで最短距離でもっとも安全なコースに、行列が出来ている。ここで荷を運ぶ人たちも指示がしっかり出ているのだろうか。おそらく、かなり無駄をしながらも、時間とともに会場作りは出来るのだろう。

講師は手馴れたもので、会場造りがほぼ終わった頃に、作品を持ってやってきた。講師と学生代表と手伝いの自分の三人で、それから1時間余、掛かって展示をした。古文書のコピーと、学生が解読して書き出した翻字を、対照できるように展示するだけであるが、限られたスペースに納めるのは工夫がいり、けっこう手間が掛かった。

女房も別の講座の展示で、会場準備から出ていたが、定刻の1時半よりはるか前から準備に動き出してしまったから、定刻通りに会場に来た人たちが段取りが狂ってしまい、必要な備品類が足らない展示場所が出来たり、かなり混乱していたらしい。

日本全国には、「〇〇時間」と名付けられた、約束の時間を守らない習慣があって、「時間を守ろう」がスローガンになっている所を多く見る。これらの時間は決められた時間に遅れることを意味するのであるが、当地に「金谷時間」というものがあるとすれば、それは約束より早く来てしまうことを意味する。

早く来てしまったのならば、約束の時間まで待ってくれれば何も問題はない。ところがやるべきことが決まっている場合は、時間前に仕事が始まってしまう。時間を守って定刻に来てみると、やるべき仕事はほとんど終わっているというケースも時々ある。定刻に来たのだから咎められることも無いけれども、複雑な気持になる。もちろん会合とか、飲み会の場合はさすがに時間まで待ってくれるから、時間に平気で遅れる習慣よりもはるかに良いのだけれども。定刻通りに参加していると、作業の段取りなどが何時まで経っても理解出来ないに違いない。

自分に時間が出来て、初めて準備のお手伝いをしたが、少しは役に立っただろうか。
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世楽院を訪ねる - 掛川古文書講座史跡めぐり

(世楽院)

史跡めぐりの最後に世楽院を訪れた。世楽院のある場所は、その昔、松浦兵庫助の居城だった倉真城跡である。下の道から世楽院の一段下に城跡の碑が遠望できた。明応6年(1497)に敵に囲まれ、一族が自刃して果てたといわれる。世楽院に残る記録でも、その時にどこの軍に囲まれていたのかがはっきりしない。状況証拠では今川氏がもっとも可能性が高いのだが。

講師は勝間田城や横地城と同じように今川氏に攻められて落城したのだろうと話された。しかし、勝間田城や横地城の落城は、1476年に今川義忠に攻められて落城しており、20年ほどのギャップがある。以前に訪れた倉真のさらに奥の松葉城が落城したのが1496年で、それと同じ運命であったとすると、斯波氏側に敗れたとも考えられる。いずれにしても、間もなく遠州で斯波氏の勢力は衰え、今川氏が遠江守護職を獲得することになる。

さて、住職の出迎えを受けて一行は世楽院に入った。本堂脇の部屋で住職のお話を聞いた。世楽院の始まりは、1276年(鎌倉時代)にこの奥の黒俣にあった清楽庵である。その後、丹間に移り静楽庵となり、ついで真砂奥山へ転寺し清楽寺と改めた。慶長十一年(1606)に、倉真城主だった松浦氏の霊を祀るように要請されて、倉真城跡である現在地へ移り、世楽院となった。安永元年(1772)類火で全焼し、再建されて現在に至っている。

歴代の掛川城主が代替わりの度に世楽院に安堵状を寄越している。テーブルに十数通ある安堵状を無造作に並べて手に取って見せながら、これらは古文書として寺宝になっていると説明された。分厚い和紙に書かれて黒い花押が押されている。花押は書いたものではなく、判に彫って押したものである。無造作な扱いの割には保存状態は悪くない。上質な和紙は非常に強いし、墨は色褪せしない。

住職は時々空気にさらした方が虫食いも無くてよいから、積極的に皆さんに見ていただいているという。確かに虫食いがほとんど無い。寺宝と言うからは、白手袋をして息も掛けないように口をハンカチで押えて拝見するのかと思えば、説明に素手で持った安堵状を、しゃべりながら折ったり曲げたり広げたりと、こちらが心配になるほど乱暴な扱いであった。こんな管理の方法も有りなのだろうか。


(枝がくっ付いたサザンカの古木)

住職のお話の後、寺内を案内していただいた。昔、殿様が兜を掛けた石とか、倉真城の井戸だとか、ちょっとどうかなと思えるものもあったが、伸びた枝があっちこっちでくっ付いて一体化しているサザンカの古木は見ものであった。花が咲いている時に見てみたい。
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倉真地区を訪ねる - 掛川古文書講座史跡めぐり

(旧岡田家跡にある報徳神社)

午後、掛川古文書講座の今年度最終回で、倉真地区の史跡めぐりが行われ、出席した。一年間に古文書講座で扱った文書の出所、倉真地区を見学する。

最初に訪れた報徳神社は岡田家の跡地に造られている。岡田家は江戸時代には掛川の片田舎の一名主に過ぎなかった。岡田佐平治は同志とともに遠州に報徳思想を押し広めた。その子、岡田良一郎は二宮尊徳の直弟子で、父の志を継ぎ、大日本報徳社を本拠として靜岡県下だけでなく、広く全国をめぐり、報徳の普及につとめた。全国的な有名人となって、村を出て行き、旧家の跡地は、二宮尊徳と、岡田佐平治、良一郎親子の三柱を祀る報徳神社となった。その岡田家からはたくさんの古文書が出て、講師が若いころにお蔵から出た古文書を報徳社まで運び、解読に励んだと聞く。


(大黒様に似た神石)

報徳神社はコンクリート造りの変った様式の神社であった。報徳神社の左隣りには乙星神社という祠がある。岡田家の当主が村人たちと開墾しているときに、大黒様に似た奇石が出土し、神石として祀った祠だという。格子の中をデジカメで撮ってみたが、いま一つピンとこない。開墾という事業の記念碑のような感覚で捉えればよいのであろう。

次に、八幡神社に立寄る。倉真集落からは粟ヶ岳が見える。それで、雨乞いをするときは、粟ヶ岳へ上ることが多かった。しかし歩いて上るにはけっこう遠い。だから、近場で済ませるには、この八幡神社に雨乞いをした。今は南向きの明るい神社であった。

さらに、倉真温泉の先で「真砂の大薮」を遠望した。古文書で読んだ「御立薮」の跡という。倉真温泉の外れ、新東名の土堤が高くにダムのように見える、そのすぐ左手前の竹薮だという。一度は畑になったけれども、放置されて、また竹薮に戻ったようだ。掛川の御殿様専用の竹薮で、薮守をしていた染葉喜左衛門の旧宅も見えた。但し、今は子孫は別な町に住み、無関係の人が住んでいるという。

倉真温泉とは別の谷に入っていく、かね倉のお茶工場前にバスを停め、少し登ったところに貴崇院というお寺がある。境内に庚申堂があり、そこに祀られている庚申石像は享保二十年(1735)に建立されたものという。掛川でも2番目に古い庚申像だという。庚申縁起という案内プリントを頂いた。色々面白いことが書かれている。いつか取り上げてみたい。貴崇院にはこの後訪問した杉村家の代々のお墓があった。

貴崇院から下ったすぐのところに、杉村家という旧家がある。岡田家と並んで、倉真村で代々庄屋を勤めた。当主は治右衛門を名乗り、このお宅からも古文書が出ている。講座で解読した「倉真村指出」はこの杉村家から出たものであった。


(杉村家長屋門)

杉村家の長屋門は鎌倉時代、弘安元年に建てられたものという。この門は「三折の門」といって、間口が同じ寸法で三つに分かれている珍しい門だと聞く。(つづく)
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浜岡砂丘と浪小僧

(白砂公園の波小僧の像)

昨日、御前崎市池新田の地先、白砂公園に波小僧の像が建っていた。「波小僧」は遠州七不思議の一つといわれている。遠州七不思議は七つだけでなくて、各地へ伝わる伝説を数えていけば、幾つあるのか、とにかくたくさんある。日本三大大仏というと、奈良の大仏、鎌倉の大仏、そしてオラがお寺の大仏となるのと同じで、七不思議といえば、有名どころに加えて、オラが村の不思議をそっと入れ込む。それをまともに聞いて収集すれば、出るは出るはとなるわけで、愛郷心の表れと見るべきなのだろう。

遠州七不思議の有名どころといえば、「夜泣き石」「桜ヶ池の大蛇」「京丸ぼたん」「三度栗」「片葉のよし」に加えて「波の音」が入る。「波の音」は遠州灘から、まだ波の来ないうちに波の音が聞こえてくる、実際の現象から生まれた伝説で、それぞれの場所で様々な話になっている。遠州の南側はすべて遠州灘だから、広い地域にその伝説は残っている。

「波小僧」の台座の案内プレートによると、ある時、猟師の網に波小僧が入った。波小僧は命乞いをして「私を助けてくれれば、雨風をあらかじめ知らせます」と約束した。それから、天気の変わる時には波の音が聞こえるといわれる。まあ、言ってしまえばそれだけのことで、これでは子供たちを楽しませる伝説にはならないから、実際に語って聞かせる時には、たっぷりと肉付けされるのであろう。

天気予報の無い昔は、舟で海に出る漁師にとって、急な天候の変化は命取りになる。だから、自然現象に五感を働かせる。波の音もその一つだったのだろう。波はまだ来ていないが、近付いている時に、遠州灘から海鳴りが聞こえてくる。南東から聞こえるときはやがて雨、極端に東からなら台風が近づいている。西南からなら天気は回復してくる。そんな波の音を感じて、事前に海難を回避していた。

「波小僧」は海坊主である。海坊主の伝説はこれまたたくさんある。網に掛かった海坊主は、全く私見であるが、海を漂う土左衛門ではなかったと思う。遠州灘は上方から江戸へ荷を運ぶ船がたくさん通った。しかも一荒れすれば遭難する船も多かった。漁師は網に掛かると浜に上げて丁重に葬る習慣になっていた。海から来た神様と考える地方もあるが、それでなくても放っておけば漂って漁に邪魔にもなるという、実利的なものも働いたかもしれない。この伝説には、浦島太郎が亀を助けたと同様に、海から来た者を粗末に扱ってはならないという教訓を含んでいたのだろう。

海で暮らす漁師さんならずとも、浜岡原発の爆発音は絶対に聞きたくない音である。
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池新田、河津桜の新名所




(池新田の河津桜)

今朝は素晴らしく晴れた。女房に起されて、朝食後、仕度をして女房と車で出かけた。御前崎市池新田の海岸近く、浜岡砂丘を臨む白砂公園から西へ続く太平洋自転車道路の両脇に、河津桜が咲いて見頃であるとテレビで見て、出かけることにしたのである。

牧之原に上り、国道473号線の相良バイパスを走る。牧之原台地の西縁を走り、東名牧之原インターを右手に見て、山中を御前崎に向かって一っ飛び出来るバイパスで、これがない時代から比べると、御前崎への時間が半分くらいになり、30~40分で行ける。

途中から国道150号線バイパスを進み、浜岡原発の前を通り越して、池新田へ。池新田は旧浜岡町の中心街である。河津桜のある場所は見当が付かなかったから、池新田のS氏邸へ行く。広い庭園側から入って覗くと、愛犬と昼食中であった。様々な花や木が植えられた庭園を案内してもらった。もうしばらく経てば花々が一斉に咲きだし華やかな庭になると思う。よそのお宅の庭ながら楽しみである。そこにも河津桜が1本、満開に近かった。並木の河津桜はこの木より若いと聞く。改めて、河津桜のある場所を教わる。とにかく横の道をまっすぐに海へ向かって出ればよいと聞き、S氏邸を後にする。


(河津桜をメジロが啄ばむ)

場所はすぐに判った。白砂公園の駐車場に車を停める。平日なのに駐車する車は多い。テレビ報道はかなりの影響力があるのだろう。自転車道路の両側に延々と何百メートルか続いている。この河津桜はある篤志家が個人で毎年植え継いで、今の形までなったという。木は年数の経ったもので10数年といったところか。まだ木が小さい。花は八分咲きといったところで、寒風の中で大きめ、濃い目の花を咲かせている。メジロが何羽も止まって花を啄ばんでいた。

行く手に風力発電の巨大風車が見えてきて並木も終わった。海岸まで出てみた。強風に高波が海岸に押し寄せている。海岸前の砂山は海抜10メートルほどもある。津波はここまで上がってきて砂山を軽く越えるだろうか。どうしてもそのように考えてしまう。


(風車が立ち並ぶ遠州海岸)

10数年前に、靜岡県の海岸歩きを計画して、一人で遠州海岸を歩いたことがある。この砂山の尾根を歩いたような記憶があるが、西方を見ると巨大風車が延々と連なり、あたりの風景は一変してしまったようだ。

東方には休止中の浜岡原発の塔が何本も、まがまがしく見えている。海岸歩きのときははるか手前からずっと見えていて、歩けども歩けども近付かなかったと記憶している。その当時、この原発が大事故の危険性を孕んでいるとは想像もしていなかった。今は随分見え方が変わってしまった。
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