三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

広瀬健一「学生の皆さまへ」4 他人のカルマ

2009年06月30日 | あやしい教え・考え

自分が作るカルマの心配だけしたらいいというわけではない。
他人のカルマが移ってくることもあるのだから油断できない。
広瀬健一氏は他人のカルマの影響を受ける体験をしている。
「一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど激しくカルマが移ってくるのを感じて、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビ・コマーシャルを視聴したところ、その音楽のイメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました」
「当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました」

たしかに、子供が学校で悪さをすれば、親が学校に呼び出されて怒られるように、ある人のカルマ(行い)が他の人に影響を及ぼすことがある。
しかし、オウム真理教が言う他人のカルマがどうしたというのはそういうことではない。
たとえば新型インフルエンザのウイルスが感染するような感じである。
こういうカルマの考えはケガレと似ている。
カルマもケガレも具体的な実在だと考えられているのである。

ケガレは移る。
だから、忌中の張り紙を貼って人に用心してもらうわけだし、年賀の挨拶に行きませんと「喪中につき」という手紙をわざわざ送って知らせる。
神や先祖はケガレを嫌うから、ケガレが移ると災いがもたらされることがあるからである。
あるいは、世界救世教の信者が言っていたのだが、町を歩いていてなんだかぞっとすることがある、それはそこに地縛霊(不慮の死の場合は死んだ場所に霊魂がとどまるとされる)がいるからで、お祓いの呪文(?)を急いで唱えるんだそうだ。
カルマとケガレと地縛霊とは本来違うはずだけれど、地縛霊は他人に取りついて苦しめるので浄化しないといけないわけで、まあ似たようなもんかいなと思う。

広瀬杲先生は、善導当時の仏教界においてこういう主張がされていたという。
「浄土、すなわち仏国土の尊貴性を主張すれば、そこへ往生する衆生の位を高め、低位の存在の往生を認めることはできず、逆に低位の衆生の往生を許すならば、その浄土もまた低位の境界となる。それ故、最勝の浄土へ低位の衆生が往生できるという主張があるとすれば、それは理論的な矛盾である」(『大乗仏典中国・日本篇5』解説)
清浄なる土に汚れたものが入ると清浄さを保てない、つまり浄土は選ばれた人の世界だから、浄土は汚れたもの、劣ったものが排除される、とされていたわけである。

オウム真理教では、出家すると世俗的な関係を一切絶つことになる。
広瀬健一氏はこう書く。
「出家者は、教団施設内で共同生活をすることになります。家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食できるのは給与されるもののみで、通常、外食は禁止でした。本、新聞、テレビ、ラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした」
「出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していた」

他者のカルマ(悪業)によって汚染されてしまうことのないよう、世俗の人から遠ざからないといけないというオウム真理教の教団施設は、汚れたもの、劣ったものを排除しなければ清浄さが保てない浄土と同じ発想だと思う。
言うならば病気に感染した人との接触をいやがるようなもので、実際、アーレフの信者も入信していない人とのつき合いを嫌うそうだ。

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ネット中毒者の告白

2009年06月29日 | 日記

前々からそうだろうなとは思っていたが、どうも私はネット中毒らしい。
パソコンを修理に出し、戻ってくるまではネットはやめとこうと思った。
しかし、ディスプレイを見るとむらむらし、図書館に行った時には、4台ほどコンピュータがあり、インターネットしている人を見て、「我慢できない」と思いましたからね。
幸いコンピュータはふさがっていて使うことができず、AAの「今日一日だけ」を思いだし、「今日一日、今日一日」とつぶやきながら立ち去ったのでした。
私は映画中毒でもある。
映画館のイスに座ると、「ああ、しあわせ」としみじみと感じる。
でも、パソコンの前に座ってネットに接続しても、そういうウフフ感はない。
なのに、何となくあれやこれやとネットサーフィンにふけってしまう。
パソコンを修理に出している間も、ノートパソコンで法話やテープ起こしの原稿をちまちま直していて、そういうのが自分は好きなんだなあとつくづく思った。
ネット中毒のほうがどうもたちが悪いという気がする。

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とほほ

2009年06月19日 | 日記

パソコンの調子が悪いので修理に出すことにした。
買って丸一年しかたっていないのに。
ブログの更新もしばらくお休みです。

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広瀬健一「学生の皆さまへ」3 カルマの法則

2009年06月18日 | あやしい教え・考え

カルマが実体化され、因果の道理が前世・現世・来世の三世思想と結びつくとカルマの法則となる。
カルマの法則とは、現在の境遇や出来事などは過去世の業の結果であるということ、そして次の生でどこに生まれるのかはカルマ(業・行為)によって決まるという考えである。
つまりは宿業とか前世の因縁ということである。

広瀬健一氏はカルマの法則をこのように説明する。
「煩悩と行為は、過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした」

カルマの法則について麻原彰晃はこう説明している。
「先日、私の五才になる三女が、ある大師をつかまえて問いかけたことがあった。
「ある人が他の人に殴られるのはなぜ?」
「それは、その人が以前に他の人を殴ったことがあるからだよ。」
「じゃあ、一回も殴ったことのない人が殴られるのはなぜ?」
「もし、人を殴ったことがないのに殴られたとしたら、その人は前生で人を殴ったことがあって、そのカルマが残っていたんだね。」
たいへんな不幸に襲われたときでさえ、「すべて自分の過去のカルマによる」ということを理解できるかどうかは、修行の大きなポイントでもある。「カルマの法則」を完全に理解しきらない限り、苦からの解放、すなわち解脱はあり得ない」
(麻原彰晃『滅亡の日』)

どんな行為(カルマ)でも何らかの影響を及ぼすことは言うまでもない。
しかし、行為がカルマという実体となって残るとなると、これはおかしいと言わざるを得ない。
A・スマナサーラ師(スリランカの高僧)は
「善悪行為のエネルギーは簡単には消えません。ポテンシャル(潜在力・業)として蓄積されます。しかし業(カルマ)はエネルギーですから、悪いエネルギーと強い善いエネルギーで抑えることは可能なのです」(A・スマナサーラ『死後はどうなるの?』)
と言っているが、業=エネルギー(粒子みたいなものか)が実在するなら、業(カルマ)が物理的に存在することを証明できるはずだ。

そもそもカルマの法則は縁を無視している。
ある人が他の人に殴られた因はかつて人を殴ったということであり、その人が一回も殴ったことのないとしたら前生で人を殴ったからだ、という麻原彰晃のたとえは、因果関係をあまりにも単純化していると言わざるを得ない。
因が果を生ずるための縁が必要だし、縁は無数にある。
たとえば、種をまけば必ず花が咲くわけではない。
芽が出て花が咲くためには、水をやったり太陽の光に当たったりするという縁がなくてはいけないし、カラスが種をほじくらないという縁など、数え切れない縁が必要なのである。
誰かに殴られる縁も無数。
だから、因果関係を単純に説明する教えはあやしいと思ったら間違いない。

ところが、ロポン・ペマラ師(ブータンの高僧)も麻原彰晃と同じようなことを言う。
「病気には三つのタイプがあると言う。一つは、本当の病気で、これには医学的な治療がある。もう一つは、悪霊の祟りであり、これは占いと法要によって対処できる。最後は、過去世の業の結果であり、自分がいま体調が優れないのは、このタイプである。だから、薬も、法要も役にたたず、唯一の対処策は善業を積むことである。だから、自分は念仏を唱えているのである」(今枝由郎『ブータン仏教から見た日本仏教』)
信仰で病気が治るなんてクリスチャンサイエンスと変わらない。(クリスチャンサイエンスは前世のことは言わないが)
この部分だけを取りあげるなら、ブータン仏教よりも日本仏教のほうがましだと思う。
法然はこう言っている。
「いのるによりてやまひもやみ、いのちものぶる事あらば、たれかは一人としてやみしぬる人あらん」(神や仏に祈ったからといって、病気がなおり、命がのびるなら、病気で死んだりする人は一人もいなくなるはずであろう)(井上洋治『法然』)

カルマの法則なんて仏教じゃないと言いたいところだが、カルマの法則を肯定する宗派、教団は少なくないし、過去世の行いによって現在の境遇が決まるということは、浄土経典にも説かれている。
「経典中には、現世の私たちのあり方が過去世の行いによると述べている場合がある。すなわち、現実社会の身分・貧富、身心の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴などを、その人個人の過去世の行いの結果によるものとするのである。このことは悪をつつしみ善につとめるという宗教的倫理を強調するための論理であって、どこまでも、現実の生き方を誡めて正しい未来を開くための教えとして受け止めねばならない。(略)
しかし、こういう表現が、経典の真意とは別に解釈され、そのために貴賎・浄穢というような差別意識が助長され、さらにまた一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方では被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。(略)
それは政治的につくりあげられた封建的身分差別までも、すべて個人の行いの報いであると説くことによって、社会的身分制度を正当化する役割を果たすものであった。しかもこのような現実社会を無批判に肯定してしまうような理解は、現実の差別をなくす取り組みを、因果の道理をわきまえないものだとして否定するとともに、またその取り組みを悪平等として非難する考えを生みだしたのである。
しかし、現実の幸、不幸の原因のすべてを個人の過去世の行いのせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことは、むしろ縁起の道理にそむく見解である。歴史的社会的に作られた矛盾や差別によってもたらされた不幸の責任を、被害者や差別されている本人に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらせてしまうようなことがあってはならない」
(『浄土三部経―現代語版―』)
よその悪口はあまり言えないのでした。

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広瀬健一「学生の皆さまへ」2 オウム真理教の教義

2009年06月15日 | あやしい教え・考え

広瀬健一氏は手記の中で、オウム真理教の教義を次のように説明している。
「教義において、修行の究極の目的は前述の最終解脱をすること、つまり、輪廻から解放されることでした。なぜ解脱しなければならないのか―それは、輪廻から解放されない限り苦が生じるからだ、と説かれていました。これは、今は幸福でも、幸福でいられる善業が尽きてしまえば、これまでに為してきた悪業が優位になり、苦しみの世界に転生するということでした。特に、地獄・餓鬼・動物の三つの世界は三悪趣と呼ばれ、信徒の最も恐れる苦界でした。
それに対して、解脱はすべての束縛から解放された崇高な境地でした。解脱に至るには、次のように、私たちが本来の最終解脱の状態から落下していった原因を除去していくことが必要と説かれていました。
私たちは自己が存在するだけで完全な状態にあったにもかかわらず、他の存在に対する執着が生じたために輪廻転生を始めたとされていました。それ以来、私たちは煩悩(私たちを苦しみの世界に結びつける執着)と悪業を増大させ、それに応じた世界に転生して肉体を持ち、苦しみ続けているとのことでした。たとえば、殺生や嫌悪の念は地獄、盗みや貪りの心は餓鬼、快楽を求めることや真理(精神を高める教え=オウムの教義)を知らないことは動物に、それぞれ転生する原因になるとされていました。
これらの煩悩と行為は、過去世のものも含め、情報として私たちの内部に蓄積しているとのことでした。この蓄積された情報が「カルマ(業)」でした。そして、「悪業に応じた世界に転生する」というように、自己のカルマが身の上に返ってくることを「カルマの法則」といい、これも重要な教義でした。
カルマの法則から考えると、解脱、つまり輪廻からの開放に必要なのは、転生の原因となるカルマを消滅(浄化)することになります。ですから、オウムにおいては、カルマの浄化が重視され、修行はそのためのものでした」


つまりは、悪いことをしたら地獄に落ちるからいいことをしましょうね、ということである。
ただし、オウム真理教は悪いことをさせないための方便としてそういうことを説いていたのではない。
オウム真理教の信者は現実に地獄・餓鬼・畜生に落ちることを恐れていたという。
「信徒の心理において、苦界へ転生する恐怖からの回避は無視できない要素なので、その恐怖が実感できないと、信徒特有の思考や行動は理解が困難だろうからです」
地獄に落ちるぞという脅しが有効なのは、輪廻を信じ、地獄の実在を信じているからであり、地獄のイメージを体験しているからである。
オウム真理教では輪廻の主体としての霊魂、カルマ(業)、六道を実体的なものとして説いている。
そして、信者は神秘体験を経験することで、オウムの教義の正しさを実感し、信者は麻原の言うことに疑問を持たなかった。

輪廻思想、三世思想、業報思想、六道思想、解脱思想はオウム真理教独自の教義ではなく、古代インドのウパニシャッド哲学ですでに説かれている。
水野弘元『釈尊の生涯』にはこのように説明されている。
「人間の運命はわれわれ自身のこころの持ち方や努力のいかんにかかっており、われわれの行為の善悪によって決定されると考えられるようになった。それはわれわれの自由意志による善悪の業(行為)によって、幸不幸の結果が得られるという善因善果、悪因悪果の因果応報の思想である。この因果の連鎖は、単に現世のみの間に存在するのでなく、過去世から現世へ、現世から未来世へというように、三世にわたって不断に存続するとせられた。これが三世にわたる業報説であり、業に従って幸不幸の世界に生まれ代るという輪廻説である」

「元来輪廻説が生じたのは、生類は天国から地獄までの種々な世界を生まれ代り死に代り、この輪廻は永遠に続いて、そのままでは、この話を断ち切ることはできず、われわれは輪廻の状態にいるかぎりは、絶対の幸福と安心は得られないから、実は苦悩にみちたものであるという、現状に対する悲観説が基調をなしている。(略)この不安な現状を脱して、絶対平安の世界を求めたのが解脱の要求であり、ウパニシャッドでも、自我(アートマン)と世界精神である梵(ブラフマン)とが融合して、梵我一如の理想郷に到達した時に、輪廻からの解脱が得られるとした」

ウパニシャッドのこの思想は後世に影響を与え、仏教も取り入れている。
もっとも、仏教においては輪廻や六道はたとえであり、実際に地獄や餓鬼といった世界があって、死んだらそうした世界に生まれるというわけではない。
オウム真理教の教義もウパニシャッド思想と同じだと言っていいと思う。
というわけで、オウム真理教の教義自体はありきたりなものである。
というか、広瀬氏が「オウムは多くの文化遺産を採用―濫用というほうが正確かもしれません―してきたのです」というように、いろんな思想のいいとこ取りをしているわけである。

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広瀬健一「学生の皆さまへ」1

2009年06月12日 | あやしい教え・考え

澤地和夫『東京拘置所死刑囚物語』に、オウム真理教の事件で死刑を求刑されている被告についてこうふうに書いてある。
「私は、約8年くらい前から、オウムの林泰男、豊田亨、早川紀代秀、中川智正、遠藤誠一の5人と同じ舎房で暮らしていますが、彼らは5人ともきわめて、礼儀正しく真面目で、かつ、とても紳士に見えます。
しかし、実際に接したことのない世間の人たちは、オウムの犯人たちを端(はな)から冷酷で無慈悲な人間ときめつけているように思われます。ところが、実際の彼らはそうではないのです。あのいかさまとも思えるような宗教との出会いがなければ、この社会のリーダー的存在として応分の活躍をした人たちであろうと考えます。しかし、悲しいかな、いくら高学歴で教養の高い人間であっても、人は何かをきっかけとして、自分でもわけがわからないうちに犯罪者となってしまう存在なのです」

地下鉄サリン事件実行犯である広瀬健一氏が「学生の皆さまへ」という手記を書いている。
藤田庄市氏がフェリス女学院大学で大学生にカルト予防のための講義を行うに当たり、資料として執筆を求めたのに応じてものだそうで、A4で59枚ある。
達筆、そして極めて論理的であり、冷静に自らを省みている。
広瀬氏も「礼儀正しく、真面目」な人なんだろうなと思う。
「学生の皆さまへ」を読んだ感想を何回かに分けて書く予定です。(今までブログであやしい宗教について書いてきたことのおさらいみたいなものです)

私はカルトという言葉はあまり使いたくない。
というのも、カルト宗教とまともな宗教とがあって、その間にはっきりとした境界線があるわけではないからである。
伝統宗教や既成教団だってカルト的要素はある。
また、オウム真理教は特殊なセクトであり、麻原彰晃という異常な人間のせいで事件が起きたんだと、あっさりと片づけてしまうべきではないと思っている。
麻原彰晃に人間的魅力があったからこそ、信者はもちろんのこと、ダライラマや中沢新一、そして西本願寺の門主といった人たちが麻原に対して好意的な言葉を寄せているのである。
自分とは無関係なものとして切り捨ててしまったら、問題のある宗教、思想、団体にはまってしまっても、どこが問題なのか、そのことに気づかないでいるだろう。
一番上手な詐欺は被害に遭ったと気づかせない詐欺である。
だましているほうも、だましている気がなくてだましているのが一番いい。
たとえば、教祖の本を大量に買って配るというような。

間違うことはしかたない。
間違ったと気づくことが大切である。
広瀬氏の手記を読んで、あやしい宗教を見分ける基準の一つは実体化ということだと思った。
「エネルギー」とか「いのち」とか「見えない世界」だとかいったことを実体化しているなら、その教えには眉につばをつけて聞く必要がある。
そして、主張が真実であることの証拠、証明として神秘体験や超常現象を持ってくる教えは気をつけたほうがいい。
しかしながら、ある概念の実体化や神秘体験の絶対化は多くの宗教でなされていることであり、オウム真理教だけではないのである。

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社会守るため「極刑やむなし」…オウム弁護人、保護司らも

2009年06月09日 | 死刑

闇サイト殺人「極刑を」32万人署名…連載「死刑」第4部
大きな青い仕分け用の箱から、封書の山があふれていた。2007年10月1日、名古屋市千種区にある千種郵便局。「愛知・闇サイト殺人事件」で一人娘を失った磯谷富美子さん(57)は、この日届いた約3万5000人分の署名を受け取った。逮捕された男3人の死刑を求める署名だった。
読売新聞6月6日

読売新聞のこの記事に、弁護士も死刑を求めて署名したことが書かれている。
◆社会守るため「極刑やむなし」…オウム弁護人、保護司らも◆
〈当方は死刑を求刑された地下鉄サリン事件の実行犯の弁護をしております。しかし、今回の凶行は悪質極まりなく、社会防衛の観点からも遺族の応報感情の点からも、死刑はやむを得ないと思います〉
 第2東京弁護士会に所属する田瀬英敏弁護士(52)は2007年10月、「愛知・闇サイト殺人事件」で娘の利恵さん(当時31歳)を殺害された磯谷富美子さん(57)に手紙を書いた。都内の事務所で偶然、磯谷さんのホームページを目にして、残虐な犯行に憤りを覚えた。職員全員で署名をし、手紙とともに投函した。
 オウム真理教元幹部の広瀬健一被告(44)(1、2審死刑、上告中)を2審から担当している。弁護士会を通じて、打診が来た。当時、弁護士になって4年目。初めての死刑事件だった。5000人を超える死傷者を出した地下鉄サリン事件の結果はあまりにも重大だが、「一貫して罪を悔いる姿勢を示す広瀬被告には死刑は重すぎる」と感じ、弁護を引き受けた。
 「再び社会と折り合える可能性がある加害者の場合、死刑を科すことは慎重であるべきだ。一方、闇サイト事件で死刑判決が下されなければ、女性が夜道を歩くことが命がけになってしまう」。田瀬弁護士は署名した理由をそう説明する。

弁護士にもいろんな人がいるんだなと思った。
署名が証拠採用されないだろうことは弁護士なんだから知っているはずで、それでもなおかつ職員全員で署名したのは、裁判官に「世論」の圧力を加えようとしたからだろう。
まあ、そもそも読売新聞のこの記事自体が、脅して不安にさせるというインチキ宗教の常套手段を使って、死刑犯罪抑止論という賞味期限の切れたおまじないを売りつけようとしているわけだが。

それにしても、田瀬弁護士は本気で「闇サイト事件で死刑判決が下されなければ、女性が夜道を歩くことが命がけになってしまう」と思っているのだろうか。
闇サイト事件の被告の一人は無期懲役だった。
判決以来、夜道を命がけで歩いている女性がいるとは思えない。

ひったくりを高校生で捕まえたという出来事が岡山と広島であった。
「3日前、岡山市で高校生がひったくりをした警察官を取り押さえましたが、6日夜、広島市でも女性のかばんをひったくりけがをさせた男を高校生が追いかけて取り押さえ、男は強盗傷害の疑いで逮捕されました」

コンビニの店員が万引き犯を追いかけて刺されて死んだという事件があり、加害者は一審では無期懲役の判決だった。
こういう事件があり、死刑判決ではなかったにもかかわらず、高校生たちはひったくり犯をつかまえたのである。
岡山の高校生は「怖くはなかった」と言っており、命がけでひったくり犯を捕まえたわけではない。

それと、田瀬弁護士は広瀬被告が「一貫して罪を悔いる姿勢を示す」から弁護を引き受けたそうだが、反省していないと思われる被告、たとえば菅家利和氏や林真須美死刑囚のように否認してたら弁護を断るのだろうか。
あるいは、「再び社会と折り合える可能性」のあるなしを誰が決めるのか。
教育刑の理念を田瀬弁護士はどのように考えているのかと思う。

愛知県に住む知人がこういうことを言っていた。
「先日、磯谷富美子さんの日常を追ったニュース番組を見ました。それで気づいたのは、磯谷さんを取り巻く人びとがマスコミを含めて、皆、被告に極刑を求める人たちばかりなんですね。つまり、磯谷さんからしたら周りにはイエスマンしかいない。磯谷さんの憎悪を増幅させる人ばかりで、憎悪を鎮める人がいない。そうした状況が極刑を求める32万筆もの署名運動の原動力になったのでしょうが、それがはたして磯谷さんにとって幸せなことだったのかどうか。周りの人たちは善意と正義感で支援しておられるのでしょうが、逆に磯谷さんの人生を貧しいものに堕としているように見えました」
弁護士や保護司といった人は憎悪を鎮める役のはずなのに、わざわざ憎悪を煽り立て、おまけに読者の不安感をかき立ててどうするんかいなと思う。

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足利事件と取調の全面可視化

2009年06月06日 | 死刑

足利事件、たまたまDNA鑑定が行われ、その結果釈放されたわけだが、まさに氷山の一角なんだと思う。
同じ時期にDNA鑑定で有罪、死刑となった久間三千年氏も無罪を主張してた。
足利事件と同じDNA鑑定、92年の飯塚事件も再審請求へ
1992年に福岡県飯塚市で女児2人が殺害された「飯塚事件」で死刑判決が確定し、昨年10月に刑が執行された久間三千年元死刑囚の弁護団が、今秋以降にも福岡地裁に再審請求する方針であることが5日わかった。
久間元死刑囚は無罪を主張していたが、最高裁は2006年9月、DNA鑑定の信用性を認めた。弁護団は「足利事件」と同じDNA鑑定法だったこともあり、鑑定の不備を柱に再審を求めるとしている。ただ、当時の試料は残っておらず、DNAの再鑑定はできないという。
読売新聞6月6日
今、足利事件と同じ事件が起きたら、たぶん被告は死刑だと思う。

菅家利和氏は自白している。
元県警幹部は「DNAだけに頼ったのではない。任意の自供を得たから逮捕した」と強調する。毎日新聞6月5日
審理にあたった元裁判官は言う。「彼は、自分が関与していない状況を説明できなかった。現場にいたような供述をしたうえ、証拠物を見せられると、受け入れるような供述をした」。DNA鑑定については「あくまで自白の補強証拠。総合的に、ああいう判断になった」と語る。別の元裁判官は「当時の証拠を十分慎重に検討して結論を出した。やむをえない判断」と話した。(毎日新聞6月6日

菅家利和氏は自白したことについてこう言っている。
逮捕後の取り調べでは「刑事に髪を引っ張られたり、け飛ばされたりして『お前がやったんだろう』『早くしゃべって楽になれ』と厳しく追及された」「夜まで『自分はやっていない』と言ったが、受け付けてもらえず自白してしまった」と話した。1審が始まった当初の心境については「傍聴席に刑事がいるとびくびくしていたため、無罪を主張できなかった」と述べた。毎日新聞6月5日

菅家利和氏は別の女児殺害事件も自白しているそうだ。
同じ栃木県足利市では79年と84年に5歳女児の誘拐殺害事件が相次いで起きていた。菅家さんは逮捕後、未解決だったこの2件への関与も「自白」する。
ともに足利事件と共通する点があった。足利事件の遺体発見現場の河川敷の対岸で、79年の事件の遺体は見つかった。パチンコ店周辺で女児が行方不明になったのは、84年の事件も同じ。
宇都宮地検が足利事件で起訴した3日後の91年12月24日、栃木県警は自白に基づき79年の事件で菅家さんを再逮捕する。だが、翌年1月、地検は処分保留を発表し、事実上起訴を断念。「自白は公判廷で覆されると考えるべきだ。犯人しか知り得ない『秘密の暴露』がなければ、公判維持は困難」という理由だった。93年2月、追送検された84年の事件と併せて、地検は不起訴処分とした。毎日新聞6月7日
女児を二人、もしくは三人殺したとなると確実に死刑である。
いったいどういう取調をしたのやら。


やはり取調の全面可視化をしないと冤罪が生じてしまう。
一部可視化だったらダメ。
足利事件でもほんとかどうかわからないが、取調べをした警視はこう言っている。
現場の捜査員をまとめる警視のひざに顔をうずめ泣き崩れた。
「本当にやったのか」
「ごめんなさい」
やりとりを繰り返す間、警視のズボンが涙でぬれるほどだったという。
警視は当時の状況を「あれだけ涙を流し謝った。うそかどうかは分かる」と振り返る
。(
毎日新聞6月5日

もしも裁判員がこの場面だけ見たら、こいつは犯人だ、と思うのは当然だ。

冤罪を防ぐためにはまず全面可視化をしないといけないのは誰でもわかる話なのに、首相のお考えは
麻生総理は捜査段階の取り調べを録画・録音する「可視化」について、「一概に可視化すれば、ただちに冤罪が減るという感じはない」と述べて、慎重な考えを示しました。
ということです。
「無実の罪で17年服役していたというのは、こういうのはあっちゃいかん。これはつくづく思いますね」
と麻生首相は言ってるが、冤罪が生じる原因を考えたことがあるのだろうか。

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裁判員制度対象事件は年々減少

2009年06月03日 | 厳罰化

毎日新聞(5月21日)の裁判員制度特集に下の表が載っていた。
■起訴罪名別の裁判員制度対象事件数■
起訴罪名        04年  05年  06年  07年  08年
強盗致傷       1146   1111  939   695   590
殺人           761   690   642   557   543
現住建造物等放火  357   322   331   287   234
強姦致死傷       316   274   240   218   189
傷害致死        229   205   181   171   173
強制わいせつ致死傷 167    132    161  168    136
強盗強姦        197   165   153  129    125
覚せい剤取締法違反 145  118   125   94    106
強盗致死(強盗殺人) 136   123    72   66     86
偽造通貨行使     151   244    40   62     36
通貨偽造         53    76    30   17     23
集団強姦致死傷     -    14    16   23     18
危険運転致死      38    43    56   51     17
麻薬特例法違反     20    19    14   13     10
保護責任者遺棄致死  8     8     14   10      8
爆発物取締罰則違反  6     3      1    4      8
銃刀法違反        23     37    40    29      6
その他             47    49     56    51     16
総数             3800   3633   3111  2645   2324

殺人件数が減っているのは知っていたが、他のいわゆる凶悪犯罪も減少していたとは。
デーヴ・グロスマン『「戦争」の心理学』(2004年刊)によると、「重大な暴行事件」は世界的に増えている。
「米国における加重暴行事件の人口あたりの発生件数は、1957年から1993年までに七倍近くに増加している」
「2002年現在の暴力犯罪の発生率は1957年の五倍なのである」
「カナダでは、暴行事件の人口あたりの発生件数は1964年から四倍近くに増加している。1977年以来、人口あたりの重大な暴行事件の発生率は、ノルウェーとギリシアで五倍近く、オーストラリアとニュージーランドではおよそ四倍に増加している。同じ時期、人口あたりの重大な暴行事件の発生率は、スウェーデン、オーストリア、フランスで三倍、ベルギー、デンマーク、イングランドおよびウェールズ、ドイツ、ハンガリー、オランダ、スコットランド、スイスでおよそ二倍に増えている」
もっとも、「日本やシンガポールなどの国々でも、未成年者による暴力犯罪は未曾有の増加を見せている」ともあって、ほんまかいなとも思う。
アメリカでも犯罪は減っているそうだし、実際のところはどうなのだろうか。

で、日本の場合、1950年代に比べると殺人件数は2分の1以下に減っている。
1954年が3081件、1955年は3066件で、2007年は1199件、2008年は1300件である。
犯罪を減らすためにはどうすればいいかを考えるなら、いたずらに厳罰を科すのではなく、どうして日本では「重大な暴行事件」が減少しているのか、その原因、理由を考察したらいいと思う。
殺人が減ったのはそれは若者の殺人率が減少、つまり人を殺さなくなったからだそうだ。
殺人以外の犯罪も減っているわけで、マスコミはいたずらに犯罪報道を事細かに伝えるよりも、そちらのほうを考察してほしいと思う。

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