三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』(2)

2014年11月30日 | 仏教

正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』によると、テーラワーダ仏教(上座部仏教)は「私たちの仏教だけが真実の仏教だ」と、ことあるごとに言うそうだ。
しかし正木晃氏によると、テーラワーダ仏教が現行のかたちになったのは5世紀で、ブッダゴーサが正統な仏典だと考えたものをまとめた。
19世紀にスリランカで、テーラワーダ仏教の僧侶がキリスト教の牧師を論破したことによって、欧米でもスリランカの仏教に対する評価が高まった。

現在、世界中で正式な比丘尼がいるのは台湾だけらしく、テーラワーダ仏教には尼僧はいない。
ビルマの尼僧はスリランカの尼僧に戒を授けてもらったと聞いたことがあるが、スリランカの尼僧は在家と出家の中間的な存在で、正式な比丘尼ではないそうだ。
しかも百年ほど前にキリスト教の尼僧を模倣して誕生したという。
ほんまかいなと思ったが、ネットで調べたらその通りらしい。

スリランカから来たスマナサーラ師はよく対談していて、正木晃氏も対談しようと持ち掛けられたが、お断りしたという。

スマナサーラさんは論争好きというか、いささかならず攻撃的というか、自分たちの仏教が正統であることを証明したいあまり、とにかく相手を徹底的に論破しなければならないと思い込んでいるふしがあります。(略)
もともと、テーラワーダ仏教にかぎらず、インド仏教には、論争好きなところがありました。しかも、「ああいえば、こういう」式なので。そのせいでしょうか、論争に関してはひじょうによくできていて、論争をあまり好まない日本仏教の方式では、絶対に勝てません。


論争というか、討論というか、そういうのが仏教の伝統らしく、チベットでは僧侶が問答をし、問答に勝つことによって学位を得られるそうだし、禅問答という言葉もあるし、日本でも問答が中心の法要が行われている。
龍樹の弟子の提婆はあまりに厳しく外道を論破するので、外道に殺されてしまったという。
しかし、議論の勝ち負けは技術によることが大きいから、あるテーマについて議論をし、相手を言い負かしたほうが正しいということにはならないと思う。

正木晃氏の仏教についての考え。

私は、仏教はブッダという方が始めたものだと思っています。以来、約2400年、いろいろな人々の智恵がそこに蓄えられている壺のようなものが、仏教だと考えています。ブッダが始め、そこにさまざまな叡智が結集してきたその歴史、そのすべてが仏教なのです。


なぜテーラワーダ仏教は世界宗教になっていないのか。

宗教にかぎらず、あらゆるものは変容するのです。その変容がよいか悪いか、なかなか解釈が難しい。依って立つ立場によって違うのかもしれませんが、少なくとも、原始仏教とよばれているタイプの仏教が、何も変わらず、そのままのかたちで残ったとしても、世界には広まらなかったと思います。結局、根本仏教・原始仏教は、インドと同じような社会構造をもったところにしか広まらないのです。だから、世界宗教になれませんでした。
仏教は大乗仏教になったからこそ、世界へ広まったのです。


インドやチベットの仏教は輪廻転生を前提としているから、動物以外の植物や自然環境は救済の対象にならないのに、ダライ・ラマが「草木国土悉皆成仏」と言い始めたということを正木晃氏は紹介している。

私がいいたいのは、生まれ故郷のインドの仏教から、いちばん遠いところに展開してきた日本仏教には、本家本元のインド仏教よりもすぐれたところがある、ということです。

このように正木晃氏はまとめている。

私が思うに、テーラワーダ仏教の瞑想にはまる人がいれば、ダライ・ラマに帰依する人もある。
私はA・スマナサーラ『死後はどうなるの?』はニューエイジ的で好きになれなかった。
正しいかどうかということよりも、相性ではないかと思う。

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正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』(1)

2014年11月26日 | 仏教

正木晃『お坊さんのための「仏教入門」』には知らないことが書いてあって、そうなのかと教えられました。
まずは大乗非仏説、すなわち大乗仏教は釈尊が死んで何百年か経ってから作られたものであり、本当の仏教は釈尊の言葉を含む根本仏教・原始仏教だけで、後のものは後世のでっち上げだという考えについて。

正木晃氏は日本の仏教を4つのグループに分ける。
①浄土教系 阿弥陀信仰はインドにはなかった。
②法華経系 法華経信仰はインドでは大きな勢力にならなかった。
③禅系 禅宗は中国で生まれたので、インドには存在していなかった。
④密教系

中国で残ったのは浄土教と禅だけ。

インドでは大乗仏教は仏教界の主流を占めたことがなかったらしく、大乗仏教が台頭したのは5~6世紀以降、密教化してからだという欧米の研究者の指摘がある。

では、大乗経典の内容は釈尊の教説とは似ても似つかないものばかりであり、インド仏教と中国仏教は別物ということになるのか。

そうではないと正木晃氏は言う。

釈尊の言葉が文字にされたのは、入滅後300年ほど後の紀元前89年から77年のころで、それから百年ぐらい経ったころに大乗仏典の編纂が始まった。

釈尊の教説を完全に復元するのは不可能で、釈尊が十二縁起を説いたかどうかすら確定できない。
今後も、これこそが釈尊の真の教説だと確定することは不可能らしい。

以前、コメント欄に書いたが、桜部建先生も『仏教とはなにか』で同じことを話されている。

まさしくこれが釈迦牟尼仏陀のことばを伝えたものだと確認するということは厳密な意味ではほとんど不可能であります。

小川一乗『大乗仏教の根本思想』にも、『阿含経』の中で、実際に釈尊が説かれたのは、1割ないし2割程度だろうと考えてよいのではないか、とある。

それでは『阿含経』の中で一番古い部分が本当の釈尊の教えかというと、必ずしもそうとは断定できないと、桜部建先生は話している。

実は釈迦牟尼がこの世に生まれ出て仏教を説き始められる以前のインド思想、さまざまな古代インド人の思想に由来することば遣いがですね、阿含経典のもっとも古いと見られる部分に見出される。仏教以外のたとえばジャイナ教とかその他のインド古代思想と共通のものがその部分にいろいろ見出せる。

釈尊の説いたことがインド古代思想と変わらなければ、仏教はヒンズー教の一分派にすぎなくなる。

桜部建先生は仏教とは何かについて、このように説明している。

歴史的に過去に遡って純粋なものを求めて、それが真の仏教であるといういき方から、今度は逆に上から下に歴史の流れを見通して、その歴史の流れを通じてその底に横たわっているもの、どこで仏教の流れを断ち切って見てもその断面に必ず含まれているというものがなくてはならないのではないか。そういうものがあればこそ、その長くて広い多様な歴史的展開を「仏教」という名で呼べるのでないか。だからそういう根底的な「仏教的なものの考え方」こそが真の仏教と言っていいじゃないか。

この考えを最初に打ち出したのは宮本正尊先生だそうです。

なにが本当の仏教かということを考えるとき、初期仏教から大乗仏教に至るすべてを通じてその中に見取ることのできる仏教的な「ものの考え方」、そういうものの上に真の仏教というものを捉えていこうとする、それはやはり正しい考え方じゃなかろうかと思います。

こういう思想は仏教か仏教じゃないかを見定める標準こそが仏教的な「ものの考え方」だと桜部建先生は言われる。

では、釈尊は何を説こうとしたのか。

宮本正尊先生は「中」が根本だと、また山口益先生は「縁起」が中心だと考えられたそうです。
いつの時代の仏教をも貫いて流れている仏教的な「ものの考え方」を指す代表的な言葉を一つだけあげるとすれば、「縁起」だと桜部建先生も言われています。
大乗仏教が非仏説なら、テーラワーダ仏教だって非仏説になってしまうと思う。

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青草民人「はからいは たのまじものを」

2014年11月22日 | 青草民人のコラム

今年の報恩講で、講師の伊藤元先生(日豊教区 徳蓮寺前住職)から「良いことをしたから、良いことがあるとは限らない」という話がありました。

たしかに「良いことをしよう」という心の底には、「良いことをすればきっと良いことが起きるにちがいない」という考えが浮かぶことが多々あります。

逆に、「悪いことをしたから、ばちがあたったんだ」という言い方もしますが、これも似たような意味かもしれません。悪いことをしたから必ずしも悪いことが起きるというわけでもないのでしょう。(道徳的には認められない考え方ですが)

私たちは、そんなつもりじゃないと思っていても、結果によって自分の行動を価値づけることがあります。また、結果を期待して自分の行動を方向づけることもあります。こうしたことは、「はからい」という人間の深層にある欲望の現れかもしれません。


伊藤先生は「これまでが、これからを決めるのではありません。これからがこれまでを決めるのです」とお話しされました。

人間は、過去の結果から未来を価値づけることが多い生き物です。因果応報的なものの見方、考え方をするものなのでしょう。
しかし、これからの新しき道を開く教えや人に出遭うことで、過去の自分自身を凌駕することができるのです。

浄土真宗は、厳しい修行に身を置き、精神を清浄にし、仏の悟りを得るといった仏道ではありません。ひたすら聞法することが、その行となります。人の話を聞くこと、聞法の場に身を置き、話を聞いて自分を省みるのです。

「はからい」は、独りよがりの自分勝手な解釈です。人の話を聞くということは、時に自分の浅はかさを否定されたり、自分の欲望をあからさまにされたりすることにつながります。
裸の自分をさらけ出すことで、もう一人の自分の存在に気づかされる瞬間があります。はたと気付くということが、誰しもあると思います。

世間の様子を見ていると、人の話を聞かない一部の人たちによって、「はからい」だらけの欲望の渦巻く社会が作られようとしているように思います。「これからが、これまでを決める」という教えは、人の話を聞くという行の上に成り立つものです。


目先の利益に目を奪われて、未来に禍根を残すようなことがたくさんあります。戦争や震災の経験が全く意に反されていない現実に、これからの日本に不安を抱くのは私だけでしょうか。時代に逆行するだけで、先に進めない日本の行く末がとても心配です。

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『日本文壇史』と『新・日本文壇史』

2014年11月18日 | 

川西政明『新・日本文壇史』の1巻と9巻を読む。
文壇とはウィキペディアによると「文学・文筆活動を取り巻く人たちのつながりと付き合いの世界のこと」とあるが、『新・日本文壇史』は文学者の交友関係というか、作家の女性をめぐるゴシップ史といった感じ。

1巻は夏目漱石の死から始まるが、漱石の長女をめぐる久米正雄と松岡譲の争い、芥川龍之介の愛人たち、北原白秋の姦通事件、谷崎潤一郎と妻と佐藤春夫の三角関係など。
9巻は丹羽文雄の47人と性行為を持った妻、舟橋聖一の妻妾同居、川端康成がバーで同席した女性を執拗に触った話など。
作家論もあるが、下ネタの話のほうがおもしろいことは言うまでもない。

伊藤整『日本文壇史』14巻、15巻、18巻を読む。
会話や心の動きの描写は小説を思わせ、『新・日本文壇史』よりおもしろい。
こちらも文士の男女関係が詳しい。
岩野泡鳴や横瀬夜雨とかの女をめぐるあれこれがなぜか長々と書かれている。

それにしても明治には、放蕩者として知られている男に嫁がされて性病をうつされたり、夫が事業に失敗して家を傾けたりすることが珍しくないようで、男の身勝手さに振りまわされる女性はあわだだと思う。
たとえば菅野スガ、白秋の妻、島崎藤村の姪など。

ほほうと感心したのが、明治42年夏、伊藤博文は韓国皇太子を補導して北海道を巡遊した際のこんな話。
札幌でSという16歳のお酌(処女)の水揚げをした。

翌朝Sのところに北海道庁付きの医師がやって来て「御前さまは昨夜何回おのりになったか?」とたづねた。Sは全く何のことか分らず、ひたすら「分りません」と答へた。すると医師は「回数によって御前さまの薬のもり方が違ふのだ」とつぶやいた。

このとき伊藤博文は数えで69歳、この年の10月に暗殺される。

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作家と編集者の収入

2014年11月14日 | 

伊藤整『日本文壇史』によると、金田一京助は明治42年に三省堂で百科辞典の編輯にあたり、月給を30円もらい、國學院の講師としては1時間1円の講師料だった。
同じ年、石川啄木は朝日新聞の校正係として採用され、月給25円、夜勤は一晩1円。
石川啄木の下宿料は食事と間代を含めて月12円。
今のお金でいうと、1円は1万円ぐらいか。
森田草平は朝日新聞の嘱託として朝日文芸欄を担当したが、東京大学の卒業生なので、月給が60円。
石川啄木よりもはるかに多い。

石川啄木は「病院の窓」という小説の原稿料22円75銭を春陽堂からもらう。
「一枚25銭といふ安い稿料であった」と伊藤整は書くが、東京に出てきたばかりの無名小説家としてはまあまあではないだろうか。
石川啄木と土岐哀果(善麿)が50~60ページの雑誌を作ろうと考え、印刷屋に見積もらせたところ、500部印刷して53円40銭だった。
1部10銭ちょっと。
1円が1万円だとしたら、一冊千円以上で売らないと足が出てしまうわけで、同人誌がこんなに高くつくとは知らなかった。

明治43年、吉井勇は「三田文学」に発表した戯曲によって原稿料10円を得る。

明治44年、田村俊子は大阪朝日新聞の懸賞小説一等となり、賞金千円を手にする。
この年、久保田万太郎も「太陽」の募集に小説を応募し、こちらは賞金が50円。

後藤宙外は「新小説」の編輯をしており、春陽堂から70円の月給をもらっていた。

後藤宙外は明治40年、鎌倉に家賃8円の家を借り、明治42年に東京市芝区で家賃17円の家を借りている。

桐野夏生『ハピネス』の主人公岩見有紗(33歳)は、江東区の湾岸にあるタワーマンション29階に娘と二人で住んでいる。
家賃は月23万円で、アメリカにいる夫が仕送りし、生活費10万円は夫の親が出している。
ママ友たちはマンションを分譲で買っており、有紗は賃貸なのでレベルが下、公園要員と見られている。
ママ友は海外ブランドのベビーカーを持っている。
着ている服、身につけているアクセサリなど推して知るべし。
ママ友のリーダーいぶママの夫は30代半ば、大手出版社に勤めている。

ネットで調べると、30歳代後半で平均年収は1000万円を超え、残業の多い編集者は30歳で1000万円を超える人もいるそうで、納得しました。
今も昔も、作家よりも大手出版社で編集者になるほうがよほどいい生活ができるらしい。

ノア・バームバック『フランシス・ハ』では、3人で借りているニューヨークのアパートの家賃が月4000ドル。
部屋代として1200ドル出してくれとフランシスは言われ、950ドルにしてもらう。
フランシスはダンスカンパニーの実習生だから給料はもらっていないだろうし、子供にバレエを教えているが、大した収入ではないと思う。
有紗にしても仕事はしていないので、月10万円でママ友とのつき合いをしないといけない。
他人事ながら気になりました。

フランシスの同居人は二人とも芸術家志望。
芸術は金持ちでないとできないという台詞がありました。

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『昭和天皇独白録』

2014年11月09日 | 戦争

『昭和天皇独白録』は昭和21年、昭和天皇が側近に語った談話をまとめたもの。

田中義一首相が張作霖爆死事件の責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、処罰しなかったので田中義一首相に辞表を出すよう言った。
「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へる事に決心した」
このことがあってから、昭和天皇は立憲君主の枠を超えて活動することを自ら禁じたとされる。
しかし、何も言わずロボット的存在になったわけではない。

上海事件(昭和7年)は3月3日に停戦した。

天皇の裁可をうけて参謀総長が発する奉勅命令によったのではない。
「私が特に白川(上海派遣軍司令官)に事件の不拡大を命じて置いたからである」

阿部内閣の陸軍大臣が誰にしたいかを命令している。

「私は梅津又は侍従武官長の畑を陸軍に据ゑる事を阿部に命じた」

しかし、言うことを聞かない軍人や政治家もいる。

石原莞爾参謀本部作戦部長の支那事変(昭和12年)不拡大方針に昭和天皇は反対だったらしい。
「当時上海の我陸軍兵力は甚だ手薄であつた。ソ聯を怖れて兵力を上海に割くことを嫌つてゐたのだ。湯浅内大臣から聞いた所に依ると、石原は当初陸軍が上海に二ケ師団しか出さぬのは政府が止めたからだと云つた相だが、その実石原が止めて居たのだ相だ。二ケ師の兵力では上海は悲惨な目に遭ふと思つたので、私は盛に兵力の増加を督促したが、石原はやはりソ聯を怖れて満足な兵力を送らぬ」

三国同盟に昭和天皇は反対していた。

「この問題に付ては私は陸軍大臣とも衝突した。私は板垣に、同盟論は撤回せよと云つた処、彼はそれでは辞表を出すと云ふ、彼がゐなくなると益〻陸軍の統制がとれなくなるので遂にその儘となつた」

昭和16年8月、永野軍令部総長が戦争の計画書を持参した。

「私は之を見て驚いて之はいかんと思ひ、その后及川に対し軍令部総長を取替へる事を要求したが及川はそれは永野の説明の言葉が足らぬ為だから替へぬ方が良いと云ふのでその儘にした」

9月5日、近衛が御前会議の案を見せた。

「之では戦争が主で交渉は従であるから、私は近衛に対し、交渉に重点を置く案に改めんことを要求したが、近衛はそれは不可能ですと云つて承知しなかった」
このように、反対されたり、実行に移さないと、「その儘」にしているわけで、押しが弱いなと思った。

『昭和天皇独白録』の最後に伊藤隆、児島襄、秦郁彦、半藤一利の4氏による座談が載っており、伊藤隆氏、児島襄氏と秦郁彦氏とはいろんな点で意見が異なっている。
たとえば秦郁彦氏は、昭和天皇の「命令」についてこのように語っている。

いままでの解釈では、立憲君主制の本筋に従って天皇は決めない、ただ判こを押すだけである、例外はあったけれどもそれをずっと守ってきた、ということでしたね。しかし昭和天皇の精神構造はじつはそうなっていなかったのではないでしょうか。つまり自分が裁く、自分が命令する。問題は、命令しても裁いても、軍部が強いときには通らないことです。ことごとくそれが押し返されて命令が徹底しない。それに対する猛烈なイラ立ちがあった。

昭和天皇は命令していたが、下が言うことをきかないのを、昭和天皇は立憲君主制に従っていたという神話を戦後の研究者が作ったと秦郁彦氏は言う。
しかし、伊藤隆氏、児島襄氏は「命令」ではなく「意見」だと反対する。

あるいは、秦郁彦氏はこの独白録は東京裁判対策のためだという考えだが、伊藤隆氏、児島襄氏は一笑に付す。(独白録の英語版の発見で、作成目的が東京裁判対策であることが確実視されているそうだ)
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に書かれてある昭和天皇とマッカーサーとの対談を考えると、秦郁彦氏の意見に賛成したくなってくる。

もう一つ、国体護持について。
ポツダム宣言受諾の条件として国体護持が絶対だった。
「朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか〔と〕質問したから、私は勿論だと答へた」

では、国体護持とは何か?
「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい」

三種の神器がなければ護持できない国体とは何なのかと思った。
天皇による祭祀が国体ということか。
そこらを昭和天皇が説明してくれたらよかったのに。

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マスコミ報道の弊害

2014年11月05日 | 厳罰化

いささか古いニュースですが、神戸で小1の女児が殺害された事件で、被害者の家族がこんなコメントをマスコミに対して出した。

私達家族は、亡くなったという事実を現実として受け止めることが精一杯の状態です。今の気持ちを外へ発信するだけの気力がございません。情けないことではありますが、私達にできることは、静かに冥福を祈ることだけです。どうか事情をお察し頂き、職場や自宅への取材はご遠慮下さいますようお願いします。

さぞかし押しかけ取材がひどいのだろうと思う。
川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』で、2004年に起きた佐世保小6同級生殺人事件の被害者の父親である御手洗恭二さんはこのように語っている。

記者も一対一での対応だったら、そんなにつらくない。だけどそれが集団でワーッと来たり、何人も順番にとなると……。怒りの矛先がマスコミに向いてしまうよね。

 

たとえば加害者の両親からの手紙は、「今はとても読む気持ちになれません。相手が憎いとかじゃなくて、まだ自分の気持ちがそこまで辿りついてない」って言ったつもりが、「遺族が謝罪を拒否」と書かれたりした。

御手洗恭二さんは毎日新聞に勤めているマスコミの人だから、マスコミへの対処の仕方がある程度わかっているし、同僚たちが守ってくれもしたが、それでもマスコミへの対応に苦慮しているのである。

被災地ではマスコミの車両は駐車禁止にならないらしく、どこにでも車を停め、我が物顔に歩き、無遠慮に質問するなどと、被災者の方から聞いた。

まして加害者の家族は何も言えない立場だから大変である。
佐世保小6同級生殺人事件の加害者の父親はこう語っている。

事件が起きてから、報道の方がたくさん来られました。週刊誌やテレビ局の方から、フリージャーナリストと名乗る方まで……。電話も何度もありました。「お嬢さんに会いたいでしょう? きぬ川までの交通費、ご相談に乗りましょうか?」なんてお金で釣ろうとする人もいました。

そういえば東日本大震災の被災者も、「取材を受ければ支援金がもらえる」と言って取材してる記者がいたと話してた。

一日に5回も6回もおしかけて来て、「娘さんの情報を教えますよ」なんて交換条件を出してきた週刊誌の記者さんが、僕がまるで全てしゃべったみたいに、「スクープ!」なんて記事にしてしまった。ひどいです。それを御手洗さんが読んだらどう思われるかと思うと……


川名壮志氏も毎日新聞の記者だが、マスコミ批判というか自省の言葉を書いている。

一部のメディアにとって、犯罪報道は、たとえそれが憶測混じりの情報だとしても、「とった者勝ち」「書いた者勝ち」だ。真偽も中身も二の次なのである。


佐世保高1同級生殺害事件の加害者の父親が自ら命を絶った。
これまた旧聞に属するかもしれないが、「週刊新潮」10月16日号は「娘の更生よりも自死を選んだ佐世保「女子高生バラバラ犯」の父親」、「週刊文春」は「佐世保高1女子惨殺『父自殺』本誌が掴んだ全情報」という記事を載せ、死者に鞭打つ。

「週刊新潮」は「精神を蝕まれた娘とは最後まで対峙せぬまま、「戦い」から降りてしまったのだ」と書き、娘から金属バットで殴られて重傷を負ったことでも、「このときも臭いものにはフタとばかり公にはせず、あろうことかAに一人暮らしを許してしまうのです」という全国紙社会部デスクの言葉を載せている。
そして「今回もまた娘を〝置き去り〟にしてしまったのだ」と締めくくる。

「週刊新潮」や「週刊文春」が加害者の更生を本当に願っているのなら、煽情的な報道はしないはずだと思う。
自分たちがこれでもかとアラ探しをして追い詰めたために自殺したのではと、罪の意識は持たないのか。

ネットでも責任逃れだとか自分勝手だと書いている人がいる。
しかし、自死した加害者の家族は少なくない。
宮崎勤死刑囚の父親、半田保険金殺人事件の長谷川敏彦死刑囚の姉と息子、秋葉原通り魔事件の加藤智大死刑囚の弟も自殺している。

川名壮志『謝るなら、いつでもおいで』に、佐世保小6殺害事件で担任教師は入院し、夏休みが明けても復帰できなかったとあります。
事件現場の3階の学習ルームは約1000万円をかけて取り壊された。
教室を残したままにすると陰惨な記憶がよみがえるという保護者の声があったため。

「週刊新潮」に、精神科医の片田珠美氏が「この父親は、世間体を気にするとともに非常にプライドが高かったのだと思います。ところが、ひとたび事件が起きると打たれ弱い。やはり自殺した理研の笹井氏も同じで、ボロボロに傷ついた状態で生き続けることに耐えられない、となる。そうした傾向が強いタイプなのです」と語っている。
おそらく電話で30分ぐらいしたやりとりをまとめたんだろうが、「打たれ弱い」はないんじゃないかと思った。
殺人事件でなくても、逮捕されただけで家族の衝撃は大きい。
ましてや世間を騒がせる事件を家族が起こし、マスコミが殺到して、あることないこと書かれて、それでも打たれ強い人がいるのかと思う。

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想定外という被害

2014年11月01日 | 青草民人のコラム

東日本大震災による福島第一原発の放射能事故では、想定外の津波によって、大きな被害が出たといわれました。各地の津波被害についても、想定外の津波の高さだったと報じられています。

まだ記憶に新しい各地で起こった天変地異の数々。長野、広島の土石流による災害。御嶽山の噴火による災害。これらのすべては、想定外の災害による大惨事であったとされています。しかし、本当に想定外という言葉で片付けていいものなのか、ということは誰しも思うところではないでしょうか。

日本は、世界でも有数な火山国であり、地震国であります。さらに、山がちな地形で平野部が少なく、日本の河川は、中国やヨーロッパ、アメリカ大陸等の巨大河川と比べたら、多くの河川が流域面積の狭い急流だといわれています。中国の長江や黄河に比べれば、日本の河川は滝のようです。山地の急斜面を縫うように河川が流れ、土石流を防ぐために、砂防ダムが至る所にあるのが日本の河川です。この事は、小学生でも社会科の授業で習っています。


都市の住宅問題の解消のために、山地が宅地化され、森林が伐採されると、その土地自体は、水を貯めて少しずつ流すダムのはたらきを失います。山に降った雨は、一気に地表を流れ、一部は地下水となって、地盤を軟化させます。土石流や地滑りが頻繁に起こるようになるのです。これは、すでに開発が決まった時点である程度は想定されていたはずです。


また、火山の噴火に対しても、御嶽山が活火山である以上、噴火は想定されていたはずです。予知することは難しくても、監視の目を強化することや噴火に際しての避難小屋を増やすことはできたのではないでしょうか。


想定外とは、被害の大きさに対して想定外だということであり、被害が出ることはある程度想定はされていてして、それを最小限に考えて、開発や観光、原発の設置等が計画されているのでしょう。どんなことを行うにも、確かにリスクというものは伴います。それをはるかに超えるメリットがあれば、最大公約数的な幸せの共有という考え方から計画は実行へとうごきだすのではないでしょうか。「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」危険というデメリットを最小限のリスクとして受け入れることで、より大きなリターン(利益)を得ようとする社会そのものの闇がそこにあると思います。


しかし、環境の変化や天変地異の現実は、私たちが想定できるようなものではありません。いつ何が起きるかわからない、朝には紅顔あって、夕べには白骨となれる身という自覚を常に肝に銘じなければと思います。

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