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「家忠日記 一」を読む 1

(鳥が集る大代川の夕刻)

今年の最初に読む古書は、「家忠日記 一」である。松平家忠は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、徳川氏の家臣。深溝松平家の第四代当主である。家忠の記した日記(家忠日記)は、戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。中でも、牧野城(諏訪原城)で、滞在して、城郭の普請などに当った部分は、出城の日々の生活を知る上で、唯一といってよいほどの貴重な資料で、自分も是非読んでみたい部分である。

もちろん自分は今回初めて読むわけで、ここまでの所、ネットなどの受け売りである。「家忠日記」を解読するとともに、その意味を自分なりに調べて解明して行きたい。多分長丁場になるであろうと思う。「家忠日記」は年代順に一から七まである。

「家忠日記 一」は天正五年(1577)丑十月から、天正七年(1579)卯
十二月までの、2年2ヶ月の日記である。この日記が始められた時、家忠はどこにいたのであろう。最初に日坂、西郷という地名が出てくるから、懸川城か牧野城(諏訪原城)にいたのだと思うが、懸川城は石川氏が城代であったから、おそらく牧野城(諏訪原城)に出張っていたのだと思う。

当時の遠州を中心にした情勢を、見ていくと、

元亀3年(1572)12月、三方ヶ原の戦い。
元亀4年(1573)4月、信玄が西上作戦の途中で病死。勝頼が家督を相続。
天正元年(1573)勝頼、諏訪原城の築城、高天神城攻略への足掛かり。
天正2年(1574)6月、遠江国の武田勝頼が高天神城を陥落させる。
天正3年(1575)5月、長篠の戦い、勝頼軍敗走。
天正3年(1575)8月、徳川氏が諏訪原城を奪取。
天正4年(1576)春に勝頼は高天神城救援のため遠江国へ出兵。
天正5年(1577)閏7月、徳川家康が高天神城を攻める。
天正5年(1577)7月19日、勝頼出兵し、9月22日に江尻城へ入る。
天正5年(1577)10月20日、勝頼小山城を経て大井川を越える。
天正5年(1577)10月20日、馬伏塚城において徳川方と抗戦する。
天正5年(1577)10月25日、勝頼、撤兵する。

まさに武田との戦いが切迫した時期に、この日記が書きはじめられている。

 天正五年(1577)丑十月
同十七日庚子  日坂筋へ鶉つきに出候。

※ 日坂(にっさか)- 現、掛川市日坂。諏訪原城から西へ4、5キロの所。

鶉つき(うずらつき)とはなんだろう。文字通り、鶉を槍か何かで突くとすれば、食料調達のためと考えられるが、以下3日連続で同じ言葉が続く。

同十八日辛丑  同 鶉つきに出候。
同十九日壬寅  西郷筋 鶉つきに出候。

※ 西郷(さいごう)- 現、掛川市下西郷。諏訪原城から西へ10キロの所。

今にも、武田軍が大井川を越えて遠州に入ろうかという時期である。渡河の場所が諏訪原城から10数キロ離れた大井川河口近くとはいえ、半日足らずで届いてしまう距離である。のんびり食料調達の記事を記している状況ではないと思う。

そこで、思い出したのは、山では、用便をたすことを、花摘み、雉打ち、という隠語を使っていたことである。「鶉つき」も隠語ではないかと考えた。「鶉衣(うずらごろも)」ということばがある。「継ぎはぎのしてある着物。ぼろな着物。」という意味である。「鶉」は鶉衣に身をやつした斥候や乱波などを示し、それらを探索に出ることを「鶉つき」と云ったのではないだろうか。そう考えると、切迫した時期に、毎日のように「鶉つき」が意味を持って来る。
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