三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

反省と更生

2017年03月12日 | 厳罰化

池谷孝司『死刑でいいです』は、2005年に姉妹を殺害して死刑になった山地悠紀夫のルポルタージュ。
いろいろと教えられることがありましたが、信田さよ子氏(心理学者、臨床心理士)と藤川洋子氏(元家裁調査官)がインタビューに答えて、更生と反省について語っていて、それをご紹介。

信田さよ子さん

私は性犯罪者の処遇プログラムもやっていますが、反省は最後です。まずはどうやって再犯を防止するか。反省を促すより、まず再犯させないというのが重要です。これは北米では常識です。でも、日本は明治以来の刑法で、時代錯誤的にまず反省を求める。でも、中途半端に反省を求めても言い逃れを生むだけです。マニュアル的に「申し訳ないことをしました」と頭を下げるだけでは駄目。反省しなくても、再犯の防止はできる。


私は、まず反省することが更生の第一歩だと思っていました。
ところが、浜井浩一氏が「罪の意識は、科学的に見て再犯を防止できるかということです。これは科学的な結論だけ言うと、罪の意識は再犯を防止できないということです」、あるいは「罪の意識は社会復帰を阻害します」と否定しているのを読んで、驚きました。

岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』にも同じことが書かれてあり、反省を強いることは逆効果になりかねないということは、専門家にとって常識なのでしょう。

ただし、一般人には受け入れがたいと思います。

性犯罪者処遇プログラムも、人格は尊重し、褒めるのが基本です。DV加害者にもどうなりたいかを聞き、現状とのギャップを埋めるように方向づけをします。できたことを褒め、やる気をかきたてる。世の中の人は「甘い」と言うだろうけど、効果的なんです。

犯罪ではなくても、たとえば戦争責任や慰安婦問題などでも、頭ごなしに謝罪を求められると反発したくなるのも同じことかもしれません。

児童虐待にもその背景があります。

暴力を受けて育つと、暴力を肯定的に考える人が多いんですよ。

虐待は世代間連鎖するといわれているが、虐待するのは多くが父親であり、父親から母親へのDVを見て育った息子に暴力が連鎖することが分かってきた。
世代間連鎖は父から息子へという男の問題だということです。

私たちは再犯をさせないために、何が必要かを考える。「何が犯罪に至らせたか」より、「何があれば再犯を防げるか」を考えるんです。「報復」か「許す」かという二者択一ではなく、「再犯防止」という観点が重要です。いたずらに謝罪するのは反省ではない。謝罪、反省というのは、人間扱いされて初めて出ることなんですよ。

「反省→更生」ではなく「更生→反省」ということなんですね。

山地悠紀夫は発達障害だったらしく、『死刑でいいです』では発達障害について書かれています。
藤川洋子さん

相手への共感性が乏しく、反省を感じにくい子には、反省よりもまず、再犯の防止を優先して更生を考えるのが重要です。私は「反省なき更生」と呼んでいます。反省は必要ですが、より大切なのは再び事件を起こさせないことです。
うまくいっているとそう事件なんか起こしません。本人が更生することは、同時に再犯防止になるわけです。まず反省させてから更生となれば、反省できない子は先へ進めなくなる。少年に罰を与えたからといって、なかなか反省できるものではありませんが、特に発達障害の子はそうです。
もともと人間は安全感を持てないと、本当の意味で反省できないと思います。「反省しろ」と言われてもできません。親の愛情を確認できたとか、「おまえのことを大事に思っている」と言われ、無視されずにいろんな人に愛されていたんだ、と感じて初めて気持ちが届く。生きていていいんだ、ここにいていいんだ、と実感できないと、反省なんか出てきません。もともと他人の気持ちが分かりにくい人には余計、きついでしょう。


「反省なき更生」ということですが、反省しなくてもいいということではなく、更生と再犯防止を優先しようということです。

英国はチャリティーの精神が発達していますから、政府もお金を出しますが、寄付も募ってたくさん資金が集まります。「貧しい者にこそ愛を」という考え方があります。「悪いことをしたんだからくたばれ。社会のごみ捨て場でみじめな人生を送れ」という発想はない。日本の場合、世間の見方はそんな感じではないでしょうか。
日本では、英国のように高原のコテージで学習を中心にして訓練を受けているような生活を見ると、怒りを覚える人が多いでしょうね。少年の更生プログラムも理解されにくいぐらいだから。少年院の料理なんか非常に低予算だけど、それでも、事件の関係者が見学すると、中には「こんないいものを食べさせているんですか」と感情的になる人もいます。


刑務所を見学した人が、「こんないいものを食べているのか」とびっくりしてましたが、私もそう感じることがあります。
エマニュエル・ベルコ『太陽のめざめ』では、主人公(たしか15歳)は少年院か児童自立支援施設のようなところに入るわけですが、少年たちはタバコを普通に吸ってて、こんなんで更生するのかと思いました。
感情では納得できないわけです。
だけど、刑務所に入った犯罪者はいつかは出てきます。

久保貴「更生保護における保護司の機能に関する一考察」(『更生保護』2017年1月)にこうあります。

犯罪をした人や非行のある少年の社会復帰を援助する更生保護は、成熟した社会には不可欠のものです。ここでいう成熟した社会とは、犯罪や非行のない社会ではなく、犯罪や非行をした人たちが再び社会に戻り、通常の社会生活を送ることができる社会です。

久保貴氏によると、犯罪をした人を社会から排除するだけでは、安全・安心な社会を維持できません。

加害者の人権ばかり守られて、被害者の人権はないがしろにされている、という意見を耳にします。
被害者の救済や支援と、加害者の更生は分けて考えないといけないと思いました。
そして、再犯しないことも償いの一つではないでしょうか。

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岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』

2016年04月28日 | 厳罰化

岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』に書かれていることは、私のささやかな見聞と照らし合わせてうなずくことばかり。
岡本茂樹氏は刑務所の職員らに対しては指導・助言をするスーパーバイザーとして、受刑者(大半は殺人犯)には篤志面接委員として関わり、個人面接や授業をし、受刑者の更生を支援しているそうです。

岡本茂樹氏は大学で学生相談をしていた中で気づいたことがあった。

問題を抱えた人は、幼少期の頃から親に自分の言い分を聞いてもらえず、言いたいことを言おうものなら、すぐさま親から「甘えるな」「口答えするな」と反省させられ、否定的な感情を心のなかに深く抑圧していることです。したがって、否定的感情を外に出すことが、心の病を持った人の「回復する出発点」と考えるようになりました。


問題行動が起きたとき、厳しく反省させればさせるほど、その人は後々大きな問題を起こす可能性が高まる。
受刑者も何度も反省させられた過去があり、さまざまな感情を抑圧していた。
反省させようとする方法が受刑者をさらに悪くさせ、反省させない方法が本当の反省をもたらす。

岡本茂樹氏自身が交通事故を起こした時の経験を書いていますが、私も事故を起こした時に同じことを考えました。
反省よりもまず後悔、言い訳を考え、責任転嫁をし、自分のほうが被害者だと思う。
以前、待ち合わせの時間に遅刻した時、どうして遅れたかを説明しようとしたら、「すぐに言い訳を言う」と言われたことがあります。
相手にしたら、まずは謝罪と反省をしろということなんでしょうけど、私としては遅刻の理由を説明しようとしただけなのにと、不満に思いました。

被害者よりも自分のことを優先するのは人間の心理として自然であり、事件の発覚直後に反省することは人間の心理として不自然。
鑑別所や拘置所に入所している少年や大人の大半は、被害者のことよりも自分自身のことに必死で、「早く出たい」「刑が軽くなってほしい」と考える。
重大事件の場合には、死刑なのか、無期懲役か、有期刑か、自分の人生が決まる。
罰はできるだけ受けたくないし、受けるとしても罰はできるだけ軽いものであってほしいと考えるのは人間の本能。

少年院に入ると、反省文を何度も書かされる。
しかし、読み手が評価する文章を心得るようになるだけで、問題行動が起きた直後の「反省文」はまったく意味がない。

ところが今の日本の裁判では、「反省していること」が量刑に影響を与えるので、大半の被告人は裁判でウソをつく
裁判という、まだ何の矯正教育も施されていない段階では、ほとんどの被告人は反省できるものではないし、裁判に対して量刑に不満がある受刑者も少なくない。
刑務所でまじめに務めていることは、自分の思いや感情を誰にも言わないで抑圧することになる。

刑罰が長ければ長いほど、罰は重たければ重たいほど、それだけ人を悪くしてしまうと言えます。


最初から受刑者に被害者のことを考えさせる方法は、心のなかにある否定的感情に蓋をしてさらに抑圧を強めることになる。
「被害者の視点を取り入れた教育」という受刑者に対する更生プログラムがある。
キャンベル共同計画(刑事政策を含む社会政策に関する国際的な評価研究プロジェクト)によると、被害者の心情を理解させるプログラムは、再犯を防止するどころか、再犯を促進させる可能性があるという結果を報告している。
自分は悪いことをしたと悔やむことで自己イメージが低くなり、社会に出てから他者との関わりを避け、孤立し、やけくそになって再犯を起こす。

では、どうすればいいのでしょうか。
「被害者の視点」ではなく、「加害者の視点」から始めるほうが、本当の更生への道に至る近道になる。
「加害者の視点」から始めることで、「被害者の視点」にスムーズに移行できる。
問題を起こすに至るには、必ずその人なりの「理由」があるので、その理由にじっくり耳を傾けることによって、その人は次第に自分の内面の問題に気づくことになる。

被害者に残虐なことをしているにもかかわらず、受刑者は自分自身が殺めた被害者に対して、「あいつ(被害者)さえいなければ、自分はこんな所(刑務所)に来ることはなかった」というような否定的感情をもっている。
被害者に不満があるのであれば、まずはその不満を語らせ、そのなかで、なぜ殺害をしなければならなかったのか、自分自身にどういった内面の問題があるのかが少しずつ見えてくる。
心のなかにつまっていた否定的感情をすべて吐き出して、すっきりした気持ちになるのと同時に、被害者に対する謝罪の気持ちも深まっていく。

自分を大切にできないから、他者を大切にできない。
自分を大切にできないのは、自分自身が傷ついているから。
自分が傷ついていることに鈍感になっている場合もある。

自分の心の傷に気づいていない受刑者が被害者の心の痛みなど理解できるはずがない。
被害者の心の痛みを理解するためには、自分自身がいかに傷ついていたのかを理解することが不可欠。
それが実感を伴って分かったとき、受刑者の心に自分が殺めてしまった相手の心情が自然と湧きあがってくる。
そのときこそ初めて真の反省への道を歩み出せる。

真の反省は、自分の心のなかにつまっていた寂しさ、悲しみ、苦しみといった感情を吐き出せると、自然と心のなかから芽生えてくるものです。


再犯しないためには、人に頼って生きていく生き方を身につけること。
そのことだけでも理解できたら、再犯しない可能性が高まる。

自分の心のなかの否定的感情を支援者に受け止めてもらうことによって、受刑者は心の傷が癒され「大切にされる体験」をする。
「大切にされた経験」に乏しかった受刑者が、支援者によって大切にされることによって、受刑者は自分の内面の問題と向き合う勇気を持ち、罪と向き合える。
したがって、支援者の存在は不可欠、自分1人で過去の心の痛みに向き合うことはできない。

受刑者が否定的感情を吐き出して自分の心の痛みを理解すると、自分自身が殺めてしまった被害者の心の痛みを心底から感じるようになる。
ここにおいて、ようやく受刑者は真の「反省」のスタート地点に立てる。

佐藤大介『死刑に直面する人たち』に、無期懲役囚(名古屋アベック殺人事件の主犯格)に「反省とは何か」と尋ねると、こう答えたとあります。

反省というのは、本当に難しいと思います。実感するまでに時間がかかるんです。はじめはただ、申し訳ないと思うんです。そこからもう一つ超えるまでに時間がかかります。被害者の痛みや、命の重さがなかなか見えてこないのです。自分にとって大切な人を失うのがどういうことなのかと。


死刑判決後、母親や弁護人ら関係者からの支えを受けています。

自分の命を大切にしてもらったことで、他人の命の尊さに気づけたと思っています。

岡本茂樹氏は、幸せになることこそ更生と関係あると言います。
受刑者は「被害者は自分を許すことはない」ということを胸に刻んで生きていかなければならないと同時に、彼らが更生するためには、人とつながって「幸せ」にならなければならない。
人とつながって「幸せ」になることによって、「人」の存在の大切さを感じることになる。
そして、人の存在の大切さを感じることは、同時に自分が殺めてしまった被害者の命を奪ったことへの「苦しみ」につながる。
幸せを感じれば感じるほど、それに伴って、苦しみも強いものになっていく。

犯罪を犯した人と反省についての岡本茂樹氏の指摘は、教育やしつけに通じるように思います。

私たちが日常的に行っている「しつけ」や「教育」が、実は子どもや若者たちを犯罪者にしている側面があるのです。


アリス・ミラー『魂の殺人』ですね。

私たちは子どもの問題行動を歓迎しています。なぜなら問題行動とは、「自己表現」の一つだからです。


多くの親は、自分のしてきた子育てを正しいと思い込んでいるから、他者の視点が入り込まないかぎり何も変わらない。
問題行動はヘルプの信号であり、親は、なぜ子どもが問題行動を起こしたかを考える機会を与えられたと考えるべき。
罰を与える前に、問題行動は「必要行動」と捉え直しをする視点を持って、「手厚いケア」をしてほしい。
いじめにしても、いじめが起きる背景には、正しいと思って刷り込まれている「我慢できること」「1人で頑張ること」「弱音を吐かないこと」「人に迷惑をかけないこと」といった価値観がいじめを引き起こす原因にもなっている。

犯罪のない社会を願うのだったら、厳罰化ではなく、社会が犯罪者を受け入れ、支援する体制を作ることが大切だと、私も思います。

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「祖父母殺害、少年が拘置所で告白 公園暮らし、壮絶な生い立ち」

2015年09月04日 | 厳罰化
祖父母への強盗殺人、懲役15年の1審判決支持(読売新聞 9月4日)
埼玉県川口市のアパートで昨年3月、祖父母を殺害して現金を奪ったとして強盗殺人罪などに問われた当時17歳の少年(19)の控訴審で、東京高裁(秋葉康弘裁判長)は4日、懲役15年とした1審の裁判員裁判の判決を支持し、被告側の控訴を棄却する判決を言い渡した。


毎日新聞の「記者の目:埼玉・少年の祖父母刺殺事件」(2015年9月3日)を読み、ネットを見てたら、少年に拘置所でインタビューした「祖父母殺害、少年が拘置所で告白 公園暮らし、壮絶な生い立ち」というニュースがあり、むむむと思っていたので、高裁の判決には悲しくなります。
記事とニュースをまとめてみました。

2014年3月、埼玉県で祖父母を殺害し金品を奪ったとして強盗殺人罪などに問われた孫の少年(当時17歳)に、さいたま地裁は懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。

少年は自治体や学校が存在を把握できない「居所不明児」として育った。
小学4年のときに別居していた両親が離婚、母親は知人男性から金銭的な支援を受けるかたわら、ホストクラブ通いを続け、1カ月帰宅しないこともあった。

5年生になると、母親はホストだという男性と再婚、3人で静岡県内へ。
学校に通ったのは2カ月間で、その後、住民票を静岡に残したまま埼玉県内などを転々とし、自治体も居場所を把握できなくなった。
両親は定職に就かず、金があるときはラブホテルに泊まり、なくなると公園で野宿。

14歳のとき、少年は役所に生活保護を求め、一家は簡易宿泊所に落ちつき、児童相談所が支援して、少年はフリースクールにも通い始めた。
しかし、2か月後、母親が「鳥籠の生活は嫌だ」と宿泊所を引き払った。
役所や児童相談所は少年の居所をつかめなくなり、支援も届かなくなる。
ささいなことで義父に殴られ、前歯が4本折れたこともあったという。

永山則夫のことや、反貧困ネットワークの会報に戸籍のない男性(30代)の話が載っていたことを思い出しました。
戸籍のない男性は、父親(パチンコで生活)と一緒に車であちこち移動していたそうです。

こうした子供たちはすごく多い。
戸籍がないから福祉などのサービスは受けられないし、学校に行っていないから仕事を見つけるのも難しい。

さいたま地裁の裁判員裁判の1審判決は、少年が実母から「殺してでも借りてこい」と祖父母への借金を指示されていたことを認めつつ、「借金を確実にするための言葉に過ぎない」として少年に懲役15年(求刑・無期懲役)を言い渡した。

少年が実母と義父からネグレクト(育児放棄)や身体的虐待などを長期間受けていたことを考えると、無期懲役を求刑するなんてあまりにも酷で、検察は何を考えているのかと思います。
弁護人は少年院送致を主張しているそうですが、少年の更生、再犯防止を考えると、そっちのほうがましだと思います。

少年は、学校での勉強だけでなく、ろくな教育を受けていないわけですから、どういうふうに育て直すか、そこを裁判では考えるべきだと思います。
刑務所に15年も入ったら出所するときには30すぎ。
刑務所から放り出して、後は自己責任で、ということなら、あまりにも無責任です。

被告人質問の他の場面では「大人は信じられない」と語った少年だが、誰かが助けてくれるかもしれないという期待を捨てきれずにいたように感じ、胸が痛んだ。
少年が言葉にできないままに発し続けたSOSに社会や公的機関が気づき、救えた機会はなかったのだろうか。取材を通じ、「大人、そしてこの社会は子どもたちにとって信じるに足る存在なのか」と、問いかけられているような気がしている。

母親は強盗罪などで懲役4年6月、服役中。
母親の責任は大きいわけですが、でも、この母親だけを責めていいものかとも思います。
母親にしてもどういうふうに育ったのか、虐待されていたり障害があったりするのかもしれないと思うようになりました。

『棠陰比事』(宋の時代に書かれた裁判記録集)にこういう文章があります。

思うに、裁きをなす者はあくまでもその無実を疑うべきである。罪人が無実を訴えなくても、急いで判決をくだしてはならない。

裁判官や裁判員に読んでもらい、事件の背景をよく考えるようにしてほしいです。

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布施勇如「アメリカにおける死刑の現状」

2015年07月08日 | 厳罰化

「FORUM90」VOL.142に、布施勇如「アメリカにおける死刑の現状」という講演録が載っていました。

アメリカでは死刑判決も死刑執行も減っている。
2014年に死刑を執行したのは7つの州だけ。
一審は郡(カウンティ)の裁判所でさばかれるが、死刑が存置されている州の郡全体の2%でしか死刑判決が言い渡されていない。
死刑判決も死刑執行も減っている原因の一つは、殺人率の減少である。

ここで思ったのが、日本の殺人件数、殺人率は1950年代が多くて(戦前の殺人率はもっと高い)、1966年の犯罪による死亡者数は3661人、殺人認知件数は2198人ですが、2013年の犯罪による死亡者数819人、殺人認知件数939人と3分の1程度にすぎないのに、なぜか死刑判決はどんどん増えていることです。

死刑判決は、
日弁連のHPには、1991年から1997年までの7年間と、2001年から2007年までとを比較すると、第一審で約3倍、控訴審で約4.5倍、上告審で約2.3倍になっているとあります。

殺人に限らず、犯罪が減っているのに、死刑判決が増えている理由は何なのでしょうか。
新聞を見てたら、こんな記事がありました。
少年法適用、18歳未満8割賛成
 毎日新聞が4、5両日に実施した全国世論調査で、選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法成立を踏まえ、少年法の適用年齢を「20歳未満」から「18歳未満」にすることへの賛否を聞いたところ、「賛成」との回答が80%に上り、「反対」は11%だった。(略)
今年2月に川崎市中1男子殺害事件で17〜18歳の少年3人が逮捕されるなど少年が関わった凶悪事件が相次いだうえ、6月には1997年に神戸市で起きた連続児童殺傷事件の加害男性が匿名で手記を出版して波紋を広げており、こうしたことが今回の結果に影響したとみられる。毎日新聞7月6日

自民党の稲田朋美政調会長は2月27日、「少年事件が非常に凶悪化しており、犯罪を予防する観点から、少年法が今の在り方でいいのか課題になる」と述べたそうです。
少年事件は減少傾向にあるし、殺人など凶悪犯罪も大幅に減っていることを、弁護士の稲田朋美氏は知らないとしたら勉強不足です。

どうして多くの人は厳罰を求めるのか。
その理由の一つとして知らないということがあると思います。

ある講演会で講師が「殺人が増えている。平気で人を殺す」とか、「親が子を殺し、子が親を殺す。昔はそんなことはなかった。今の日本はおかしい」といった話をしたら、みなさん、そうそうとうなずいていました。
いつ自分や家族が犯罪に巻き込まれるかもしれないという恐怖。
だからこそ、厳罰を求めるのでしょう。

もっとも、刑罰を厳しくすることによる犯罪予防効果は実証されていません。
稲田朋美氏のように治安の悪化を憂える人はこのことを知らないのかもしれません。
厳罰化を求めることは、自民党の文化芸術懇話会での言論統制発言にも通じるように思います。

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川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』(2)

2014年12月17日 | 厳罰化

御手洗恭二さんと次兄は佐世保小6女児同級生殺害事件事件の被害者遺族として、加害者や加害者の家族に対してどういう感情を抱いているでしょうか。

『謝るなら、いつでもおいで』のエピローグで川名壮志氏はこう書いています。

この父子は怜美ちゃんを失った喪失感を、憎しみで埋め合わせようとはしなかった。

孫を殺された男性が「(加害者と)同じ空気を吸いたくないんだ」(『死刑』)と森達也氏に語っていますが、御手洗さん親子の気持ちはそれとは違うようです。

あの子に死んでほしいと思うかって? ひどいこと聞くね。とんでもない。僕と同じように娘を失うという苦しみを、あの子の家族に与えたくはないし。

御手洗恭二さんにどういう質問をしたのかわかりませんが、加害者の死を望んでいません。
厳しく罰すべきだという意見でもないらしいです。

少年法の厳罰化とか言われているけど、それはねぇ、僕にはわかんないんだよね。少なくとも厳罰化が、これから起こりうる事件の抑止力になるかはわかんない。


ちっちゃい子でもオイタをすれば、パチンとたたかれるっていう、一番低レベルの話からあるじゃない。じゃあ、殺人というオイタに見合うものって一体なんだろうか。それは、どういう意味なのか。それが僕にはわからない。
……結局やっぱりそこで、自分のやったことと向きあわせるってことがなきゃいけないのかな。

許しているわけではありません。

向こうの親からは月1回のペースで手紙がきてます。向こうの親も非常に苦しんでいると思う。でも、「だから許します」というほど単純にはならないんです。


では加害者がどうなることを望んでいるのか。

あの子がどういう風に生きていくのかということを、僕は被害者側から求めるべきではないとも思っているんです。本人が考えて、本人が生き方を選ぶしかない。

 

あの子にも、生きていれば楽しいことや嬉しいことがあると思う。それを否定する気はないんです。背負ってほしいけど、でも人生そのものは全うしてほしいというか。あの子への思いを聞かれると、それはいつも僕にとって、自己矛盾なんです。


次兄も加害者に対する憎しみや恨みを語っていません。

あの子を憎んでも仕方がない。何というか、こっちが疲れるだけですから。親父さんも軽々しく復讐とかは言わないですよね。
相手にウジウジと悩まれるのも嫌なんですよ。お互いにひきずりたくないというか。こちらも、今までのことを断ち切って前に進みたいという思いがある。諦めじゃなくて、結果として僕が前に進めるから、一回謝ってほしい。謝るならいつでもおいで、って。それだけ。
結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。

『謝るならいつでもおいで』という題名は次兄の言葉からとられています。

僕は彼女に仕事をして、結婚して、子どもを産んでほしいとも思っている。何の仕事であろうが、きちんと……。何でそう思うかと言われると、いつのまにかそういう結論に流れ着いた。「結局、自分が何事もなく生活を送るためには、それが一番いいんじゃないか」って。


こんなふうに言えるのは妹の死だからで、子供を殺された親の気持ちは違うと思う人がいるかもしれません。
兄弟との死別は軽く思われがちですが、それは誤解です。
悲しみをどのように表現するかは人それぞれですから、心の傷はまわりの者にはわかりません。

事件が起きた時、次兄は中3でした。
福岡に引っ越して高校に入学しますが、6月に退学、翌年、別の高校に入り、ギリギリで卒業します。
事件の後、次兄は父親を見て「余計な負担をかけてはいけない」と思い込み、「感情を殺しちゃった」と話しています。
警察や家庭裁判所も、学校の先生もスクールカウンセラーも、次兄には事件の話はしないし、聞くこともなく、「ああ、僕の話は聞かないんだな」とガッカリしたそうです。

あのころの僕に一番必要だったのは「話をすること」だったんじゃないか。事件の話。怜美の話。そういうのを話した方が、楽だった。自分の中にため込んでいる膿をはき出せるというか。話すことができれば、負担が軽くなる部分があると思うんです。



加害者の家族はどういう気持ちでいるのでしょうか。

要するに、あの子とあの子の家族はやり直しができるんですよね。でも、僕のところはやり直しができない。失ったまま。(略)
あの子の親だって、大変だと思うよ、本当にね。それでもやり直しができるということは、向こうにとっての「救い」だよね。もちろんそれはイバラの道かもしれないけど。

このように御手洗恭二さんは話していますが、加害者の父親はこんなことを語っています。

本当にマスコミの方と同じぐらいたくさん、宗教の方も来ました。仏教でもキリスト教でも、何でもいいから、救ってくれるならそれにすがりたいんですけどね。そうできるなら、のどから手が出るほどそうしたいんですけども、それはできない。ずっと悩んでいくしかないと思います。

 

テレビなんかで、家族そろってご飯を食べる和気あいあいとしたシーンがありますよね。あぁ、うちの娘がいればなってフッと思うんです。
でも、ちょっと待て、御手洗さんはそういうことも考えられないんだって、我に返るんです。そうすると、どうしていのか、わからなくなる。一生そんな風に考え続けるんだろうな、ついて回るんだろうなって思います。自分の子育てが間違っていたんじゃないかと思う。すべてのことに自信をなくしてしまいました。

やり直しができるのだろうかと思いました。

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川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』(1)

2014年12月13日 | 厳罰化

『謝るなら、いつでもおいで』の著者川名壮志氏は、2004年に起きた佐世保小6女児同級生殺害事件の被害者の父親である御手洗恭二さんが毎日新聞佐世保支局長だったときの部下で、被害者の怜美さんをよく知っていて、当事者とも言えます。
本の後半には、御手洗恭二さんと御手洗さんの次男(事件当時中学3年生)、そして加害者の父親へのインタビューが載っています。
御手洗さん親子の言葉は身近な方を亡くされた人の話に共通することがたくさんあります。

僕は怜美のことをずっと思い続けるだろうな。だって、スパッと割り切れないから。

御手洗恭二さんは音楽や食べ物で娘さんのことを突然思い出すと言われます。

考えようと意識しなくても、突然怜美の記憶が蘇ることはしょっちゅうあるわけで。
怜美が好きだった曲がコンビニで流れたり、怜美が好きだった食べ物が食堂で出てきたり、そんなことがきっかけになったり、会社帰りの夜道を一人でぽつぽつ歩いているときに突然、思い出が噴きだすこともある。記憶のスイッチのオン、オフが自分で制御できない。
思い出が薄れていくということはないよ。だって、薄れないもん。


亡くなられた人のことを忘れることができないのは犯罪被害者遺族に限りません。
『銭形平次捕物控』の作者である野村胡堂の「K子と野薔薇」という随筆に、次女の死について書かれています。
シューベルトの歌曲「野バラ」のレコードが好きだった次女は、結婚して三年目に腹膜炎で死にます。
久しぶりに「野バラ」を聴く野村胡堂。

肘掛椅子にもたれて眼をつぶったまま、私の頬を涙が洗っていた。水兵服を着て、多い毛をお下げ髪にして、私の膝をゆすぶりながら、このレコードをねだったK子の幼な顔が今あるごとく私の眼に浮かぶのである。

野村胡堂は「耳から来る連想の鮮明さ」に我慢できず、途中で蓄音機のスイッチを切る。
そして「果てしもないのは、まことに愚かしい親の悔いである」と随筆は締めくくられます。
桜の花を見ると亡くなった人と花見をしたことを思い出すとか、映画を見た後に食事した店の前を通ると、そのとき見た映画の記憶がよみがえると聞きます。
私たちは亡くなった人のことを身体全体で覚えているんだなと思います。

時間が薬だ、悲しみは時間とともに薄らいでいくと言いますが、東日本大震災の大津波で家族を亡くされた方は、悲しみは何年たっても薄れないと話されていました。
悲しみは何年たっても突然ぶり返してくる、そのたびに悲しみがつのってきて、「ああすればよかった」「こうすればよかった」という悔いも出てくる、と。

アイツ(次男)も僕も怜美のことを思い続けることに別に努力は必要ないんです。逆にいうと努力しないと切れない。

このように御手洗さんは話しますが、次兄も同じことを言っています。

「立ち直っているか」と聞かれたら、立ち直ってはいないです。立ち直るというのがどういうことをいうのかわからないですけど、それはこの先もないかもしれない。だれかの支えがあって何とかやっていくというか。ずっとこういう状態が続くんだろうな、と思います。


身近な方を亡くした人から「未来がない」と聞きます。
あれをして、こうなってという未来を私たちは持ちますが、死によって未来を共有することができなくなります。
御手洗恭二さんもこんなことを話しています。

親としては、親が描く娘の未来があるわけですよ。恋人をつくって、結婚して、子どもを産んで、というような。それを考えると、どうしていいかわかんなくなるから考えないようにしているんですよ。そこに落ち込んでしまうと、何もできなくなる。それはもう、底なし沼みたいなものだから。


そして自責の念、「もっと早く大きな病院に連れて行ってたら」とか、「あんな叱り方はしなければよかった」といった罪悪感はほとんどの人が持つように思います。
怜美さんの家に加害者が遊びに来たこともあり、次兄は加害者を知っていたし、ネットでのトラブルがあることも怜美さんから何度か聞いていました。

知ってたのに止められなかったのは、やっぱり悔しい。

トラブルは誰にでもあるしとは思っても、そうは割り切れない。
御手洗恭二さんは加害者とのトラブルを知りませんでした。

娘がトラブルに遭っているときに、僕が話を聞ける状況であれば、しゃべることによって、娘の気持ちが和らいだかもしれないし。何かアドバイスができたかもしれないし。全然知らなかったということが後悔の原因です。

もうちょっと気配りをしてあげれば、ちゃんと向き合えていたかどうか、接する時間を増やしていれば。

それを考えると、本当に出口がなくなってしまう。

罪責感は残された人の心を蝕むこともあるように感じます。

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マスコミ報道の弊害

2014年11月05日 | 厳罰化

いささか古いニュースですが、神戸で小1の女児が殺害された事件で、被害者の家族がこんなコメントをマスコミに対して出した。

私達家族は、亡くなったという事実を現実として受け止めることが精一杯の状態です。今の気持ちを外へ発信するだけの気力がございません。情けないことではありますが、私達にできることは、静かに冥福を祈ることだけです。どうか事情をお察し頂き、職場や自宅への取材はご遠慮下さいますようお願いします。

さぞかし押しかけ取材がひどいのだろうと思う。
川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』で、2004年に起きた佐世保小6同級生殺人事件の被害者の父親である御手洗恭二さんはこのように語っている。

記者も一対一での対応だったら、そんなにつらくない。だけどそれが集団でワーッと来たり、何人も順番にとなると……。怒りの矛先がマスコミに向いてしまうよね。

 

たとえば加害者の両親からの手紙は、「今はとても読む気持ちになれません。相手が憎いとかじゃなくて、まだ自分の気持ちがそこまで辿りついてない」って言ったつもりが、「遺族が謝罪を拒否」と書かれたりした。

御手洗恭二さんは毎日新聞に勤めているマスコミの人だから、マスコミへの対処の仕方がある程度わかっているし、同僚たちが守ってくれもしたが、それでもマスコミへの対応に苦慮しているのである。

被災地ではマスコミの車両は駐車禁止にならないらしく、どこにでも車を停め、我が物顔に歩き、無遠慮に質問するなどと、被災者の方から聞いた。

まして加害者の家族は何も言えない立場だから大変である。
佐世保小6同級生殺人事件の加害者の父親はこう語っている。

事件が起きてから、報道の方がたくさん来られました。週刊誌やテレビ局の方から、フリージャーナリストと名乗る方まで……。電話も何度もありました。「お嬢さんに会いたいでしょう? きぬ川までの交通費、ご相談に乗りましょうか?」なんてお金で釣ろうとする人もいました。

そういえば東日本大震災の被災者も、「取材を受ければ支援金がもらえる」と言って取材してる記者がいたと話してた。

一日に5回も6回もおしかけて来て、「娘さんの情報を教えますよ」なんて交換条件を出してきた週刊誌の記者さんが、僕がまるで全てしゃべったみたいに、「スクープ!」なんて記事にしてしまった。ひどいです。それを御手洗さんが読んだらどう思われるかと思うと……


川名壮志氏も毎日新聞の記者だが、マスコミ批判というか自省の言葉を書いている。

一部のメディアにとって、犯罪報道は、たとえそれが憶測混じりの情報だとしても、「とった者勝ち」「書いた者勝ち」だ。真偽も中身も二の次なのである。


佐世保高1同級生殺害事件の加害者の父親が自ら命を絶った。
これまた旧聞に属するかもしれないが、「週刊新潮」10月16日号は「娘の更生よりも自死を選んだ佐世保「女子高生バラバラ犯」の父親」、「週刊文春」は「佐世保高1女子惨殺『父自殺』本誌が掴んだ全情報」という記事を載せ、死者に鞭打つ。

「週刊新潮」は「精神を蝕まれた娘とは最後まで対峙せぬまま、「戦い」から降りてしまったのだ」と書き、娘から金属バットで殴られて重傷を負ったことでも、「このときも臭いものにはフタとばかり公にはせず、あろうことかAに一人暮らしを許してしまうのです」という全国紙社会部デスクの言葉を載せている。
そして「今回もまた娘を〝置き去り〟にしてしまったのだ」と締めくくる。

「週刊新潮」や「週刊文春」が加害者の更生を本当に願っているのなら、煽情的な報道はしないはずだと思う。
自分たちがこれでもかとアラ探しをして追い詰めたために自殺したのではと、罪の意識は持たないのか。

ネットでも責任逃れだとか自分勝手だと書いている人がいる。
しかし、自死した加害者の家族は少なくない。
宮崎勤死刑囚の父親、半田保険金殺人事件の長谷川敏彦死刑囚の姉と息子、秋葉原通り魔事件の加藤智大死刑囚の弟も自殺している。

川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』に、佐世保小6殺害事件で担任教師は入院し、夏休みが明けても復帰できなかったとあります。
事件現場の3階の学習ルームは約1000万円をかけて取り壊された。
教室を残したままにすると陰惨な記憶がよみがえるという保護者の声があったため。

「週刊新潮」に、精神科医の片田珠美氏が「この父親は、世間体を気にするとともに非常にプライドが高かったのだと思います。ところが、ひとたび事件が起きると打たれ弱い。やはり自殺した理研の笹井氏も同じで、ボロボロに傷ついた状態で生き続けることに耐えられない、となる。そうした傾向が強いタイプなのです」と語っている。
おそらく電話で30分ぐらいしたやりとりをまとめたんだろうが、「打たれ弱い」はないんじゃないかと思った。
殺人事件でなくても、逮捕されただけで家族の衝撃は大きい。
ましてや世間を騒がせる事件を家族が起こし、マスコミが殺到して、あることないこと書かれて、それでも打たれ強い人がいるのかと思う。

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浜井浩一『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦』

2013年07月19日 | 厳罰化

浜井浩一『罪を犯した人を排除しないイタリアの挑戦』は、受刑者、精神障がい者、薬物への依存症者といった人たちに対するイタリアの取り組みを紹介した本である。

「日本では、こうした人たちは、普通の人と違う人として施設に収容される。犯罪を繰り返している人は刑務所に、精神に障がいがあり生活に困難を抱える人は精神病院に、薬物に依存している人は刑務所か精神病院のいずれかに収容されて社会から隔離される」
ところが、イタリアではこうした人たちをできるだけ地域社会の中で支えていこうとしている。

1979年に成立したバザーリア法(精神病院の入院施設を原則廃止する法律)によって、イタリアでは精神障がい者を精神病院から解放し、地域の精神保健サービスを充実させることで精神障がい者が地域で普通に生活できるようにした。

精神病院の改革が、犯罪者や薬物依存症者を地域社会で更生させる処遇のモデルとなっている。

「イタリアの制度に共通しているのは、社会的に困難に陥った人に必要な支援を届ける、その際に、困難に陥った理由によってクライアントを差別しないということにある。障がい者も薬物依存症者も受刑者も困難から回復するために支援が必要な人として等しく支援を受けることができる」

イタリアにおいて受刑者の60歳以上の割合は約4%で、日本は約16%。
なぜイタリアでは高齢受刑者が少ないかというと、70歳以上の高齢受刑者の場合には原則として(重大犯罪やマフィア犯罪を除く)実刑を回避することが検討され、自宅拘禁や福祉施設での刑の執行などが選択肢として検討されるからである。

「イタリア刑法にも、累犯加重という考え方がないわけではないが、だからといって万引きなどをいくら繰り返したとしても累犯というだけで刑務所に収容されることはない。また、家族や地方のソーシャルサービスによる福祉的支援があるため、知的障がい者が福祉的支援を受けないまま犯罪を繰り返したり、高齢者が犯罪を繰り返したりするという状態は考えにくいと多くの専門家が語っていた」

イタリアは憲法27条で刑罰の目的を更生と規定しているから、犯罪者の支援が行政の仕事と了解されている。

「イタリアの犯罪者処遇の特長は、行政の中に、犯罪が司法の問題ではなく社会問題であり、市民が社会的困難を抱えることによって犯罪が生まれるという認識を共有しているところにある。そして、それに対処するためには、彼らの抱える社会的困難を解決することが必要であること、そのためには様々な支援が必要であるという認識が共有されている」

それに対して日本では、最高裁判所が作ったパンフレット『裁判員制度ナビゲーション』には、刑罰の目的として「犯罪の被害を受けた人が、直接犯人に報復したのでは、かえって社会の秩序が乱れてしまいます。そこで、国が、このような犯罪を犯した者に対して刑罰を科すことにより、これらの重要な利益を守っています」とある。
国が被害者に代わって犯人に報復するのが裁判だということである。
必殺仕掛人や「月に代わっ て、お仕置きよ!」のセーラームーンじゃあるまいし、裁判所の役割が被害者に代わって報復することだと言ってるから、冤罪がなくならないわけである。

浜井浩一氏は、法曹(法律を扱う専門職)、特に裁判官、検察官、弁護士が「更生のプロセスを想像することができない」と指摘する。
「訓戒や教化などのいわゆる説示によって犯罪者の心に働きかけて反省を促すことが更生だと誤解している者も少なくない。自分の過ちに気付き、心の底から反省したからと言って社会に居場所ができるわけではないし、自立できるわけでもない」
宗教者も更生=謝罪・反省と考えているのではないかと思う。

「理解しておかなくてはならないことは、謝罪・反省しただけで人が更生できるわけではないということである。法廷で涙を流して反省する被告人は大勢いるし、その後すぐに再犯をする者も大勢いる。彼らが反省したふりをしていたわけではない。
言うまでもないことであるが、更生を目的とした刑事司法は、犯罪者を悔い改めさせて謝罪や反省を求めることではない。それでは「(遠山の)金さん司法」と何ら変わらない。謝罪や反省が、更生の条件として倫理的に課せられることがあるとしても、それは更生を目指した刑事司法において目的にはなりえない。「反省は1人でもできるが、更生は1人ではできない。」心を入れ替えただけで人は更生できない。人が更生するためには周囲からの手助けが必要である」

では、犯罪者の更生とは?
「法曹や刑事司法が変わっただけでも、人は更生することはできない。筆者が考える更生とは、単に再犯をしないことではない。更生とは、罪を犯した人が普通に生活できるようになることであり、誤解を恐れずに言えば、犯罪者が幸福な生活を送れるようになること、刑の執行後に当たり前の市民としての人生を送れるようになることである」
犯罪者の更生とはどう生きるかということである。

私は浜井浩一氏の本を読むたびに教えられるのだが、「犯罪者が幸福な生活を送れるようになる」ということに、「被害者のことを考えていない」とか「何を甘いことを言っているんだ」といった非難をする人がいそうである。

「筆者は、過失犯を除いて犯行前に幸せに暮らしていた受刑者を見たことがない。犯罪者の更生に一番必要なもの、それは、市民が、犯罪者と言われる人たちが同じ人間であることを理解することも重要である」

そして浜井浩一氏は日本国憲法第31条を次のように改正することを提案している。
「何人も、法律の定める手続によらなければ、その自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。刑罰は、人道的なものでなくてはならず、また更生を目的としたものでなければならない。死刑は、絶対にこれを禁止する」
96条よりもこちらを改正してほしいものです。

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坂上香『ライファーズ』3

2013年07月15日 | 厳罰化

坂上香『ライファーズ』によると、アミティは、再犯率が驚異的に低いそうだ。
プログラム修了者の再犯率は一般受刑者と比べて3分の1だという。
釈放後もアミティの継続プログラムに参加した場合は、再犯率はさらに低くなる。

それなのに矯正予算が削減され、2009年、アミティはカリフォルニア州内の7つの刑務所すべてでプログラムの閉鎖に追い込まれた。
もっとも、カリフォルニア州は財政難で教育予算をカットしたため、公立学校が音楽の授業を廃止したそうだから、矯正予算だけ削られたわけではないけれども。

日本の現状について坂上香氏はこのように言う。

「私たちが暮らす場は防犯カメラで包囲され、学校では携帯会社と警備会社主催の安全教室が授業の一環として開催され、子どもたちは防犯ベルを持ち、親たちはメールで届く不審者情報に右往左往し、自衛に駆り立てられる。「原発は安全である」という神話を、私たちの多くが疑わずにきたように、「社会は危険である」という神話を、私たちの社会は強固に信じ込んでいる」

不安感が厳罰感情を生み、そうして矯正予算の削減に結びついている気がする。
坂上香氏は「いかに加害者を厳しく処罰するかという社会的傾向が強まっているから、受刑者に対する長期的かつ継続的な支援などと言うと、世間からは「犯罪者を甘やかすな」とバッシングを受けるし、専門家からも「被害者支援を優先すべきだ」という声がしばしば聞こえてくる」と書いている。

「世間は加害者に厳しい。少年の立ち直りや被害者の回復を後押しするどころか、阻害する危険性もある」

その一例として、最高裁司法研修所が市民と裁判官を対象におこなった調査では、殺人事件の量刑に関して、「殺人事件の被告が少年ならば、成人よりも刑を重くすべきだ」と答えた市民が25.4%で、裁判官は皆無だったことを坂上香氏は紹介している。
裁判官よりも一般市民のほうが罪を犯した少年に厳罰的だというわけである。
ネットで調べたら、前田雅英首都大学東京教授と現役の刑事裁判官が中心となり、2005年8~9月にアンケート形式で行った調査だというから、あまり当てにならない気もするけど。

犯罪者や依存症者を排除すれば問題解決というわけにはいかない。
彼らも社会の一員であり、受刑者も社会に帰ってくるのだから。
「社会の長期的安全を真剣に考えるなら、刑務所と釈放後を分けて考えるべきではない。受刑者の大半は釈放され、やがて社会に戻ってくる。刑務所内でいくら素行が良くても、環境の異なる社会に出て、孤立した状況で、個々人が問題を乗り越えていくことは困難だ」

厳罰賛成の人であっても、映画『ライファーズ』を見て坂上香氏の話を聞けば考えを変えるのではないかと思ってたら、坂上香氏はこんな経験を述べている。
「主催団体や地域によっては、拒絶反応ともいえる強い情緒的なリアクションがみられた。警察が主催に名前を連ねたあるイベントでは、補導ボランティアをしているという高齢の男性が、暴力根絶を訴えつつ、交通ルールの違反をする子どもに対しては体罰も辞さないと発言した。それに賛同して会場のあちこちから拍手が聞こえた。私が反論すると、会場がざわめき、途中で席を立って出ていく人々もいた。厳罰主義やゼロトレランス(問題行動は徹底的に排除するという姿勢)的な価値観は、映画のテーマと対立する。しかし、そういった価値観が支持され、浸透していることを痛感させられることも少なくなかった」

私も似たような発言を耳にしたことがある。

ある研修会の質疑応答で「少年法という悪法を廃止すべきだ。学校に行っているのならともかく、働いているんだったら社会人と同じ扱いにすべきだ」と発言した保護司がいた。
少年でも刑務所にぶち込め、ということだと思う。
保護司だったら「社会を明るくする運動」の「犯罪や非行を防止し、立ち直りを支える地域のチカラ」という趣旨ぐらい知っているはずなのに。
聞く耳を持たぬ人たちに坂上香氏の話を聞いてもらいたいものです。

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坂上香『ライファーズ』2

2013年07月12日 | 厳罰化

坂上香『ライファーズ』は、アミティを取り上げたドキュメンタリー映画『ライファーズ』をもとにして書かれた本である。
信田さよ子、シャナ・キャンベル、上岡陽江『虐待という迷宮』も読んだ。
キャンベルさんはアミティ母子プログラムディレクター、上岡さんはダルク女性ハウス代表。

アミティは米国アリゾナ州を拠点とし、刑務所や社会復帰施設で更生プログラムをおこなっている。
創設者をはじめスタッフの多くは受刑者だった経験を持つ。
刑務所の中でおこなわれているプログラムでは、服役中の受刑者がスタッフとして働いている。

アミティでは、なぜ犯罪を犯すようになったのかを、語り合いを通して子供時代にまでさかのぼって見つめ、それぞれの傷を受け止める作業をおこなう。

犯罪者、依存症者の多くは子供のころから暴力と性的虐待(男も)と薬物にさらされてきた。
キャンベル「アミティに来る人の六割ぐらいは、最初のセックスがレイプです。それもほとんどが12歳以前なのです」

アミティ創始者の一人であるナヤ・アービターさんは実父からレイプを受け、母親はそれを放置。
14歳でヘロインを使い始め、17歳のときに薬物密輸で刑務所に入る。
18歳でシナノンという治療共同体につながり、そうしてアミティを始めた。

キャンベルさんも、2、3歳ごろから性的虐待を受け、アミティと出会うまでの暴力と薬物の凄惨な日々を語っている。

キャンベル「わたしが娘を置いていったあとで、父親が友だちに娘をあずけたことがあって、そこでまた娘が性的虐待を受けてしまった。彼らからドラッグの使い方を教えこまれたり……。シェリーナなそのとき12歳でした」
シェリーナは17歳のときに売春の仲介人とつきあってHIVに感染してしまう。

暴力と性について。
信田「暴力についてみなが口を閉ざしてしまうのは、どうもそこに性的なにおいがあるからではないかと思えるのです。
なぜ人は暴力をふるうのかという問いを立てると、「気持ちがいい」、つまり快感を得るという点を見逃すことはできません。その気持ちよさの中には当然、性的興奮が含まれます」

暴力と薬物について。

信田「(薬物依存症者の)多くは、小学校やそれ以下の年齢からずっと親からの暴力を受けている。その結果かどうかはわかりませんが、異性との関係においても加害・被害の両極を往還するような激しい暴力が出てくる。暴力被害、虐待経験と薬物使用とのあいだには、なんともいえない、すごくいやなつながりがあることを認めざるを得ないですね」

暴力と依存症の親について。
キャンベル「依存症の母をもつ子どもの多くは、小さいころからなんでも自分でやるか、あるいはほったらかしにされていたがために、規則や規律がわからないというタイプのどちらかです。(略)
子どもも暴力にさらされてきているので、とにかく反抗的な行動に出て、いやなことがあると暴力に走るという傾向が強いのです」

性的虐待と薬物について。
キャンベル「性的虐待を受けていた子どもたちというのは、恥の意識を隠して生きているわけですが、薬物を使うことによって恥の意識を感じなくてすむようになる、隠すという役割を果たすのです。しかし薬が切れれば強烈に恥ずかしさが戻ってくる。その繰り返しです」

虐待を受けてきた女性が性産業で働くようになるのはなぜか

信田「安心とか安全といった感覚がわからないとき、直接的な皮膚の接触だとか、抱かれることで、束の間の安心感に似たものが味わえるんじゃないでしょうか。(略)自分の行為で相手が満足する、その見返りとして承認されている感覚を味わうことだけを求めているんでしょう」

母親から暴力を受けていたダルクの女性のこんな話を聞いたことがある。
「人を痛めつけるような、攻撃性を持っている人が、私はわからないんですよ。それはなぜかというと、そういう暴力にさらされて育ってきたから。私は恐さというものを身体が遮断してきているから、暴力的な人がわからない。感覚的にわからないんですよ。暴力を受けてない人はわかるんですね。「なんか恐いな、この人は」とか。(略)
だいたい薬物依存症の女性が選ぶ男性は一緒なんです。スミの入ったヤクザっぽい、なんかいかがわしい、道でケンカでもするような男性をいつも選ぶんです。組織にいたとか、覚醒剤を使ったことがあるとか。暴力をふるわなくても、暴力的な言葉を吐く。または攻撃的なコミュニケーションしかできない。「選ぶ男性はよく似てるね」と言ったら、「そうですかね」って不審な顔をされるんですね」
たしかに、どうしてアホな男とばかりつき合うのかという女性がいます。

アミティではこうした自分自身の体験を率直に話し合い、分かち合う。
キャンベル「自分が傷ついたという話はなかなかできませんでした。自分が悪いことをしたということはけっこう話せるのですが、被害者としての自分を語るにはずいぶん長い時間がかかりました。恥の意識が強すぎて、自分がされてきたことを話すことができなかったのです」

青山俊董尼が『みちしるべ 正しい見方』に、
〝ああ、一番つらいこと、聞いてほしい心の痛みは、かんたんに口には出せないんだな。まして人の前ではしゃべれないんだな。しゃべらないからといって聞かないでよいのではなく、人にもしゃべれない心の深みのうめき、叫びを聞きとる心の耳を大きく開かねばならないのだな〟
〝反発という形、強がりという形で何を訴えているのか、言葉にも出せない悲しみを聞く耳を持たねばならないのだな〟
と書いている。
仏の神通力の一つである他心智通とは、声にならない叫びを聞くことだと思った。

2、3歳のころからヘロインを打たれ、父親と父親の友だちからレイプされていた22歳の女性はとても暴力的だったと、シャナ・キャンベルさんは話す。

「しかし彼女がアミティで歓迎されて、そこが安全な場所だとわかって、自分は排除されないんだ、捨てられないんだと確認できると、他人に対する暴力行為、あるいは自分に対する暴力、自傷行為というものも自然となくなるのです」

上岡陽江さんは19歳から26歳までアルコール・薬物依存、35歳まで摂食障害だが、上岡陽江さんの育った家庭はごく普通のように思う。
信田さよ子さんは「見えない強制とか、期待、支配があって、それで苦しむ人はたくさんいるんです」と言っていて、私も強制や支配をしてきたし……。

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