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「竹下村誌稿」を読む 14 大井川 3

(掛川大日本報徳会の大講堂二階から掛川城を見る/昨日)

午後から、ラ・フランスの会の芋汁会があって出掛ける。2時より準備、4時より開始、24人参加、今年で17回目となる。長く続いたものだ。それぞれにその年数だけ年寄りになったわけである。世話役の皆さんに感謝しながら、午後8時半ごろ散会する。

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「竹下村誌稿」の解読を続ける。

この川(大井川)は古(いにし)えより遠駿両国の境とす。霊異記遠江国と駿河国の堺、河有り。名を大井川と曰う。とあり。然れども流域の変遷により、その国界も一定ならず。向榛原と称する河東十八村の地は、従来は遠州榛原郡の所属なりしが、明治十二年、駿州志太郡に編入し(俗に榛原八千石と云う)、大井川の中央を以って遠駿の境とす。
※ 霊異記(りょういき)- 日本霊異記。平安時代前期の仏教説話集。

地名辞書に、
接するに大井川を以って駿遠の境とする事は、古今不易の形状なり。然るに、この川、島田以東の低地に於いて、往々北岸を決壊し、一時は小杉、田尻の辺に分流したる事あり。近世向榛原と称し、北岸の数村を遠州榛原郡の所管とせしは、これがためなり。
※ 不易(ふえき)- いつまでも変わらないこと。不変。

元来、向榛原の地は大井川の沖積地にして古は漠々たる磧原(河原)東西に亘り河水縦横乱流せしも後世河道の定まるに従い開拓せしものなりと云う。兎に角大井川を以って遠駿の国境とせし事は中古大井川が向榛原の東を流れたる時代より、その西岸なる郷里は初倉庄と称し、遠州榛原郡に属し後、現今の川筋となり、その郷里は河の東になりたるも尚本郡に属して向榛原と称せしを以ってこれを徴(しる)すべし。
※ 沖積地(ちゅうせきち)- 河川による堆積作用によって形成される土地。

駿河雑記に、
大井川半ばは当国(駿州)、半ばは遠州なり。近世、西の方に落ちて、河東にも遠州の村里多し。中古は下流、今の石津、小川の際、和田港の方に出て海に入る。或は遠州川崎港の方に落ちることもあり。

されど国境の沿革は下流に在りて然るのみならず、中流に在りてもまた然り。古えは大井川が横岡と牛尾山の間を流れし事は、地勢に見るも明らかなりとす。

相伝う、元来、牛尾山と相賀村の間に低窪(ていわ)なる所ありて、その東に、大なる池沼ありしが、永禄年間、大井川洪水ありて、この低窪なる所、破壊して、川は池沼と相通じ、粗々(あらあら)川筋となりしと云う。

またある古記録にも、同暦(永禄年間)中、大井川大水にて、牛尾山上にて瀬変わりありとあれば、あるいは事実ならんか。この時、河流は自然牛尾山東に変じ、山を挟みて東西に分流せし事ありしが、その後、川は人為を加えて現状となりたるものなりと云う。
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