三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

廣澤隆之『図解雑学 仏教』

2006年08月31日 | 仏教

「図解雑学」シリーズはわかりやすくてためになる。
一つの項目を見開き2ページで説明しており、偶数ページが文章、奇数ページが図解による説明となっている。

廣澤隆之『図解雑学 仏教』を読む。
釈尊の生涯、教え、大乗仏教、中国仏教、日本仏教と、仏教について幅広く、ひととおりのことが説明されている。
仏教について予備知識のない人が読んで、どの程度理解してもらえるかよくわからないが、しかしこの本はオススメである。
本願寺もこういう本を出してもらいたいものだ。

思ったこと。

出家第一主義、僧院での瞑想第一主義の傾向は、声聞(小乗)の各派にみられ、インドにおける仏教の主流である。後に、このような仏教のあり方を批判した大乗仏教も、この主流を超える勢力を獲得することはできなかった。

インド仏教では大乗仏教が主流になれなかったのなら、インド仏教において龍樹や世親の影響力はどの程度だったのだろうか。
龍樹や世親の時代、さらには密教が盛んになった時代でも、上座部仏教の論師のほうが有力だったのか。

煩悩は心の中から出る汚れであるという考えがある一方、煩悩とは清らかな心を覆う汚れであるという考えがある。

後者の、本来悟っているのに、煩悩によって汚れている、という考え、これは無垢な赤ん坊を理想化する老荘の思想と似ている。
心を磨いてきれいにしなさいという教えが聖道門ということになる。

金剛石も、みがかずば
玉の光は 添わざらん
人も、学びて 後にこそ
まことの徳は 現るれ
時計のはりの 絶間なく
めぐるがごとく、時のまも
光陰惜みて 励みなば
いかなる業か ならざらん。

この昭憲皇太后の歌はまさに聖道門の教えそのものである。

しかし、真宗は、心は本来清浄だという考えではないと思う。

岸本鎌一氏はこういうたとえを書かれている。

人間は煩悩のかたまり。タドンのようなもので、磨いても美しくならず、細くなり、芯まで真っ黒。磨くのをやめて、火を点じてもらえば、真っ赤な熱を発散し、人に喜ばれる。

「私たちはタドンのようなもので、洗っても洗っても汚れは落ちない」というタドンのたとえは七里恒順という和上の話にあるそうで、それを批判する人もいて、「親様のお慈悲はありがたい」で終わってしまうのなら、たしかにその通りである。
しかしながら、私がタドンのようなものだということは事実ではないかと思う。

あるサイトでは『図解雑学仏教』を、「仏教を深く学ばれた方には不向きだと思います」と書いてあった。

専門書ではなく入門書なんだからこれでいいと思うし、記述に間違いがあるのなら指摘すればいいのには思った。 

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コニー・ウィリス『航路』

2006年08月29日 | あやしい教え・考え

コニー・ウィリス『航路』はなにせ上下2巻、2段組で800ページ以上あるので、手にとって本を開くまでに、いささか心構えが必要である。
もっとも2~3ページも読めば、クイクイとページをめくってしまう。

臨死体験の仕組みを科学的に解明しようとする認知心理学者(女)と神経内科医(男)が主人公。
臨死体験とは何かが物語の軸である。
主人公の二人は臨死体験は脳の中で起こる幻覚だという説である。
ところが、臨死体験は死後の世界をかいま見たものだ云々というベストセラー本を出した男も出てくる。

第二部の終わり、まったく予想しなかった展開には驚いた。
それからまだ200ページ以上ある。
どういうふうに話が進むのかと思っていたら、今までの描写、たとえば迷路のような病院の通路やら、何度電話しても通じなかったり、そういう描写がくり返し出てきてくどいと思ったのだが、何とこれはメタファーだということがわかる。
訳者の大森望が、「十数年で訳してきた四十冊近い本の中では、この『航路』がまちがいなくベストワン」と言うのもうなずける。

コニー・ウィリスは『航路』の日本版あとがきで、臨死体験の実例を紹介した本についてこう書いている。

(臨死体験本は)あの世の実在を証明するものだと主張していました。そういう本を読んで、私は激怒しました。これは最悪の種類のニセ科学だし、人間の弱さや恐怖心につけこんで、読者が聞きたいと思っていることを―死んだ人間はただ存在をやめてしまうのではなく、別世界へと赴き、愛する人と再会できるのだと―語っているだけなのです。最悪なのは、これらの本がじつに卑しい動機で―つまり、金儲けのために―書かれていることです。(こうした臨死体験本はどれもこれもベストセラーになり、著者は講演やTV出演で何百万ドルも稼いでいます)

日本にもこういう輩がいますな。

しかし同時に、臨死体験という現象を調べるにつれて、わたしはしだいにこう考えるようになりました。臨死体験はたんに想像上のものではない、彼らはたしかになにかを経験しているのだ、と。(略)彼らはいったいどんなことを経験してるんだろう。いったい何が原因なんだろう。

ということで、『航路』ではコニー・ウィリスの臨死体験観や死後観も語られる。

死ぬこと自体はそう恐いとは思わないが、しかし死別は寂しい。

亡き家族や恋人の姿を見たと想像させるのは、死者の存在ではない、彼らの不在だ。いるはずの場所にいないこと。

 

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伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』

2006年08月25日 | 仏教

伊藤栄樹『人は死ねばゴミになる』は、真宗の人(にかぎらないだろうが)にはどうも評判が悪い。
最近の日本人は、死んだらおしまいだ、だから生きている間に好きなことをしなくては、今さえよければいい、という風潮なんだ、と言う人が多く、そのいい例として『人は死ねばゴミになる』が挙げられる。

林暁宇師は『むなしさをこえる』という本の中で、ガンでなくなった鈴木章子さんの「未完のままに」という詩を紹介している。

伊藤栄樹さま
「人間死ねばゴミになる」
 残された子に
 残された妻に
 ゴミを拝めというのですか
 あなたにとりましては
 亡くなられた
 お父上
 お母上も
 ゴミだったのですか
 人間死ねば佛になる
 この一点
 人間成就の最後のピースでしたのに
 自分がただの粗大ゴミとして
 逝ったのですね
 未完成のまゝに


林師、鈴木さん、お二人とも死んだらお浄土に往生し、亡くなった人たちと再会すると話されている。
だから、伊藤栄樹の死んだらおしまいという考えはとても受け入れられないのだろう。

しかしながら『人は死ねばゴミになる』は、鈴木さんの言うような意味で「死んだらゴミになる」と言っているわけではないことは読めばわかる。
伊藤栄樹が言いたいのは、死体が自分ではない、人間が生きたということはどのように生きたかだ、ということだと思う。

伊藤栄樹は検事総長在任中(62歳)の時に、盲腸ガンになる。
医者との会話から、早くて数ヵ月、長くて2~3年だと判断する。
そして、仕事を片づけて適当な時に辞める、残された妻が困らないようにする、ということを考える。
このあたり、ものすごく冷静であるし、潔い。

石鹸を見ては「わが人生最後の石鹸になるのではないか」と思い、「来年のプロ野球はもう見ることができないはずだ」と考える。

そうこうしているうちに、「ぼつぼつ一番大事なことに決着を付けておかなければならないと思い至った。つまり、私自身、まもなく間違いなくやってくる自分の死をどのように納得するかということである」
そこで、妻を相手にこういうことを話す。

伊藤栄樹の家は浄土真宗の門徒である。

しかし、仏教という宗教を信じているわけではない。僕は、神とか仏とか自分を超えたところに存在するものにすがって心のなぐさめを得ようという気持ちには、とうていなれそうにない。(略)
僕は、人は、死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうのだと思うよ。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、当人は、まったくのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろうよ。


このように霊魂や死後の世界を否定する。

それに対して妻は、「でも、あなたのような冷たい考え方は、いやよ。死んでからも、残された私たちを見守っていてくれなくては、いやです」と言うのだが、伊藤栄樹はあくまでも霊魂を否定する。

死んでいく当人は、ゴミに帰するだけだなどとのんきなことをいえるのだが、生きてこの世に残る人たちの立場は、まったく別である。僕だって、身近な人、親しい人が亡くなれば、ほんとうに悲しく、心から冥福を祈らずにはいられない。それは、生きている人間としての当然の心情である。死んでいく者としても、残る人たちのこの心情を思い、生きている間にできるかぎりこれにこたえるよう心しなくてはなるまい。


チベットでは、死体は抜け殻だからというので、死体を鳥に布施する、つまり食べさせるわけで、伊藤栄樹の考えが間違っているわけではない。
伊藤栄樹の考え、生き方に共感する人は多いと思う。

もっとも、遠藤周作が「我々に先だって死んだ愛する者と死によって再会できるという希望は、大きな悦びになる筈だ」と書いていることに対して、

私には、乱暴ないい方をすれば、死んだ後までこの世のきずなを引きずらされてはかなわんなあ、という気さえする。


という感想を述べているが、いくらなんでもさばさばしすぎではないか。
柳田国男じゃないが、子孫の行く末が気になるのが普通のように思う。

伊藤栄樹が死んだ人がゴミになったとは思っていない証拠に、元検事総長布施健が死んだ時、「元検事総長が亡くなられると、現職の検事総長が葬儀委員長を務める例となっている。誠心誠意務めさせてもらおう」と、病身をおして葬儀委員長の引き受けている。

そして葬儀について次のように書く。

葬儀委員長として弔辞を読み、御遺族とともに最後まで会葬者に立礼して、無事務め終わった。布施先生の霊よ、安らかにお休みください。


霊魂を否定しているのにこんなことを言うなんて矛盾だが、自分の死と大切な人の死について受け止め方が違うわけで、そのあたり面白いと思う。

佐倉哲という人がHPに、増谷文雄の文章を引用し、そして死後の世界についてこういうことが書いている。

何がわたしにとって衝撃的であったかというと、ここで増谷文雄氏が思いを馳せておられる「死後の世界」というものが、死後に氏が行く世界のことではなく、死後に氏があとに残して行くこの世界、つまり「人類の運命や世界の成りゆき」のことだ、ということです。わたしはうまれてはじめて仏教の「無我」という言葉の意味がわかるような思いがしました。同時に、「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せぬ思想が、とても貧弱なものであるように思うようになりました。(略)
単純な事実は、わたしが死んで塵と帰しても世界は依然として存在し続けるであろうということです。しかも、わたしが今日いかに生きるかということは、その世界と無関係ではあり得ないのです。


「人類の運命や世界の成りゆき」のために「せめて石ころの一つでも貢献をしたい」と言う増谷文雄や佐倉哲と同じように、伊藤栄樹も自分が死んだ後のこの世のために今できることを精一杯しなければ、と伝えようとしているように思う。
「死んだらおしまいだから今を楽しく」ということは伊藤栄樹の考えからはかけ離れている。

誕生日を迎え、伊藤栄樹はこのように書いている。

また、次の目標を定めて、そこまで生きていくことにしよう。

 

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「死―過酷な現実」

2006年08月23日 | あやしい教え・考え

エホバの証人が冊子を配っていたのでもらって帰った。
この冊子は「ものみの塔」という名前で、1879年以来、継続的に発行してきたそうだ。

「本誌は、聖書預言の成就となる世界の出来事を絶えず見守り、神の王国が、仲間の人間をしいたげる人々を間もなく滅ぼし、地上をパラダイスに変えるという良いたよりによってすべての人々を慰めます」
「すべての人々を慰めます」と書きながら、滅ぼされる人もいるというのは矛盾だと思う。

2006年3月15日号には「死―過酷な現実」という文章が載っていて、「死別の悲しみがいやされる時は来ますか。死んだ人にはどんな希望がありますか。亡くなった家族や友人に、またいつか会えるでしょうか」といった問いに対する答えが書かれている。


まず、ラザロの復活を例に挙げ、「亡くなった人々にとってのたしかな希望とは復活であることが分かります」


では、人の死後、何が復活するのか。

「腐敗して地の塵に戻ってしまった肉体ではありません。同じ体が復活するのではなく、亡くなった同じ人が復活するのです」
「エホバにとって、新しい体を備えた同じ人を生き返らせるのはたやすいことです」

「ものみの塔」誌の文章は直訳体で読みにくく、意味の通らないところが多い。
復活は、亡くなった人の希望ではなく、生きている我々の希望だろうし、「同じ体が復活する」のと「同じ人が復活する」のとはどう違うのだろうか。

霊魂についてははっきりと否定している。

「人の内にある何かが死後も生き続ける、という考え方についてどうでしょうか。実際のところ、復活の教えと、人の魂は不滅であるという考えは相いれません。人の内の何かが死後も生き続けるとすれば、復活など必要ではないでしょう」

もっとも、亡くなった人すべてが復活するわけではない。

「決して許されない罪を犯した人もいます。そのような人はゲヘナ、つまりとこしえの滅びを表す象徴的な場所にいます」

ある人が復活するかどうかだが、それを決めるのは神であって、我々にはわからない。

復活には二種類あって、天に復活する者と地上に復活する者がいる。
「キリストに属する者たちで成る小さなグループの人々は、ある特別な目的のために天の命に復活させられます」
キリストと共に王また祭司として支配する人たちの数は14万4000人。

天への復活はいつ起きるのか。

「1914年以降の世界の出来事からはっきり分かるように、キリストの臨在および「事物の体制の終結」は1914年に始まりました。ですから、もちろん人間の目には見えませんが、忠実なクリスチャンの天への復活はすでに始まっています」
なぜ「はっきり分かる」のかは不明。

では、残りの人はどうなるのかというと、大多数の死者は地上に生き返る。

地上での復活はいつ始まるのか。
「創造者は、サタンが支配する現在の世を間もなく終わらせると約束しておられます」
その証拠として、箴言、ダニエル書、ヨハネ書をあげている。
これらの書物が書かれたのは2000年以上も前なのに、相変わらず「間もなくですよ」と言われても納得はしがたい。

「死―過酷な現実」によると、死者が復活することが死別の悲しみにある人にとっての希望だという。

「死―過酷な現実」に挿絵があるが、庭園の背景に墓地があるという変な場所で、3組の親子が再会を喜んでいる。
地上での復活とはこういうものだと説明しているのだろう。
死んだ子供に再会して喜ぶ親、という感動的なシーンである。
しかしながら、いろんな疑問が湧いてくる。

抱き合って喜んでいる正面の母親と息子、右の両親と二人の娘、この人たちはいったい何歳の時に死んだのだろうか。

左にいる白髪頭の黒人は老人のようだから、老人の姿で復活する場合もあるらしい。
ということは、死んだ時の年齢、容姿で復活するということなのだろうか。
たとえば、妻が30歳、夫が93歳で死んだ場合はどういう再会の仕方になるのだろうか。
蓮如のように5回も結婚していたら、天国では一夫多妻になってしまう。
子供は子供のままで年を取らないのか。

霊魂を否定しているから、死んだ後に何かが生き続けることはない。

死んでから復活までの間に時間は経過しないことになり、死んだ瞬間に復活するのだろうか。
それに、この世が終わると地上への復活が始まるわけだから、最近死んだ人も大昔に死んだ人も同時に復活することになる。

今まで死んだ何十億か何百億かの人がいっぺんに復活するわけだから、ものすごい混乱が生じて、この絵のような感動的なシーンはあり得ないのではないかと心配になる。

ああ、そうか、だからごく少数の人しか復活しないということなのか。

というふうに、次々と疑問が生じる。

きれいごとすぎるのではないだろうか。

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仙波芳一『図解雑学 親鸞』

2006年08月17日 | あやしい教え・考え

 

小野功生『図解雑学 構造主義』が面白かったので、仙波芳一『図解雑学 親鸞』を買った。
表紙の親鸞の絵、あまりにもかっこよすぎるのはご愛敬。

中身であるが、どうもおかしい。
「絶対の幸福」とか「後生暗い心」といった言葉がくり返し使われている。
これは親鸞会の用語である。
それとか、「一向専念無量寿仏」の多用(親鸞は『教行信証』で一個所だけ引用している)とか、「『教行信証』には「三重廃立」以外、書かれていない」とか、ひっかかるとこが散見する。

著者の仙波芳一という人は何者なのか。
真宗史学研究所研究員ということなので、真宗史学研究所のHPを見ると、所在地がどこかわからない。
ネット上にしか存在しないのかもしれない。

リンクの「浄土真宗の入門書」をクリックしたら、なんとあのチューリップ企画のHPにとんでしまった。
ということで、仙波氏は親鸞会の方と判明しました。

大学生の時、繁華街を歩いていたら、白人女性からつたない日本語で「アンケートお願いします」と声をかけられ、鼻の下を伸ばした私はほいほいとアンケートに答え、そして女性に誘われるまま統一協会について行った。
その時、東大卒という人の話があった。
その話だが、「人生の目的は幸福になることです。これは誰も否定できないでしょう」と言ったのだけ覚えている。

『図解雑学 親鸞』にも、「絶対の幸福になることこそが、人生の目的なのです」とあり、親鸞会と統一協会は同じことを言っているのかと、なんとなく感心した。

では、絶対の幸福とは?
「絶対の幸福とは、どんな事態が起きても壊れない安心、満足、喜びをいう」
「阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀如来という仏の約束をいう。その内容を一言でいえば、「どんな人をも必ず絶対の幸福に救う」という誓いである」

「絶対の幸福に救う」とは変な日本語である。
「絶対の幸福」とは浄土往生という意味ではないか。

それにしても、どうして「幸福」という言葉を使うのだろうか。
「救い」や「往生」では今の人にはわかりにくいから、ということかもしれないが、仏教では幸福という言葉はない。

そして、仙波氏はこう言う。
仏教の目的は「抜苦与楽」である。
聖道仏教では、苦しみの原因は煩悩だと教える。
しかし、苦悩の真因は煩悩ではない。
「苦悩の根源は疑情」ということである。

「疑情とは何か。別名「無明」または「無明の闇」ともいわれるが、後生暗い心のことである」
後生暗い心とは何かというと、「死後どうなるか分からない心」のこと。
つまり、私たちが苦しむのは死んだらどうなるか分からないためなので、それが分かれば苦しみはなくなり、絶対の幸福になる、というわけだ。

では、死んだらどうなるのか?
「阿弥陀仏の本願は、生きている時は絶対の幸福に救い摂り、死んだ後は極楽へ生まれさせて、未来永遠の幸福に生かし切るという誓願である」
死んだら極楽に生まれることが決まったから、今、絶対の幸福だということだろう。

ところが、誰でも死後に往生できるわけではない。
「往生には、現在の往生と、死んでからの往生と二つあるが、現在ただ今、往生できている人だけが、死んで往生できる」
現在の往生とは絶対の幸福になること、死後の往生とは死ぬと同時に浄土へ往って仏の身に生まれること。
今、絶対の幸福にならないと、死んでも往生できない、だから弥陀の本願を信じなさい、と仙波氏は勧めているわけだ。
しかし、往生できない人がいると断定するのは、摂取不捨の本願と矛盾する。

仙波氏は「善因善果、悪因悪果、自因自果とは、幸福という運命は、善い行いが生みだしたものであり、不幸や災難という運命は、悪い行いが引き起こしたものだということである」なんてことを、最後で言っている。

つまりは、阿弥陀の本願を信じないとろくなことはありませんよ、ということで、こういう脅しはインチキ宗教の常套手段である。
インチキ宗教と一緒にされたのでは仙波氏としても不本意だと思う。

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憲法の政教分離と靖国参拝

2006年08月15日 | あやしい教え・考え

小泉首相の靖国参拝の是非について、A級戦犯の合祀問題、中国や韓国の感情という点だけでしか論議されていないようだ。
そして、どうすることが国益なのかが論じられている。

民間人や賊軍(西郷隆盛たち)が靖国神社に祀られていない、公平でない、という意見も少しはある。

だったら、A級戦犯が分祀され、民間人や敵国人も祀れば、首相の靖国参拝、さらには国家護持は問題ないということになってしまう。

しかし、政教分離という憲法の問題はなぜかほとんど語られていない。

第二十条 信教の自由、国の宗教活動の禁止
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


戦死したら靖国神社に祀ることを国(=天皇)が約束した、だから首相や天皇が靖国神社へ参拝すべきだ、という意見がある。
国が戦死者を神に祀ることを保証するということは、政教分離の原則に反しているわけで、靖国神社という存在は極めて政治的なのである。

戦争で死んだ英霊をお祀りすること自体は異議がない、どこの国もしていることだとの意見もある。

しかし、仏教徒である私としては、戦死した伯父が霊魂になったとは思わないし、原爆死した祖母をお祀りすることなどしない。

ある人と「どういう死に方が一番楽だろうか」ということを話していて、私は痛いのは嫌いだから、「全身麻酔の手術の最中に死ぬのが一番楽だと思う」と言ったら、その人は「そういう死に方だと成仏できないんじゃないですか。自分が死んだことに気づかずにいるから」と言われたのには驚いた。

おそまきながらシャラマン『シックス・センス』は不成仏霊を成仏させるというお話なんだと気づいた。
アレハンドロ・アメナーバル『アザーズ』も、自分が死んだということを知らなかったというのがオチである。

折口信夫によると、霊魂には三種ある。

1,まだ死のケガレがついている死んで間もない霊
2,純化した先祖霊
3,ほとんど浮かぶことのない霊

3の「ほとんど浮かぶことのない霊」が不成仏霊である。

不完全な死、中絶した生(事故死・自殺・他殺、あるいは横死・不慮の死・呪われた死・志半ばでの死・この世に思いを残した死・怨みの残した死など、そして水子・子供)の場合である。

そういう死に方だと迷える魂・移動できぬ魂になり、霊魂は死んだ場所に留まると、日本では考えられたと折口信夫は言う。

道ばたに花や飲み物が置かれていることがあるが、おそらくそこで誰かが交通事故死したので、家族や知人がお供えしたのだろう。

霊魂が迷うとか祟るとか、あるいは地縛霊になるとか、そんなことはない。

しかし、日本人はこうした霊魂観が血となり肉となっているから、死んだ場所にお供えするとか、慰霊碑を建立することがごく自然な行為として受けとめられているように思う。

戦死者も不成仏霊である。

戦死者が、私は家族のため、国のために死ぬことができたんだから満足だ、ということならば、霊を慰め魂を鎮める必要はない。

しかし、我々はそうは思っていない。

戦死者はこの世に思いを残しているだろう、恨みを持っているかもしれない、ちゃんと祀らないと祟りがある、と考えているものだから、神として祀るのである。
つまり靖国神社の出発点は、非業の死を遂げた人間の怨霊(御霊)を怖れ、祀って災いを防ごうとする御霊信仰なのである。
しかし、死者が迷うとか祟るという考えは、死んだ人に対して失礼である。

靖国問題を論じるときに、政教分離の原則が問題とならないのはなぜか。

一つは、神道が宗教ではなく、習俗とされているからである。

戦死したら神として祀ると国が約束し、そして 靖国神社の祭神として祀るということは、神道の伝統の中でそれまでなかったことではないだろうか。

たとえば広瀬中尉のように華々しい死に方をした戦死者を神として祀ったり、平将門のように恨みながら死んだ人を神として祀ることはある。
しかし、戦死したら自動的に神になるという例はないのではないか。

人間を神として祀ることと、カトリックにおける列聖と似ているように思う。

カトリックでは、模範となる行いをした信者を死後に聖人として列聖している。
もし「殉教者はすべて自動的に列聖する」なんてことをバチカンが宣言したら、堕落したと思われても仕方ない。

政教分離が問題にされないのは、日本国憲法がアメリカの押しつけと非難され、憲法を尊重すべき大臣や国会議員が改正を叫ぶ中、憲法の重みがなくなったためという気がする。

第九十九条 憲法尊重擁護の義務
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


 小泉首相が靖国参拝して「公約は守らなければいけない」と言ったのは、戦死者の祟りを怖れたためか、将来戦争をしたときに喜んで死んでいく人間を作ろうという政治的意図か、単に選挙の票目当てなのか。 

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「ひきこもりの未来」

2006年08月11日 | 日記

某氏と繁華街を歩いていたら、デパートの前で「ビッグシュー」を売っていた。
喜んだ某氏はバックナンバーも何冊か買っているので、私もつられて「ひきこもりの未来」という特集をしている45号を買う。

上山和樹という人と精神科医の斎藤環の対談が載っていた。
上山さんは中学校で不登校、大学は卒業するが就職せず、ひきこもり状態になり、31歳で初めて自活、という人である。

世間的には、ひきこもりというのは甘えと見られている。しかし実際は逆で、「○○でなければならない」という規範意識が強迫観念化して、まったく動けなくなっている。親や周囲が言いたくなるような説教は、本人はもう自分に向かって百万回もくりかえして言っているわけです。ところがそれが周囲にはわからないから、本人がすでに病的に気にしていることを、さらに畳みかけて言うことになる。言えばいうほど逆効果で、働かなきゃいけない、社会参加しなきゃいけないと思えば思うほど硬直していく。(略)
元気に社会生活している方にとっては、家にいるのは「オフ」なんだと思います。だからひきこもりがうらやましいと言うんですが、これは実際には逆です。ひきこもりというのは、むしろ「24時間ずっとオン」の、異様に不自由な状態なんですね。


斎藤環はこのように応える。

(ある臨床心理学者が)どうすれば子供が元気になるのか考えればいいんだと言いました。まさにその通りなんですよそういう視点があまりにも欠けていた。この子はフリースクールで元気になるかもしれない、この子はオフにして家にいることで元気になるかもしれない、この子は再登校で元気になるかもしれない、で、話は簡単になる。(略)
結果としてこの人が社会参加をして元気になるのであればその方向にいけばいいし、ひきこもって元気になるならそれはそれでいい


某氏の子供(中学生)は不登校である。
さすがに最初のころはあせったそうだが、今は悠然としてる。

もしも私の子供がひきこもりになったら、絶対にガミガミ言いまくると思う。
ひきこもりは怠け者とかやる気がないという気持ちが、正直なところ私にはある。
ホームレスに対してもそういう思いがあり、ひきこもってたら将来はホームレスだ、という目でついつい見てしまう。

読者の投稿欄にこういうのがあった。

初めてビッグイシューを買った時、私は自己満足がしたかっただけだったのかもしれません。

この人は15歳、女性、学生。
恥ずかしくなった。

考えてみれば、我が家は先祖代々、人づきあいがまるっきりダメな家系である。
父も祖父も、おそらく曾祖父も人間関係が苦手で、家にいるほうが楽という人間である。
私はそれじゃダメだと思っていたが、血というのは恐いもので、映画館の暗闇に一人で座ると、しみしみと幸せを感じる。

そうはいっても、我が家の人間がそれなりの人生を送ってこれたのは、おそらく仮面をかぶることができたからではないかと思う。
仮面で人と接することで、他者との間に境界を作り、自己の内に他者を入れないことで、自分を守ってきたような気がする。
まあ、仮面を何種類か持つということは誰しもが無意識にやっていることではある。

で思ったのが、ひきこもりの人は自分を守る仮面がなく、生の顔で他者と接しているために、因幡の白ウサギのごとくヒリヒリしているのではないか。

だから、とにかく疲れてしまう。

そういうところは共感できるつもりではある。
だけどやっぱり差別意識がある。
差別することで安心したいのだろうか。

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河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』

2006年08月05日 | 厳罰化

 多くの日本人が、犯罪が増加し、治安が悪化していることに不安を感じている。

内閣府が3日に発表した「子どもの防犯に関する特別世論調査」で、周囲の子どもが犯罪に巻き込まれる不安を感じている人が74%に上ることがわかった。子どもが被害者となる事件の頻発を受け、大人の間にも不安が広がっていることが浮き彫りとなった。(読売新聞)

ところが、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』(2004年の発行で、統計は2002年まで)によると、犯罪実数は本当は増加していないし、治安の急激な悪化も起きていない。
最近5年での認知件数の急増は、統計の取り方の変化などが原因で、実数の急増ではない。

各種統計を見ると、昭和30年代が主要7罪種(殺人、強盗、強姦、傷害、暴行、脅迫、恐喝)の事件発生率のピークで、その後次第に減少して90年から95年ごろが最低、97年からは微増に転じている。

犯罪による死亡者数は90年代半ばまで減少し続けており、ここ数年は横ばい。

殺人は年間1300件以上だが、殺人の統計には、殺人予備罪と殺人未遂罪が含まれており、殺人によって殺された被害者の数を調べると、最近は600人台。

この600件余りの内、最大のカテゴリーは心中である。
「無垢な被害者を人殺しが襲う事件はせいぜい100,200のオーダーであるように思われる」と河合幹雄は言っている。
加害者が家族なのが4割、顔見知りによる犯行が8割である。

日本において、軽微な犯罪を数えれば、他の諸先進国と比較して、さして犯罪被害が少ないわけではないものの、殺人、強盗はじめ重大な犯罪に限定すれば、極めて犯罪は少ないと結論できる。

日本社会は安全でなくなってきているという認識は、全くの誤りであり、日本社会は安全にうるさくなってきていると言うべきである。

2002年現在は、戦後で最も安全な時代であり、さらに安全性を上げ続けている状況にあることは間違いのない事実である。諸外国と比較しても、日本人は、世界で抜きん出た安全を享受していることに変わりない。それなのに、妙なペシミズムの時流にのって不正確な議論がなされていることは悲しいことである。


どうして体感治安が悪化しているのだろうか。
内閣府のアンケート
不安になる理由(複数回答)は、「テレビや新聞で子供が巻き込まれる事件が取り上げられる」が85・9%と最多で、「地域のつながりが弱い」が33・2%、「子供が習い事で帰宅が遅い」が31・1%。
つまりは、マスコミはいたずらに不安感を煽り立ててているわけだ。

犯罪が増えているわけでもないし、治安が悪くなっているわけでもないのに、どうして「日本は犯罪の少ない安全な社会であるという安全神話」が揺らいでいるのだろうか。

河合幹雄は「安全神話の崩壊が、犯罪増加と無関係に起きたということである」と指摘する。

戦後、人々の規範意識が低下したために凶悪犯罪が増加したなどという言説は、まったく根拠を欠く。

そして、安全神話の第一の特徴は、犯罪を別世界の出来事と思っている人々のみが抱いているということである。
したがって、安全神話の崩壊とは、犯罪は別世界の出来事と思っていたのが、もはや別世界の出来事ではなくなったということにほかならない。
つまり、かつては犯罪の世界と日常生活の場とは切り離されており、はっきりとした境界があった。

たとえて言うと、夜の繁華街と昼の住宅街という境界である。

安全神話の崩壊とは、この境界の崩壊にほかならない。
もちろん、昔は境界があったから犯罪が少なく、治安がよかったというわけではない。
安心感と犯罪は別である。

たしかに私の子供のころなど、子供が行ってはいけない場所があり、夜は外に出ないのが当たり前だった。

ところが今は、小学生でも夜遅くまで塾へ行ってるし、住宅街のレンタルビデオ屋でもアンパンマンのビデオと一緒にアダルトビデオを借りることができる。
境界がなくなってしまっている。

さらに河合幹雄はこのように書く。

一般的な日本人は、犯罪は別世界の出来事と感じて、防犯意識が薄く、事件があれば厳罰を求める。しかし、犯罪に係わる統治する側に属する人々は、寛大な処置を伝統としており、刑罰は軽い。

日本の刑罰は軽いかどうかはともかく、一般的な日本人が厳罰を求めるのだから、ネットで厳罰化の声が大きいのもうなずける。

もう一つ、なるほどと思ったこと。

日本社会は、穢れ=犯罪に係わる世界と、犯罪のない日常世界に分離している。

犯罪=穢れ=非日常なのだ。
犯罪が穢れということは、在日、被差別部落といった差別ともつながってくる。
差別は排除であり、排除することで安心する。

犯罪を身近に感じないため防犯意識が薄いということは、十分に護られているから安全だということではなく、危険がない、つまり、自分の周りには「犯罪者=悪人」はいないと感じていることを意味すると、河合幹雄は指摘し、ハンセン病患者を例に出す。

ハンセン病者は故郷では死んだことになっていたり、存在しないことになっているような、共同体からの排除構造は、穢れを避けて、何も問題がないように安心しようという構造そのものである。

ハンセン病患者に対する隔離、安心感、そして無関心という問題も、穢れ=非日常ゆえなのかと納得した。

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浜井浩一『犯罪統計入門』

2006年08月03日 | 厳罰化

「犯罪が増えている。しかも凶悪事件が多い」と思っている人が多い。
実際のところどうなのかということで、浜井浩一『犯罪統計入門』と河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』を読んだ。

浜井浩一はこう言う。

2004年、刑法が改正され重罰化が図られた。国会の審議を聞いていると、改正の大きな目的に、刑罰の威嚇効果による治安回復が挙げられている。治安回復という限り、治安が悪化したという認識(前提)があり、その上で刑罰の威嚇効果で凶悪犯罪が減少するという仮説があるものと思われる。審議の最中に、威嚇効果の科学的根拠を聞かれた法務大臣は、「犯罪を防止する機能があるものと信じています」と答弁していた。しかし、国家の基本法である刑法の改正が、何のエピデンス(科学的根拠)もないままに、漠たる思いと「効果を信じている」という(刑罰)信仰によって行われてよいのであろうか。


「治安の悪化」と「重罰による犯罪抑止」は正しいのだろうか。
『犯罪白書』などで統計を調べたら犯罪が増えているかどうかがわかるかというと、そう簡単にはいかない。

犯罪の統計には、警察・検察・司法・矯正などがある。
発生件数、認知件数、検挙件数等、いろんな数字を照らし合わせて読んでいかないといけないし、社会状況、法務省の指示、警察の取り組み等によって数字は違ってくるので、そのあたりも考慮しなければいけない。

殺人の場合は、警察が認知していない数字は比較的少ないが、殺人件数には未遂と予備が含まれ、一家心中や介護疲れの殺人も多数含まれている。
さらには、人を殺しても、14歳未満や心神喪失、正当防衛等は殺人には当たらないし、殺意がない場合にも殺人とならない。
同じ1年間に発生する殺人の規模の操作的定義でも、警察の認知件数、検察の受理人員、裁判の終局事件数のどれを操作的定義として用いるかで結果は異なる。

犯罪認知件数が過去最大を記録したなどと言われている。

まず、犯罪の認知件数は、犯罪の発生を確認した件数にすぎず、全国で発生したすべての犯罪件数(発生件数)ではない。
認知件数が増えているのは犯罪が急増している証拠だと思いがちだが、実際はそうではない。

平成12年から刑法犯認知件数は激増したのは、犯罪発生件数が増加したのではなく、警察の対応が変化したことに起因している。

以前は、自動車損壊事件のように、逮捕できる可能性が低い場合、書類を作らないで済ますことがされていた。
ところが、1999年の桶川ストーカー殺人事件等への対応の不手際から、被害届を原則すべて受理する方向になり、困りごと相談等をすべて取り扱うようになった。
告訴等や被害届を積極的に受理し、相談取扱件数が激増したため、犯罪の認知件数が急増したのであって、犯罪の実数が増えたわけではない。

また検挙率が下がっていることを危惧する人がいる。

これは、相談取扱件数が増加したために、犯罪は認知したものの、処理(検挙)が追い付かない状態となり、結果として、検挙率の低下につながった。

日本の被害申告率は、かなり他諸国より低い。
日本の申告率の低さは、重大でない犯罪の多さを物語っている。
日本で多数を占める自転車盗等は、諸外国では統制機関に相手にされていないらしい。
あるいは、最近の強盗認知件数の急増は、ひったくりに毛が生えたような事件の急増である。

あるいは、少年刑法犯検挙人員が昭和50年代後半に激増した理由について、数字はあくまで少年非行の「検挙・補導人員」であり、「発生件数」ではない。

非行少年の側の実態ではなく、取り締まる側の活動の記録なのである。
少年非行が社会問題化し、人々の関心が寄せられ、強い対応が望まれれば、警察の検挙補導活動は活発化し、その結果、非行少年の検挙補導人員は増加することになる。
数字のトリックに騙されてはいけないわけだ。

では、犯罪の発生や再犯を防止するためにはどうすべきか。

ひとつは、刑罰を厳しくするという重罰化の考えである。
しかし、2004年に開催されたアメリカ犯罪学会では、重罰化には統計的に有意な犯罪抑止効果はなく、刑罰の確実性についても抑止効果は期待できないという結果が報告された。

にもかかわらず、日本でも重罰化の傾向にある。

平成6年以降の全事件裁判確定人員の推移。罰金が減少傾向にあるのに対し、懲役、禁錮は増加傾向にある。
近年、3年を超える刑の言渡しが増加傾向にあるのをはじめとして、裁判所において言い渡される刑期が長期化しており、平成10年以降、無期懲役の増加も目立つ。

さらに、無期刑については、仮出獄までの服役期間が長期化している。

昭和期においては、在所16年以内で仮出獄になるケースが半数を超えていたのに対し、平成11年以降の5年間では、仮出獄を許可された46人中41人が在所20年を超えている。

土本武司、前田雅英という大学の先生は、事件や裁判のたびに「犯罪が凶悪化している」「厳罰化しなければいけない」「少年犯罪の低年齢化」などとコメントしている。

河合幹雄は「検察官は紛れもなくこの分野での専門家であるにもかかわらず、実は犯罪情勢の悪化を戦後のどんな時期にも信じてきた、奇妙な伝統がある」と言うが、元検事土本武司が警察べったり的な犯罪情勢の悪化を憂うのも不思議ではない。

そして、前田雅英『少年犯罪』という本を河合幹雄は「犯罪統計の分析の初歩さえ踏まえていない低レベルのもの」と評価している。

前田雅英に対するこうした評価は河合幹雄だけではない。荒木伸怡立教大学教授は『少年犯罪』の書評で

統計学の名著をも多数刊行している東京大学出版会が、その刊行書籍の品質を問われかねない本であると考える。

とまで書いている。
マスコミはもっとまともな学者にコメントを頼めないものだろうか。 

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不安な時代

2006年08月01日 | 日記

大雨がやんだと思ったら、突然の猛暑。
異常気象が通常気象になってしまった昨今である。

「最近はおかしなことが多い。雨がよく降るし、地震があちこちである。変な犯罪も増えている。これからどうなるのだろうか」と、よく耳にする。

しかし考えてみると、「異常気象」「地震」「犯罪」、それぞれ原因は別である。
それなのに、ひとつながりの現象として考える。
つまりは、未来に対する漠然とした不安感があって、あらゆるところに不吉な予兆を見てとるわけだ。

高度成長期には、地球はどうなるんだろうか、なんて不安を感じる人はあまりいなかったのではないか。

冷戦や公害などの諸問題はあっても、必ずや人類の英知によって解決すると信じていた。
21世紀は輝く未来だったのですよ。

地震は自然現象だが、被害が人為的に拡大することがある。

地球の温暖化は人為的な影響が大きく、温暖化による異常気象は事実。
治安に関しては、日本は治安がいいし、犯罪が特に増えているわけではない。
高度成長期のほうが犯罪は多かったし、昔だって親が子供を殺し、子供が親を殺すことはあった。
それなのに、体感治安は悪化している。

アンケートで、「農業では農薬を使っていることに不安を感じますか」という質問に、「はい」と答える人が多い。

「はい」か「いいえ」で答えるとしたら、「農薬は不安だ」と普通は答える。
だからといって、無農薬野菜を買うわけではない。

ガン検診を受ける人は30%ぐらい。
ガンが怖くない人はいないと思うが、とりあえず大丈夫だと多くの人は思っているのだろう。
治安が悪化しているという思い込みも、これと似ているかもしれない。

今は不安感が時代の雰囲気なのだろうか。
不安感の中では、「どうしてこんな目に」という被害者意識が生まれ、排他的になりやすい。
地球環境問題については私自身が加害者である。

地球が温暖化していることは実感していても、自家用車に乗らないとか、冷房の設定を高めにする人は少数派である。
先日、北極圏に生きる動物たちのキュメンタリー「ホワイト・プラネット」を見た。
冷房が効きすぎて寒いぐらいの映画館で、「今、この目でみる光景は数十年後、なくなっているかもしれない」というメッセージを読み、地球温暖化を心配するというのもいい加減な話ではある。

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