「妙好人の入信」(『柳宗悦妙好人論集』)に三田老人のことが書かれていて、『信者めぐり 三田老人求道物語』を読みたいものだと思っていました。
「三田源七」で検索してみたら、なんと国立国会図書館デジタルコレクションにあり、しかもPDFにして印刷もできることを発見。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909325
508ページもの大著ですから、印刷するのも一苦労です。
『信者めぐり』は三田源七老人が語る妙好人訪問記。
興教書院が大正11年1月20日に発行。
越中の竹田同行が上京のたびに三田老人に聴聞したのと、三田老人が備忘に記しておいたものを整理して出版されたものです。
第一編は8人の同行たちのことを書いた「同行法義物語」。
第二編は3人の僧侶の「東国明師物語」。
第三編は「光触寺物語」で、第四編は「浄教寺物語」。
第五編は3人の僧侶の「西国明師物語」。
三田源七は弘化3年(1846年)に丹波国何鹿郡多田村(現在の京都府綾部市)に生まれる。
13歳の時に父が死に、それが動機となって後生のことが心配になり、説教法話の席につらなったが、信心がいただかれない。
元治元年(1864年)、数えの19歳の時に家を出て、各地の篤信者や有名な師を歴訪した。(しかし、文久2年(1862年)の大晦日に三河野田村の和兵衛を訪ねたとある)
『信者めぐり』は、最初のほうは訪ねていった順番で書かれてあるようですが、だんだんと話があちこち飛んでいます。
会ってはいない田原のおそのの言行も書かれています。
晩年は京都に住み、『信者めぐり』が出版された時は77歳。
このこと一つを聞かねばと、聴聞をし、疑惑を問うために、遠方を厭わずに尋ねていった篤信者が、三田老人だけではなく、全国各地に大勢いたことに驚きます。
また、僧侶や同行の話もかなり難しい。
仏教語や『御文』などからの引用が多く、言葉の意味がまずわからない。
耳で聞いただけで、これだけのことを理解していたのかと感心します。
三田源七が各地の信者めぐりに出かける端緒は、誓顕寺という人が本願寺に参拝した時の出来事を語ってくれたことです。
白髪の老婆が茶所に腰をかけて法義話をしているので、背中をポンと叩き、「此処はどこぞとおもふや。御本山の前ぢゃないか。ウカウカシャベルナ。無常の風は後より来るぞや」とおどしたところ、老婆は「親様に御油断があらうかなあ」と申したので、これはえらい同行だと思い、名前を聞けば、三河国田原のおその同行だった。
それで、おそのを誓顕寺に伴い、一か月ほど法義の相続をした。
この話を聞いた三田老人(といってもこの時19歳)は、田原のおそのに会うたなら胸の中のムシャクシャがハッキリするだろうと思い、本願寺へ参詣し、そのまま田原のおそのをたずねようと出かけた。
もっとも、おそのは安永6年(1777年)生まれで、嘉永6年(1853年)に死んでいますから、会うことはできなかったはずです。
それから近江の同行たちを訪ね、そうして美濃に入って矢島村のおゆき同行を訪ねた。
「私は丹波の国の三田源七と申すもので御座りますが、一大事の後生が苦になり、此の事一つが安心出来にや国へかへらぬとぞんじ、信者めぐりを致そうと思うて参りました」と申せば、おゆき同行は家にあげてくれた。
「お前さん今日まで如何なる御知識に逢はれたか。何処の御方に出ようたか。又いかなることが心配にて、国を出かけになつたか」と聞かれるので、国を出発した始終を話した。
同心のものが集まり、四日間逗留して話を聞いたが、少しも訳が分からない。
四日目に出立しようとしたら、おゆき同行は夫の弟に尋ねなさいと申した。
しかし、その人の言うことも分からない。
雪の中、おゆき同行は杖にすがりながら見送ったが、一、二丁ほど行った時、「オゝイ/\」と呼び戻される。
何かと思って帰ると、おゆき同行は源七の手をとり、
「これ兄様、御前は信心を得にや帰らぬといふたナア」
「ハイさよう」
「けれども何処までゆかれるか知らぬが、もしやこの後において、いよ/\これでこそ得たナアというのが出来たら、如来聖人とお別れじゃと思ひなされ。元の相(すがた)で帰つておくれたら、御誓約通りゆゑ、さぞや御真影様はお喜びであらう」
しかし、何のことやら訳が分からず、異安心ではないかと疑った。
それからもお寺や同行の家を尋ね歩き、聴聞を続ける。
後日、三河国の額田郡阿知和村の松林寺に参り、おゆき同行の言葉の妙味を教えてもらったのが、純他力を味わう初めだった。
源七が20歳の春に松林寺に行き、三浦和上に会う。
老院「お前は此処へ来るまで、沢山のお方に逢うて来たであらう、覚へられるものではなけねども、聊かなりとも耳にとゞまつてあることはないか」
源七は矢島のおゆき同行との一部始終を話し、おゆき同行の別れの言葉について、「未だ其心が知られませんが、如何なる思召でありましやうか、何卒(どうぞ)御一言御知らせ下さいませ」と尋ねた。
老院「今日でもそれほど味好(うま)いことを聞かせる者があるかや、此国を捜しまはつても、そんなことを聞かせる者は一人もない。何が故こんな処まで尋ねて来た」と言って、両手を打って喜んだ。
和上は使いを出して、二人の同行を呼びにやった。
同行「御用は何で御座います」
院主「何も外事(ほかごと)ではないが、此男があんまり味好(うま)いことを聞いて来て聞かせてくれたで、一人してきいてゐても惜いと思うて呼び付けたのぢや。此男がナー美濃のおゆき同行にあうて別れの時、かよう/\なお聞かせであつたげな」と、逐一述べられた。
二人の同行は「これはしたり/\」と両手をうち、身を踊らせて喜ぶ。
「其相(そのすがた)を見て始めて持つたまんまの仕合せを知らせて貰ひました」
三田源七が伝える僧侶や同行とのやり取りはだいたいこういう感じなので、読みながら「わからん、わからん」の連続。
わかろうとすることがはからいで、おまかせ以外にないということでしょうか。
もっとも、まかせようという気持ちもはからいですが。
演出家で映画監督のエリア・カザンは米軍慰問のため、1944年末か1945年初にニューギニアとフィリピンに行きました。
『エリア・カザン自伝』にはその時に見聞したことも書かれています。
フィリピンに行く途中、ピアク島に着きます。
ある砲兵がしてくれた日本兵の捕虜の話。
タクロバンの海軍基地で話題になった、同盟軍フィリピン軍の蛮行。
「それを語る口吻には、軽蔑だけでなく称讃が入り交じっていた」と書いています。
これはエリア・カザンが聞いた話ですから、実際にあったことかどうかはわかりません。
吉田裕『日本軍兵士』によると、ジュネーブ条約で認められている傷病兵が捕虜になることを、日本軍は禁じた。
傷病兵の残置を認めないため、傷病兵を軍医や衛生兵が殺害するか、自殺を促すことが常態化した。
ガダルカナル島撤収部隊の実情を視察した参謀次長が東京に発信した報告電にこうある。
どっちもどっちだと思いました。
もう一つ、こんなことも書いています。
タクロバンでは、米陸軍が郊外に売春宿を開設していると聞き、連れ立って様子を見にいった。
日本陸軍が中国で慰安所を開設したのは性病防止と強姦防止のためです。
アメリカ軍も性病防止に苦慮していたようです。
それにしても、どうやって女たちを集めたのでしょうか。
杉山龍丸氏(1919年~1987年)の父は小説家の夢野久作、祖父は明治から昭和初期にかけての政界の黒幕だった杉山茂丸です。
右翼系の人が杉山龍丸氏に尋ねた。
と、いう質問をされましたので、私は、
「さあー、どうでしたでしょうかね。私の父は、『天御中主命は、猿の中のボス猿のようなものだ。』と、申していましたからねー。」
と、申しましたら、その人は眼をむいて、
「へーえ、天御中主命が、猿の中のボス猿。へー、そうすると、天御中主命の子孫の天皇は、猿ということですか? へえー、杉山さんがねー。」
と、嘆息していました。
そして、杉山龍丸氏はこのように書いています。
それは、天皇そのものと、政治機構上の天皇の地位の問題とは、別に考えねばならないということであったということです。
日本の場合、戦前には、これを混同して考えられていました。
それで、問題になったようです。
第二次大戦で、天皇は、戦争責任は無く、政治機構上、無責任の立場になっていたのですが、これは、非常に奇妙なことで、外国の人々、特に第二次大戦で惨禍を受けた国々の人々の理解に苦しむことであったと思います。
東京裁判で、天皇は、無罪でした。
しかし、それは、人為的な法律的なものにおいてであって、本質的なものにおいて、無罪であるかどうか、それは、人為的なものでは、云々出来ぬものがあるでしょう。
そこに、天皇の難しさがあるように思います。
天皇を絶対者とする、日本の一部の人々の考えに、大きな矛盾があるのではないでしょうか。
天皇の戦争責任を考える手助けとして、吉田裕『日本軍兵士』に引用されている文章をご紹介します。
1940年10月、昭和天皇は「支那が案外に強く、事変の見透しは皆があやまり、特に専門の陸軍すら観測を誤れり。それが今日、各方面に響いて来ている」(「小倉倉次侍従日記」)と語っています。
状況をきちんと把握しているわけで、軍部のロボットだったわけではないことがわかります。
そして、日中戦争中の1937年から1941年に、天皇の侍従武官を務めた清水規矩の発言は大きい意味を持つように思います。
吉田裕氏の説明によると、統帥権とは、陸海軍を指揮し統御する権限のことで、統帥権は大元帥としての天皇に属し、内閣や議会の関与を許さないとされた。
各軍の司令官や連合艦隊司令長官は天皇に直属し、天皇が発する最高統帥命令にしたがって作戦を実施した。
参謀総長や軍令部総長は大元帥としての天皇を補佐する最高幕僚長であり、天皇からあらかじめ委任を受けない限り、基本的には自ら命令を発することができなかった。
昭和天皇は、自分は軍を指揮しているから責任があると意識していたと思われます。