三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

【長谷川豊】「死刑反対」の人権派は「死刑」の根本的な意味を分かっていないんじゃないか?

2017年10月13日 | 死刑

ネットをあれこれ見ているうちに、「【長谷川豊】「死刑反対」の人権派は「死刑」の根本的な意味を分かっていないんじゃないか?(2017年7月27日)」という投稿を見つけました。
https://oshiete.goo.ne.jp/watch/entry/b38e511fd02a0d7cf40e516fd0ae97f4/
アメリカのオハイオ州で死刑執行のため薬物を投与された男が、約10分間にわたってあえぎ、体を震わせながら死亡した、という記事についての感想です。

アメリカの憲法には「過度に残忍な」刑罰を禁じている。
この薬で死刑が執行されれば、死刑囚は「息ができなくなり、苦しみと恐怖の中で死に至る」と予想できたと弁護士が言っている。
死刑執行に立ち会った死刑囚の子どもたちが涙を流して動揺した。
https://www.cnn.co.jp/usa/35042654.html

このCNNの
記事に対して長谷川豊氏は、この死刑囚は妊娠中だった22歳の女性を強姦し、殺して死刑を言い渡されたんだと言うわけです。

私、もっと苦しめて全然いいんじゃないのって考え方の人間なんですが、私がおかしいんですかね?(略)
社会には、これだけ人間がいるのです。ゴミはいる。しょうがない。それは何十億人もいるのですからしょうがないのです。
ゴミはごみ箱に捨てるべきだ。こんなの、当たり前のことです。
私は、むしろ甘い殺し方だと考えます。出来ればネットで生中継した方がいいとすら考えています。小学校時代からその死刑執行シーンはみんなに見せた方がいい。ふざけたことをやれば、どんなに苦しむのか、よく見せた方がいい。
みんな真面目に生きているのです。ナメたことをやったバカが、どんな苦しんでごみ箱に捨てられるのか、見せた方が絶対に将来の役に立ちます。
残酷だ!という批判はどうぞご勝手に。
私は「自分は人権派」とか言う人たちのうさん臭さを心の底から痛感しています。優しいこと言ってる自分に酔ってるだけだろ? こんな優しく、思いやりのある自分、大好きなだけだろ。正直に言えって。
私は死刑にするなら、もっと残酷に殺すべきだと考えます。
せっかく死刑にするなら、もっと「教育」に役立てないと意味がないと考えている人間です。
それは大局で見れば、絶対にその方がいいはずだからです。

「おかしい」に決まっています。
酒場談義ならともかく、日本維新の会公認候補として衆議院選挙に出馬するような人にしてはあまりにも乱暴な意見です。

人類の歴史は厳罰化から寛刑化への歴史、応報刑から教育刑への歴史だということを知らないのでしょうか。

是枝裕和『三度目の殺人』は、死刑になるかもしれない被告と弁護人の話。

ヴェネチア国際映画祭では賞を取れませんでした。
ネットでは、EUは死刑を廃止しているからだという意見もあります。
弁護人は死刑制度に疑問を感じず、当然のことと考えていると思われたのかもしれません。

長谷川豊氏はどういう処刑法が残酷でいいとは書いていませんが、残酷な刑罰というと中国でなされていた凌遅刑はどうでしょうか。

凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間にわたって激しい苦痛を与えたうえで死に至らす刑。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
「凌遅刑」で検索すれば、ネットで写真を見ることができます。

いったい誰に「残酷に殺す」ことをさせるのやら。

「絶対に自分の手でヤるわ」と書いてるわけですから、長谷川豊氏自らが一手に引き受けるというのでしょうか。
処刑の後に冤罪だとわかっても、仕方ないですましてしまいそうです。


おまけに、「小学校時代からその死刑執行シーンはみんなに見せた方がいい」、「せっかく死刑にするなら、もっと「教育」に役立てないと意味がない」とまで言い切る。

長谷川豊氏は、小学生のときに死刑囚が「どんなに苦しむのか」見たかったんですかね。
映画だって残虐なシーンがあればR指定されて、小学生は見ることができません。
長谷川豊氏の主張どおりにしたら、日本は世界で最低の国だと思われることは間違いありません。

長谷川豊氏は暴言、妄言の常連です。

https://twitter.com/XtLkgvRmdt5c9Ds

足立康志議員も困った人です。
https://matome.naver.jp/odai/2147964537237438101

こんな人をよくもまあ日本維新の会は公認したものです。

でも、日本維新の会の代表だった橋下徹氏も失言、暴言を繰り返しています。
「愛人を推奨? 橋下徹氏の失言まとめ」
https://matome.naver.jp/odai/2139688737577765701
適菜収オフィシャルブログ「橋下徹は詐欺師である。」
https://ameblo.jp/tekinaosamu/

このご時世、能・狂言のファンって言うと、恥ずかしいじゃないですか。変質者っていうか。

小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください。

今の日本の政治に一番重要なことは独裁ですよ。

(在日米軍に司令官に対し)もっと日本の風俗業を活用してほしい。

自分の権力欲、名誉欲を達成する手段として、嫌々国民のため、お国のために奉仕しなければならないわけよ。

こんな人間を支持し、投票する人の気が知れないし、政治的な影響力を持っているというのはどう考えてもおかしい。
だけど、「維新の会」と名前がついているだけで、号泣会見で有名になった野々村竜太郎氏(西宮維新の会)でも兵庫県議会選挙で当選してしまう不思議さ。

「大阪維新の会」不祥事リストというサイトがあります。

https://matome.naver.jp/odai/2144437261638147701?page
政務活動費や政務調査費を私的なことに流用し、ばれたら返還して終わりですむとは。
野々村竜太郎氏は、嘘の収支報告書を提出し、政務活動費をだまし取ったとして、詐欺罪で有罪となっているのに、です。
正義感あふれる長谷川豊氏なら、金を返す程度では許さないでしょう。

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堀川惠子『死刑の基準』

2017年06月27日 | 死刑

永山則夫事件の第二審の裁判長だった船田三雄氏が、退官後に弁護士会で行なった死刑の勉強会での話を、堀川惠子『死刑の基準』は紹介しています。

船田三雄氏は、若いころに担当した二件の裁判で、死刑事件に対する裁判所のあり方に大きな疑念を抱くという経験をしていた。

1953年に起きたバー・メッカ殺人事件の加害者は、裁判で罪を全面的に認め、キリスト教に帰依し、贖罪の日々を送るようになった。

しかし、一審で死刑、最高裁で死刑が確定した。

1954年のカービン銃事件では、会社社長を呼び出し、小切手を奪って殺害し、一審では死刑判決だったが、二審で無期懲役。


どちらの事件でも左陪席だった船田三雄氏は、バー・メッカ殺人事件は無期懲役が相当(初犯であること、被害人数が1人であること、犯行後に更生(『死刑の基準』ではすべて「更正」となっている)に向けて生きようとしている姿があること)で、カービン銃事件は死刑相当と思ったという。

船田三雄氏が疑念を抱いたのは、もし自分が裁判長であれば、それぞれの裁判は結果が逆になっただろうことにである。
つまり、裁判所で同じ事件を審議するのに、死刑になるか否かが問われるときに、裁く人(裁判官)によって結果が違うような状態でいいのか、ということだ。

船田裁判官が若き日に直面した二つの裁判は、「死刑」か「無期懲役」かを争う裁判だった。

人間の命がかかった裁判なのに、ある裁判官だと処刑、別の裁判官だったら生きることを許される。
これは、運が良いとか悪いとかで片づけられる次元の話ではない。

船田三雄氏は、永山事件控訴審で無期懲役判決を出したため、「もともと死刑廃止論者だった」「ハト派だった」と評される向きもあった。

しかし、1973年、水俣病被害の補償についてチッソ社長への面接を求めて社内に立ち入ろうとした被告人らを阻止しようとした社員に、被告人が怪我を負わせたという水俣病自主交渉チッソ本社事件で、弁護団と被告人が裁判長の命令を無視して許可なく法定外に出ていったので、船田裁判長は法廷に内側から鍵をかけ、弁護団と被告人の再入廷を認めず、弁護人と被告人が不在のまま審理を続行している。

『裁判官紳士録』(1981年刊)には、船田三雄氏について「被告人の実態像と取組もうとする姿勢がない。訴訟進行が事務処理的。(略)判決は紋切り型」と記述されている。

この船田三雄氏が、1980年から始まった控訴審の裁判長だったのである。

堀川惠子氏はなぜ永山則夫に関心を持ったのか。

2009年、光市母子殺害事件の差し戻し審の判決が出たとき、記者が大きな声で「主文は後回しです。死刑判決が濃厚です!」と繰り返したら、広島高裁の外で判決を待っていた市民たちから拍手と歓声があがった。
このことを知った堀川惠子氏は、一体どういうことかと耳を疑い、「死刑」に対して拍手と歓声があがったことに戦慄を覚えた。

二審の広島高裁(無期懲役)の判決文にも、差し戻し審の広島高裁(死刑)の判決文にも永山裁判の判決文を引用されているが、判断を分けた。

そこで、堀川惠子氏は永山則夫を調べてみようと決心したという。

こうした経緯があるためか、『死刑の基準』(2009年刊)は永山則夫のことを語りながら、光市母子殺害事件の被告と重ね合わせている部分があるように感じます。

永山事件控訴審の判決文の一部。

(被告人は)愛情面においても、経済面においても極めて貧しい環境に育つて来たのであつて、人格形成に最も重要な幼少時から少年時にかけて、右のように生育して来たことに徴すれば、被告人は本件犯行時十九歳であつたとはいえ、精神的な成熟度においては実質的に十八歳未満の少年と同視し得る状況にあつたとさえ認められるのである。のみならず、かような生育史をもつ被告人に対し、その犯した犯罪の責任を問うことは当然であるとしても、そのすべての責任を被告人に帰せしめ、その生命をもって償わせることにより事足れりとすることは被告人にとって酷に過ぎはしないであろうか。かような劣悪な環境にある被告人に対し、早い機会に救助の手を差し伸べることは、国家社会の義務であつて、その福祉政策の貧困もその原因の一端というべく、これに眼をつぶって被告人にすべてを負担させることは、いかにも片手落ちの感を免れない。換言すれば、本件のごとき少年の犯行については、社会福祉の貧困も被告人とともにその責任をわかち合わなければならないと思われるのである。


永山則夫の無期懲役の判決に対し、週刊誌などは、連日、船田判決を批判したそうです。
永山裁判の一審で1976年から死刑判決が下される1979年まで右陪席を務めた豊吉彬氏は、最近の死刑判決やマスコミの動向には危惧を感じていると語っています。

最近ちょっと死刑事件が多いような気がしますね。昔はあまりアンバランスなことはなかったです。誰が裁いてもこれは死刑だというような事件が死刑になっていました。でも最近はちょっと傾向がバラバラですね。無期と思うようなものが死刑になったりしています。やはり裁判というのは制度として誰がやっても、どこで裁いても同じようにならないといけないと思うんです。今の世の中の流れでは、裁判員裁判が始まると死刑が増えるのではないかと心配しています。
マスコミにもきちんと役割を果たしてほしいですね。最近は反対のことが目立つ感じがします。刑事裁判というのはあだ討ちの場ではないのですから、被害者がこういっているから死刑というのはね、本来は正面からいうべきことじゃないと思うんです。国家が被害者に代わってあだ討ちをするようなことになってはいけないと思います。


「社会を明るくする運動」の作文コンテスト法務大臣賞の作文がすばらしいです。

柴田嘉那子さん(小学校6年)「大切な魔法の言葉」

柴田さんの両親は児童自立支援施設で寮舎運営を担当していた。
家庭環境に恵まれず、非行に走ったり、虐待を受けたりして、人間不信、大人不信をもつお兄ちゃんたちは、家庭裁判所の審判の結果、入所し、柴田さんの両親がお父さんがわり、お母さんがわりをしていた。
入所前まで、「おかえり」と言われたこともなければ、誕生日を祝ってもらったことのないお兄ちゃんもいた。
お兄ちゃんたちは、柴田さんの誕生を楽しみに待ち、成長の変化に両親よりも早く気づき、一番喜んでくれた。

退所したお兄ちゃんたちみんなに、
「おかえり。」
と言葉をかけてくれるよき理解者がいるのだろうか。安心・安全な居場所を、現在、もてているのだろうか。


金澤寿靖さん(中学校3年)「笑顔で挨拶まずはそこから」
金澤さんの祖父は農作業の帰りに、駅でタバコの吸い殻を拾い、道端におかれている空き缶やペットボトルを拾っていた。
金澤さんが小学生のとき、いつものように駅を通りかかると、タバコを吸っている茶髪の高校生たちがいた。
祖父は吸い殻を拾い、「こんにちは」と笑顔で声をかけた。
次の日、同じように駅を通りかかると、タバコを吸っていた高校生が祖父の顔を見るなり、あわててタバコを消し、吸い殻を隠した。
祖父は「こんにちは」と声をかけたら、彼らはぺこりと頭を下げた。
驚いた金澤さんが祖父にたずねると、祖父はこのように答えた。
以前はタバコを吸ったり、ゴミを平気で捨てる高校生には厳しく注意をしていたが、注意すればするほどいたずらや迷惑行為が増えていった。
祖父が保護司をしている旧友に愚痴をこぼすと、旧友はこんな話をしてくれた。

非行や犯罪に走ってしまう若者は、自分を認めてもらう方法がわからない。自分の居場所がなく、自分を表現する方法を知らないのだ。そこから生まれるいらだちが、間違った道に進ませてしまう。そして一度非行や犯罪に手を染めてしまい、悪いレッテルをはられると、ますます社会に受け入れてもらえなくなる。反対なんだよ。そういう人こそ誰かが「受け入れて」「認めて」「赦して」あげないといけないんだ。

祖父は、みんなが嫌う子たちを見たら、受け止めてあげよう、居場所を作ってあげたいと思う、と語った。
中学生になった金澤さんがあらためて考えると、居場所を作ってもらっているのは祖父のほうではないか。

二人の文章を読み、永山則夫のまわりにも、こんな人たちがいたらと思いました。
それにしても、犯罪や非行を犯した人を地域が受け入れ、立ち直りに協力するという「社会を明るくする運動」を主唱している法務省が、その一方で、社会から究極的に排除する死刑制度を維持しているのはどういうことかと思います。

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郷原信郎・森炎『虚構の法治国家』

2017年01月10日 | 死刑

『虚構の法治国家』は元特捜検事の郷原信郎氏と元裁判官の森炎氏の対談。
検察と裁判所を批判しています。

日本の刑事司法の主役は検察で、検察が刑事司法を完全に仕切り、裁判所は検察に大きく依存している。
事実上、有罪・無罪も検察が決め、刑事司法のすべてを実質的に支配する。

○なぜ有罪率が99・957%(1997年度)、勾留決定率が99・9%(1997年度)と高いのか

郷原「検察には、99・9パーセント有罪が異常だという認識はないでしょうね。むしろ、検察から見れば、それは検察の起訴の判断の的中率ですから、高ければ高いほど良い」

有罪率99・9パーセントは捜査の優秀さを示すものとは必ずしも言えず、人質司法、虚偽自白、裁判官の有罪判決へのモチベーションなどの矛盾と仕組みがある。

① 人質司法

郷原「日本の場合、犯行を認めていないと罪証隠滅のおそれがあるという理由でいつまでたっても保釈が認められない。犯行を認めない限り身柄を拘束し続けるということになります」
森「そして、認めれば、それが有罪方向の証拠になるのですからね。「犯行を認めない限り勾留する、認めれば保釈する」というやり方は、一種のパラドックスを含んでいます」
郷原「長期の身柄拘束に耐えきれず、身柄を解放してもらおうと思って認めたら、それが有罪方向の証拠になってしまう」
森「人質司法は、容疑を認めない限り身柄を拘束して、潔白を主張し続けるだけの気力を奪おうとするものです。有罪率99・9パーセントは、それがもたらした結果ではないかと疑われるわけです」
郷原「そもそも、そういう人質司法というやり方が、日本で、なぜさしたる批判もなくまかり通ってきたのかと言えば、そこには先ほど言った「犯罪者の烙印」との関係があると思います。起訴されても裁判で有罪が確定するまでは「無罪の推定」が働いているはずなのに、実際には、99・9パーセントの有罪率の下で、検察官の判断が、事実上、裁判所の司法判断と重なり合っているため、社会的には、起訴によって被告人は事実上「犯罪者」として取り扱われます。(略)人質司法というやり方が許容されてきたのも、起訴によって「犯罪者としての烙印」が押されているのに反省悔悟することもなく犯罪事実を否認する被告人は、社会から隔離しておくのが当然だという考え方があるからだと思います」


以前、交通事故を起こしたことがあります。
幸いにも相手の方は軽傷だったのですが、その場で取調、調書の作成がありました。
私としては、この場からとにかく早く立ち去りたい気持ちでいっぱいでした。
警察に逮捕され、留置場や拘置所に勾留されていたら、ここから出るためだったら嘘でもなんでもつくと思いました。

② 虚偽自白
否認していたらいつまでも保釈が認められないため、保釈をもらうために虚偽の自白をすることがある。

森「市民の自由にとって深刻な病理が法権力によって生み出されています。重罪の虚偽自白にまつわる問題です。冤罪の最も大きな原因に、無実の者がしてしまう自白、つまり「虚偽自白」があると言われています。なぜ、虚偽自白が生ずるのか。無実の者が自白してしまうというような事態がどうして生ずるのかと言うと、それは、いま出てきた人質司法が関わっているわけです」
森「取り調べの具体的な現象としても、見過ごせない問題があります。自白しない被疑者の取り調べでは、必ずと言ってよいほど、「いつまでも争っているより、認めて刑を軽くしてもらったほうがいいぞ」という説得をするでしょう。そして、日本の刑事裁判では、争って有罪と判断された場合より、罪を認めていた場合ほうが判決で刑が軽くなるのは事実ですよね。だから、いま述べたような捜査官の説得は、虚言を弄して自白させようとしているわけではないから、取り調べとして当然のように適法とされています」


以上は比較的軽い罪の場合によくみられることで、死刑も予想されるような重罪の場合にはあまり効果がない。

森「死刑などが予想される重罪の場合には、冤罪を主張する者に対して「言い分は、公判になってから裁判所で言えばよい」と、あたかも裁判所では、その言い分が十分に取り上げられるかのように説得して、調書に署名させる。そういうやり方を取ることもあるでしょう」
森「おまけに裁判所は、「死刑になるかもしれないような重大事件について、実際にはやってもいないのに自白するはずがない」という論法を平気で使います」



③ 裁判官のモチベーション

郷原「検察の主張よりも、もっと精密で巧妙な論理構成で有罪判決を書くということですね」
森「証拠は不十分な場合にも、「証拠は十分ではない。しかし、それをうまく有罪構成できないか」という意識が必ずと言ってよいほど働くのですね」


○なぜ冤罪事件が起きるのか
無実だから否認しているのに、否認しているから反省していないと見なされるというのも怖い話ですが、もっと話は怖くなります。

森「日本の冤罪事件の特徴として、私がとくに取り上げたいのは、日本の冤罪は、誤判というより、冤罪性をわかったうえで有罪にされている疑いがあることです」
郷原「日本の冤罪事件は、過失ではなく故意だと。裁判官は冤罪だとわかっていて有罪判決を下しているということですか」
森「明確な無実を有罪にしているというのではなく、もしかしたら無実かもしれないと思いながらもそうしている司法の現実を言っているのです」


森炎氏は冤罪は作られるということを、帝銀事件、財田川事件、袴田事件などから説明しますが、それは省略。

「FORUM90」VOL.150に、袴田事件の弁護人である小川秀世弁護士のこういう話が載っています。

静岡県警は袴田巌さんにトイレにも行かせないで取調べをし、どうしてもトイレに行きたくなったら、取調室に便器を持ってこさせた。
取り調べた警察官は法廷で「あれは、マスコミがたくさん来ているから、ここで用を足したいと、袴田さんから要望があった」と話している。
ところが、袴田巌さんの取調べテープが出てきて、それには松本という警察官が「ここでやらせろ」と指示をしている場面が録音されている。
法廷で警察官は偽証したのである。

味噌樽から発見された5点の衣類によって袴田巌さんは犯人とされたが、このズボンを袴田巌さんははけなかった。

このことについて裁判所は「B体の太めのズボンだから、もともとははけたけれど、味噌で縮んだ」とした。
ところが、この「B」とはメーカーがつけた色の記号だったことが、証拠開示でわかった。
検察は今までずっと隠し、「B」はサイズの記号だと嘘をついていた。
死刑事件なのに、警察や検察は証拠を隠し、嘘をついてきたのである。

最高裁で袴田事件の調査官をした渡部保夫氏に、小川秀世弁護士が5点の衣類はこういう意味で捏造ではないかと話したら、「小川君、警察はたまには証拠を偽造することはあるけれども、こんなに大がかりな捏造をすることがありますか」と反論した。


一次再審請求の東京高裁の裁判官は、再審について書いた論文の中で、記録を検討したら誤判であることがわかった、しかし新証拠がない、そういう時にどうするか、という問題提起をし、「これまた人間の営為としてはいかんともしがたいものである」と書いている。


袴田巌さんは無実だと知っていながら放置したわけです。
これで袴田巌さんの死刑が執行されていても、仕方ないですますのでしょうか。

郷原「なぜ、そういうことになってしまうのか。森さんはどう思いますか」
森「どうして裁判官がそこまで冤罪性を軽視することになったのかと言えば、戦前の治安維持法で思想弾圧に加担したことが影響していると思います」
裁判所は片っ端から有罪にしていったわけで、冤罪性に無感覚になる。
森「私は、日本の裁判所の基本姿勢は、社会一般から批判を受けるような事態になるまでは冤罪にはぎりぎりまで目をつぶる。そして、裁判所までが批判の矢面に立たされそうになったら、捜査機関のせいにして冤罪を認めるというものだと考えています」


このように森炎氏は言うわけですが、裁判所が再審を認めることはほとんどありません。
無実の罪を着せられるのは他人事ではないし、無実だと証明することは難しい。
ため息の出るような対談でした。

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佐藤大介「米国・死刑取材の現場からの報告」

2016年09月29日 | 死刑

佐藤大介「米国・死刑取材の現場からの報告」(「フォーラム90」vol.149)は、アメリカの死刑事情についての講演録です。

佐藤大介氏は共同通信の記者です。
テキサス州で死刑囚にインタビューしています。

テキサスの司法当局のHPには、死刑の情報が一定程度公開されている。

収容されている死刑囚の氏名など写真入りの細かい個別情報、死刑執行のこれからの予定、執行前の最期の言葉、執行に立ち会った人のリストなど。

HPから死刑囚のインタビューを申し込むと、すぐに返事が来た。
死刑囚の中から3人を選んで送ると、死刑囚本人がOKだから、何時に来てくれと、話が決まる。

佐藤大介氏がメディアの人間かどうかの確認はしない。
死刑執行当日のスケジュール、普段の生活も教えてくれる。
自分たちは公務員として仕事をしているから、公開するのは当たり前だという姿勢。
死刑囚と面会するに際して、ICレコーダーとカメラは持って入ってもいいし、撮影用のライトをセットすることもできる。

400人近い死刑囚の執行に立ち会ったマイケル・グラチェクという記者にも話を聞いています。

マイケル・グラチェク記者はたぶん死刑には賛成だということですが、「政府のやっていることを監視するのが我々の仕事なんだから、これは立ち会わなきゃいけないんですよ」と言っている。

日本では死刑囚や執行について基本的に情報公開はないということを話すと、「例えば、その死刑囚が本当に死んだって誰が証明できるの」と言われる。
日本では絞首刑だが、首が切れたり、のたうちまわるとかいったことはないという法務省の説明を、どうして鵜呑みにするのかと聞かれて、佐藤大介氏は返事ができない。
当局が発表したことを、どうしてそんなに無批判に受け入れるのか、どうしてジャーナリストは疑問をはさまないのか、佐藤大介氏は自省します。

カリフォルニアで死刑廃止運動をしている人にもインタビューしています。
彼らは、有権者に問いかけるべき課題というのは具体的でなくてはいけない、感情的ではなく合理的に説明していく必要がある。と強調する。
たとえば、仮釈放なしの終身刑を導入することで、カリフォルニアでは年に1億5千万ドルの費用を節約できるというデータを示す。
そして、そのお金で、被害者への支援をする、あるいは犯罪を生み出さないよう、貧困問題や格差の問題、教育の機会などにお金を使うべきではないかと主張する。

日本の死刑の問題点
・死刑囚の実態が見えない
佐藤大介氏がテキサス州で会った死刑囚は、いろんな人と会ったり、文通をすることで死刑の恐怖から耐えることができている、全く面会者がいない死刑囚は頭がおかしくなっていると言っています。
・執行基準が明らかではない
なぜその死刑囚が選ばれたのかがわからない。

死刑廃止とは法律を変えることだと佐藤大介氏は言っていて、そうかと思いました。
法律を作り、国会の法務委員会で法案が了承され、国会で可決されないと死刑廃止はできない。
そのためには国会議員への働きかけが必要だが、それがなされていない。
なるほど、そのとおりです。

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田口真義「死刑について何を知った上で判断したのか」

2016年06月14日 | 死刑

「FORUM90」vol.146に、田口真義「死刑について何を知った上で判断したのか」という講義録が載っています。
2015年12月、裁判員裁判で判決を受けた死刑囚の中で初めて執行された津田寿美年さんの裁判をすべて傍聴した田口真義氏が一番印象に残っているのは、被害者ご遺族の存在だそうです。

とても苛烈な感情を露わにする。人定質問の時点から悲鳴のような叫び声、机を叩く、資料を投げる。津田さんが言葉を発するたびに、机を叩く、(机を)蹴る。そしてこれを裁判長も検察官も止めなかった。

裁判員3人の席からは見えているが、裁判長や他の裁判員には見えない状況だった。

被害者ご遺族の方々が感情を露わにするのにも波があって、約2週間の公判の中で泣く時もあれば、暴れるというのは言い過ぎかもしれませんが、そういう予兆みたいなものが何となく傍聴席にいても分かってくる。そういう空気が流れると、検察官がうつむきながら「したり顔」をする、ニヤリと笑うんです。

田口真義氏がショックだったのは、被害者遺族の意見陳述のとき、被害者のお孫さん(16歳の女子高生)が「犯人は消えてほしい」と言う横で、検察官はハンカチを目に当てながらニヤニヤしていること。

津田寿美年さんの裁判の裁判員経験者の話で、田口真義『裁判員のあたまの中 14人のはじめて物語』に載せていない言葉。

仮に被害者に処罰感情がなかったなら、無期になっていたと思う。死刑か無期かの境目は処罰感情なんだと思う。

田口真義氏はこう言います。

被害者が天涯孤独の、まったく無縁の方だった場合、その処罰感情はまったくないことになってしまう。そうすると、例えば同じ人数の被害者だったとしても、それが死刑かどうかの分かれ目になってしまう。


長谷川博一『殺人者はいかに誕生したか』に、裁判所は真実の解明が使命ではないとあります。
本来、法廷や裁判は、被害者のためではなく、被告人のためにあり、被告人が公正な裁判を受ける権利、つまりデュー・プロセス(適正手続き)は保障されなければいけない。
しかし、実際の裁判は真実をあきらかにする場ではなく、検察官と弁護人の闘い、駆け引きの場にすぎない。
真実を察していたとしても、検察官も弁護人も、ぞれぞれの立場から不利なことには触れない。

社会が抱く大きな誤解は、「刑事裁判によって事件の真相が明らかにされる」という思い込みだと、長谷川博一氏は言います。
量刑判断が刑事裁判の意味で、犯行心理が解明されないまま判決が下されて終わるケースが多くなる。
量刑を判断する上で専門家による調査(各種鑑定)がなされることがあるが、それは真実の究明を目的としているのではなく、判決を決める裁判の一プロセスに過ぎず、場合によって判断材料とすることがあるという程度のものだったそうです。
裁判員裁判は、儀式として一般市民が参加するだけなのかもしれません。

田口真義氏の話は興味深かったので、『裁判員のあたまの中』を読もうと探しました、図書館には納められていませんでした。
『裁判員のあたまの中』ですが、「裁判員制度はいらないインコのウェヴ大運動」というサイトによると、「本を読んだ感想を一言で言うなら「血まみれになってうれしがる人たち」」とのことです。

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佐藤大介『死刑に直面する人たち』

2016年04月23日 | 死刑

佐藤大介『死刑に直面する人たち』は死刑囚、刑務官、弁護人、法務官僚、被害者遺族、死刑囚の家族など、死刑に関わる人たちの声に耳をかたむけ、死刑に関する諸問題について考えていく本です。

刑務官の言葉です。

(元死刑囚は)部屋をいつもきれいにしていて、対応も素直でね。壁には子どもや家族の写真を貼っていて、おとなしく過ごしていた。やったことは凶悪だけど、普段接していると情は移るよ。いつも見ているのは、そんな素直なやつでしかないんだから。(執行は)ただ悲しいとしか言えない。悲惨だよ。


死刑執行が法務省で公表されるようになってから、刑務官の心のケアに一層配慮するようになった。
法務省が死刑執行を公表する際には、執行場所である拘置所名も明らかにされるので、「刑務官の家族はもちろん、親類や知人、子どもの学校にまで「死刑を行った場所に勤めている」というイメージを植えつけかねない」との懸念が生じているから。
東京拘置所処遇部長

処遇する職員はたいへんだから、ベテランの有能な人が担当として当たっています。担当職員は神経をすり減らしますから、定期的に交替しないといけません。


死刑囚の教誨師は執行に立ち会う。

教誨の活動というのはミッションだと思っています。仕事じゃなくて使命なんです。でも、自分のしたことはミッションを超えている。戦争に行ったら、こんなのとは比べものにならない惨状が広がるわけで、だからみんな精神を病むんでしょうね。


元死刑囚の母

事件後、周囲からは「死刑の家族とはつき合えん」とささやかれ、先立った夫が生前手にした退職金も「奪ったカネだろう」と言われた。後ろ指を指され続けることに耐えられず、夫と自殺を話し合った日は数え切れない。首を吊ろうとロープを手に、夫婦で夜中の山中をさまよい、そのまま朝を迎えた日もあった。生活から笑いや楽しさが失われるなか、母親は二人の被害者の名前を札に書いて壁に貼り、夫と毎日てを合わせてきた。
だが、そうした苦しみが、死刑囚となった息子に刑が執行されたことで消えるわけではない。むしろ、息子が殺めた二人の死に加え、その息子の死にも向き合うことになり、心には底知れない暗闇が広がるようだった。


早稲田大学で行われた刑事制度についての「審議型意識調査」での「日本の死刑について」のセッションで、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の高橋正人弁護士と、弟を殺害された原田正治さんがゲストスピーカーとして壇上に上がった。
高橋正人弁護士の発言は迫力があります。

死刑にしても被害者が生き返るわけではないから、生かして償わせた方がよいと言って死刑を廃止すべきだという論者がいる。しかし、被害者を生き返らせる方法がないなら、命をもって謝罪して欲しいというのが、被害者遺族の心情であるから廃止する理由にならない。死刑は残虐だという人もいるが、残虐の限りを尽くして殺害した加害者のことを不問にして死刑は残虐だというのは公平ではない。

死刑廃止論をこのように完全否定します。

故意に死を招いた者は死をもって償うべきだという道徳観は定着している。人の価値は平等だといって廃止を唱える向きもあるが、人の価値が平等なら、理由もなく人の命を奪った者に対してこそ死刑にしなければ、不平等である。死刑は国家による殺人だと非難する人もいるが、罪のない人を大量に殺戮する戦争を認めておきながら、少数の重罪犯に対する正当な処遇である死刑を否定するというのでは説得力がない。
誤判の虞れがあるから廃止すべきという意見もあるが、すべての殺人事件で誤判の虞れがあるわけではなく、また、誤判は、疑わしきは罰せずとの原則を貫くことで避けることができる。

いかに迫力があっても、賛成はできません。
「疑わしきは罰せず」が原則だといっても、実際には冤罪事件が生じているわけで、誤判を避けることが本当にできると、あすの会の会員が信じているとすれば、事実を見ないようにしているとしか思えません。

刑法の本を読んで、まずはなんて書いてあるか。応報なんです。復讐してやりたいというのが犯罪被害者の遺族です。でも、それはできないから、国家にその無念を晴らしてもらいたいと思っている。生きて償わせればいいという意見もあります。でも、真人間になっても殺された息子は帰ってこない。だから死んで償ってくれと思うのです。その応報の気持ちが忘れられてしまっている。更生はいいことだけど、それは被害に遭っていないわれわれには関係ないのです。更生しようが関係ない。だから、死んで償ってくれと。

被害者遺族の感情で死刑か無期か有期かを決めるべきだと、高橋弁護士たちは考えているのでしょうか。
犯罪者の更生が被害に遭っていない私たちと無関係であるはずはありません。
被害者であろうと、被害者でなかろうと、社会の中で生活しているわけですから。
それと、「死んで償ってくれ」と言いますが、加害者が自殺しても「死んで償ってくれた」とは思わないでしょう。

被害者がみんな厳罰を望んでいるわけではありません。

片山徒有さん「被害者はみな加害者への厳罰を望んでいると思われがちですが、決してそうとは限りません。同じ被害者を出さないことが、一番の望みなのです。「被害者は厳罰を望んでいる」と周囲が決めつけるのは、被害者家族にとって大きな負担になるのです」

社会から犯罪を減らすためには厳罰よりも、社会復帰できる環境作りが重要だと思います。

政府による死刑制度に関する世論調査だと、死刑賛成の人が多いのですが、質問の仕方に問題があります。
1956年~1989年の質問。
「今の日本で、どんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか、反対ですか」
回答(1)賛成
  (2)反対
  (3)わからない

1994年~2009年の質問。
「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか。」
回答(1)どんな場合でも死刑は廃止すべきである
  (2)場合によっては死刑もやむを得ない
  (3)わからない・一概に言えない

2014年の質問。
質問「死刑制度に関して、このような意見がありますが、あなたはどちらの意見に賛成ですか」
回答(1)死刑は廃止すべきである
  (2)死刑もやむを得ない
  (3)わからない・一概に言えない

1994年~2009年の質問は「どんな場合でも」と「場合によっては」との選択だから公平ではないという批判がありましたが、1989年までの「どんな場合でも」や、2014年の「廃止すべき」と「死刑もやむを得ない」も似たようなものだと思います。

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長谷川博一『殺人者はいかに誕生したか』

2016年03月26日 | 死刑

長谷川博一氏は臨床心理士、人と寄り添い、対話を通してその人の心を理解し、それまで背負ってきた荷物を少しでも降ろしてもらうことで、しあわせな人生への歩みなおしをお手伝いすることだと、『殺人者はいかに誕生したか 「十大凶悪事件」を獄中対話で読み解く』の冒頭に書いています。
長谷川博一氏は裁判所からの正式鑑定や、弁護士の依頼による心理鑑定で、あるいは誰からも依頼されずに加害者本人に会って、個人の生育のストーリーを丹念に辿り、精神疾患との関連も検討し、犯行時に置かれていた環境を精査する。
すると、「十大凶悪事件」の加害者は虐待を受けて育ったことがわかった。

犯罪者は放置されたままの過去の被害者

池田小学校事件の宅間守がそうで、母親は父親に毎日殴られていたし、母親は宅間守を妊娠したときに堕ろそうとした。
心の中に「虐げられた子ども」が存在していて、親に対する大きな怒りの感情に翻弄されている。
8回目の面会で、こんなことを言ったそうです。

「子どもたちには何の罪もない。自分が子どもの立場やったら、無念やったろうなぁ」
「途中で、もうやったらいかん、やめないかん思って、そやけど勢いがあって止まらんかった。誰かに後ろから羽交い締めされたとき、やっとこれで終われるって、ほっとしたんや」
「本能ちゅうんですかね、良心の呵責ですわ」

宅間守は危険運転や5階からの飛び降りなど、身に危険が及ぶ行為を何度も繰り返しています。

「なりたくてこんな人間になったんやない。気づいたらもうなっとって、自分ではどうしようもできんかったんや。だから責任はない」


幼女誘拐殺人事件の宮崎勤は統合失調症だと言われているが、長谷川博一氏によると解離を生じていた。
解離性健忘は、記憶が現在の意識との連絡を絶ってしまう。
解離性同一性障害(多重人格)は、別人格が台頭し、本来の人格はそれを把握していない。
離人症は、自分の心が身体から遊離して、現実世界を生き生きと過ごせない。
自分がしたことを覚えていないのです。
虐待を受けた人は、大多かれ少なかれ解離性障害を示す。

他の事件の加害者にも解離性障害の人がいます。

連続児童殺害事件の畠山鈴香さんの人生は悲惨というほかありません。
小学1年のとき、宗教活動に熱心な担任から「水子が憑いている」と言われ、子どもたちから「心霊写真」とはやし立てられた。
小学4年のとき、給食指導に熱心な担任は給食を全部食べさせようとし、時間内に食べることのできない畠山鈴香に「両手を出して。食べ物入れるから」と言い、掌に食べかけの給食を入れた。
指のすきまから汁が落ち、机や服が汚れるので、「ばい菌」というあだ名がついた。
ばい菌は汚いから洗ってやるという理由で、トイレの個室に閉じ込められ、上からホースで水をかけられることもあった。

高校の卒業文集には
「いじめられた分、強くなったべ。俺たちに感謝しなさい」
「もう二度と秋田の地に帰ってくるな」
と書かれ、最下部には「畠山鈴香・・・自殺・詐欺・強盗・全国指名手配・変人大賞・女優・殺人」と記してある。
このような文集を許した学校・教師が存在すること自体が犯罪だと思います。

ひどいことを言われ、いじめられても反発しないのは、父親の暴力を受けていたことによる。
母親を殴っていた父親は娘も殴るようになり、最初はかばっていた母親も、かばうと余計に激昂するので見て見ぬふりをした。
畠山鈴香さんは夫と離婚し、生活保護を受けながら子育てするが、精神科で処方される薬は増えていき、普通の人が服用すると丸一日は起き上がれないほどの量だった。
娘を橋の欄干から突き落としたとされるが、本人は覚えていない。
解離性健忘のためである。
だから、子供がなぜ川に落ちたのかはわからない。

どの死刑囚も、なりたくて犯罪者になったわけではありません。
自殺サイト連続殺人事件の前上博は、犯行前から継続して病院やカウンセリングに通い、治療してくれるよう懇願していた。

スウェーデンの学者が行った研究。
生まれて間もなく里子に出された子どもたちが青年期に入るまでの間、行動の追跡がなされた。
子どもたちには実の親と育ての親がいて、どちらの親も「犯罪歴をもつ」と「犯罪歴をもたない」で分けると、4つの群ができる。
①「実の親に犯罪歴あり・育ての親に犯罪歴あり」
②「実の親に犯罪歴あり・育ての親に犯罪歴なし」
③「実の親に犯罪歴なし・育ての親に犯罪歴あり」
④「実の親に犯罪歴なし・育ての親に犯罪歴なし」
子どもたち自身の犯罪歴を調べたところ、①が40%、②が12%、③が7%、④が3%という発生割合だった。
この結果は、遺伝的要因も、環境的要因も、どちらもそれ単独では子どもを犯罪に走らせる力は強くないということを示唆する。
生来(遺伝)的なリスクを抱えていても、環境にそのリスクを助長するような条件がそろわない場合には、犯罪行為に走りにくいと考察できる。

生まれながらのモンスターはいないということです。
我が家は大丈夫だとは言えません。
他人事ではないと思います。

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福井厚編著『死刑と向きあう裁判員のために』

2015年12月05日 | 死刑

福井厚編著『死刑と向きあう裁判員のために』に、死刑に関する審議型意識調査の結果が報告されています。

参加者に死刑に関する情報提供資料を前もって配布し、会場で丸1日かけて死刑制度について審議した。
審議は死刑制度に関する情報提供、グループ・ディスカッション(前半)、講演と質疑応答、グループ・ディスカッション(後半)で構成された。
審議前と審議後であまり変化があるようには思えず、参加者は死刑に対する態度決定に必要な知識が不足しているにもかかわらず、そのことに無自覚であることが多い。
たとえば、死刑制度に犯罪抑止力があるという仮説は、海外の研究を含めてこれまでに実証されていないことなどに対して、参加者はこうした情報に関する理解や受け入れの度合いが低かった。

坂上香『ライファーズ 罪に向きあう』からの孫引きですが、2011年、アメリカの無期刑囚は15万人強、仮釈放のない絶対終身刑は4万人強。仮釈放はほとんど認められない。

では、アメリカでは犯罪が増えているのかというと、そうではない。
1960~1990の犯罪率は、フィンランド、ドイツ、アメリカで大差ない。
しかし、フィンランドは30年間に受刑者数は60%減少、ドイツは横ばい。
それなのにアメリカは4倍に激増している。
アメリカの刑務所人口の増加が最も顕著だった1990年代、犯罪の発生率は25%も減少していた。

厳罰化と犯罪抑止は関係がないことは、たしかに理解してもらえません。

参加者は自分にとって新しい考えや意見に対しては柔軟に対応するものの、逆にすでに事実と思い込んでいる情報に対してはそれを否定する情報を提供しても考えを変えにくい傾向が浮かび上がる。

これは人間の特性でしょうね。

マーシャル仮説というのがあります。
死刑について知れば知るほど、①死刑を支持しなくなり、②死刑に反対する感情が生じる。
しかし、③応報的な理由から死刑に賛成する場合には、こうした傾向は見られない。

刑事裁判とは「被害者」対「被告人」で戦うものであり、「被害者が正義を勝ち取る場」であるという認識が強いこと、しかも「正義」は被告人が有罪(死刑)になるかならないかにかかっており、被告人が「罪を犯したかを裁く場」という認識は薄いことも明らかになった。「被告人には弁護士がつくのに、被害者には弁護士がつかないのはおかしい」といった発言が見られたのも、こうした認識によるものだろう。被害者に注目しているため、「被告人」がかならずしも「犯罪者」ではないという認識が薄いのである。


以前、裁判員と死刑についての集まりで、ある人が強盗殺人で起訴されたが、殺人と窃盗だと主張、一審は被告の主張が認められて懲役25年、二審では強盗殺人で無期懲役、上告はしなかった、という話をしたら、殺された人にとっては窃盗も強盗も同じだと言われ、反論できませんでした。
11月29日、泣き声がうるさいというので、生後16日の娘をごみ箱に閉じ込めて死なせたとして、両親が傷害致死容疑で逮捕されました。
傷害致死ですから、両親は死ぬとは思わずにゴミ箱に閉じ込めたということでしょうけど、殺された赤ん坊にとっては殺意があろうとなかろうと、たしかに同じです。

だけど、裁判員がそういうふうに考えてはまずいわけで、裁判員になったらという話し合いをしているのだから、強盗も窃盗もどっちもいっしょだと言うようでは裁判員失格だ、と反論すればよかったと反省。

このことは法律家にとっては深刻な事態である。というのも、刑罰はあくまでも国家や社会一般にとっての必要性の見地から科されるものであり、被害者が求めるから科すのではないというのが法の建前であり、法律家の圧倒的多数もまた、被害の程度に比して不釣り合いに大きなことがあり得る被害者遺族の感情を決め手として量刑を決めるべきではないという見解を有しているからである。


マイケル・サンデル『それをお金で買いますか』に、自分の赤ん坊2人を殺害した罪に問われた事件があり、同じ家庭内でふたりの子どもが乳幼児突然死症候群で死亡する確率は7300万分の1だと小児科が証言したとあります。
7300万分の1という数字がおかしいそうだが、それはともかく、赤ん坊が2人とも突然死することは珍しいが、子どもを2人殺すということも極めて稀である。
稀だからといって、殺した可能性が高いということにはならない。
そんなことをマイケル・サンデルは書いているわけですが、素人には判断できないと思います。

高山佳奈子氏は「死刑を科すという判断は、市民が自己の経験を基に行うことのできる性質のものではない」と書いていますが、そう思います。

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大山寛人『僕の父は母を殺した』

2015年10月12日 | 死刑

少年の再非行防止活動をしている知人から、読まないかと渡されたのが大山寛人『僕の父は母を殺した』です。

大山寛人さんの父親は、1998年に自分の養父を殺し、2000年に母親(自分の妻)を殺害したことによって死刑になった。

母を失った僕は、近い将来、たった一人の父親を死刑で失うことになります。父の死刑は、僕に新たな悲しみを与えるものでしかありません。被害者遺族が望まない加害者の死刑がある――そのことを知ってもらいたくて、この本を書き始めました。

被害者遺族のことを考えると死刑は当然だとか、被害者は厳罰を求めていると主張する人が多いですが、殺人事件の4割は家族が加害者、すなわち被害者遺族=加害者家族なのです。

母親が殺害されたとき、大山寛人さんは12歳、小学6年生。
中学2年のときに父親の殺人が発覚する。
父親が逮捕されて母親の姉に引き取られたが、悪さをするようになった。

この事実を受け止めることができず、非行に走って荒れた生活を送りました。周囲からは「人殺しの息子」と白い目で見られ、心も身体も行くあてがなく、公園のベンチや公衆トイレで眠る日々でした。僕から全てを奪った父を「この手で殺してやりたい」と思うほど憎み、恨み、爆発しそうな感情を抱えながら、精神安定剤を乱用し、自殺未遂を繰り返し、心も身体もボロボロになっていました。


中学を卒業すると児童養護施設に入るが、施設を出て荒れた生活をし、何度も補導されては鑑別所、自立支援施設に入るなどする。
公園のベンチやトイレで眠るという生活が続き、自殺未遂をしては病院に運ばれることを繰り返す。
父親のことなどを隠さずに正直に話せる恋人ができたが、親の反対で別れることになる。
広島を出て、名古屋に住むが、仕事の面接を受けて合格しても、父親のことを知られ、勤務する前にクビになる。

被害者感情を声高に言う人がいますが、現実は援助の手をさしのべる人はあまりいません。
大山寛人さんは自分の名前や写真を公にしていることで、さまざまないやがらせがあるだろうと思います。
しかし、非行をし、自殺未遂をする大山寛人さんを家に泊めてくれる友達がいたそうです。
手をさしのべる人がいるということにホッとします。

父親の死刑判決(一審)をきっかけに、3年半ぶりに父親と面会したことで、何かが変わり始めた。
何度も面会し、手紙のやり取りを重ねる中で、父親を責める気持ちが薄れた。
そして、父親に生きて罪を償ってほしいと考えるようになった。

父さんが死刑になっても母さんは戻ってはこない。今まで僕は父さんを恨み、憎み続けてきた。でもその感情は僕の心を押し潰しただけだ。父さんを恨んでいる限り、僕は救われない。
許すことはできない。
でも、恨みや憎しみを心に秘めることはできる。


大山寛人さん自身は、死刑制度に反対しているわけではないそうです。

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少年死刑囚の写真

2015年07月13日 | 死刑

10年以上も前のことになりますが、犯罪被害者遺族として死刑廃止を訴え続けているレニー・クッシングさんと、アメリカの少年死刑囚の写真を撮影し続けている写真家トシ・カザマさんの講演を聞きに行ったことがあります。
きわめて重たい話でした。

それまで死刑についての本を何冊か読んでいて、予備知識はあったつもりでしたが、しかし実際に話を聞くと、何とも言えぬ重い気持ちになりました。

レニー・クッシングさんの父親は自宅に押し入った強盗に殺害されました。
被害者の救済と同時に死刑の廃止も求める「和解のための殺人被害者遺族の会」の代表をされています。

アメリカには18歳以下の死刑囚がいます。
トシ・カザマさんは彼らと会い、対話し、そして撮影します。
死刑囚のみならず、死刑囚の家族、被害者の遺族、そして刑務所や死刑を執行する部屋などをも写しています。
死刑囚といくら親しくなっても、いつか死刑が執行されて死ななくてはいけません。

中には、犯行現場にいただけなのに死刑になったり、明らかに無罪の少年もいます。
実際に犯罪を犯した人には、人を殺すまでに到る闇があります。
そうした話をいくら聞いても、カザマさんにはどうすることもできない。

カザマさんは重たいものを背負うだけです。
カザマさんが写した写真を見ながら、そうした話を聞く私たちも、そのいくらかを背負うことになる。
聞くということはしんどい行為です。

それから何年かして、レニー・クッシングさんをはじめとする「和解のための殺人被害者遺族の会」の方たちの講演会を聞く機会がありました。
英語で話して、日本語に通訳という講演ですから、靴の上から足をかくような感じです。

質疑応答で、死刑に反対ということとキリスト教の信仰と関係があるかという質問をしました。
「無宗教だ」と答えたのがローゼンバーグ夫妻の息子さんでした。
「自分はキリスト教を信じているが、それと死刑廃止とは関係ない」と答えた方もおられました。
加害者に対する憎しみや怨み、復讐心はないのか、あるとしたら、なぜ死刑に反対しているのかといったことを聞きたかったです。
もしも私が英語がぺらぺらで、みなさん方と一杯飲みながら話をする機会があり、そういった話ができたらと思いました。

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