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42華陽院、43宝泰寺 - 駿河百地蔵巡り 9回目




(宝泰寺、わらべ地蔵)

(昨日のつづき)
北街道の水落交差点から、手前北側の一角が水落町である。ここに第四十四番水落町地蔵堂がかつてあった。現在どうなっているのかは、情報が全く無いまま、現地を回ってみた。手前一角には常葉学園があり、その先から住宅地に入って、行ったり来たり、うろうろと探してみたが見当たらない。住宅地の真ん中に水落町公園があるけれども、地蔵堂らしきものはない。少し歩くとすぐに水落町から外れてしまう。町内にはお寺も無く、公民館も見当たらない。町内のお年寄りがいれば聞いてみようと思うが、表に出ている人はいなかった。

半ば諦めて、水落交差点にあった交番に寄ってみた。自分は内勤だが、というお巡りさんが、住宅地図を見てくれる。しかし、それらしいものはなかった。次々に転勤するからなかなか古いことは判らない、古くからの商店で聞いてみるしかないという結論になった。大火、戦災などで失われ、都市化の波がすべて洗い流してしまったのかもしれない。古い資料をもう一度調べなおし、再度調査することにして、交番を後にした。


(第42番華陽院)

第四十二番華陽院は北街道を左へ入り、靜岡鉄道の踏切を越えた先、伝馬町通りとの間にあった。案内板によれば、華陽院は家康の祖母、源応尼の菩提寺でお墓もある。元は知源院と呼ばれていたが、源応尼の法名から華陽院と改めたられた。源応尼は、今川氏に人質に取られていた竹千代(家康の幼名)の養育者として、岡崎から招かれた。寺内には、家康の五女、市姫の墓や、側室お久の方の墓もある。

境内には地蔵堂も地蔵尊も見当たらず、地蔵についての情報は全くなかった。本堂に何かあったのかも知れないが、「駿河一国百地蔵尊」の板も見当たらなかった。

第四十三番宝泰寺は伝馬町通りを少し西へ行き、左へ入った、伝馬町小学校の西側にあった。街中にしては広い敷地で、四方を塀に囲まれ、入口は通用門一ヶ所だった。入るのに少し腰が引けたが、入ってみた。

境内は全体が庭園のように整備されて、あちこちに「わらべ地蔵」が置かれている。幼くして亡くなった子供たちの供養のため置かれ、年に一度、わらべ地蔵まつりが開催されるという。様々なポーズのわらべ地蔵は庭のあちこちで日永遊んでいるように見える。


(宝泰寺、地蔵尊立像)
 
さて、百地蔵の地蔵尊を探したが、「駿河一国百地蔵尊」の板は見当たらず、墓地のまっすぐ入った突き当たりに、高い台石の上に、石の地蔵尊立像が祀られていた。外に情報がないので、この地蔵尊を百地蔵ととりあえず決めておこう。したがって、わらべ地蔵は番外のお地蔵さんとして数える。

本日の歩数42,215歩、歩行距離21キロである。
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