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故郷の家のそばの小公園


写真は、名前が付いているのかどうか知らないが、故郷の家のそばの小公園の現在の姿である。今年の夏、帰郷した時に撮った。

円山川の支流が故郷の街を西から東へ横切って、円山川の廃川に流れ込んでいる。直前に、その支流はわが母校の小学校の校庭を暗渠になって潜るため、一度姿を消す。再び現れるのが写真の公園のそばの川である。かつては公園を区切る宵田橋の先で廃川に合流していた。

子供の頃は、公園のあった辺りは周りを石垣で囲まれた低地で、細い川が流れていた。次兄と川を堰き止めた先の網に小鮒を追い込んで、バケツ一杯取り、家の裏で飼っていた鶏の餌にしたような記憶がある。まだ小さかった自分は見ていただけだったか、話に聞いただけだったのか。しかし戦後間もなしのその当時は街中の河川もそれほど汚れていなかった。

間もなくその低地には周りから垂れ流しの下水が流れ込み、たちまち子供たちを寄せ付けないどぶ川と化してしまった。低地にはゴミが捨てられ、ゴミの中に草が生えた。水が出たとき、低地の中の一ヶ所、土砂が捨てられ高くなったところへ、草地の蛇が避難して集り、何十匹も重なり合った光景を見たことがあった。だから、水の出ていない時でも、そんな低地にボールが落ちると、水辺まで取りに降りるため、恐々草地を通った。

低地が公園として整備されたのは、故郷を離れてしばらく経ってからであった。真ん中の水路が整備され、荒地が3分の2ほど埋め立てられ、樹木が植えられて木陰のあるいい公園になった。親父たち近所のお年寄がボランティアで植木の整備をしたり、子供連れの母親たちが子供を遊ばせる姿も良く見かけた。

ところが何年かして帰郷してみると、現在のように、幾何学模様のコンクリートで固められた公園になっていた。住民には大変不評の公園で、夏はコンクリートの照り返しで暑いだけ、植木の剪定をするお年寄の姿も消え、無人の公園になってしまった。

確かにお役所的には草取りの必要もなく管理が大変楽になったかもしれない。しかし、利用者を追い出してどうするの、と当時無性に腹が立った。予算が有るから使わなければならない。事業を実施する前に、住民の声を聞いてみようとする気すらない。こんな行政が一昔前までは主流であった。

今は財政が苦しくなって、やりたくても出来ない。ほんとうに必要なものは何か、住民の意見を少しは聞くようになった。貧することで健全になった。ホリエモンが拘置所から随分スリムになって出てきた(今はリバウンドしている)ようなものか。違うか。
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