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大井河源紀行 2   3月14日 鵜網

(甘夏の前のオダマキソウ)

神座から鵜網の集落に入った。畑に桃や梅の木を多くみた。桃は鵜網の名産だという。家数は二十戸ほどで、大井河原の高い丘の、牛繋ぎ段にある。牛繋ぎと云える地名は、書経の武成に、「牛を桃李の野に放つ」と云う、戦備を解くことの例えの古語がある。それから取ったものだろうと、藤泰さんは想像する。周の武王が、戦いに用いた牛を、桃林と呼ばれる野に放ったという故事を踏まえた古語である。藤泰さんの教養の程が知れる。

鵜網の産神は八幡宮、若宮、牛頭天王、稲荷などで、その外、琵琶神と呼ばれる古祠がある。むかし落人が盲人となった。日々琵琶を弾いて心を慰めていた。里人がその霊を神に祭った。眼病を患うものに霊験があるという。お寺は、曹洞宗宝杖山地蔵院といい、本尊地蔵の小院である。

鵜網(うあみ)の名は、鵜飼師が住んでいたため、むかしは鵜綱(うづな)であったが、後の代に読みを誤って、「うあみ」と読んでしまった。鵜綱なら、「鵜の首につける縄」のことで、意味が通じるけれども、鵜網になり、地名の意味が判らなくなってしまった。

村長(むらおさ)は松浦氏といい、立寄って休憩した。この松浦氏について、
この家は西国松浦の統、渡辺氏の支流にて、今川伊豫守貞世朝臣に属し、かの国より下りて、世々今川家に仕えしが、後の世に落人となりて、この里に蟄居したると申し伝うれども、たしかな證(しるし)も非ざれば、是非、詳らかならず。

落人になったのは、武田と徳川に攻められて、今川氏が滅びた頃であろうか。確かな「證」とは、そのことを示す古文書の類いであるが、江戸時代以前の古文書は大変少ない。松浦氏のは、言い伝えだけで、古文書は残っていなかったのであろう。この松浦氏も、女房の実家の遠縁に当るらしい。

鵜網から川口に至る道は、今でも岩壁を削った自動車道がその辺りだけ狭まっているが、当時も険しい山道であった。藤泰さんはその道中を以下のように記す。

左に大井川を見て、つづら折りなる坂にかゝれば、嶮にして屈曲七曲りになり、およそ十二、三町もあり。峰に石地蔵を安置して休所(やすんど)とす。坂を降りて河原に出たり。前に流れを見て、左手に大井川の流あり。この川は伊久美川の下流にて、ここにて大井河に落ち注ぐなり。河原の中に、舟山とて一小島あり。川の落口の下に聳えたる高き山あり。鵜山という。かの七曲の方なり。また川の落口の上の川岸には畳岩とて、その形、数十畳のたたみを積みかさねたる姿なり。過ぎし年頃、桶舟というものに乗りて、家山より下りし時見たりし佳景の地なり。

伊久美川が大井川に注ぐ川口には、現在、川口発電所が出来て、景色はすっかり変わってしまったけれども、伊久美川の落口、舟山、鵜山、畳岩などがどうなったのか、近いうちに、現地を調べに行こうと思う。

最後に面白い記述がある。藤泰さんは「桶舟」に乗って、家山から川下りしたことがあるという。「桶舟」とはどんなものなのだろう。佐渡で客を乗せる観光用の桶舟の写真を見たことがあるが、不安定で、とても大井川の急流を下れるようには思えない。古文書で、この辺りの渡しに、桶舟が使われた話を聞いたような気もする。これも調べてみたい。

伊久美川を渡って、川口の村に入った。鵜網から半里(2キロ)と記す。
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