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四国邊路道指南 18 満願寺、41番稲荷宮(龍光寺)、42番仏木寺

(雨の満願寺本堂 2012.5.3撮影)

午後、諏訪原城講演会に出掛ける。講師はお馴染みの加藤理文氏。武田の城の特徴と言われてきた、「丸馬出(まるうまだし)」が最近の調査で、徳川の城にもたくさん見つかっている。徳川は武田の築城法を取り入れて、発展させたということが解ってきた。諏訪原城の丸馬出は、武田の築城の上に、徳川が築城したことが解る、貴重な城跡である。諏訪原城は、徳川方に渡った当初の増設補強は、武田に対するものであったが、武田が滅んだあとは、西の豊臣に向けたものであったことが知られる。ざっと、そんな話であった。

「四国邊路道指南」の解読を続ける。

満願寺、山を左にし、東向き宇和郡津島郷。本尊薬師、行基作、秘佛。

(詠)歌  萬世(よろずよ)の 願いを心に 満願寺
        仏の誓い 頼もしきかな


この寺、八十八ヶ所中あらずといえども、大師草創の梵宮にて、その上の大伽藍なりしが、栄(は)え年久しく、尽くるになん/\とす。今、出す所の霊場記、この道しるべ、両通の料物をあつめ、かの寺を修理せん事、真念念願。
※ 梵宮(ぼんぐう)- 寺。寺院。
※ 料物(りょうもつ)- 代金。


  △四國徧禮霊場記
  △四国邊路志るべ全


○野井村観音堂有り。この村伊左衛門、延宝年中、七年(ななとせ)の間、辺路に足半を施し、志し深き人、宿貸す。過ぎて地蔵堂有り。野井の坂。○祝の森村、地蔵堂。○ひえ田。○寄松村、毘沙門堂。これより宇和島城下まで並松。よき道なり。
※ 足半(あしなか)- 足の裏、半ばまでくらいの長さで、かかとの部分のない藁草履。鎌倉時代から、足さばきがよいので戦闘に用いられた。江戸時代以後は労働用として、農漁村で広く使われた。

○城下町の入口に願成寺、または元結掛(もといぎ)ともいう。由緒有る寺なり。本尊大師の御影。札を打つなり。少し行き橋有り。番所有り。切手を改む。この城下に、三十三所の観音有り。調え物自由。町の出口にも番所あり。次に橋有り。渡り、左方、はら町を行く。○下村こん屋庄兵衛宿貸す。この間、明神宮。○なかあいだ村、この所八幡宮有り。○光満村。この間年に七度なる栗あり。○
務田村、大師堂、窓峠坂。○戸雁(とがり)村。


 
(41番龍光寺の御影と納経印)

一 四十一番稲荷宮、南向き、宇和郡戸雁村。
※ 稲荷宮 - 41番龍光寺。稲荷山護国院龍光寺。

(御本尊の絵)立長一尺、本尊十一面、作者知らず。

(詠歌) この神は 三国流布の 密教を
       守り給わん 誓いとぞ聞く


これより仏木寺まで丗町。○成家(なりえ)村、観音堂、大師堂。○則(すなわち)村。


 
(42番仏木寺の御影と納経印)

一 四十二番仏木寺、平地南向き、宇和郡則村。

(詠歌) 草も木も 仏になれる 仏木寺
       なお頼もしき 鬼畜人天


(御本尊の絵)坐四尺、本尊大日、御作。

明石寺まで三里、歯長坂。○下川村、河有り。○皆田村。○いなん坊村○明石村、この間、明石という大石、これを白王権現という。この石には色々子細有り。
※ 白王権現 -明石寺のすぐ近くにあるが、小さな祠で、大石も見当たらない。
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